序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




      The Silent Explosion  第10章:OSHOからの手紙     (弟子宛てに書かれた21通の手紙のコレクション)

1. 瞑想が答えだ 

 マインドとは質問を提起するためのものだ。
 だが質問だけだ。
 それは決して答えない。
 そしてそれは決して答えることができない。
 答えはマインドを超えている。
 マインドは答えのための手段ではない。
 それはその役割を果たすものではない。
 しかしそれは答えようと試みる。
 そしてその結果は哲学と呼ばれる乱雑だ!
 瞑想は決して質問しない。
 だがそれは答える。
 それが答えだ。
 なぜなら、それは<生>だからだ。
 なぜなら、それは<存在>だからだ。
 質問してごらん、すると答えはない。
 質問しないでごらん、するとあなたがその答えになる。
 だがなぜそれはそうなのだろう?
 それがそうなのは、質問する意識-マインド-はかき乱して、質問しない意識-ノー・マインド-は沈黙し、静かで、そのようにあることに安らいでいるからだ。
 哲学は質問から生じる。
 そして、宗教は質問しない意識からのものだ。
 論理は哲学の技法だ。
 そして、瞑想は、宗教の技法だ。


2. 瞑想は生きている技(アート)だ

 瞑想は直接教えることはできない。
 なぜならそれは機械的なテクニックではなく、生きている技(アート)だからだ。
 道悟には崇信と呼ばれた弟子がいた。
 崇信は瞑想の技(アート)を教えてもらうために導師を長く待っていた。彼は学生が学校で教えられるような方法の授業を期待した。
 しかしそこではどんな特別な授業も行われなかった。
 そしてこれは弟子を面食らわせ、また失望させた。
 ある日、彼は導師に言った。「私がここに来てから長くなりますが、瞑想の本質に関するひとつの言葉も私に与えてもらえませんでした。」
 道悟は腹の底から笑い、そして言った。「坊や、お前は何を言っているのだ?お前がここに着いてから、わしはその事についてお前に教え続けてきたのだよ!」
 これで、その哀れな弟子はさらにもっと面食らった!
 そしてしばらくの間、彼はどう言ったらいいのか考えられなかった。
 それからある日、再びかれは勇気を奮い起こしてまた尋ねた。「それはどんな種類の授業でありえたのですか?」
 道悟は言った。「朝、お前がわしに一杯のお茶を持って来る時、わしはそれをいただく。お前がわしに食事を出す時、わしはそれを受け入れる。そしてお前がわしに頭を下げる時、わしはうなずいてそれに返す。瞑想をもって教えられるためにお前は他のどんなことを期待しているのだ?」
 崇信はうなだれて導師のわけのわからない言葉について考え始めた。
 しかしこのために導師はまた言った。「もしお前が見たいなら、直ぐに正しく見なさい。なぜならお前が考え始める時、お前は要点を全く取り逃すからだ。」


3. 隙間の中に瞑想はある

 見てごらん、これは白い紙だ---それは絵を含んでいる。
 あなたはそれを白い紙として、または絵として見ることができる。
 または、ソナタを含む沈黙を聴いてごらん---あなたは沈黙に、またはソナタに気づくことができる。
 または、建物を含む空間について思ってごらん---あなたは空間に、または建物に気づくことができる。
 または、空っぽの家を想像するなら、あなたはそれを壁として、または虚空として心に描くことができる。
 あなたが絵を、建物を、ソナタを、そして壁を見るなら、あなたはマインドの中にいる---だがもしあなたが白い紙を、沈黙を、空間を、虚空を見るなら、あなたは瞑想の中にいる。


4. 瞑想とは考えることではなく生きることだ

 考えることは必要だが、充分ではない。
 人は生きることも知らなければならない。
 そうでなければ人はセーレン・キェルケゴールによって言及された哲学者のようになる。その哲学者とは、素晴らしい宮殿を建ててもそこに住まないように運命づけられていて、彼には、彼が眺めるために建てた、彼自身も含めて他の人たちのために建てた宮殿の隣りに、自分のための小屋がある!
 瞑想とは考えることではなく生きることだ。
 それを毎日生きなさい---瞬間から瞬間へ。それは、その中で生きるか、またはそれをあなたの中で生かさせるか、だ。
 それは別世界の何かでもない。---なぜなら全てのそのような区別はマインドからのものだからだ---それらは思索的であって存在に関するものではない。
 そして瞑想は存在に関するものだ。
 それはその人の全面的に生きた日常生活の体験より以上のものではない。
 孟子が「真理は近くにありて、人々はそれを遠くに探すものなり」と言う時、彼はこれを意味している。
 または、徳山がそれについて尋ねられた時、彼はこう答えた。「空腹の時、あなたは食べる。渇いている時あなたは飲む。そして友人に会う時あなたは彼に挨拶する。」彼はこれを意味している。
 または、ピンイン
居士は歌う、
 「これはなんと驚くべき、なんと神秘的なことだろう!私は薪を運ぶ、私は水を汲み上げる。」
 そしてあなたが私の近くにいる時、私が言うかもしれないことは何でも、常にこれを意味している。
 または、私は何も言わないかもしれない---だがそれもまた、私は常にこれを意味している。


 5. あるがままのあなた自身を知りなさい

 人間は常に欠乏している。
 なぜなら彼は自分自身を知ることなく欲するからだ。
 なぜなら彼は自分の実存を知ることなく何かになることを願うからだ。
 そして、これは馬鹿げている。
 まず人は自分の実存を知らなければならない。
 そうしなければそこには苦悶があるだろう。
 なることは苦悶だ。
 なぜならそれはそうあるものとそうあるべきものとの間の絶え間ない緊張だからだ。
 そして不可能な切望もそうだ。
 なぜならそう在ることのできるものだけが、そう在るからだ。
 だからあなた自身を知りなさい---あるがままのあなたを。
 どんな理想もなしに。
 どんな判断もなしに。
 そしてどんな非難もなしに。
 なろうとするどんな願望もなしにあなた自身の内側に深く入って行きなさい。
 なぜなら、その時だけあなたは自分自身を知ることができるからだ。
 あなた自身を発見しなさい。他の誰かに従うのではなく、あるがままのあなたを---。
 その事実を発見しなさい。
 その現実を発見しなさい。
 その全くの裸の状態において。
 その全くの真正さにおいて。
 ただそれの観照者でありなさい。
 そして、その時、そこには生の完全に異なる質がある。
 手放しという質が。
 その時人は全面的にくつろぐ。
 そして全ての開花はくつろぎの中にある。
 そして全ては祝福だ。


 6. あなたの仮面に気づきなさい

 ジョン・バローズは思い出す。「ある日、坊やが殺したものは、老いた猟師が言うには、それはまがいもののカモだった。それはカモのように見え、カモのように行動したが、それがテーブルに置かれた時、それは私たちをあざ笑った!」
 あなたの自己とあなたのまがいものの自己?仮面?との間の区別をはっきりさせることを覚えておきなさい。
 そうしなければ、結局それらは全てあなたをあざ笑うだろう!


7. エゴは無知だ

 エゴは苦痛の感覚と喜びの感覚の両方のために必要なものだ。
 そして、逆もまたそうだ。
 なぜなら、苦痛の感覚と喜びの感覚もエゴが存在するために必要だからだ。
 実のところ、それらは両方とも同じコインの二つの面だ。
 そのコインの名前は無知だ。
 これを理解してごらん。
 そしてエゴと戦ってはいけない。
 または、苦痛や喜びと戦ってはいけない。
 なぜなら、無知がなくならない限り、それらはなくならないからだ----それらはなくなることはできない。
 そして、あなたは無知と戦うことはできない。
 なぜなら無知とは単なる何かの不在にすぎないからだ。
 あなた自身の不在だ。
 だから、あなたの無知のために存在しなさい。
 それに気づきなさい。
 そして、その時あなたは在るが、そこに無知はないだろう。
 なぜなら、あなたと無知は同時に存在することはできないからだ。
 ちょうど光と闇のように。


8. 生は続き、永遠に流れる

 生は永遠に流れる。
 それは待たない。
 しかしマインドは考える、それゆえに時間を要する。
 存在するためには、時間は必要ない!
 しかし考えるためには、時間は必要だ!
 本当は存在において時間はない。
 それはただマインドとその考えることのせいで現われるだけだ。
 存在は時間の中には存在せずに、永遠の中に存在する。
 それは永遠の今に存在する。
 そこには過去も未来もない。
 ただ現在だけだ。
 または、それでさえない。
 なぜなら過去と未来なしでは、それを現在と呼ぶことは無意味だからだ!
 マインドから生きてはいけない。
 そうでなければ、あなたは常に遅れるだろう。
 なぜなら、生は決してあなたと、あなたがマインドと呼ぶものを待たないからだ。
 だからマインドは常に何かを取り逃しているように感じるのだ。
 なぜならそれは生そのものを、それも常に取り逃しているからだ。
 一度、あるマスターが彼の弟子たちに言ったことがある。「もしお前が言葉を発するなら、私の棒でお前を30回打つことになる。だがもしお前が言葉を発しなくても、まったく同じだ、棒で30回打つ。さあ、話せ、話せ!」
 一人の弟子が前に出てきて、彼がマスターの前でまさに頭を下げようとしていた時、彼は打たれた。
 その弟子は抗議した。「私はたった一言も発していませんでしたし、あなたは私に言葉を発しないようにさせもしませんでした。なぜ打つのですか?」
 マスターは笑って、そして言った。「もし私がお前を、そしてお前が話すか沈黙するのを待つなら、それは遅すぎるし生は待つことができない。」


9. 生は説教

 生は説教だ。
 そして存在はそれ自身の方法で説教する。
 しかし常に間接的だ。
 そしてそれがその美しさだ。
 自然の中の調和は、どんな意図もなく、生の中で均衡という教科を教える。
 飛んでいる鳥を見てごらん---するとあなたはどんな努力もなしに瞑想に入るだろう。
 または、その鳴き声に耳を傾けてごらん。するとあなたのハートはどんな動機もなくそれと一緒に動くだろう。
 そしてあなたの側で努力が少しもない時、瞑想は深く進んで、突然あなたを変える。
 そしてそこに動機がなく、そしてあなたが動く時、その動きは神性な中にある。


10. 生は理論ではなく神秘だ

 生は動きだ。
 プロセスだ。
 流動性だ。
 しかし観念は動かなくなる。
 だからそれらも反-生になる。
 それらは死んだ塊になる。
 それらと一緒に留まってはいけない。
 動きなさい。
 そして矛盾を恐れてはいけない。
 なぜなら、生は三段論法ではないからだ。
 生は理論ではない。
 それは神秘だ。
 ある人がムラ・ナスルディンに尋ねた。「ムラ、君は何歳なのだ?」
 「40歳だ。」
 「しかしこの前私が君に尋ねた時、君は同じことを言ったぞ。5年前だ!」
 「そうだ、俺は常に一貫しているし、自分が言ったことを常に守っているのだ。」


11. 瞑想とは占有されていないこと

 瞑想なしの生は冬の風景のようなものだ。
 隠れた太陽と共にある。
 花は凍りつく。
 そして風は枯葉を通して音をたてている。
 そして誰もがそれを知っている。
 なぜなら誰もがそのように生を生きているからだ。
 そのように生きるための生を誰も必要としていないにもかかわらず。
 だがなぜこれはそうなのだろう?
 これは生の必要物が占有されたマインドを必要としているからそうなのであって、瞑想とは占有されていないことを意味する。
 私たちは占有されるように自分自身を訓練して、それから人は混じり気の無い存在のエクスタシーを知るために時々は占有されないでいる必要があることを忘れる。
 人は内側が完全に空っぽであるべきだ。なぜならその時にだけ人は神性な客に対する主人でいるからだ。


12. 謙虚であること---瞑想の本質

 ある日、臨済は尋ねられた。「瞑想の本質は何ですか?」
 臨済は椅子から整然と降りて質問者の法衣の正面をつかんで、彼の顔を平手打ちし、そして彼を放した。
 質問者は、もちろん、そこに立って、呆然とした。
 その時臨済は笑い、そして彼に言った。「なぜお前は頭を下げないのだ?」
 そしてこれは彼を夢想から目覚めさせ、彼が導師に頭を下げようとしていた時、彼は瞑想の最初の味わいを持った!
 どうか、これを何度も何度も読んでほしい----そしてもしあなたが同じ味わいを持っていないなら、その時は自分で自分の顔を平手打ちしなさい。それから笑い、そして自分自身に頭を下げなさい。するとあなたは同じ味わいを持つだろう---必ず!


13. 言葉無しで存在することが瞑想だ

 言葉は物ではない。
 神という言葉は神ではない。
 しかしマインドは言葉、言葉、言葉を積み上げ続ける。
 そして、その時、言葉は障壁になる。
 これをあなたの内側の事実として見なさい。
 あなたは言葉なしで何かを見ることができるだろうか?
 あなたは言葉なしで何かを感じることができるだろうか?
 あなたは言葉なしでたったひとつの瞬間さえ生きることができるだろうか?
 考えずに見てごらん。
 その時あなたは瞑想の中にいるだろう。
 言葉無しで存在することが瞑想の中にいることだ。


14. まるであなたはいないかのように在りなさい

 瞑想の道は自己より高いところにある。
 その基礎は明け渡すことだ。
 あなた自身の非自己に自己を明け渡しなさい。
 まるであなたはいないかのように在りなさい、そうなりなさい。
 おお!人が全くあらゆるものを非自己に託する時の祝福よ!
 仏陀はこの現象をアナトマ、またはアナッタ(非自己の境地)と呼んだ。
 人はその人自身を非自己の手による操り人形に変えなければならない。
 すると、その時あらゆるものは自然に、そして自発的に流れ始める。
 ちょうど川が海に流れるように。
 または雲が空の中をさまようように。
 老子はこれを、無為によって為す、と言う。
 人は自分自身の主人であることを止めて知られざるものの道具になる。
 それにまた自分自身の主人であることは何とナンセンスなことだろう!
 なぜならそう在るべき人がいないからだ!
 探してはいけないが、あなたはそれを信じ続けるだろう。
 探してごらん。するとそれはどこにも見つからない。
 自己はただ無知の中にだけ存在する。
 それが無知だ。
 知ることにおいては、非自己がある。
 なぜならそこに知る者はいないからだ。
 その時知ることはそれ自体で充分になる。


15. 気づくことの中に自己はない

 あなたは自己から逃げることはできない。
 なぜなら、あなたが自己だからだ。
 どうしたらあなたはそれから逃げることができるだろう?
 それはその人自身の影から逃げるようなもので、あなたの努力の全ては無駄にならざるをえない。
 むしろ止まってそれを見なさい。
 それを目撃しなさい。
 それに気づきなさい。
 影に面と向かいなさい---すると、その時、それはどこにある?
 それは本当にこれまで在ったことがない。
 あなたはそれに対面しないことによってそれを作り出している。
 そして、あなたはそれから走ることによってそれを強くしている。
 そして、今はそのゲームを止めるのに十分な時ではないのかね?


16. 欲望の悪循環

 ある僧侶が大珠慧海に尋ねた。「ニルヴァーナ(絶対的自由)とは何ですか?」
 導師は答えた。「誕生と死の、または喜びと痛みの悪循環に自分自身を掛かり合いにさせないことが偉大なニルヴァーナだ。」
 「それなら誕生と死の、そして喜びと痛みの悪循環とは何ですか?」
 導師は言った。「ニルヴァーナを求めることだ!」
 今、沈黙して、ニルヴァーナを求めることによって何を意味しているのか感じてごらん。
 そして私はそれについて考えろと言っているのではないことを覚えておきなさい。
 なぜなら考えることはそれを取り逃すことだからだ。
 それを感じなさい。それを感じなさい。それを感じなさい。


17. 瞑想---未知なるものへの飛び込みと共に

 臨済の弟子は橋の上で3人の男たちの一行に出会った。3人のうちの一人が彼に尋ねた。「瞑想の川はどれだけ深いのだ?」
 「あなた自身のために見つけ出しなさい」と彼は言って、橋から質問者を放り投げようと企てた。
 だがあいにく男はタイミングを見て彼から走り去って逃げた!
 もしあなたが、あなたを川に放り投げられるような男に出会うなら、そのように放り投げられるほど十分に運がいい。
 そしてあなたはそのような男に出会った!
 今、放り投げられなさい。


18. 観照することが瞑想

 「人は自分自身を知るためにどのように学ぶことができるのだろう?」とゲーテは問う。
 それから答える。「決して熟考によってではなく、ただ行動によって、だ。」
 ジョン・バローズはこれを疑う。彼は言う。「これは真実の半分ではないのか?なぜなら人は、行動によっては彼の行動力を、思考によっては彼の思考力を学ぶことしかできなからだ。」
 だが私は、人間は常に彼の全ての行動と全ての思考より以上のものである、と言おう。
 そしてそのより以上のものが知られない限り、誰も自分自身を知ることはない。
 そしてそのより以上のものは、行動によっても熟考によっても知ることはできない。
 なぜならそれらは両方とも周辺のものに属していて、そのより以上のものは永遠に中心にあるからだ。
 それは行動と思考の両方を観照することによってのみ知ることができる---それらによってではなく、それらを観照することによって。
 そして、観照することが瞑想だ。


19. 瞑想はマスターキーだ

瞑想はマスターキーだ。
 それは無限の扉を開けることができる。
 そしてそれは未知なるものの神秘の錠を開けることができる。
 だが単に鍵を所有するだけでは何も達成されない---人がそれを使わない限り。
 アイドリス・シャーはダルヴィッシュ(イスラム教の苦行僧)の話を伝えている。
 昔ある賢人と一人の息子を持つ非常に金持ちの男がいた。賢人は金持ちに言った。「息子よ、ここに宝石で飾られた指輪がある。あなたが私の後継者である印としてそれを保ちなさい。そしてそれをあなたの子孫に譲りなさい。それは貴重なもので、立派な外観を持つもので、それは富への特定の扉を開く力が加えられている。」
 何年か後になって彼はもう一人の息子を持った。彼が十分年を取った時、その賢人は彼に同じ助言をもって別の指輪を与えた。同じ事が彼の三番目で最後の息子の場合に起こった。
 その老人が死んで息子たちが成長した時、次々に、それぞれの息子は指輪の一つを彼が所有しているために自分自身にとって最高であることを主張した。誰もどれが最も貴重なものなのか確信を持って言うことはできなかった。
 それぞれの息子たちは、自分自身の指輪の美しさにより大きな価値があると主張する全ての人たちを、自分の味方たちを得た。
 しかし奇妙な事は、「富への扉」がその鍵の所有者たちと、さらに彼らに最も近い支持者たちに対して閉じたままだったことだった。
 彼らはみんな優越の問題、指輪の所有、その価値と外観にあまりにも心を奪われていた。
 ほんの少数の人だけがその老人の宝物への扉を探した。しかしその指輪には魔術的な性質もあった。たとえそれらが鍵であったとしても、それらは宝物への扉を開けるのに直接的には使われなかった。それは指輪の性質について論争することなく、またはそのどれか一つにあまり愛着しすぎることなしに、宝物への扉を見るのに十分なものだった。これが為されてきた時、見た人々は宝物がどこにあるのかを言うことができ、そして単に指輪の外形を提示することによってそれを開くことができた。宝物には別の性質もあり、それらは無尽蔵だった。
 三つの指輪の熱心な支持者たちが指輪の優れた点について彼らの先祖の話を繰り返していた一方で、それぞれはわずかに異なる道にいた。
 一番目の集団は、自分たちには鍵があったので既に宝物を見つけた!と考えた。
 二番目は、それは寓話的で、それによって自分自身を慰めていたのだ!と考えた。
 そして、三番目は扉を開く可能性を遠く離れた未来の時代に伝えて、その結果、彼らにとって目下すべきことは何もなかった!
 あなたにとっても、これらの三つの集団の一つに属するあらゆる可能性がある。なぜなら探求し始めるどんな人も常に、三つの中のどれか一つの罠に落ちやすいからだ。
 本当に、これらはマインドが瞑想からそれ自身を守るために遊ぶことのできる三つの基本的な策略だ。
 だからこれらの古い策略に用心しなさい。


20. 生は遊び、リーラだ

 存在は存在するために存在する。
 そして同様に生もそうだ。
 それがそれ自身を超えることに意味はない。
 だから決してどんな意味も設定してはいけない。そうしなければあなたはそれを無意味に感じるだろう。
 それは無意味ではないし、それはそうあることはできない。なぜならその中には全く意味がないからだ!
 まさに意味の探求が卑しくて醜い。
 なぜならそれは人間の実利的なマインドから来ているからだ。
 存在はただ単に在る。
 そして同様に生もそうだ。
 それに目的はない。
 そしてそれに終わりはない。
 おお!それを感じなさい。
 ここと今。
 どうか、それを実践してはいけない。なぜならそれは実利的なマインドの道だからだ!
 そして、それについて深刻であってはいけない。なぜならそれは実利的なマインドの道だからだ!
 陽気でいなさい。するとその時だけあなたは宇宙の陽気なさまを知るだろう。
 そしてそれを知ることが宗教的であることだ。


21. 虚空の神秘

 私たちは定住することが可能ではないところに落ち着く。
 私たちは家を建てる。家の無いことが私たちの意識のまさに本性でありながらも。
 おお!私たちは不可能な物事をやり続けている。
 そしてそれから苦しむ。
 しかし他の誰にも責任はない。
 私たちは虚空と戦って、それから負かされる。
 虚空が私たちよりも強いからではなく、
 それはないからだ。
 今、立ち上がって空っぽの空間と戦ってごらん。あなたが人間のマインドの全ての愚かさを知ってそれを味わうことができるように!
 そして、それから座ってあなた自身を笑いなさい。
 そして笑う者が静まるにつれて、沈黙して内側を探し求めなさい。
 それからあなたは深い神秘を知るようになるだろう。虚空は外側だけでなく内側にもある、という神秘を!





OSHO TOP
翻訳・出版暦
The Silent Explosion
ザ・サイレント・エクスプロージョン
    第10章:OSHOからの手紙
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