序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問



                 The Silent Explosion 第1章:一人だけの独りへの飛翔

質問: OSHO、あなたがヨーガ、ヨーギ、瞑想で何を意味しているか説明していただけますか? 

 瞑想についてまず言えるのは、それは行なうことのできないものだということだ。瞑想は何かをすることを意図している、という観念が私たちにある。それは行為ではない。それは起こるものだ。それはあなたに生じるものだ。あなたがそこへ行くわけではない。それはあなたに侵入する。それはある意味であなたを破壊し、そしてあなたを再び作り上げる。それはとても活力があり、無限的なものなので、あなたの行為の一部にはならない。私にとって瞑想とは起こるもの、行なうことのできないものだ。

 ではどうすればいいだろう?それが起こる状況を作ることならできる。私たちにできるすべては、起こることに対してただ傷つきやすくあり、開いていることだ。私たちは閉ざされたような状況にいることができる。私たちはレバノンの尖塔のような扉の無い存在でいてはいけない。私たちは監禁されている。どんな出口もなく、すべての面に閉じ込められ、自分自身の中に閉じ込められている。私たちは自分の小さな箱の中で死んで、閉ざされている。それは保証された生になったと言ってもいい。生は私たちのところに来ることはできない。私たちは生に対して障害を、障壁を作ってしまった。なぜなら生は危険で、制御できないものになり得るからだ。それは私たちの手中にはないものだから、私たちは障壁を作った。確実でいて、心地良くいられるような閉ざされた存在を作った。この閉ざされた存在は便利だが、同時にそれは鈍らせるものになる。閉じれは閉じるほど、私たちは生き生きとしなくなる。

 瞑想とは一つの開いた存在であること---全ての次元に開き、すべてのものに開くことだ。もちろん、すべてのものに対して開くことは危険だ。すべてのものに対して無条件に開くことは不安定でいることになる。すべてのものに対して開いていることは心地良いものではない。なぜならそれは私たちに依存しないからだ。どんな事でも起こる可能性がある。

 安全、心地良さ、確実さを求めるマインドは瞑想的なマインドになることはできない。生が与えるどんなものに対しても開いていられるマインド、いつもありとあらゆる物事を、死さえも歓迎するマインド、そのようなマインドは瞑想が起こる状況を作り出すことができる。瞑想に対して受容的であることが私たちにできる唯一のことだ。それは特別な出来事に対してではなく、訪れて来るどんなことに対しても全面的に受容的でいることだ。瞑想は次元の無い存在で、無条件で、憧れも期待もなく、ありとあらゆる次元に対して開いている。何か期待があったら、その開いていることは全面的とは言えない。何か条件が、憧れがあるなら、何らかの「もしも」があるなら、その開いていることは全面的ではない。もしあなたが全面的に開いていないなら、生き生きとした、活発な、無数の出来事を受け入れることができない。それは客になることができないし、あなたはそれの主人になることができない。だから瞑想とは、私たちに関する限り、ただ状況を---受容的な状況を作り出すことにすぎない。

 マインドは待っている---未知のものを待っている---なぜならそれは起ころうとしているものを知ることはできないからだ。それは私たちが想像できないものだ。私たちはそれを知ったことがない。私たちはそれの何かを聞いたことはあるかもしれないが、それは私たちの知識ではない。それは未知のままだ。未知のものを待っているマインドは瞑想的なマインドだ。

 あなたが未知のものを待っている時、あなたの知識はそれへの障壁になる。知っている気分でいてはいけない。あなたは完全に無知でいなければならない。そうして初めて未知のものはあなたの元に来る。あなたの無知がそれ自体に気づく瞬間、それは未知のものを待つようになる。二つのタイプの無知な人々がいて、知っている状態にも二つのタイプがある。最初のタイプの無知な人々は自分の無知に気づいていない。その無知に気づいていないこのタイプのマインドは、無意識にそれ自身を知っているものと思うだろう。これは無知の知識だ。別のタイプは自分の無知に気づいている。これは無知であるのを知っている。完全にそれ自身を知っている無知だ。自分の無知に気づく瞬間、あなたは知識の果てにいる。

 あなたが自分の知識に気づく瞬間、あなたは自分自身をより堅固に監禁する。自分は知っていると思っている人は宗教的であることはできない。彼は非宗教的にならざるをえない。なぜならエゴを知ることは最も微妙な事だからだ。あなたが自分の無知を知る瞬間、エゴはない。そこにエゴが存在するための足場はない。それは存在できない。エゴへの最大の攻撃はあなたの無知に気づくことだ。一方、あなたのエゴを最大に強めるためには知識を主張すればいい。そのため、私が瞑想について取り上げたい二番目の要点は、あなたのマインドはその無知に完全に気づかなければならない、ということだ。手に入れて蓄積した知識が、借りものの知識が知識ではないとわかる時に、あなたは自分の無知に気づくことができる。それは知識ではない。それはただの情報にすぎない。情報は知識ではない。たとえそれがそのように思えても。知っている人は自分の知識について独断的ではない。彼はためらっている。自分は知っていると思う人は独断的で、断言的だ。彼は絶対的に確かでいる。人は、自分が知らないことは自分にとって知識ではあり得ない、ということに気づかなければならない。私たちは知識を借りることはできない。

 神学と宗教的なマインドとの間には違いがある。神学は世界で最も非宗教的なマインドの一つで、神学者は最も非宗教的な人々だ。借り物を彼らは知られたものとして主張してきた。知られたもの自体は決して主張しない。あなたが知る瞬間、あなたの「私」は失われる、ということがその内在性としてある。あなたが知る瞬間、エゴはない。知識はエゴがない時に生じる。だからエゴはそれを主張できない。エゴは情報を集めることはできる。それは多くの知識を蓄積できる。それは経典を引用することができる。瞑想に入ってゆくことはあなたの集めた知識を超越することだ。知識が超越される瞬間、学ぶことが始まる。学んでいる人は決して知識を主張しない。彼は自分の無知に常に気づいていて、気づけは気づくほど新しいものに対して受容的になる。

 何かを学んだ瞬間、あなたはそれを捨てなければならない。そうしなければ、それはあなたの過去の知識になるかもしれないという可能性がある。あなたの過去が知識であなたを満たしているなら、それも借り物だ。なぜなら今あなたは同じ人物ではないからだ。それは過去から借りられたものか、別のところから借りられたものかのどちらかだ。全く違いはない。もし私が、昨日私に起こったことについてあなたに話しているなら、私はあなたに語ってはいない。私は死んだ人であり、死んだ記録だ。私はこの瞬間に順応することができない。そこで死んだものは私を通してそれ自体を強く主張しなければならない。死んだものに頼ることは不可能だ。もし私が昨日の記憶の中に生きているなら、今日を十分に生きることは不可能だ。そして今日この瞬間に生きることが不可欠だ。知ることは常に自然に起こることであり、どんな主張も常に死んだものであり、過去、他人、またはその人自身についてのものだ。

 人は瞬間から瞬間に生きなければならない。そしてその人に起こるすべてのことが知ることになるような開かれた方法で生きなければならない。もし私があなたの方を見るなら、私の見ることは知ることでなければならない。そして私の記憶がその間にない場合にだけそれはこのようにあることができる。私が過去の出会いの記憶を通してあなたを見ているなら、私はあなたを見ていない。私がどんな過去の重荷も負わずにあなたを見ることができるなら、その見ることは瞑想的になる。私が過去における私の手での体験の重荷なしに、あなたに触れることができるなら、その触れることは瞑想的になる。無垢に自然に起こるものはすべて瞑想的になる。

 だから私が強調したい三番目のポイントは、瞑想的なマインドとは瞬間から瞬間に生きるマインドだ、ということだ。それは集積して生きることではない。死んだものは死んでいる。過去は過去だ。過去は去っていて、未来はまだ来ていない。そして過去と未来の間を通過するものが唯一存在するものだ。

 過去は記憶の一部であり、未来もまた精神的なものだ。それはそれ自体の中に存在していない。それは人間の創造物だ。この地球に人類がいなかったら過去も未来もなかっただろう。そこにはどんな通過もなく、来ることも去ることもなく、ただ現在が、今だけがあっただろう。瞑想的なマインドは今に生きる。今が瞑想的なマインドにとって唯一の存在だ。

 ある禅僧が死の宣告を受けていた。その国の王は彼を呼んで、彼はもうあと24時間しか生きられないと言った。王は尋ねた。「お前はどのように生きるつもりだ?」その僧は笑って答えた。「瞬間から瞬間へ、私が常に生きてきたようにです。」「私にとって、」と僧は言った。「一つの瞬間以上のものはこれまで何もありませんでした。ではそれがどうしたというのでしょう。24時間だろうが24年だろうが、それらは私にとって的外れの話です。私は常に瞬間から瞬間を生きてきました。一つの瞬間で十分です。24時間は私には多すぎます。」王は理解できなかった。僧は言った。「質問してよろしいでしょうか?あなたは同時に二つの瞬間を生きられますか?」これまで誰も二つの瞬間を生きてこなかった。唯一の可能な生は一つの瞬間にある。二つの瞬間はあなたに同時に与えられない。常に、ただ一つの瞬間だけがあなたの手の内にあり、その瞬間はとても瞬いているので、もし過去に心を奪われていたり未来に魅せられているなら、それを捕まえることができないだろう。それはあなたを通り過ぎる。

 瞑想的なマインドは時間と共に生きるマインドだ。時間はそれを通過できない。瞑想的なマインドは時間を、それが来るがままに生きる。それは常にここと今にある。それは決して今を超えない。時間が瞑想的なマインドの元に来る時、それは常に受容的な瞬間にいる。ここと今に受容的なマインドは瞑想が起こる状況を作り出す。

 四番目のポイントがある。瞑想について考えたり話したりする人々はそれを深刻に受け取る。彼らはそれを遊びのようなものではなく、仕事のようなものとして受け取る。もし瞑想を深刻に受け取るなら、あなたはその状況を作り出すことはできない。なぜなら深刻さは緊張だからだ。緊張したマインドは決して瞑想の中にあることはできない。瞑想している人たちは遊び心の気分でいなければならない。重くなく、緊張もなく、何かをしているという気分ではなく、くつろいだ気分でいなければならない。起こることが可能なのはただくつろいだ瞬間においてだけだ。深刻な人は宗教的であることはできない。瞑想はちょうど子供の遊びのようなものだ。あなたは存在と遊んでいる。あなたは生と遊んでいる。それはしなければならない何かではない。それは絶対的に目的の無いものだ。それは本質的にそれ自体で終わるものだ。それによって、またはそれを通して達成されるべきものは何もない。それは手段にすることはできない。

 瞑想に興味を持つほとんどの人々は、本当は瞑想に興味を持っていない。彼らは何か別のことに興味があって、瞑想はその何かのための手段として扱われる。彼らはマインドの静かな、またはくつろいだ状態に興味を持っているのかもしれない。彼らは何かに興味を持っているのかもしれないが、瞑想それ自体に興味を持っているのではない。だから彼らは瞑想に対して開くことができない。瞑想はそれを終わりとして興味を持っている人たちにだけ生じる。沈黙が生じても、それは別のことで、平和が生じても、それは別のことだ。神性さが生じても、それは別のことだ。これらは結果であり副産物だ。それらは求めることができない。なぜならまさにその求めることが緊張するマインドを作り出すからだ。神性さが生じる。むしろ、あらゆるものは神性になる、と言う方がいい。あらゆるものは幸福に満ち溢れるようになるが、それは求められない。それは間接的に、瞑想の影として生じる。

 これは生の神秘の一つだ。美しいものは全て、真実であるものは全て、愛らしいものは全て、常に間接的に生じる。あなたはそれに手をかけることはできない。直接その上に手を置くことはできない。もしそうするなら、それを失うだろう。幸福は生じるが、直接のゴールとしてではない。あなたは幸福になろうとすることはできない。幸福はそれに対する切望がない時に、あなたが完全にそれに気づいていない時に生じる。幸福はあなたがそれを待っていない時に生じる。幸福はあなたに生じてあなたを圧倒するだろう。それは神秘のように生じる。そして神秘は決して直接達成され得ない。瞑想は他の何かに対する切望であるべきではない。それは何かのための手段にしてはいけない。それは手段であることはできない。

 瞑想は取り戻された遊びだ。子供時代は去ったが、あなたは遊び心を取り戻した。あなたは色石で遊ぶことができる。花と遊ぶことができる。どんなものとでも遊ぶことができる。あなたはまったく遊ぶことなく、遊び心の中にただくつろぐことができる。このくつろいだ瞬間にその状況は作られる。エクスタシーが引き起こされ、そこには突発的な事(ハプニング)がある。瞑想は一つの行為として受け取られるべきではない。瞑想的な人がヨーギだ。

 あなたはヨーガとは何かと、ヨーギとは誰かと尋ねている。瞑想的に生き、瞑想的に食べ、瞑想的に入浴し、瞑想的に眠る人がヨーギだ。彼の存在全体が、彼がしているすべてのことが瞑想的だ。それは言わば、彼は瞬間に生きている、ということだ。彼は存在と戯れる。彼は深刻ではない。彼は生を重荷としてではなく遊びとして受け取る。彼は過去に関わっていないし、未来にも関わっていない。彼は現在にいる。彼が現在だ。

 生は彼にとって流れになる。到達すべきゴールはない。なぜなら遊びの中にゴールはないからだ。遊びで、私たちがゴールを作る時、私たちは遊びに満ちた状態を壊して、それを仕事にする。仕事はゴールなしでは存在できない。遊びはゴールと共にでは存在できない。私たちはとても深刻になってしまったので、遊ぶ時でさえ私たちはゴールを作る。勝つべき何かがある。到着すべき場所がある。私たちはただすることのために何かをすることはできない。芸術のための芸術のように。芸術が芸術のためだけになる瞬間、それは瞑想的になる。歌うための歌は瞑想的になる。愛するための愛は瞑想的になる。終わりと手段が一つなら、その事柄は瞑想的になる。手段がその始まりで、終わりがその目的であり、そしてそこに連続性が、プロセスがあるなら、それは仕事になり、深刻に受け取られる。それは緊張、重荷、葛藤を作り出す。そしてそれはあなたの無垢を壊す。

 手段は目的であり、目的は手段だ。始まりは終わりだ。あなたの最初の一歩は最後の一歩だ。あなたの誕生はあなたの死だ。出会いは別れだ---これら両方が一つの全体として受け取られ得るなら、それらは一つだ。その時マインドは瞑想的になる。そこに重荷はない。生はただの遊びだ。

 イエスの十字架は深刻な出来事だが、クリシュナは陽気に生きた。クリシュナの踊りはイエスが十字架を運ぶこととは質的に違う。十字架は重荷でなければならなかった。それは運ばれるべきものだった。それは遊びではなく、深刻な出来事だった。キリスト教徒は、イエスは生涯で決して笑わなかった、と言う。もし彼が十字架を、自分自身のためでなく全人類のために、去ってしまった人たちのために、来るべき人たちのために運ばなければならないのなら、どうやって笑うことができただろう?私はこれがイエスの本当の姿だとは思わない。これはキリスト教徒の姿だ。私は決して笑わなかったキリストを思い描くことはできない。なぜならもし人が笑うことができないなら、その人は宗教的でいることができないからだ。もちろん違いはある。人が他の人たちを笑う時、それは非宗教的だが、人が自分自身を笑い始める時、それは宗教的になる。

 瞑想とは、どんな目的もなくどんな終わりもなしに、生きることを遊びとして受け取ることだ。達成されるべきものは何もない。なぜなら可能になるすべてのものは現在にあるからだ。達成するマインドは決して未来を超えることはできない。それは未来指向であらざるをえない。そして未来指向のマインドは過去に基づいていなければならない。未来は過去の投影でしかあり得ない。私たちは自分の過去の記憶を未来への切望に投影する。私たちの未来の夢はより美しく描かれた、より審美的に切望された私たちの過去の体験だ。それは未来に投影された、本質的に過去の景色に他ならない。瞑想的な人は現在に生きる。これを除いて、そこに生はなく、可能性はない。もしあなたが生きたいなら、現在が唯一の可能性だ。あなたが生きることを延期したいなら、過去と未来がその方向に、その次元になる。

 ヨーガは技法であって、瞑想に関するものではなく、瞑想という出来事が起こる状況を作ることに関するものだ。生き始めた人が、そしてどんな生のゴールにも関わらない人がヨーギ、出家者、サニヤシンだ。これは非常に驚くべきことだ。普通私たちはサニヤシンである人や出家者である人は生を捨てた人だと考える。これは完全にナンセンスだ。サニヤシンとは生き始めた唯一の人だ。それは放棄ではなく、生きることへの入門(イニシエーション)だ。それは死んだ過去と生まれていない未来の放棄だ。それは自殺的な傾向の放棄だ。それは生きることの延期の放棄と生への入門(イニシエーション)だ。ヨーガは生の神秘への入門(イニシエーション)と、その状況を作り出す技法だ。そこには無数のヨーガがあるかもしれない。

 インドはヨーガを開発してきた唯一の国ではない。ある人物が生きた時はいつでも、彼はヨーガを作った。マハーヴィーラとイエスはそれぞれ彼ら特有のヨーガを持っている。あらゆる人には、あらゆる個人には真実(リアリティ)に取り組む(アプローチ)ための独自の方法が、独自の扉がある。

 したがって、誰も誰かに従うことはできない。なぜなら従う瞬間、あなたはヨーギにはなれないからだ。従う者は決してヨーギであることはできない。従うことは再び安全を切望するという意味を持つ。私はある人が達成したということを確信したいので、その彼に従う。だがある人のための方法は私のための方法ではないかもしれない。それがそうあることができないのは、個人たちはとても独特なので、従わなければならないような道などあり得ないからだ。誰もがその人独自の道を作らなければならない。道は既に作られていて、人はある所へ到達するために全くその上を歩かなければならない、ということはない。道を作ってその上を歩く、というのが生だ。あなたはそれを作り、そしてその上を旅する。あなたがそれを作れば作るほど、あなたは自分の旅を更に遠くへ進ませる。ヨーガの道は内なる道だ。そこには外的な目印や里程標はない。そこに外側の標識は全くない。

 仏陀は道を歩んだが、その道は内的なものだった。誰も彼の道を旅することはできない。誰も別の人の場所にいることはできない。あなたは私の場所で死ぬことはできない。あなたは私のために死ぬことはできるが、それは別の事だ。あなたは私の死を私と代わることはできない。たとえあなたが私のために死んでも、それはあなたの死であり、あなたが選んだことだ。それは私の死ではない。

 あなたは私の場所で愛することはできない。そこでは代理人はあり得ない。そこでは助けや代わるべき手段はあり得ない。私の愛は私の愛であらざるをえないし、私の死は私の死であらざるをえない。それならどうしたら私の生があなたの生であり得るだろう?私の生は私の生だ。誰もそれを彼のための道にさせることはできない。それは絶対的に私のものであり、それは個人的に独特なものなので共有することはできない。

 誰もが完全な孤独の中で、完全に暗い領域の中で探求しなければならないが、まさにその探求が光になる。まさにその一人でいることに気づくことが孤独を壊して、それ特有の勇気を奮い立たせる。あなたが自分は一人だということを完璧に知る時、そこに恐れはない。他の誰も自分と一緒にいられる可能性はないことをあなたが知る時、そこに恐れはない。その恐れは、他の誰かは自分と一緒にいられるという切望、夢、想像、可能性のために生じる。

 人が自分の孤独を受け入れる瞬間、彼はヨーギになる。今、彼は社会を超越する。それが社会から立ち去ることの唯一の意味だ。それは実際の社会から立ち去ることではない。誰もそれから立ち去ることはできない。どこに行こうともあなたは社会を創る。木と共にでさえ、動物と共にでさえ、家族が創られ、そして社会がそこにある。社会は個人的な空間としてあなたの後に生じる何かだ。あなたがどこに行こうとも、あなたは生きるための空間を創り、その空間が社会になるだろう。したがって、あなたは社会から去ることはできないが、あなたは独りだという認識----道を歩むことにおいて独りだ、道を創ることにおいて独りだ、生きることに取り組むことにおいて独りだ、その瞬間に巻き込まれることにおいて独りだ、という認識----この事実が知ることの一つの瞬間にあなたに浸透すると、そこに社会はない。

 今やグル(導師)はいない。従うべき人はいない。指導者はいない。案内者はいない。あなたは独りだ。あなたは独りの状態でいる。それに混ぜ物を加えたりそれを汚す人が誰もいない時、それは純粋で、無垢で美しい。この独りの状態が道だ。この独りの状態が瞑想だ。この独りの状態がヨーガだ。

 それでも、あなたはこの独りの状態で何をすべきなのかと尋ねる。すべきことは何もない。すべての行為はこの独りの状態から逃げることに他ならない。すべてのすることはこの独りの状態を忘れるための気晴らしだ。この独りの状態は去ることや何かから逃げることではない。あなたはその中に深くいなければならない。あなたはその中に留まらなければならない。あなたはそれと共に生きなければならない。あなたは全面的に独りで生の道を歩かなければならない----たとえ群衆に囲まれていても、仲間の旅人たちと一緒でも----全面的に独りで。

 二人の人が道を歩いている時、彼らは二人のように歩いているのではない。彼らは一人と一人のように歩いている。そこには二つの孤独な歩きがある。あなたは家族の中で生きなければならないが、あなたは独りだ。今、そこには5人の人数があるかもしれないが、家の中には5つの孤独な生がある。

 あなたが自分の孤独を理解する瞬間、あなたは哀れみ深くなる。今やそこには他人と彼らの孤独に対する哀れみ深さがある。この哀れみ深さはヨーガの入門(イニシエーション)に入った人の象徴的な兆候だ。今、あなたは自分の孤独を知ったので、全ての孤独を理解できる。誰もが寂しい---妻、夫、子供---しかし彼らには哀れみ深さや同情心はない。彼らには愛する態度がない。なぜなら彼らは他人を一つの逃げ道として使っているからだ。妻は夫を彼女の孤独から逃げるための手段として使っていて、このためそこには所有がある。この男が彼女を忘れるなら、この男がいなくなるなら、彼女は寂しくなるかもしれないというあらゆる恐れがある。この男は一つの逃げ道になった。彼女は自分の孤独に気づいていない。彼女はそれに気づきたくないので、自分の夫に気づくようになり、そしてしがみつく。夫も彼自身の方法でしがみついている。妻は彼の孤独のための逃げ道だ。

 私たちは独りだ。この認識がそこにある瞬間、逃げ道はない。逃げ道は可能ではない。これは単なる願望だ。夫と一緒にいる妻は彼女が以前にいたのと同じくらい寂しい。私たちは幻想的な逃げ道を作る---一緒であるという幻想を。私たちの全ての社会、私たちの家族、私たちの国、私たちの全てのクラブ、グループ、組織---これらは全てその人の孤独からの逃げ道だ。人が自分の絶対的な孤独に、そして逃げ道がないことに全面的に気づくようになる瞬間、彼はヨーガに至る。人はそれと共に生きなければならない。そして一度あなたがそれを受け入れるなら、そこには爆発がある。今、あなたは逃げる必要はない。今、逃げ道はない。あなたは自分自身と共に生き始めた。

 誰も自分自身を共に生きる価値があるものと思っていない。それは何と醜いことだろう。人が自分の部屋で一人でいるなら、その人は退屈する----自分自身に退屈する。退屈した人は別の退屈した人のところへ行き、そして彼らは両方とも退屈を超えようと試みる。数学的にはそうならない可能性が強い。退屈は倍になる。今や退屈さは二倍の退屈さで、各人は相手が助けてくれないと考えるだろう。相手は間違っているように見えてくる。相手は批判される。両方ともお互いに不平を抱き、そして争いがある。

 ヨーギとは、ヨーガを知るようになった人とは、このあからさまな顔を知り、誰もが独りだということを知るようになった人のことだ。今や彼は独りで生きるが、寂しくはない。彼は山に行ったり洞窟に行ったりしない。今、彼は自分がいるところはどこでも---市場の中であれ、群衆の中であれ---自分は独りだということを知る。その独りの状態は彼の本性だ。彼はそれから逃れることはできない。どこへ行こうと彼は独りだ。彼は独りの状態でいる。今や誰もが違って見える。誰もが独りであるため慈悲がその後に生じる。他人への慈悲はその人の孤独と他人の孤独を認識することの表れだ。他人への慈悲がある瞬間、自分自身に対しては瞑想がある。これらは一つの事柄の二本の矢だ。この認識は二重の矢だ。一本の矢は瞑想に導き、もう一本は慈悲に導く。あなたの内的な世界で瞑想は起こり、あなたの外的な関係性で慈悲は起こる。仏陀は二つの言葉を使った----プラーギャとカルナだ。プラーギャは瞑想、それの頂点、知ることを意味して、カルナは慈悲を意味する。プラーギャは炎だ。瞑想は炎だ。そして慈悲は進み続けて全世界を満たす光だ。基本的に、宗教はこの二つの言葉だけに、内側の瞑想と外側の慈悲とに関わっている。人は内側に向かい、人は外側に向かう。人はこのヨーガまたはそのヨーガという見地から、この宗教またはその宗教という見地から考えてはいけない。その全ての考えは基本的に間違っている。私たちは存在と生の見地から考えなければならない。

 あなたは自分に訪れる瞬間を生き始めなければならない。全面的に生きなさい。それを独りで生きなさい。それを瞬間から瞬間へ生きなさい。未知のものに向かって開いていなさい----起こるどんなことに対しても開いていなさい---そしてそれをやって来るがままに受け入れなさい。拒否や非受容が唯一の無信仰だ。受容----イエスと言う魂と、無条件にあらゆるものを歓迎すること----それが私にとって宗教的なものだ。

 その状況を作り出しなさい。すると出来事(ハプニング)がひとりでに起こるだろう。それは予測できない。貴重なものは何も予測できない。ただ機械的なものだけが予測できる。私たちは機械に関する事柄を予測できる----これ、これ、そしてこれは起こるだろう、と。だが私たちは生を予測することはできない。生は予測できないものだ。急いではいけない。ちょっと待ちなさい。どんな程度であれ、作られる状況は瞑想ではない。それはただ状況を作っているだけだ。

 例えば、私は客を招き入れるために家を準備したが、その準備は客ではない。彼は来るかもしれないし、来ないかもしれない。客に対するインドの言葉は非常に美しい。それはアティッティだ。それは期日が知られていない人を意味する。人は彼のために一生待たなければならないかもしれない。彼の期日は知られていない。アティッティは期日無しを、予測できないことを意味する。

 人は準備できるが、準備は起こることではない。今、人はときめく心で待たなければならない。この待つことが唯一のテストだ。もしあなたが待つことができて、その待つことに退屈しないなら、それがあなたの愛の唯一のしるしになる。だからその状況を作って、そしてそこで待ちなさい。待つことはあらゆる瞬間で続けなければならない。なぜならどんな瞬間も来る瞬間になり得るからだ。どんな瞬間も爆発の瞬間になり得る。どんな瞬間も起こることの瞬間になり得る。人は気づいていなければならず、どんな出来事もない可能性があるという知識を十分に持って、待たなければならない。客は来ないかもしれない。もしあなたが客は来るに違いないと確信しているなら、あなたは待っている気分にはいない。その確信は待つことを殺した。待つことのできない人は全てのタイプの確信を作り出した。彼らは、これをしなさい、するとこれが起こるだろう、と言ってきた。その出来事は保証されるようになった。これは保証できない。人は何生も待たなければならないが、それでも彼はやって来ないかもしれない。この可能性についての十分な知識を持って、まさにその願望は待っている。あらゆる瞬間に対して、雨、花、星など、起こっているあらゆることに対して、人はあらゆるものに気づいている。なぜなら彼が来るところがどこか誰も知らないからだ。誰も彼の扉を、彼の道を知らない。誰も彼の名前を知らない。どんな瞬間に彼はやって来て扉を叩くのか、誰も知らない。

 ヨーギは待つ人、眠らない人だ。彼の眠りの中でさえ彼は待っている。彼はあなたが眠っている時に、そしてあなたが戻らなければならない時に来るかもしれない。したがって、ヨーギはあらゆる瞬間に気づいていて、待ちに待って、万が一に希望を持って、全ての不確実なものに逆らって確信する。たった一つの瞬間でも人が全面的に自分の待つことに熱中できるなら、その出来事は起こる。だがそれには保証はない。それは起こる。それは起こった。

 この待つことが唯一の困難な事で、それについて唯一の骨の折れる部分だ。私たちはひどく急いでいる。全ての現代社会を物質主義に変えた現代人のこの性急さは非宗教的だ。私たちは非常に急いでいるので待つことができない。そしてそれが唯一のテストだった。私たちは止まって彼を探すことができない。むしろ、私たちは走っている。そして待つことは走るマインドには存在できない。待たなければならない人は走るのではなく座らなければならない。

 日本で、ディヤーナ(瞑想)に対する言葉は坐禅だ。坐禅はただ座って、待って、何もしないことを意味する。坐禅という言葉は美しい---座り、待ち、何もしない---なぜならもしあなたがすることで忙しいなら、あなたは待つマインドから逃げるかもしれないからだ。あなたは忙しいかもしれないが、ちょっと座ってごらん。それは5時間も座らなければならないという意味ではないが、もし眠っているなら、ただ眠り、そして待って、何もしないでいなさい。食べているなら、食べなさい。だがただ食べなさい。他の何かをしてはいけない。そして待ちなさい。その時あらゆることが続けられて、それでもそこには座ることがあり、それでも待つことがあり、それでも非行為がある。

 これが私にとっての瞑想であり、私にとってのヨーガだ。これは放棄ではなく、生きることへの入門(イニシエーション)だ。私は全てのタイプのいわゆる放棄に反対だ。なぜならそれらは生を否定することで、そしてある意味で、反-神だからだ。神に非常に熱中しているように見える人は「彼」を全面的に受け入れていない。なぜなら生が否定されているからだ。

 生は神性だ。まさに生が神だ。だから人は選んではいけない。無選択でいなさい。それを生きなさい。その中に深くいなさい。その中に没頭しなさい。それでも独りでいなさい。なぜならあなたは独りだからだ。あらゆるものは来ては去るが、あなたの孤独は壊されない。それはあなたの本性としてそこにある。この孤独は瞑想が成長し始め、ヨーガの入門(イニシエーション)に来て、そして究極的に、人がヨーギになるところの基本的な事実だ。

 死んだ公式を信じてはいけない。カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ・・・。それらはみんな死んだ公式だ。誰もが彼独自のヨーガを作る、そして彼独自のヨーガを作らなければならない。全ての信奉者たちは偽物の神に達するが、真の神には達しない。なぜなら彼らは自分自身の真正の存在を背後に残してきたからだ。彼らは模倣者であり、模倣者は決して真実の認識に達しない。模倣者が模倣された神を、偽物の神を認識するかもしれないという可能性がある。これは単純であり簡単だ。真の神は一つだが、偽物の神はとても多い---キリスト教徒の、ヒンドゥー教徒の、ジャイナ教徒の、仏教徒の神・・・。それらは全て偽物の神で、そして「彼」に達するための偽物の道だ。本物の道は常に個人だ。人は自分自身であるために、そして自分自身を受け入れるために、未知のものへ飛び込むために、知られるようになったものを全て捨て去るために、全ての知識を捨て去るために、十分勇敢でいなければならない。

 神は絶対的な独りの状態だが、あなたが神と一つであることについて話す瞬間、あなたは再び他のものを作っている。あなたの神は今や逃げ道に、他のものになる。それは以前はあなたの妻や友人だった。そして今、あなたは更に別の他のものを作り出した。あなたが「彼」と一つなら、そこに問題はないが、あなたは「彼」と一つになることはできない。あなたの完全な独りの状態はあなたが神であることを認識する。それは、あなたが自分の完全な独りの状態を実現する時、あなたは神と交わるだろう、ということではない。あなたは神なのだ。あなたは神性だ。一つであるという言語でさえ二元論からの遺物だ。


 質問: そこに二がない時、一つであるという見地から話すことはできません。二元性を作るのはマインドですか?

 今やマインドはない。あなたが一人でいる時、マインドはない。なぜならマインドとは他者のようなあなたの過去だからだ。一人でいる時、あなたは自分のマインドと話している。それは他者だ。今、そこには対話がある。あなたのマインドは他者として遊んでいるが、あなたが全面的に一人でいる時、あなたは独りだ。そこにマインドはなく、神はない。あなたは神性だ。

 一という言葉を使うことさえ、二という系列を作ることになる。なぜなら一はニ、三などがなくては存在し続けることができないからだ。現在とはニがない瞬間だ。そこは決してニつであったことはない。私は、あなたは神と一つになる、と言うことはできない。なぜならあなたは常に「彼」だったからだ。あなたは決して別々ではなかった。その別々であることはあなたの幻想だった。そしてその幻想のせいで、今あなたは一つであることという別の幻想を作り出している。別々であることは精神的な概念だった。今、それを否定するために、あなたは一つであることという別の概念を作っている。もし別々であることが偽りなら、一つであることも偽りであらざるをえない。

 あなたは一つであり、一つであることではない。他の一つはない。他者は去った。他者は落ちた。そして他者が落とされる時、まさにその瞬間に、マインドは止まる。他者は終わる。マインドがない時、他者はない。

 川の真ん中に土の防壁を築いてごらん。川は一つだ。それは一つであったが、今、土の防壁が存在する。土の防壁は他者にすぎない。川は一つだ。川であるものは一つだ。それは常に一つであった。それは今でも一つだ。防壁が移されると、川は再び一つだ。防壁だけが無知を作り出す。そして防壁があるため、私たちは防壁を否定するために哲学を作る。これが宗教と哲学の違いだ。哲学はただ反-概念を作るだけだが、宗教は防壁を壊す。哲学は、そこに二はない、二であることは偽りだ、一であることが真実(リアリティ)だ、と言う。一であることに対して、二であることという概念が提起される。宗教的な人は、一はどこにある?と尋ねるが、他者はどこにある?とは尋ねない。真実(リアリティ)は概念無しの、非概念的な存在だ。今では孤独が全てだ。一であることが全てだ。今や私たちはそうある。別々になった一はないし、一つになった一はない。この完全な孤独がサマーディだ。


質問: 眠りは孤独の状態ですか?

違う、眠りは、それが存在する時、孤独ではない。それは一つであることではない。それは二つであることではない。それは単なる無意識状態だ。あなたはそう在るものを意識している。あなたの通常の目覚めた状態では、あなたは二つを意識している。あなたの通常の眠りでは、あなたは二つを意識していない。真の目覚めでは、瞑想においては、サマーディでは、あなたは独りの状態を意識している。

 そこには類似点があり、そして違いがある。眠りでは、あなたは二つに気づいていないが、一つに気づいているのでもない。二つはないが、あなたはそれに気づいていない。二つは存在から立ち去った。サマーディでは、瞑想においては、あなたはそれに気づいている。あなたが自分の眠りに完全に気づくことができるなら、物事は起こる。または、あなたが完全に気づいていて、眠りの中のように、二つがないなら、物事は起こる。マインドは眠り続ける。マインドはサマーディの中では死ぬ。

 眠りとサマーディは類似しているように見えるが、それらは違う。なぜならサマーディの後ではマインドの生き残りはないからだ。眠りの後では、朝、マインドはより強く、再び新鮮になって戻って来る。サマーディの後では戻って来ることはない。それは戻れない地点だ。あなたは戻って来ることはできない。今、一つは留まるためにある。今、これは永遠に在るためにある。あなたは、サマーディは目覚めた眠りと言うことができる。または眠りは眠ったサマーディと言うことができる。





               





ザ・サイレント・エクスプロージョン 
  第1章:一人だけの独りへの飛翔
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