ザ・サイレント・エクスプロージョン
    第8章:イニシエーションの神秘
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翻訳・出版暦
The Silent Explosion
   序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




                The Silent Explosion  第8章:イニシエーションの神秘

 人間はまるで眠っているように存在している。目覚めとして知られているものも何であろうと深い眠りだ。イニシエーション(入門、着手、伝授)とは目覚めた人と親密に接触していることを意味する。あなたが目覚めた人と親密に接触しない限り、あなたの眠りから出て来ることは不可能だ。それはマインドが、それは眠りから覚めているという夢を見ることさえありうるからだ。マインドは、今や睡眠はもうない、という夢を見ることができる。そしてどんな夢の中でもあなたはそれが夢だとはわからない。あなたは自分が夢から出て来る時にだけ、それは夢だったのがわかる。

 あなたは現在においては決して夢を知ることはできない。あなたは常にそれが消えた時に、それが過ぎ去った時にそれに気づく。誰もこれは夢だと言うことさえできない。現在という時制は夢のために使うことはできない。あなたは常にこれは夢だったと言う、なぜなら夢の中では、夢そのものは現実であるように現われるからだ。もし夢が現実のように現われないなら、それは壊れるだろう。現実性の現われだけが夢を作ることができる。

 私が人間は眠っていると言う時、これは理解すべきことだ。私たちは一日24時間絶え間なく夢を見ている。夜、私たちは外側に対して、外部の世界に対して閉じられていて、内側で夢を見る。昼間、私たちの感覚は外側の世界に向けて開かれているが、夢は内側で続いている。一瞬、目を閉じるなら、あなたは再び夢の中にいられる。それは内側にある連続性だ。あたなは外側の世界に気づいているが、その気づくことは夢見るマインドなしで、ではない。それは夢見るマインドを覆っていて、そのマインドを押し付けているが、内側では夢は続いている。だから私たちは、いわゆる目覚めている時でさえ現実であるものを見ていないのだ。私たちは自分の夢を現実性(リアリティ)に押し付ける。私たちは決してそうあるものを見ていない。私たちは常に自分の投影するものを見る。

 もし私があなたを見て、私の中に夢があるなら、あなたは投影の対象になる。私は自分の夢をあなたに投影することになるだろう。そして私があなたについて理解することは何でも私の夢と、私の投影と混ざるだろう。私があなたを愛する時、あなたは全く違う何かとして私に対して現われる。私があなたを愛さない時、あなたは再び完全に違うやり方で投影される。あなたは同じではない。私はあなたを単なるスクリーンとして使い、そして私の夢見るマインドをあなたに投影する。私があなたを愛する時、その夢は異なる。私があなたを愛さない時、あなたは同じだが、スクリーンは異なる。今、私はあなたを私の別の夢のためのスクリーンとして使っている。再び夢を変えることができる。再び私はあなたを愛することができ、その時あなたは私に対して違って現われる。

 私たちは常に、そうあるものに投影された私たち固有の夢を見ている。だから夢見るマインドはその周りにひとつの世界を、現実ではないものを作り出す。それがマーヤ、幻影によって意味していることだ。幻影によって、それは世界がないということを意味しているのではない。外の通りの騒音は幻影ではない。それはそうあるが、そうあるものとしては、夢見るマインドが内側で止まらない限り私たちは決して知ることができない。ある人にとって騒音は音楽であるかもしれない。他のある人にとってはただの迷惑な物だ。ある瞬間にはあなたは気づかないかもしれない。ある瞬間にはあなたはそれを我慢するだろう。ある瞬間にはそれは耐えられなく、我慢できなくなる。そして騒音は同じ、通りは同じ、交通は同じだ。しかしあなたの夢見るマインドは変わる。

 あなたの夢見るマインドと共にあなたの周りの全ての物事は新しい色合いを帯びる。私たちが世界は幻影だ、マーヤだと言う時、それは世界はないという意味ではない。それはある。しかし私たちがそれを見る時、その見ることが幻影なのだ。それはどこにも見つからない。だからある人が目覚める時、それはこの世界がただ消えるということではなく、以前に知られていた世界は完全に消える、ということだ。全く新しい世界がその場所に来る。あなたによって与えられた全ての色合い、全ての形、あなたが自分の夢見るマインドに従うことによって与えられた全ての意味と解釈はもはやない。その時にだけ客観的な世界は存在する。

 このマーヤの世界、この幻影の世界、この投影の世界に関する限り、私たちは一つの世界には決して生きていない。それぞれの人が彼固有の世界に生きている。それぞれの人は私に何かを投影している彼の世界で生きている。あなたの私はそれぞれの人にとって同じではない。そこには夢見る人がいるのと同じくらい多くの世界がある。私は私に関する限り一つだ。しかしもし私自身が夢を見ているなら、その時は私にとってさえ、私はそれぞれの瞬間に違っている。それぞれの瞬間に私の解釈は異なる。もし私が目覚めているなら、私は同じだ。仏陀はどこかで言っている、光明を得た人の味は常に同じで、ちょうど海水のようなものだ、と。どんなところでも、あらゆるところで、それは塩辛い。

 もし私が目覚めているなら、その時は私にとって、私は同じだ。この生においてだけでなく、過ぎ去った全ての生において私は同じだった。私は永遠に同じだった。その本当の「私」は同じままでいた。それは変わらない。ただ投影だけが変わる。スクリーンは同じままで、フィルムは変わる、映像は変わる、だがスクリーンは決して見られない。あなたはその上に投影された映像を見る。投影がない時、あなたはスクリーンを見る。そうでなければスクリーンは決して見られない。そしてスクリーンは同じままだ。映像は変わるが、あなたは私の中に変化を見る。

 もし私が目覚めているなら、私は自分にとっては同じかもしれないが、しかし一方ではあなたは私をとても多くの方法で見るだろう。なぜならあなたは投影する自分の夢見るマインドをもって私のところに来るからだ。ある人にとって私は友人のように見えるかもしれないし、ある人にとって私は敵のように見えるかもしれない。彼は彼自身を投影するだろう。私たちは自分自身の周りに世界を創造していて、すべての人が彼固有の世界に生きている。だからそこには衝突が、衝突する世界が、あなたの世界と私の世界があるのだ。だから二人の人物が一つの部屋で生活し始める時、そこには生きている二つの世界があり、それで衝突は避けられない。そこは部屋で生活している二人の人物がいるだけではない。部屋には二人の人物にとって十分な場所がある。しかし部屋には二つの世界にとって十分な空間はない。二人の人物が一つの部屋にいる時はいつでも、そこには二つの世界がある。

 人間社会の、人間の関係性についての全ての争いは世界の間にあって人物の間にはない。もし本当に、私が自分の夢で作られた世界のない人物で、あなたも自分の夢で作られた世界のない人物なら、私たちは衝突することなく永遠に一つの部屋で生活できる。なぜならこの部屋は二人の人物にとっては十分だからだ。しかし二つの世界にとっては惑星全体でさえ十分ではない。そしてそこにはすべての個人が世界であるような、とても多くの世界が存在する。そして彼は内側の自分の世界に生きていて、そして閉じられている。これが眠りだ。あなたは自分自身の周りに薄膜のような投影、考え、観念、概念、解釈の囲いを持っている。あなたはどこにもなくてただあなたの内側にだけあるものを投影し続ける投影機だ。そして全体はスクリーンになる。あなたは自分が深い眠りの中にいることを自分自身では決して気づくことができない。

 ファキールの夢の中に現われるスーフィーの聖者ヒラジ、スーフィーの天使がいた。ヒラジはファキールに、できるだけ多くの水を保たなければならない、と言った。なぜなら明日の朝、この世界の全ての水が悪魔によって毒されようとしていて、この水を飲む者は誰でも気が狂ってしまうからだ。それで一晩中、ファキールはできるだけ多くの水を保った。そして本当にその現象は起こった。次の朝、誰もが狂ってしまった。町全体が狂気になったことを知る人はいなかった。ただファキールだけは狂わなかった。しかし町全体はまるでファキールが狂ってしまったように受け取った。彼は、気が狂ったのは人々であるのを知っていたが、彼を信じる者はいなかった。彼は自分の水を飲み続けて正気のままでいたが、続けることはできなかった。町全体は全く違う世界に生きていた。誰も彼に耳を傾けなかったし、今や彼は捕まられて牢獄に送られるだろうという噂があった。彼らは、彼は狂っていると言った。ある朝、彼らは彼を捕まえるためにやって来た。彼は病気のように扱われるべきなのか、牢獄に行くべきなのかのどちらかだ。彼は自由にさせてもらえなかった。彼らから見れば彼は本当に気が狂っていて、彼が言うことは何であれ理解できず、彼は違う言語で語っていた。ファキールは理解に苦しんだ。彼は彼らに自分達の過去を思い出すように助けたが、彼らはすべてを忘れていた。彼らは過去については何も、気を狂わせた朝より前のことは何も知らなかった。彼らは理解できなかった。ファキールは不可解なものになった。彼らは彼の家の周りにいて、彼を捕まえた。するとファキールは言った。「もう一度、時間をくれ。私は自分を治療する。」彼は一般の井戸へ行き、その水を飲んだ。すると彼は大丈夫になった。今、町全体が幸せだった。ファキールはオーケーだった。今、彼は狂っていなかった。しかし本当は、彼は気が狂ってしまったのだ。しかし今や彼は一般世界の重要部分になっていた。もし誰もが眠っているなら、あなたは自分が眠っていることさえ決して気づかないだろう。もし誰もが狂っていて、そしてあなたが狂っているなら、あなたは決してそれに気づかないだろう。

 イニシエーションによってそれは、あなたは目覚めたある人に明け渡した、ということを意味する。あなたはこう言う、「私はそれを理解していない。私はそれが理解できない。私は理解できないし、私は狂気と眠りの世界の一部だ。私はいつも夢を見ている。私の理論はいんちきだ。なぜなら私が行動する時はいつでも、私は自分のマインドの不合理な部分から行動するからだ。私は常に無意識に行動する。それからただ後になって私はそれを合理化する。私は誰かと恋をする。それから私はなぜ自分は愛するのかを合理的に説明する---その理由はどこにあるのか?と。しかし現象はこのように起こる。まず私は何かを好きになり始め、それからなぜ私はこれが好きなのか、その理由を見つける。その好きであることがまずやって来て、それから合理化することが後に続く。それでも好きであることは不合理だ。」

 この感覚はさらに眠っている人からも生じることができる。なぜなら眠りは常に深くはないからだ。それは揺れ動き、非常に深くなったり、上に上がって、非常に浅くなったりする。眠りは決して一つの階層にはない。眠りの中には上下の変動がある。普通の眠りの中でさえ上下の変動がある。眠りの中では、一晩中あなたは同じ階層にはいない。ある時あなたは非常に深く、後になってそれについて何も思い出せないほど深く行く。もし非常に深く眠ったなら、朝、あなたは何も夢を見なかったと言う。あなたは夢を見ていたが、その眠りはあなたが思い出せないほど深かった。現在、あなたが夢を見ていたことを示せる手段がある。あなたは否定する。というのも何の記憶もないからだ。あなたはマインドが夢から何も得られなかったほど深くいて、その距離はあなたの意識的な記憶からはとても大きかった。時々あなたは非常に浅く、まさにその境界にいる。その時あなたは自分の夢を思い出せる。私たちは普通いつも、眠りから覚めるちょっと前の朝見た夢だけを覚えている。なぜならその眠りは非常に浅くてその間隔は非常に小さいからだ。

 普通の眠りにはとても多くのレベルの、とても多くの階層の変動がある。時々あなたはちょうど目覚めと眠りの間を揺れ動いている。あなたは外部からの何かを聞くことができる。誰かが何か話していて、何かは理解され、何かは失われるが、あなたは聞くことができる。だが一方で、もしあなたが深い眠りの中にいて誰かが話しているなら、あなたは聞くことができない。その時解釈という問題はない。そこに意味という問題はない。あなたは聞くことができない。

 ちょうどこの普通の眠りにおけるように、同じことが私が話している形而上学的な段階で起こる。ある時あなたはちょうど境界線上に、ブッダの非常に近くにいる。その時あなたはブッダが語っていることについて何かを、彼が言っていることを理解できる。あなたは何かを理解できるが、もちろんそれは必ずしもそれが言われたものとしてではない。しかし少なくともあなたは何かを持っている。あなたは真理の一瞥を持っている。だから形而上学的な眠りの境界線上にいる人はイニシエートされることを好むだろう。彼は何かを聞くことができる。彼は何かを理解できる。彼は何かを見る。あらゆるものは、まるでそれが霧の中にあるようにあるが、それでも彼は何かを感じる。だから彼は目覚めた人に近寄ることができ、そして彼自身を明け渡すことができる。これくらいは眠っている人によってすることができる。これくらいはすることができるので、彼は自分自身を明け渡すことができる。この明け渡しは、彼は自分の眠りとは全く違う何かが起こっているのを理解している、という意味だ。

 どこかで彼はそれを感じる。彼はそれを正確に知ることはできないが、それを感じている。ブッダが通り過ぎる時はいつでも、眠りの境界線上にいる人たちは、何かがこの人に起こったことを感じる。彼は違ったふうに振る舞い、違ったふうに話し、違ったふうに生き、違ったふうに歩く。何かがこの人に起こった。境界線上にいる人たちはそれを感じることができるが、彼らは眠っている。そしてこの境界線上にいることは永続するものではない---再び彼らは深いところに去って行くかもしれない。しかしひとつの言葉でさえ彼らを引き起こすことができる。そこで彼らがより深い無意識の中に落ちてしまう前に、彼らは目覚めた人に明け渡すことができる。これはイニシエートされる側からのイニシエーションだ。彼はこう言う---私は自分自身では何もできない。私は無力だ。そして私は知っている、もし明け渡さないなら、この瞬間に私は再び深い眠りに入るかもしれないことを。その時明け渡すことは不可能だろう。だからこれらは失うことのできない瞬間なのだ。そしてその瞬間を失う人は何世紀も、何生もそれらを得ることができないかもしれない。なぜなら境界線上に来ることはあなたの手中にはないからだ。時々、それはあなたの管理を超えたとても多くの理由のために起こる。あなたは自分の眠りを管理できない。

 時にはブッダが通りがかるということが起こる。あなたは明け渡すことができるが、ただあなたが境界線にいさえすれば、だ。仏陀の生で非常に意味深い物語がある。彼自身が目覚めた時、7日間絶え間なく彼は黙っていた。彼は話す気がなかった。これは非常に美しい物語だ。神々は気がかりになった。なぜならもし仏陀が黙ったままでいるなら、境界線上にいる人たちについてはどうなるのだろう。彼は深い眠りの中にいる人たちに対しては何もできない。ブッダでさえ彼らに対しては何もできない。彼は既に目覚めている人たちに対しては何もできない。彼らは彼からのどんな助けも必要ない。しかしそこにはまさにその端の上にいて、ほんの少しの押しで目覚めさせられるような少数の人たちがいる。彼のまさに現存は彼らを目覚めさせるのに十分であるかもしれない。

 だから神々は仏陀のところに来て、彼に対して祈り、そして彼に話すように求めた。仏陀は神々に言った。「助けられない人たちがいる。彼らはとても眠りこけている。彼らを相手に話すことは無駄だ。私の話を聞くことができる人たちは既に目覚めている。それでは話す必要はない。それは無意味だ。私を沈黙したままにさせてほしい。」すると神々は言った。「しかしそこにはまだ残されている部類があります。聞くことができないほど眠ってはいない人たち、理解できるほど目覚めてはいない人たちです。彼らはまさに境界線上にいます。彼らはあなたの言うことさえ全て聞かないかもしれませんが、一つの言葉でさえ彼らを引き起こすかもしれません。だからあなたは話さなければなりません。一人の人がブッダになることは数え切れない年月の後にだけあるものです。」彼は話さなければならない。彼は沈黙したままでいてはいけない。その機会を失ってはいけない。仏陀は納得するようになった。そうだ、そこには第三の部類がある。その第三の部類はイニシエートを受ける人たち、第三の中間の部類だ。

 イニシエートされつつある人にとって、それは明け渡しであり、他に何もすることはない。イニシエーションの意味は明け渡すことだ。イニシエーションとイニシエートされつつある人に対する仏教の用語はスロタパンナ「流れの中に入った人」だ。仏陀はまさに潮流のように流れている。彼自身を明け渡した人、潮流の中に落ちて流れ始めた人は「スロタパンナ」、潮流のところに来た人だ。潮流があなたのところに来ることはできない。潮流は私たちの家のそばを流れている。あなたはその中に飛び込むことができる。だがもしあなたが泳ぎ始めるなら、あなたはその潮流に抵抗し、それと戦い始めるだろう。その時あなたにはどこかへ到着するためのあなたの照準が、あなたのゴールがある。だから光明を得た人のところに来る人たちがいるが、彼らは議論し始めるだろう。彼らは理由を望み、証明を求め、納得したいと思う。この道は奮闘だ。彼らは光明を得た人と戦う。これは光明を得た人を傷つけはしないが、これはあなたを傷つける。なぜならその瞬間が失われつつあるからだ。あなたは中間の部類にいた。だからあなたはやって来たのだ。しかし今あなたはその瞬間を失っている。あなたは再び深い眠りに入るかもしれない、ということがありえる。明け渡すことは川とともに流れ始める人、川に自分自身を与える人を意味する。

 今、川は流れていて、彼はその後に続く。彼はまさに「手放し」の中にいる。全くの「手放し」。だからイニシエートされる側からでは、イニシエーションは「手放し」、完全な信頼、完全な明け渡しだ。それは決して部分的ではあり得ない。もしあなたが部分的に明け渡すなら、あなたは明け渡していない。あなたは自分自身を欺いている。どんな部分的な明け渡しもあり得ない。なぜなら部分的な明け渡しでは、あなたは何かを差し控えているからだ。そしてその差し控えているものはあなたを再び深い眠りに押し込むかもしれない。明け渡しは常に全面的だ。だから信頼が彼の必要とするものであり、それがイニシエーションにおいて常に要求される理由だ。信頼は絶対的な条件として、絶対的な必要物として要求される。

 あなたが完全に明け渡す瞬間、物事は変わり始める。今あなたは自分の夢の国に戻ることはできない。この明け渡しは全ての投影を打ち砕く。この明け渡しは全ての投影するマインドを打ち砕く。なぜならこの投影するマインドはエゴに繋がれているからだ。それはエゴなしで生きることはできない。エゴはそれの主要な中心だ。私はある人を私の友人と呼ぶ。なぜだろう?私はある人を私の敵と呼ぶ。なぜだろう?敵とは私のエゴを傷つけた人であり、友人とはそれを満足させた人、それに栄養を与えた人だ。だから私たちは、友人は必要な時に知られる、と言うのだ。「必要な中での友人が本当の友人 A friend in need is a friend indeed (まさかの友こそ真の友)」なぜ必要な中でなのだろう?その必要とは何だろう?その必要はあなたのエゴが飢えている時に生じる。その時友人が知られる。私たちの全ての夢見る世界は、私たちの夢見るマインドはエゴという台座に基づいている。もしあなたが明け渡すなら、あなたはまさにその土台を明け渡したのだ。あなたは完全に見放した。今やあなたは引き続き揺れ動くことはあり得ない。なぜなら夢が見放されたからだ。だからイニシエーションの瞬間から、それは完全な明け渡しになる。

 あなたをイニシエートする人から何があるのだろう?イニシエートされる人にとってイニシエーションとは何かを理解することはそれほど難しくない。それは非常に単純だ。それは単に眠っている人が目覚めた人に助けを求めることで、彼は目覚めた誰かに明け渡す。しかしあなたをイニシエートする人にとっては、物事は非常に複雑で、非常に難しい。普通、私たちは明け渡すことは非常に難しいと考える。あなたは無力だ。あなたは何もできない。あなたは明け渡さないかもしれない。だがあなたがより以上のものを知る時、あなたは明け渡しの地点に来る。ある日、それが来るにちがいないのは、あなたは他に何もできないからだ。あなたは明け渡さない態度で続けることはできない。なぜならこれはあなたに対して惨めさ、苦悶、そして地獄を作り出すからだ。あなたは続けられない。あなたの欲求不満から、あなた固有の悪夢からあなたは明け渡すというある瞬間が必ずやって来る。

 しかしあなたをイニシエートする人にとって、それは非常に複雑な仕事だ。そこには巻き込まれてしまう多くのことがある。多くの物事が秘教的であって、開放的ではない。私たちが開放的な、外側の物事から理解して、それから秘教的な、内側の物事へ進むべきであるのは良いことだ。

 明け渡しに対応する最初のことは責任だ。眠っている人は明け渡し、目覚めている人は責任を負う。あなたが仏陀、イエス、またはモハメッドのところに行ってあなた自身を明け渡す時、彼は全ての責任を負う。あなたが明け渡しているものはあなたと一緒にあるものだ。あなたはそれ以上の何も明け渡すことはできない。あなたは眠りと夢以上の何ものでもない。あなたはこれを明け渡す。あなたの眠り、あなたの夢、あなたの過去の全てのナンセンスを、あなたは明け渡す。明け渡すことは常に過去についてのものだ。責任は常に未来についてのことだ。あなたは未来を持っていない。あなたはただ夢のような過去についてしかない。多量の数の記憶、夢、生が明け渡される。

 だからイニシエートされる人から見ると、それは過去の明け渡しだ。あなたをイニシエートする人にとって、それは未来に対する責任だ。彼は責任を負うようになり、そして彼だけが責任を負うことができる。あなたは決して責任を負うことはできない。眠っている人がどうやって責任を負うことができるだろう?責任は決して眠りの一部ではない。もしあなたが自分の眠りの中で殺人を犯しても、あなたが夢遊病者で、眠りの中で歩いていて殺人を犯しても、どんな法廷もあなたに責任を課さないだろう。なぜならそこに責任はないからだ。深い眠りに陥っている人、彼はどのように責任を負うのだろう?あたなは自分の夢に対して決して責任を感じない。あなたは自分の夢の中で何かを行なうかもしれないが、決してどんな責任も感じない。あなたは人を殺すかもしれないが、それはただの夢だったと言う。責任は目覚めとともに生じる。これが本当に生の基本的な法則だ。眠っている人は自分自身に対してさえ責任がない。そして目覚めている人は他の人たちに対して責任がある。

 光明を得た人、目覚めた人は、あなたが作ってきた全ての屑の山に対してさえ責任があると感じる。仏陀は同情を感じる。仏陀はあなたの犯罪、あなたの罪に対して気が咎める。彼は巻き添えになっていると感じ、責任を感じる。彼はあなたの知らないことを知っている。彼は十分に気づいている。例えば、第三次世界大戦が起ころうとしている。目覚めた人はそれがやって来ていることを十分よく知っている。それは毎日近づいている。すぐにそれは私たちを、あなたが眠っていて、その中に深くいることを終わらせるだろう。彼は眠りの中にいない。彼は夢の中にいなくて、レーダーのように十分に意識している。彼は訪れる未来を知っている。彼は、自分は何かをしなければならない、という後ろめたさを感じる。例えば、あなたは飛行機の中にいる。あなたは眠っていて、夢心地だが、パイロットは気づいている。もし何かが起ころうとしていても、エンジンが異音を、非常に静かな異音を起こし始めていても、誰もそれを、何かが故障していることを知らない。ただ彼だけが責任を負う。他の誰も責任を負わない。彼は十分に気づいている唯一の人だ。

 仏陀は私たちの全ての犯罪や罪に対して責任を感じるだろう。イエスの物語全体はこの責任を負うことに基づいている。全てのキリスト教的精神は、その全ての概念はこの責任を負うことから始まる。彼はアダムから私たちまでの人間の全ての罪に対して責任を感じる。イエスは責任を感じ、彼は私たちの罪が容赦されるように、許されるように十字架を肩に背負う。決して彼に責任はない。もしアダムが何かをしたのなら、そして全ての人間のマインドが何かをしたのなら、なぜ彼が責任を負わなければならないのだ?キリスト教の教理神学は何世紀もの間これについて討論してきた。彼はどんな罪も犯さなかったが、それでも私は言う、彼は責任を感じている、それは彼が目覚めているからだ、と。まさに目覚めという現象によって、彼は眠れる人たちが為したことの全てに対して責任を負うようになった。彼の重荷は追加される。彼の十字架は重い。彼の磔は象徴的だ。彼が死んだのは私たちのためで、それは私たちが生きるようにと思ってのことだ。だからイエスの磔は歴史的な出来事になったのだ。

 彼は人類全体に対して責任を感じた人物で、人間が変容するように、そのために死んだ。私たちは夢の中で彼のメッセージを聞き、独自のやり方でそれを解釈する。その時彼の生は私たちの夢の世界の一部になる。それから私たちは教会や教義を作る。そして私たちは宗派を作り、それでそこにはカトリックやプロテスタントの宗派、そして他のとても多くの宗派がある。とても多くの新しい方法で全てのナンセンスが再び起こる。それでも世界は同じままだ。私たちは彼を礼拝し始める。すなわち、私たちは彼について夢を見始める、彼は神の息子だという夢を。私たちはイニシエートされていない、私たちは変わっていない。むしろそれどころか、私たちは彼の現実(リアリティ)を私たちの夢に一変させている。私たちは彼のための教会を作り、彼の偶像を作り、彼を礼拝して私たちの眠りを続ける。本当は、私たちは彼を鎮痛剤のように使う。それは日曜日の用事になる。一週間の内の一時間、私たちは彼のところに行き、それから私たちは自分自身の行路を進み続ける。彼はよく眠れるように私たちを助けてくれる。私たちの良心は楽になり、敬虔に感じる。私たちは教会に行き、祈り、礼拝し、そして家に帰る。同じだ。私たちはより楽になる。今や信心深くあるべきだ、変わるべきだという重荷はない。私たちは既に信心深い。なぜなら私たちは教会にいたから、礼拝して祈ったからだ。だから私たちは既に信心深い。そして全ての物事は同じやり方を続ける。

 明け渡しに対応することが責任だ。責任とは答えることができるという意味だ。それはイエスがあなたに対して答えられると感じる、という意味だ。彼は、もし何らかの神がいるなら、自分は問われるだろう、そしてなぜこれが人間に起こったのかということを答えなければならない、と感じる。責任の意味はこれだ。彼はそれを自分については一般的な出来事のように感じるが、もしあなたが彼のところに行って彼に明け渡すなら、彼はあなたに対して特別な責任を負うようになる。

 クリシュナはアルジュナに、あらゆるものを捨てなさい、私のところに来なさい、私の足元に明け渡しなさい、と言うことができた。イエスは「私は真理だ。私は扉だ。私は門だ。私のところに来なさい。私を通って行きなさい。私は最後の審判の日の証人であるだろう。私はあなたのために答えよう。」と言う。これは全て類推的だ。毎日が審判の日であり、すべての瞬間が審判の瞬間だ。どんな最後の日もあろうとしていない。これがまさにイエスが話していたことについて、人々によって理解されたものだ。「私はあなたに対して責任を負うだろう。神が尋ねる時、私はあなたのために答えるだろう。そして私は証人としてそこにいるだろう。」あなたは私に明け渡し、私はあなたの証人であるだろう。これは大きな責任だ。眠っている人は誰もそれを受け持つことはできない。なぜなら眠りの中では私たち自身の責任を負うことさえ難しくなるからだ。あなたは他人の責任を負うことはできない。あなたは自分の責任がもうない時にだけ、あなたが完全に重荷を降ろした時にだけ他人の責任を負うことができる。本当は、あなたがもはやいない時だ!このもはや存在しないという宣言はとても多くの方法でなされつつある。

 イエスが「私は天国にいる天なる父の息子だ。」と言った時、本当に彼が意味していたのは、彼は彼の父親として知られている人物の息子ではない、ということだ。彼は彼の母親として知られているマリアの息子ではない。なぜだろう?時々それは非常に残酷に見える。ある日彼が群衆の中に立っていると誰かが言った。あなたの母、マリアが来た、彼女はこの群衆の外からあなたを呼んでいる、彼女はあなたを待っている、と。するとイエスは言った。「私に母親はいない。私の母親とは誰だ?私の父親とは誰だ?誰も私の母親ではない、誰も私の父親ではない。」それは残酷に見える。母親は群集の外に立っている。彼女は待っているが、イエスは彼女に誰も母親ではない、誰も私の父親ではないと告げたと言う。なぜだろう?彼は単にあなたの夢のパターンを否定しているだけだ。これは私の父親、母親、妻、兄弟---これが夢見るマインドのパターンだ。夢見る世界、投影の世界。彼はただ否定する。そしてあなたが母親を否定する瞬間、あなたは全てを否定したのだ。なぜなら母親とともに、あらゆるものが、全世界が始まるからだ。それは始まりであり、この夢見るような世界の中へ入ることの根源、関係性の根源、サンサーラの根源だ。

 もしあなたが自分の母親を否定するなら、あなたはすべてを否定した。それはぐっすりと眠っている人たちにとっては残酷に見える。それは単なる事実だ。私は天国にいる者の息子だと強調することは、私は一つの個体ではないということを単に言っているに過ぎない。私はイエスではない、マリアの息子ではない。私は神性な力の、宇宙の力の本質的な部分だ。

 宇宙の一部のように感じる人はあなたをイニシエートすることができる。そうでないなら誰もあなたをイニシエートできない。誰かをイニシエートできる特別な個人などいない。それはとてもしばしば起こる。それは毎日起こっている。彼ら自身眠っている人たちが眠っている人たちをイニシエートする。盲人が盲人を導く。両方とも溝に落ちる。眠っている人は誰もある人をイニシエートすることはできないが、エゴはイニシエートしたがる。この利己的な態度は致命的で非常に危険であるのがわかった。全てのイニシエーション、それの全ての神秘、それの全ての美しさは非常に醜くなった。イニシエートの資格がない人たちのせいでそれは醜くなった。内側にエゴのない人だけが、内側で眠っていない人だけがイニシエートできる。そうでなければイニシエーションは最も大きな罪だ。なぜならその時あなたは他の人たちだけでなくあなた自身をも欺いているからだ。なぜならイニシエーションとは重大な責任、究極の責任だからだ。今やあなたは別の人の責任を負うようになっている。これはある人の責任を負うという単なる遊びではない。これはあなたの手の中に不可能なものを受け入れている。あなたは愚かな他の誰かの責任を負うようになっている。だからこの責任は完全な明け渡しがある時にだけ受け持つことができる。そうでなければそれは受け持つことができない。自分自身を差し控えている人の、彼の責任を受け持つことはできない。なぜなら彼は自分自身を存続させるだろうからだ。彼はあなたの話を聞くことはない。彼は彼自身の方法であなたを解釈するだろう。

 スーフィーの物語がある。ある金持ちが死んだ。彼は金持ちだけでなく賢明でもあった。それは非常に稀にしか起こらないことだ。彼の息子はほんの10歳か12歳だった。そこで彼はその村の最年長者「パンチャヤット」に遺言書を書き残した。彼はその遺言書で宣言した。私の財産から、あなたが最も好きな物を何でも受け取り、それからそれを私の子供に与えてほしい、と。その遺言書は日の出と同じくらい明白なものだった。5人の年長者たちは全ての財産を分けた。その全てはどんな価値でもあるものだった。彼らは彼ら自身の間で分けた。何も残されなかった。ほんの少しの役に立たないものがあり、誰もそれを受け取る用意がなかったので、それは子供に与えられた。しかしその老いて死んだ男はその少年にも手紙を書いていたが、その手紙は彼が成年になった時に開けなければならないものだった。そこで彼は成年になった時にその手紙を開いた。その手紙の中で彼の父親はこう書いていた。「私が遺言書で意味していたことは、もちろん、彼らは彼ら自身のやり方でそれを解釈するだろう、ということだ。だが彼らには解釈させておくがいい。お前が成年になった時、この解釈を与える。これは私の解釈だ。これが私の言っている意味だ。」この中でそれはこう書かれていた。「あなたが最も好きな物を全て受け取りなさい。それから、あなたが最も好きな物を全て私の子供に与えなさい。」

 そこで彼は年長者たちの前にその手紙を提示した。彼らは決してそんな意味には考えなかったので、それを分けていた。今、その意味がはっきりしたので、彼らは全てのものを戻した。そして少年は準備ができていて、それからその短い手紙の中で、父親はこう書いていた。

 「お前に引き取らせる時までに、彼らが自分たちのやり方で解釈するに違いないのは良いことだ。なぜならもしお前が成年になる前に、私がそれを直接お前に与えるなら、それはこれらの年長者たちによって壊されるだろうからだ。お前がそれを引き取る準備ができるまで、彼らにそれを彼ら自身の財産として守らせなさい。」本当に彼らがそれを守ったのは、それが彼らのものだったからだ。だからそこに部分的なものがある時はいつでも、あなたは自分に対するどんなメッセージでも、どんな戒律でも、どんな命令でも、あなたが最も興味を持つ部分によって解釈するだろう。あなたは自分のぼんやりしたマインドを通して、自分の眠りの中でそれを意味深いものにする。だから人が完全(トータル)に明け渡さない限り、責任を負うことはできない。そして人が完全(トータル)に明け渡す時、総て(トータル)の責任が師に、目覚めた人に生じる。その時それは全面的(トータル)だ。

 古い時代ではイニシエーションは容易ではなかった。それは最も難しいことだった。なぜならまさにその現象がそのようなものだったので、それは難しくなければならなかった。人はイニシエートされるために何年も待たなければならなかった。一生の間でさえ人は待ったかもしれない。なぜなら人は準備ができていない限りイニシエートされないからだ。この待つ段階は本当に試験の場だった。あなたは忍耐強いだろうか?あなたは待てるだろうか?ただ待つことにおいてだけ、あなたの成熟度は露わにされる。子供は一瞬さえも待つことができない。もし彼が玩具を欲しがるなら、彼はたった今それを望む。彼は待てない。だからマインドがせっかちであればあるほど成熟度はより少なくなる。そこで古い時代ではイニシエーションの前に、人はとても多くの年月を待たなければならなかった。この待つことは試験の場であり、この待つことは訓練でもあった。

 例えば、スーフィーはあなたが特定の期間を待った時にだけイニシエートする。あなたは師自身が答えるただその瞬間のために質問せずに待つ。人は多くの事をしなければならなかった。例えば、あるスーフィーは靴屋であるかもしれない。もしあなたがイニシエートされるためにいるなら、あなたは何年も靴屋で彼を助けなければならないだろう。そしてこれさえも質問することはできない。この靴直しで何が起こるのだろう?どのようにして私は自己実現した者であろうとしているのだろう?どのようにして私は神性であろうとしているのだろう?この靴直しと何の関連があるのだろう?たとえこの関連について尋ねられても、あなたは投げ出すだろう。なぜならそれはあなたの知ったことではないからだ。関連したものを知るのは師の用件だ。どうやってあなたは知ることができるだろう?あなたは神性さを知らない。だからあなたはどのように靴直しが神性さと関係しているのか知ることはできない。あなたは知ることができない。5年間、人はただ待って、靴直しで師を助ける。彼は祈りや瞑想について決して話さないだろう。彼は靴直しを除いては決して何も話さないだろう。あなたは5年間待った。だがこれは瞑想だ。普通の瞑想ではない。あなたはそれを通してきれいにされるだろう。

 この単純な待つこと、質問することなく待つこと、この信頼することは完全に明け渡す準備ができている地盤を作る。そして時にはそれは外側からではとても簡単に見える。それはそうではない。それは非常に難しい。あなたのマインドは抵抗し、質問をして、問題を引き起こすだろう。それは、私は何をしているのだ?と尋ねるだろう。自分は何かを正しくやっているのだろうか?それとも単に自分の時間を浪費しているだけなのだろうか?この人は本当に一緒にいて価値のある存在なのだろうか?この靴直しをすることが?ともかくそれは探求と関わっているのだろうか?マインドは尋ね続けるだろう。内側であなたは苛立っているだろうが、それでも尋ねることはできない。それでもあなたは信頼しなければならず、しばらく待たなければならない。

 もしあなたがさらに1年間待つことができるなら、マインドはそれ自身で静かになるだろう。あなたが毎日マインドに食料を与えない限り、毎日それを助けない限り、マインドは続けることができない。あなたが毎日それでかき乱されたり毎日それに邪魔されたりしない限り、それは続けることができない。あなたはただ待ち続けている。そしてマインドはただおしゃべりをして、質問を提示している。あなたは待って、待って、待ってきた。それから質問は無意味になる。マインドはただ出し尽くされる。それは単に興味を失う。それはまさに死んでしまう。そしてあなたは待っているけれども、そこに質問がないという瞬間がやって来る。そこに質問がない時、師は答えるだろう。なぜなら今、あなたは聞くことができるからだ。あなたのおしゃべりは止まった。今、あなたは静かだ。今やあなたは通路になった。しかし普通、私たちは毎日マインドに食料を与えている。私たちは邪魔されている。私たちは見るために1時間待つことさえない。あなたはこの場面が続けられるのかどうかを待って見ることさえない。それが続けられないのは、マインドと共にでは何も永続しないからだ。それはそれ自身で立ち去るだろう。

 チベットの師、ミラレパは、もし何らかの質問が彼のところに来るなら、質問者が7日間待った後にだけ答える、ということをひとつの規則として持っていた。これは人があらゆるもののために支払わなければならない代価だ。もしあなたがこの瞬間に尋ねるなら、私はあなたを外に投げ出すだろう。7日間待って、その質問と共に留まりなさい。そして本当にあなたは7日間それと共に留まることはできない。7日は長すぎる。

 時々私はある人が私のところに来て、彼が私に質問するのを見るが、もし私が彼をかわすことができて、2分間でさえ他の何かについて話すなら、彼はその質問を忘れるだろう。彼は自分の質問のためにまた来ることは決してない。彼は1時間話しても二度とその質問を提示しないだろう。それは単なる気まぐれ、単なる気分の高まりにすぎなかった。それは何の意味もない。だからもしあなたが5年間待つことができるなら、あなたは同じではないだろう。待つことは大変な困難だ。古い時代ではイニシエーションは、長くそして忍耐強く待つことの後にあった。明け渡しは簡単で、そして責任も引き受けられた。

 現在、全ての物事が違ってきた。待つ準備ができている人はいない。現代的マインドの最もはなはだしい病気は「急ぐこと」だ。現代的マインドの新しい現象は時間意識だ。マインドの中に生じた基本的な変化は時間意識だ。私たちはとても時間を意識するようになったので、一瞬も待つことはできない。

 全ての年代が子供っぽくなった。どこにも成熟はない。なぜなら成熟は常に待つことの副産物だからだ。そして待つことは時間無き意識をもってのみ可能だ。この時間意識のせいで、イニシエーションは不可能になった。あなたはイニシエートされ得ない。あなたはブッダのいるところを通過し、走って彼に求める。「私をイニシエートしてくれませんか?」あなたは走っている。あなたはブッダと通りで走って出会う。だがこの4つか5つの言葉の発言でさえ立っている姿勢では発せられない。あなたは走り続けている。成熟は不可能になった。だがなぜ、障害物である、最大の障害物であるこの時間意識があるのだろう?なぜそれは以前にはなかったのだろう?なぜそれが今、大きくなっているのだろう?

 時間意識は、あなたが死を恐れるようになる時にだけ深くなる。あなたはそれに気づいていないかもしれないが、あなたが死に気づくようになればなるほど、あなたは時間意識になる。一瞬も失われるべきではない。死がそこにあるのだ。あらゆる失われる瞬間は永遠に失われる。そして死は近づいている。あなたは死のうとしている。だからあらゆる瞬間を使うことだ。あなたは待てない。なぜなら待つことはただ死を待つことだけを意味するからだ。死は来ている。誰も待つことはできない。明日、次の瞬間何が起ころうとしているのか誰も知らない。死は来るかもしれない。あなたは不安になる。あなたは震え始め、走り始める。この現代的マインドの全ての走ることは死の恐怖が原因だ。

 初めて人間は死をとても恐れるようになっている。なぜなら初めて人間は不死に完全に気づかなくなったからだ。もしあなたが不死に気づくなら、急ぐことはない。あなたは永遠に生きる。そしてそこには常に十分な時間がある。十二分に、常に十分にある。何も失われない。なぜなら時間は永遠だからだ。だから失われる瞬間はそのようなものではない。その何かは少なくなる。それは永遠なので同じままだ。広大無辺の宝庫からあなたは何も失うことはできない。あなたは失い続けるかもしれないが、それは何の違いにもならない。残るものは同じままだ。あなたはそれから何も取ることはできない。しかし私たちは時間が足りない。時間は短く、そして死がそこにある。

 私たちは死のうとしている身体しか意識していない。私たちは不死である内側の意識を意識していない。太古の時代には不死であることを意識していた人々がいた。彼らの意識が、不死であることが理由で、彼らは急ぐ必要はないという雰囲気を、新しい領域を作り出した。彼らが少しでも動いたなら、物事はゆっくり動いただろう。その時イニシエーションは簡単だった。それらはみんな今では難しくなった。だがそれでも、どうしようもなく、選択の余地はない。イニシエーションは必要だ。そして古いイニシエーションは不可能になった。新しいイニシエーションがそれにとって代わらなければならない。古いものは新しいものによって代わられなければならない。私の全ての努力はそれに向けられている。

 もしあなたが急いでいるなら、その時私はあなたの走っている事態の中でイニシエーションを与えるだろう。なぜなら、そうしなければそこにイニシエーションはないからだ。だから私はあなたに先決条件として待つことを要求できない。私はまずあなたをイニシエートして、そしてとても多くの方法であなたの待つことを長引かせなければならない。非常に多くの方策を通して、私はあなたを待つように説き伏せるだろう。なぜなら待つことなしでは、成熟はないからだ。だからあなたに準備ができている時、二番目のイニシエーションがあるだろう。それは古い時代には一番目であったものだ。それは今、一番目であることはできない。

 時々人々は当惑する。時々誰かが私のところに来る。彼は私に耳を傾けさえしないし、私を知りさえしないが、それでも私は彼をサニヤスにイニシエートする。これは馬鹿げているし、まったく理解できないものだ。だが私は知っている。そして私がしていることは何であろうと、私は非常に思慮深くやっている。これは、このイニシエーションは単なる始まりにすぎない。なぜならただこのイニシエーションを通してのみ、私は彼が待つための方策を作ることができるからだ。彼は待つことができない。もし私が彼に5年待ちなさい、そうしたら私はイニシエーションを与えよう、と言うなら、彼は待つことができない。私はまさにこの瞬間に彼に与える。それなら彼は待つことができる。だからそれをこのようにさせなさい。それは何の違いも生じない。同じことがそのプロセスだ。あなたが待てないため、私は変える。私は後であなたを待つようにさせる。それからそこには二番目のイニシエーションがある。これが正式のイニシエーションだ。二番目のものは出来事のようなもので、それは形式ばらないものだ。あなたは私に求めない、私はあなたに与えない。それは起こるだろう。最も奥深い存在においてそれは起こり、そしてあなたはそれが起こる時にそれを知るだろう。

 現在、この世界のための、この瞬間のための、この時間意識のマインドのための方法はない。そこに方法はない。まず私はあなたを押し動かす、それから私はあなたに働きかけなければならないだろう。働きかけることもまた全く違うものになる。それは同じではありえない。例えば、私はあなたの知力に、決して必要とされなかったものに多く働きかけなければならないだろう。それは常に障害物として考えられていた。私もそれは障害物であることを知っている。私も知力を用いては何も本当に起こり得ないことに気づいている。しかし私はあなたの知力に働きかけて努力しなければならないだろう。なぜなら今、もし誰かがあなたの知力は必要ないと言うなら、この声明はあなたの知力によって解釈されるからだ。あなたはただその人との関わりを断つだろう。もうそれ以上の親密さはなくなる。これは扉を閉じることだ。今日、それは知力は必要ないと言うことはできない。もちろん、それは基本的な真実だが、それは発言できない。それは古い時代では発言できた。

 今、私はあなたの知力と多く関わらなければならないだろう。そして私が、以前には決してそれに働きかけなかった方法で、あなたの能力より以上にあなたの知力にとても多く働きかけた時、その時にだけあなたはできる、「知力を投げ捨てなさい、」という声明に対する準備ができるだろう。それ以前では無理だ。あなたは納得する。そして知力が非常に簡単に納得させられるのは、それが非常に表面的な部分だからだ。もしあなたが、言われることは何でもただ合理的であるだけだ、ということに納得するなら、その時私は非合理的なもので始めることができる。そこに本当の始まりがある。しかしあなたのハートにまで来るために、私はあなたの知力を通過することで、そのいたるところをぐるぐる回って行かなければならないだろう。知力の迷路は不必要に旅をしなければならないが、この時代にとってそれは必要になった。今や不合理なものでさえ合理的な努力によって見つけられなければならないだろう。

 この待つ期間は、超えたものの方へ向いた知力の訓練であるだろう。そして同時に私は瞑想の方へあなたを強いて押し進めるだろう。古い時代では、瞑想は非常に秘密の、秘教的なものだった。それはあなたがすっかり準備ができている時にだけあなたに与えられる。なぜならそれは最も秘密の宝物だからだ。それはあなたが完全に準備ができている時にだけ与えることができる。そうでなければそれは与えることができない。

 だがもし私があなたに準備ができることを待つなら、それは全くあなたに与えることはない。そこで私はあなたに鍵を与える。もちろん、偽りのものを、だ。あなたはそれで遊ぶことができ、そしてそれを用いてあなたは待つことができる。その鍵より以上に、待つことが役に立つ。あなたと共にある偽りの鍵を用いてさえ、あなたはより安らぐだろう。しかしその鍵はあなたが解錠し続けるような方法で作られる。それはまさにこの瞬間にその扉の錠を開けることはできない。その鍵は偽りだ。それは持つべきではない角を持つ。だがもしあなたがそれを試み続けるなら、それらの角はくずれ落ち、萎れるだろう。あなたがそれを使い続けるなら、それは真正の物に、本物の鍵になるだろう。そして日ごとにそれはより以上に動くだろう。私はあなたが私を理解していると思う。私は別の鍵でそれと取り替えるつもりはない。同じ鍵は多く使うことによって真正のものになる。それの不必要な角は萎れる。しかし私は、まさにこの瞬間に扉を開けることができる迅速な鍵が与えられるための準備ができるまであなたを待つことはできない。扉は準備ができている。鍵は準備ができている。だがあなたは準備ができていない。

 そこでそこには二つの方法がある。どちらにしてもあなたは古い方法で待たなければならない。私はこう言うだろう。「5年待ちなさい。これが鍵だ。扉はある。だが5年待ちなさい。鍵があるところを二度と尋ねてはいけない。好奇心でさえ扉に触れてはいけない。錠の近くに行ってはいけない。待ちなさい。あなたが錠を見ているのが私にわかっても、私はあなたを追い出すだろう。ちょっと待ちなさい。決して錠を見てはいけない。決して強欲になってはいけない。これが鍵で、私はそれをあなたに準備ができている時に与えよう。」これが古い方法だった。人々は何年も待った。さらに何生も人々は待った。

 そこにひとつの物語がある。ある弟子が3つの生で待った。師は彼がどれだけ待てるのか彼に試験を課していた。彼は、私はお前がどれだけ待てるのかを知ろうとしているのだ、と言った。弟子は「わかりました。私もあなたがどれだけ待てるのかを見ましょう。」と言った。なぜならそれは両方が待つことになるからだ。決してそれはあなただけが待つことになると思ってはいけない。もしあなたが待つなら、私も待っている。そして私はあなたよりも急いでいる。なぜなら私は再びいないかもしれないからだ。だから弟子は言った、「誰がより待つことができるのかを見てみましょう。」それは師にとって困難になった。彼は3つの生のために再び来なければならなかった。そして弟子は待った。毎回、彼は来て座り、そして毎回同じ話が繰り返された。ついに師は耐えられなくなり、この鍵を受け取りなさい、お前の勝ちだ、私は負かされた、と言った。弟子は言った。「なぜあなたはそんなに急いでいるのですか?私はまだもっと待つことができます。」彼は言った。「お前は待つことができるが、私はこの待つことのために不必要にこの地球に来なければならない。そしてまるでお前は永遠に続けられるように見える。だからこの鍵を受け取りなさい。」しかし弟子は言った。「鍵は私のところに来ました。だがそれほど長く待つことがそれ自体鍵になったので、私には今それは必要ありません。」師は言った。「なぜ私はそれほど急いでいたのか、これは一つの事でもあった。なぜならもしお前がまだもっと待つなら、鍵を与える必要はないからだ。まさにこの待つことが鍵になる。」

 これは古い方法だった。まず待ちなさい、それなら鍵は与えられるだろう。今やそれは不可能なので、私は全ての物事を変えなければならない。私はあなたに鍵を与え、それからあなたはそれで遊ぶことができる。あなたは何もせずに待つことはできない。だが何かをして待つことはできる。今、あなたには鍵があり、錠が、扉がある。あなたは宝庫についての噂を持っている。あなたはすべてを持っている。私は宝庫について噂をし続ける。あなたは鍵を持っている。あなたは待つことができ、錠と鍵で遊ぶことができる。そしてまさにこの遊ぶことと待つことで、偽りの鍵は真正の物に変わるだろう。

 責任とはあなたの明け渡しに対応することだが、そこには弟子とどんな対応もしない多くの物事がある。唯一のことは、師は弟子に対応しているということだけで、それは橋だ。弟子からの明け渡し、師からの責任を負うこと、それは橋だ。そこにはただ師と共にだけあるという多くの物事が存在する。本当は弟子はあまりする必要はない。師の方が多くしなければならない。そしてそれは適切でもある。それがそのあるべき姿だ。しかし弟子は常に自分は多くのことをしていると考える。師とは大変な、多くのことをしている人だ。だから私たちはただ何かを指し示すことができるだけだ。彼は同時に多くのレベルであなたに働きかけなければならない。彼はあなたの身体に、あなたには理解できないものに働きかけなければならない。なぜならあなたは自分の身体に完全に気づいていないからだ。あなたは自分の身体について何も知らない。あなたは自分が空腹を感じる時、痛みを、病気を感じる時にだけ自分の身体を知る。それが全てだ。それがあなたの身体との唯一の接触だ。あなたは自分の身体がどれほど偉大な現象であるのかを知らない。

 師があなたの身体に多く為さなければならないのは、あなたの身体が変容しない限り、最も内側のものに取り組むことはできないからだ。そして彼は、あなたの身体に彼が何かをしているということにあなたが気づいてはいけないような方法でそれをしなければならない。なぜならもしあなたが気づくなら、まさにその意識があなたの身体の中で騒動を引き起こすからだ。そしてこれは身体についての秘密の現象であるため、師はそれをすることができない。それはあなたがそれを意識していない時に作用する。もしあなたが意識するようになるなら、それは作用しないだろう。例えば、あなたは実験をすることができる。明日、自分が食べている時を意識して、それから胃が食べ物を生きている栄養に変えるために働いていることを意識してごらん。24時間意識してごらん。するとあなたは体調が悪くなるだろう。あなたの胃は邪魔され、あなたは食べ物から栄養を与えられ得ないだろう。それは毒になる。あなたはそれを完全に捨てなければならない。全ての組織体系は邪魔されるだろう。だからあなたには眠りが必要で、身体はより良く機能できるのだ。あなたは意識しない。もし誰かが病気なら、医者はまず彼の眠りが良好かどうかを見る。そうしなければどんな内科的治療も施さないだろう。どんな助けも与えることはできない。彼の身体は働くことができないので、彼はとても意識的なので、彼を助けることはできない。

 不必要に、この意識のせいで私たちはとても多くの病気を存続させている。いったんあなたの胃が邪魔されるなら、あなたはそれに意識するようになる。それから胃は大丈夫だが、その意識は邪魔するのを続け、そしてこれは悪循環になる。あなたの意識はあなたの胃によって邪魔され、そしてあなたの胃はあなたの意識によって邪魔される。今やあなたはその外にいることができない。あなたはその中にい続けて、これは一生の事柄になるだろう。ある日、あなたの眠りは邪魔される。別の日、あなたは大丈夫だが、今やあなたは意識的になってしまった。今あなたは、今日も眠りは来そうにはないかもしれないと考える。今日、あなたは意識するようになった。眠りはやって来ないだろう。あなたはあまりに意識しすぎている。さて次の朝、あなたはさらにもっと意識するだろう。だからあなたの身体に対して師はあなたに言うことのできない多くのことを働きかけなければならない。触れることさえ何かをしている。古い世界では、古代の人々に関しては、それは非常に簡単だった。彼らはそれほど身体を意識していなかった。時間意識とともに、そこには身体を意識することに対応する自然な結果がある。言わば、それは死の意識だ。本当だ!死を意識すればするほど、あなたは身体を意識するようになる。

 今日、誰もがとても身体を意識するようになったので、彼の自意識が強くならずに彼に触れることはできない。彼の自意識が強くなる瞬間、触れることtouch、それの内的な意味、それの内的な働き、は止められる。私たちはあまりにも神経過敏touchyになってしまった。あらゆる人が、誰も触れるべきではないことに絶えず意識している。あなたは群衆の中に立っていて、誰もが触れているが、どこか内側ではあなたはずっと触れられないようにしている。物事はこの意味で難しく、不必要に難しくなった。とても多くの方法で、私はあなたの身体が変われるような方策を作らなければならない。私の瞑想技法で、私はあなたの身体の中心を変えるためにだけ浄化的な部分を加えた。どんな古い瞑想もこの部分を加えなかったのは、その部分は師によって為され得るからだ。彼の触れること、何かの中心へのたったひとつの接触はとても多くの浄化を起こすことができるが、現在それは非常に難しい。

 例えば、禅師は彼の手に棒を持つ。彼はその棒で打つ。どんな西洋人もそれの意味は何なのか理解できなかった。同情的な人たちでさえわからなかった。それから、禅師はそれによって何を意味しているのか言わないだろう。それはただの打つことではない。それは特定の中心への激しい打撃だ。それは全く打つことではない。しかしそれは隠されなければならない。彼はあなたの背骨を、特定の部分を打っていて、もし彼があなたに「私はお前の身体が特定の方法で作用するよう助けるためにこの中心に触れている。」と言うなら、あなたは自意識を強くするだろう。彼はそれを言わない。彼は、お前は眠っていると感じたので私はお前を打った、と言うだろう。あなたが眠いと感じる時はいつでも、彼はやって来てあなたを打つ。そしてこの打つことは全ての仕事をごまかすために隠された策略だ。あなたは「彼は私を打っている」と思うだろう。あなたは彼が激しく打った中心に気づいていない。現在それも使うことはできない。

 アーサナはあなたの内側の流れを変えるために使われる。ムドラーが使われたが、それらは全て長く実習されなければならない。今は誰もそんなに長く実習することはできない。そして、それらは市場ではなく、非常に孤立した雰囲気の中で実習されなければならない。なぜならあなたが特定のアーサナやムドラーを実習する時、特定の中心がとても繊細になるので、あなたは孤立したままでいなければならないからだ。そうしなければあなたは自分の内側に多くの不要な妨害的影響を受けるだろう。それはあなたの中心が開かれているからだ。

 だから師はとても多くの技法であなたの身体と多くの関わりを持つ。古い技法は役立たずになっているため、新しい技法を考案することは常に彼に任せられている。これはあなたが知れば知るほど、あなたは自意識が強くなるからだ。そこで新しい技法が使われるべきであり、そしてただ光明を得た人だけが新しい技法を使うことができる。イニシエートしているが光明を得ていない全ての人たちは、古い技法を頼りにしなければならないだろう。なぜなら彼らは新しいものを考案できないからだ。彼らはそれらによって何を意味しているのかさえ知らない。彼らは外側の身振りだけを知っている。だから彼らはハタ・ヨーガ、プラーナヤムを使い続けるだろう。彼らは継続する。すべての新しく光明を得た人のおかげで、この世界は新しい方策を得る。そうでなければそれは新しい方策を得ることはできない。そしてそれぞれの新しい世代には新しい方策が必要になる。なぜならマインドが変わったからだ。

 だから師はあなたの身体に多く関わる。それは始まりだ。そしてそれの難しい部分はあなたがそれに気づいてはいけないことだ。だから師と共に生きること、アシュラムで生きること、師と共に眠ることは意味深いのだ。なぜならその時あなたの身体は、あなたの知ることなしに、彼の働きかけに対してより傷つきやすいからだ。師はあなたの身体に働きかけるため、あなたを無意識にさせるために麻薬を使うことさえした。麻酔は外科医によって使われるだけではない。師たちも彼ら固有の方法でそれらを使った。あなたが完全に気づいていない時、彼らは働きかけることができる。そして普通は一年ではすることができないワークを一瞬ですることができる。なぜならその時正確なポイントに触れ、転換し、変えることができるからだ。全ての流れを異なるようにすることができる。

 物事がさらにより難しくなるのは、使われるべきエネルギーがセックス・センターにあるからだ。それはさらにより難しくなる。それも全ての複雑なものの一部だ。私は時間意識、死の意識、性意識について話している。これらは全て部分だ。あなたが死を意識すればするほど、あなたは性的に感じる。なぜならセックスは解毒剤だからだ。セックスは生の始まりで、死は終わりだ。もしあなたが死をより意識しているなら、あなたはセックスをより意識するようになるだろう。それは性的だという意味ではなく無意識だということだ。それはまったく自然なことだ。

 原始的な社会に行って女性の胸に触り、そして彼女にこれは何だと尋ねてみればいい。彼女はどんな道徳にもかまわず、どんな身体意識にもかまわず、セックスに関連せず、ただ機械的な方法で答えるだろう。彼女は、これは子供にミルクを与えるためのものだ、と言う。

 エネルギーはセックス・センターにあり、私たちはセックス・センターにとても意識するようになり、それを非常に絶え間なく用心し、そしてとても緊張するようになる。それは助けることが難しく、より難しくなり続ける。私は多くの新しい方策を作った。そして私はとても多くの次元から非常に難しいことについて話さなければならない。例えば、私は「セックスから超意識へ」についてとても多く話した。ただあなたをくつろがせるためだけに。もしあなたが自分のセックス・センターにくつろぐことができるなら、そこにどんな緊張もないなら、エネルギーを上方へ解き放つことができる。イニシエーションに関する最初の事柄は、あなたの身体を変えるように助けることだ。それが変わらなければならないのは、新しい現象があなたの身体に起ころうとしているからだ。それは新しい爆発のために準備されなければならない。その爆発とは、まもなくあなたの客になるであろう新しいエネルギーのために来ようとしている、降下しようとしているものだ。だからあなたは主人でいなければならない。全ての設定は変えなければならない。

 私たちが普通に存在するものとしてのこの設定は役立たないだろう。これは生物学的な設定だ。この身体の構造、この身体のパターンは生物学的だ。それはセックスの媒介物としてのみ使われる。全てのプロセスはただそれを続けるためのものだ。自然に関する限り、それからそれ以上のものは何も期待されていない。だからそれはその方法で設定されている。今、あなたはその進行を続けることだけを望んではいない。あなたは全ての生物学的なものを、そのプロセスを変えて、絶対的に非生物学的な新しい次元を、スピリチュアル(霊性)を作り出すことを望んでいる。身体の全ての構造は変えられなければならない。

 だから今日、師はあなたの身体により多く、それからあなたの感情に多く、そして今やあなたの知力にさえ多く働きかけなければならない。これは意識的な、秘教的な部分だ。師はイニシエーションで外側の部分に何かをしようとしている。しかしそこには内側の部分、秘教的なものがある。それはあなたの夢を通して、ビジョンを通して、秘密のコミュニケーションを通して、精神感応的なメッセージによって為されつつある。あなたの知力は直接静まらせることができる。それは話させることができて、直接静まらせることができる。しかしあなたの感情は違う。人はあなたの感情が変わり、変容するようなもので環境を作らなければならない。それも外側だ。あなたの感情、あなたの知力、あなたの身体、これらはあなたの身体の外側の自己だ。あなたの存在はより深い内側にある。その存在もまた変容されるべきだ。それは精神感応を通して、秘教的な、秘密の経路を通して為されつつある。あなたの夢は利用できる。それらは使われる。本当に、あなたは自分の夢に気づかないかもしれないが、あなたの師は気づいている、ということが普通に起こる。そして彼はあなたの目覚めよりもあなたの夢により関心を持っている。あなたのいわゆる目覚めた意識は偽りだ。それは真実(リアル)ではない。あなたはその中に表現されていない。あなたの夢の方がより真実だ。

 フロイトは、彼に知られるようになったある錬金術的な伝統のせいで夢分析を使っただけだ。ある秘教的サークルから何かがもれた。彼はそれを使い、そして全ての科学を作り出した。もちろん、彼はあなたの夢を直接知ることはできなかった。彼はあなたに告白させ、あなたの夢を示させ、思い出させて、あなたの夢について話させなければならなかった。それなら彼はそれを分析することができた。しかしイニシエーションでは、師はあなたの夢を知る。彼はあなたの夢の中に入ることができる。彼はあなたの夢の目撃者でいることができる。そしてその時彼はあなたについて、あなた自身が気づいているより以上の秘密のことを知る。エドガー・ケイシーは、あなたが自分の夢について何かを彼に言えるような自己催眠の昏睡状態に入ることができた。

 そこにはあなたの失われた環がある。この夢の全ての映像を彼は見ることができて、これらは失われた環であることを伝えることができた。彼は無意識状態で夢の中に入ることができて、誰も朝には覚えていないあなたの総ての夢を驚くほど目撃することができた。それは不可能だ。意識的なマインドが引き受ける瞬間、それは総ての物事を邪魔する。なぜならそのメッセージは無意識からのものだからだ。それは意識的なものに反対する。意識的なものは歪め、解釈する。それは取り逃がされた何かを作る。何かが加えられ、そして物事全体はまったくナンセンスになる。あなたは、これは単なる夢だ、無意味だ、と言う。夢はあなたの働いている瞬間より深い意味を持つ。どんな夢も無意味ではない。

 だから師はあなたの夢に働きかけなければならない。そして彼があなたの夢に働きかけない限り、彼はあなたの目覚めに対して働きかけることはできない。なぜならあなたの内側の夢を作る源泉が全ての事柄だからだ。それは壊されなければならない。それはあなたの意識から根こそぎにされなければならない。夢の完全な仕組みは壊され、完全に根こそぎにされなければならない。それが完全に根こそぎにされる時、最初にあなたは夢を失ったと感じるだろう。それからあなたは眠りを失ったと感じる。あなたは眠るが、何かは気づいたままだ。身体は気づいたままだ。身体は朝に元気になるが、あなたは自分が意識的なままでいたのを知るだろう。もし夢が失われるなら、眠りは失われる。

 あなたは夢が絶えず眠りを助けていることに驚くかもしれない。あなたは夢なしでは眠ることはできない。夢はあなたの眠りを続けるように助けている。例えば、あなたは眠りの中で空腹を感じている。その時眠りは壊される。身体がそれを壊す。「何かを食べに行け!」あなたは喉の渇きを感じている。身体は「何かを飲みに行け。」と言う。夢の構造は夢を作るだろう。あなたは夢の中で水を飲んでいる。その時眠りを壊す必要はない。それならあなたは眠ることができる。あなたは必要だったものを受け取った。夢が代用した。そして今、あなたは続けることができる。あなたの目覚まし時計が鳴っている。今5時で、あなたは起きなければならない。夢の構造が夢を作る。あなたは寺院にいて、鐘が鳴っている。外で鳴っている目覚ましは転移されて夢の一部にされる。今、鐘が寺院で鳴っているが、今や起きる必要はない。あなたは引き続き眠ることができる。夢は引き続き眠るための助けになる。そうでなければあなたは眠ることができない。眠りは何度も壊されるだろう。なぜなら外側ではとても多くの出来事があるからだ。身体は我慢できない。たった一匹の蚊でさえあなたの眠りの邪魔をするが、夢はそこでも助けることができる。それは夢を作るかもしれないし、蚊の羽音は夢の中の羽音になるだろう。その時あなたは引き続き眠って夢を見る。

 だから夢見る意識の全ての構造は根こそぎにされなければならないし、師はそのために働きかけなければならない。そして彼が夢の全ての仕組みを壊す時、その時にだけ、内側の扉が開く。そして今、彼は直接伝えることができる。今や言語の必要はない、言葉の必要はない。彼は直接伝えることができる。そして言葉なしの直接の伝達がある時、その時にだけ真理はあなたに顕され得る。そうでなければだめだ。だから最も秘教的な部分はあなたの夢見る意識に関して、それを変えるためにある。

 何かが外に漏れるかもしれない。そして何度もそのような現象があった。秘教的な世界から来たたったひとつの漏れたものに、たったひとつの要点に基づいた科学さえある。その時あなたはその上に科学を作り出すことができる。それは不完全で常に誤ることになる。フロイトの分析が決して完全であり得ないのは、彼が全ての事柄を知らないからだ。彼はたったひとつの要点に来た。彼はどこかでそれに巡り合った。彼は完全にやり遂げたが、その要点そのものはある部分だ。全体は知られていない。

 夢見る意識が洗い流された時、それから真の秘教的なワークが始まる。師はあなたの手を受け取ることができ、そしてあなたをどこへでも、どんな現実(リアリティ)へも、この宇宙のどんな深みへも導くことができる。しかしそれは話すことはできない。それは討論することはできない。師たちは彼らの教え子たちを天国へ、地獄へ、宇宙の隅々へ、あらゆる惑星へ、高次の領域へ導いてきた。しかしそれはあなたの夢見る意識が完全に去り、あなたは何も投影できず、あなたはまさにスクリーンでなければならない時にだけ起こることができる。その時この世界は、あなたが違っているため、あなたにとって違っているだろう。この世界は同じままだが、あなたは何も投影しないだろう。

 そしてそこにはまだ、あなたに興味があるなら、入って行かなければならない多くの事柄がある。あなたにこれらの事柄について知らせることはできない。それらはあなたに知られるようにすることはできる。私はあなたを内側の次元に押し入れることはできる。しかし私はあなたに知らせることはできない。私があなたに知らせている全てさえも、これまで許されたものより多い。しかしこれまで許されなかった多くの事柄について私があなたに知らせることができるのは、私が常にいくつかの要所(キーポイント)を落としているからだ。あなたはそれらを作り上げることはできない。

 何かが常に失われている。私にとってではなく、あなたにとってだ。その現象があなたに起こらない限り、それは常に失われている。現象が起こる時あらゆるものは完成するだろう。それは繋がる。だから私は多くの繋がり(リンク)について話すのだ。そこには常にあなたの努力によってのみ満たされるいくつかの失われた繋がり(リンク)がある。私はこれらの繋がっていない繋がり(リンク)について話す。そうすればあなたは一生懸命働きかけることに納得するかもしれない。なぜならあなたが働きかければ働きかけるほど、私は失われている繋がり(リンク)について話すだろうからだ。しかし私は主要な繋がり(リンク)について決して話さない。それはただ体験できるだけだ。だが私はあなたがそれを体験するのを助ける準備ができている。そして物事の性質は、それはただ体験できるだけ、というようなものだ。

 あなたの役割をしなさい。そしてあなたは自分の役割をする能力があることを覚えておきなさい。あなたが明け渡すことができる時はいつでも、師がやって来るだろう。師はそこにいる。師たちは常に存在していた。世界は決して師を欠いていなかった。それは常に弟子を欠いていた。しかしどんな師も誰かが明け渡さない限り何も始めることはできない。だからあなたが明け渡す瞬間を持つところがどこであろうと、それを失ってはいけない。たとえあなたに明け渡すべき誰かが見つからなくても、その時はただ存在に明け渡しなさい。しかし明け渡す瞬間がある時はいつでも、それを失ってはいけない。なぜならその時あなたは眠りと目覚めの間の境界線上にいるからだ。ただ明け渡しなさい。もしあなたが誰かを見つけられるなら、それは良い。あなたが誰も見つけられないなら、ただ宇宙に明け渡しなさい。そして師は現われる。彼はやって来る。彼は明け渡しがある時はいつでも駆けつける。あなたは空っぽになる。あなたは虚空になる。霊的にあなたは虚空になる。その時霊的な力があなたの方へ押し寄せてあなたを満たす。だから常に覚えておきなさい、あなたが明け渡すように感じる時はいつでも、その瞬間を失ってはいけない、ということを。それは二度とやって来ないかもしれないし、または数世紀後に、生が不要に浪費された後にやって来るかもしれない。その瞬間が来る時はいつでも、ただ明け渡しなさい。

 しかしマインドにはトリックがある。もしあなたが怒るなら、あなたはまさにその瞬間に怒るだろう。しかしあなたが明け渡すように感じるなら、あなたはそれについて考える。あなたは計画を立てて、待つだろう。そしてマインドと一緒では、それが境界線上にある時は常にほんの束の間にすぎない。だからただ神性なものに、何にでも、一本の木に対してさえも明け渡しなさい。なぜなら真の事柄はあなたが誰に明け渡すかではなく、真の事柄は明け渡しにあるからだ。木に明け渡しなさい。するとその木はあなたにとって師になるだろう。どんな経典もあなたに明かすことのできない多くの事柄が木からあなたに明かされるだろう。

 石に明け渡しなさい。するとその石は神になるだろう。そしてその石はどんな神もあなたに明かすことのできない事柄を明かすだろう。真の事柄は明け渡しだ。明け渡しがある時はいつでも、あなたに対して責任を持つようになるもの(人)が常に現われる。これがイニシエーションによって意味することだ。






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