序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問





               The Silent Explosion   第4章:クンダリーニ : 超越の科学

質問: OSHO、クンダリーニとは何ですか?そしてクンダリーニ・ヨーガとは何ですか?クンダリーニはどのように西洋の役に立つことができるのでしょうか?そしてなぜクンダリーニを目覚めさせるためのあなたの技法は、伝統的なものよりも混沌としているのですか?

 存在はエネルギーであり、とても多くの道と多くの形におけるエネルギーの運動だ。人間の存在に関する限りでは、クンダリーニはそれらの一つになる。クンダリーニは人間の身体と霊魂のエネルギーを集中させたものだ。
 エネルギーは表に現われて、または表に現われずに存在することができる。それは種の中に、または表に現われた形の中に残ることができる。クンダリーニとはあなたの総ての潜在性を、あなたの総ての可能性を意味する。だが、それ自体は種の中にある。それは潜在的可能性だ。それは現実のものになることができるが、それはまだ現実のものではない。クンダリーニに働きかける道は潜在性を現実のものにさせる道だ。

 そこで第一に、クンダリーニとは特殊な何かではない。それは人間のエネルギーだが、通常それは機能していない。それの一部だけが機能している。非常に微小な部分だ。そしてその部分でさえ調和的に機能していない。それも衝突している。それはそれ自体で衝突するものだ。だからあなたは惨めに感じるのだ。全ての惨めさとは葛藤しているあなたのエネルギーであり、全ての至福とは調和したあなたのエネルギーだ。

 なぜ全ての潜在性は現実化されないのだろう?まず第一に、それは日々の生活に関する限り必要ない。日々の生活の中で全ての潜在性は機能していない。それは必要とされず、挑戦されることも開発されることもない。それは統合されない。なぜなら日々の生活が統合されていないからだ。要求するものが衝突している。必要性が衝突している。あなたの社会はあるものを必要としている。あなたの本能は全く両立しない何かを必要としている。社会、道徳、宗教、そしてその要求するもの---それらは決して調和した全体を探してこなかった。それらは断片的だ。あらゆるものはそれ自体においては意義があるが、人間の有機的統合においてはそうではない。そこであなたの日常は衝突するようになる。それはあなたの中に眠っているエネルギーがあり、そして明らかになっているあなたの力のその部分は断片的で、それ自体と衝突しているからだ。明らかになっている部分は明らかになっていない部分と常に衝突する。現実のものは常に潜在性と衝突するだろう。なぜなら潜在性は明らかにされるようにそれ自体を押し動かすが、現実のものはそれを抑圧するからだ。

 心理学的用語を使うなら、無意識は常に意識と衝突する。意識は、潜在性を明らかにしようとする衝動に対してそれ自体を守るために、無意識を支配しようとする。
 意識は制御の下にあるが潜在力は違う。無意識はそうではない。意識と共にではあなたはうまくやっていけるが、無意識の干渉と共にではあなたは不安定になる。これは無意識の恐れで、小さな部分が常により大きな部分を気遣う。より大きな部分は無意識で、それは抑圧されてきた。これはもう一つの、活力的で深い衝突で、明らかになろうと欲しているエネルギーと明らかになってきたエネルギーとの間の衝突だ。

 これらの二つのタイプの衝突が、あなたが調和していない理由だ。そして、あなたが調和していないなら、あなたのエネルギーはあなたに敵意を持つようになるだろう。エネルギーには動きが必要で、動きは常に表に現われないものから現われたものへ、種から木へ向かう。それは常に闇から光へだ。エネルギーは動きを必要とし、動きは抑圧がない時にだけ可能だ。そうでなければ調和は壊される。その時あなたは内部分裂した家になる。これが人間の存在の状況だ。これはそのようにあるべきではない。なぜならこれは醜い状態で惨めだからだ。可能な全ての至福と可能な全ての美しさは、あなたの生エネルギーが動きの中にある時にだけやって来ることができる----楽で、くつろいだ動きで、抑圧されてなく、抑制されてなく、統合されていて断片的でない時に---。あなたのエネルギーがこの有機的統合に至るなら、ヨーガの専門用語で言えばそれがクンダリーニだ。あなたの全てのエネルギーが統一の中に、動きの中に、調和の中にあることがまさにその専門用語の意味することだ。どんな衝突もなく、協力的で、補われて、そして有機的であることだ。

 その時そこには変容があり、エクスタシーがある。エネルギーが争いの中にある時、あなたはその争いをやわらげることしかできない。あなたは自分の争っているエネルギーが解放される時にだけくつろげる。あなたは自分のエネルギーが投げ捨てられる時にだけ安らぐ。あなたの生、あなたの活力は下向きか外向きに流れるが、両方とも同じだ。下向きの動きは外向きの動きであり、上向きの動きは内向きの動きだ。エネルギーが上に行けば行くほど、それは内に入る。エネルギーが下に行けば行くほど、それは外へ出る。エネルギーを投げ出しさえすればそれを処分することができる。これはちょうどあなた自身の生を小片や断片にして捨てるようなものだ---分割払いで。これは自殺だ。生エネルギーが一つになって調和するようになり、そして内向きと上向きに流れない限り、私たちはみんな自殺する。

 外向きの動きは束の間だ。それは幸せを与えるが惨めさも与える。そしてその惨めさは永続する惨めさだ。幸せは緊張の間の隙間として私たちに生じるが、あなたが希望する時や期待する時にだけその隙間は生じる。現実的な結果はただ惨めさでしかあり得ない。期待の中に、待つことの中に、欲することの中に、夢見ることの中に幸せの瞬間はあり、そして実際に、あなたが自分の身体から楽になる時は、心(マインド)の状態は完全に否定的だ。そこにはそのような幸せはなく、ただ一瞬の惨めさの不在しかなく、その不在は幸せとして受け取られる。

 エネルギーは周辺に生じるだろう。なぜならあなたは絶えずそれらを作っているからだ。動きは常にそこにある。生の力を創造する能力、これが生によって意味することだ。その能力がなくなる瞬間、あなたは死ぬ。そこであなたは絶え間ない板ばさみ(ジレンマ)の中に、絶え間ない逆説の中にある。あなたはエネルギーを作り続けるが、それで何をしたらいいのかわからない。それが作られる時、あなたはそれを投げ捨て、それが作られない時、あなたは惨めに感じる。最初の病気は弱さのそれであり、二番目の病気はあなたにとって重荷になったエネルギーのそれだ。あなたはそれと調和できない---そのエネルギーを創造的に、または喜びに満ちたものにすることができない。あなたはそれを作った。そして今、あなたはそれで何をしたらいいのかわからないので、ただそれを洗い落とすしかない。それからそれを作ることを続ける。これは馬鹿げているが、この馬鹿馬鹿しさが、普通、私たちが人間の存在として受け入れていることだ。これがセックスがとても重要に、とても意義あるものになった理由だ。なぜならセックスはエネルギーを洗い落とすための最も素晴らしい手段の一つだからだ。それは最も素晴らしいはけ口の一つだ。

 社会が裕福になる時、あなたはエネルギーを創造できる源泉をより多く持つ。その時あなたはより性的になる。なぜならあなたは解き放つためのエネルギーをより多く持つからだ。したがって、そこには人のエネルギーの絶え間ない創造と解放がある。そしてもし人が十分知性的で感じやすいなら、その人は退屈を、これの馬鹿馬鹿しさを、その循環(サイクル)の全ての無意味さを感じるだろう。人は生の目的の無さを感じるだろう。

 クンダリーニはこの不合理な状況を意味深いものに変えることを意味する。クンダリーニの科学は最も微妙な科学の一つだ。物質科学はエネルギーに関係しているが、霊的エネルギーには関係していない。ヨーガは霊的エネルギーに関係している。それは超自然的な科学、物質を超越するものについての科学だ。
 この霊的エネルギーは創造的であることができ、または破壊的であることができる。それが使われるなら、それは創造的になる。それが使われないなら、それは破壊的になる。それを創造的にさせる方法はまず理解することだ。

 あなたは部分的に実現されるべきではない---一部は実現されて、あなたの潜在性の残っている部分は実現されない、ということではない。これは創造的であり得る状況ではない。全体が実現されなければならない。あなたの全ての潜在性は顕在化されなければならない。残っている潜在性を実現するための、それを目覚めさせるための技法がある。それは眠っている。それはちょうど眠っている蛇のようなものだ。だからそれはクンダリーニ(蛇の力)と名付けられたのだ。あなたが眠っている蛇を見たことがあるなら、それはまさにまるで死んでいるようだ。そこには全く動きはなく、それは丸く巻かれている。あなたは眠っている蛇が真っ直ぐ立てるのを思い浮かべることはできない。蛇には骨の組織はないが、蛇はその尾で立つことができる。それは直立して、真っ直ぐに立つことができる。そしてそれには骨の組織はない。そう、蛇の立つことはただエネルギーとしてのものだ。だから蛇は象徴的に使われてきたのだ。あなたの生エネルギーは眠っている蛇だが、それは立つことができる。それは全ての潜在性をもって目覚めることができ、そしてあなたは---顕在化したあなたは---変容される。生と死はエネルギーの単なる二つの状態にすぎない。生は機能しているエネルギーを意味し、死は機能していないエネルギーを意味する。生は目覚めたエネルギーを意味し、死はもう一度眠りについたエネルギーを意味する。

 そこでクンダリーニ・ヨーガによると、普通あなたは部分的に生きている。あなたの総てのエネルギーの顕在化された部分があなたの生で、非常に微小な部分が生きている。
 クンダリーニ・ヨーガによって潜在性を明らかにさせようとする多くの技法がある。例えば、プラーナヤーマ(呼吸法)だ。それは本質的なエネルギーを引き出すための技法の一つだ。なぜなら呼吸はあなたのプラーナ(あなたの活力の本源)とあなたの現存との間の橋だからだ。明らかなものと潜在性との間で、呼吸は橋になる。あなたが自分の呼吸方式を変える瞬間、あなたのエネルギー系統の総てが変わる。エネルギーが内向きに行く時はいつでも、あなたの呼吸は全く違う質を持つ。それはくつろぎ、落ち着き、リズミカルで調和しているだろう。そしてそこにはまるで呼吸が止まったように感じる瞬間がある。それはとても静かになる。なぜならエネルギーが止まったからだ。エネルギーが必要でないため、それはとても微妙になる。そこでその媒介は落とされる。サマーディでは、エクスタシーでは、人は完全な停止を感じる。入って来る息は中に留まり、外へ出る息は外に留まる。そしてそこに合間(ギャップ)はない。あらゆるものが止まった。外向きの流れは必要ない。そこで呼吸は不要になる。プラーナヤーマを通して、あなたの潜在力であるこのエネルギーは系統的に明らかにされる。

 クンダリーニの潜在力もアーサナを通して引き出すことができる。あなたの身体の姿勢はエネルギーの源泉と関連している。あらゆる姿勢には原初のエネルギーの源泉に対応する効果がある。仏陀が使った姿勢、パドマアーサナはエネルギーの必要が最も少ない姿勢の一つだ。他のどんな姿勢もより多くのエネルギーが必要になる。あなたが真っ直ぐ立っているなら、あなたはより多くのエネルギーを使う。あなたは座っていても背筋を伸ばしていないなら、あなたはより多くのエネルギーを使っている。なぜなら引力が存在するからだ。だが背筋を伸ばして座ることはバランスが取れている。なぜならあなたは地球と一つになるからだ。そしてもしあなたの手と足が、円が作られるような位置にあるなら、あなたの生エネルギーは、あなたの生命電気は回路の中を流れるだろう。仏陀の姿勢は円形の姿勢で、エネルギーは循環するようになる。それは失われない。エネルギーは丸い形を通して投げ捨てることはできない。だから女性は病気に対してより抵抗力があり、死に対してより抵抗力があり、そしてある意味で、男性よりも力強いのだ。彼女たちには身体の丸さがあり、したがって外側に流れるエネルギーは少ない。性行為に関する限り、女性はその行為の後は、性器の形のせいでそれほど消耗されないだろう。それは丸くて吸収するものだ。男性にとっては、より多くのエネルギーが、生物的エネルギーだけでなく霊的なエネルギーも投げ出される。

 もし仏陀の姿勢を見るなら、あなたは驚くだろう。全てのはけ口は連結されている。両足は交差している。両手は交差している。手は足に触れて、足はセックス・センターに触れている。全てのエネルギーのはけ口は仏陀の姿勢では結合されている。エネルギーは全く外に出ることはできない。そして姿勢は直立している。だからそこに引力はない。この姿勢では、人は身体を完全に忘れることができる。生が外向きに流れていない時にだけ、あなたは身体を完全に忘れることができる。そこで人は丸く囲まれたエネルギーになり、そして人は生を忘れ、身体を完全に忘れる。

 アーサナとプラーナヤーマに加えて、エネルギーが内向きの流れにさせられ得る他の多くの技法がある。それは内向きに流れる時に一つになる。なぜなら中心ではそれは多様なものではあり得ないからだ。ただ周辺上でのみそれは多数であることができる。中心では、エネルギーはたった一つで、そして有機的であることができる。エネルギーが内向きに行けば行くほど、存在は調和するようになる。争いは忘れられる。なぜなら中心には対立はないからだ。そこには全体という有機的な統一がある。だから至福が感じられるのだ。

 身体のためにはハタ・ヨーガがある。アーサナ、プラーナヤーマ、等々だ。それらは潜在性を明らかにさせるための役に立つ。心(マインド)のためにはラージャ・ヨーガや、基本的にあなたの精神的な態度に関係している他のヨーガがある。例えば、もし怒りがある時に自分の呼吸を制御できるなら、怒りは死ぬだろう。あなたがリズミカルに呼吸し続けられるなら、怒りはあなたを圧倒できない。怒りは続いているが、それは抑圧されるだろう。なぜならそれは単なる肉体的な表れだからだ。怒りは表に現われない。誰もそれを知らないだろう。あなたさえそれを知らないだろう。なぜならそれは呼吸を通して抑圧されるからだ。あなたは自分の身体の一部を通してそれに取り組んだ。他の部分は触れられないままだ。そこでただ呼吸に用心していなさい。その時あなたは自分の思考のプロセスに気づく。直接思考のプロセスに気づこうとする人はそれをすることができない。それは非常に骨が折れるだろう。なぜなら呼吸はマインドへの扉だからだ。もし一瞬でも呼吸を止められるなら、あなたは同時に自分の思考が止まったのがわかるだろう。思考のプロセスを活発に続けてごらん。するとあなたは呼吸が混沌としているのがわかるだろう。

 アーサナとプラーナヤーマは身体の質を変える。あなたの身体とマインドが全くどんな葛藤もなく一つである瞬間が来る。そこには統合的な動きがあり、それらは同時化される。それらが同時性を持つ瞬間においては、あなたは身体でもマインドでもない。初めて、この統合的な動きの中で、あなたは自分自身を「自己」として知る。あなたは超越した。そして人はそこに葛藤がない時にだけ超越することができる。この調和的な瞬間、身体とマインドが一つである時、エネルギーが内向きか上向きに動く時、が超越の瞬間だ。今、あなたは全く物ではない何かだ。あなたは無nothingだ---ある意味で、「物ではないno-thing」。今やあなたは何かに意識しているのではなく、ただ単に意識的な状態でいる。あなたは何かに気づいているのではなく、ただ単に気づいている状態(覚醒)でいる。この何かに気づいていることなしでの覚醒の実現が爆発の瞬間だ。あなたの潜在性は現実のものになる。あなたは新しい領域の中へ、究極の中へ爆発する。この究極が全ての宗教の関心事だ。

 人がクンダリーニについて語るかもしれないとても多くの方法がある。クンダリーニとはただの言葉にすぎない。あなたは別の言葉を使うことができる。それを何とでも呼ぶことができる。それは何の違いも生じない。クンダリーニによって意味しているものは何らかの方法で存在せざるをえない。それは統合的な溢れ出るものだ。この溢れ出るものが唯一の革命、唯一の自由だ。そうでなければ、衝突しているエネルギーはより多くの地獄を作り続けるだろう。なぜならあなたが外向きに流れば流れるほど、あなたは自分自身からより遠く離れるからだ。あなたは自分自身に対して部外者になるだろう。あなたは家に帰る方法を知らない。この戻ることがヨーガの元であり、クンダリーニ・ヨーガは人間の超越に関する限り至高の科学だ。

 あなたは、なぜ私のクンダリーニ・ヨーガの技法は伝統的なものよりも混沌としているのか、とも尋ねている。伝統的な技法はそれらが開発された対象となる人々のせいで秩序だっている。現代人とは非常に新しい現象で、ある意味において、伝統的な技法は的外れになった。それらの形は的外れになった。例えば、身体が変わった。今日の人間の身体は非常に不自然だ。それは自然な現象ではない。それはどんな伝統的な技法も役に立てないほど薬漬けされている。ハタ・ヨーガにとって薬は絶対に許されていなかった。なぜなら化学的な変化はこれらの技法を困難にさせるだけでなく有害にさせるからだ。全ての環境が今や人工的だ。大気は人工的だ。水、社会、生活条件は人工的だ。何も自然なものはない。あなたはこの人工的な中で生まれる。あなたはその中で発育させられる。だから伝統的な技法は有害となる。それらはそのままで使うことはできない。それらは現代の状況に合わせて変えなければならない。

 マインドの性質さえ変わってきた。基本的に、パタンジャリの時代、人間の人格のセンターは脳ではなかった。それはハートだった。そしてそれ以前は、それはさらに低く、臍の近くにあった。パタンジャリより先の時代では臍が人間の人格のセンターだった。それからそのセンターはハートになった。ただその時にだけバクティ・ヨーガは発達する。だからバクティ・ヨーガは中間の時代に、センターが変わった時に発達したのだ。

 現在はまたもやバクティ・ヨーガには関連性がなくなっている。センターは再び上向きに、脳へ行った。それがクリシュナムルティの教えが訴えかける理由だ。そうでなければそれらは違っていただろう。そこで、どんな技法も必要なくなる。どんなテクニックも必要ない。ただ理解だけが必要になる。しかし私たちが理解と言う時、それは知的なものになっていて、それ以外の何でもない。それは単に言葉だけの理解にすぎない。それはどんな変化も生み出さなかった。それは何も変容しない。それは単なる知識の蓄積者で、それは再び記憶になる。

 だから私が混沌とした技法を使い、秩序立ったものを使わない時、それはセンターを脳からより低いセンターに押し動かすためだ。どんな秩序立った技法を通しても、脳は下に押し動かされ得ない。なぜなら秩序立てることが脳の仕事だからだ。あなたは脳を通してあらゆるものを秩序立てる。だからもし何らかの秩序的な技法を使うなら、脳はより以上に強化させられるだろう。それはエネルギーそのものを受け取る。私は混沌とした技法を使う。なぜならこの技法を通して脳は無効にされるからだ。するべきことは何もない。作るべき方式はなく、適用される数学的公式はない。それはとても混沌としているので、センターは脳からハートに押し動かされる。そしてこれは重要な段階だ。もしあなたが強力に、無秩序的に、そして混沌的にそのエクササイズをするなら、あなたのセンターは下に押し動かされる。

 あなたはハートに来る。そしてあなたがハートに来る時、私は浄化(カタルシス)を適用する。あなたの脳はあなたの総ての存在のとても多くの範囲を扱ってきた。それはそこにハートのための場所がないほど広くあなたを支配する。ハートへの憧れは抑圧される。あなたは決して十分に愛さず、十分に泣かず、十分に何かをしたこともない。脳は常に秩序立てるために入って来る。ハートは抑圧されるので、意識の中心を脳からハートへ押し動かすために混沌とした技法が使われる。その時浄化がハートの重荷を降ろすために、抑圧を振り捨てるために、それを明るくするために、必要になる。もしハートが明るくなって重荷が降ろされるなら、意識の中心はさらに下へ押し動かされ、そしてそれは臍に来る。意識の中心が臍に来る時、私はあなたに「私は誰か?」と問いかける。

 それ以前では、この質問は無意味だ。ラマナ・マハリシの技法はまったく成功できなかった。なぜなら彼は直接「私は誰か?」と尋ねたからだ。脳がその問いをした。知性は「私は誰か?」と尋ねる。そして知性は非常に狡猾だ。それは尋ね、そして答えを供給する。「私は魂だ」「私はブラフマーだ」それは両側からゲームを作っている。これは馬鹿げていて、それは役に立ち得ない。マハリシはこの技法を通して達成できた。なぜなら彼の意識の中心は臍にあって、決して脳にはなかったからだ。彼は脳の人ではなかった。彼は古い時代の人であり、最も古い存在たちの一人だった。彼はこの世紀の人ではなかった。彼のセンターは違っていた。私たちは自分の脳を通して尋ねる。そして私たちはどこにも動かない。

 あなたの意識が脳のレベルにあって、あなたが「私は誰か?」と尋ねる時、脳は決して答えを供給できない。それはハートと交差することはできない。それは臍に来ることはできない。それへの道はない。もしあなたの意識が臍にあって、あなたが「私は誰か?」と尋ねるなら、質問はあっても答えはない。質問はますます深く貫通して、質問が自然と落ちる瞬間が来る。それはもうない。質問がもうない時、答えが生じる。それらは決して同時には存在しない。もしそれらが同時に存在するなら、それは脳の働きによるものだ。もし質問がもうなくて、そして答えが生じるなら、それは臍のセンターの働きによるものだ。その時それはすっかり異なる何かになる。それは生命力の源を通して生じる。それはあらゆるもの---身体、マインド、他の全て---が生じる種の源だ。

 私はこの混沌とした技法を今使う。なぜなら秩序立った技法は助けにならないからだ。脳はそれらをそれ自身の道具に変えるだろう。詠唱することやバジャン(ヒンドゥー教の献身歌、それを歌い行う宗教儀式)は役に立たないだろう。なぜなら真の詠唱することへ開花できないほどハートは重荷を負わされているからだ。祈りは単なる逃避でしかあり得ない。詠唱することは単なる逃避でしかあり得ない。ハートは祈りへと開花することができない。なぜならこれらは本物の祈りが不可能になるほど多くの重荷を負っているから、それほど抑圧されているからだ。私は本物の祈りの中へ深く入って行ける人を一人も見たことがない。

 愛そのものが不可能になった。意識はその源泉に、その根源に押し下げられなければならない。その時だけ変容の可能性がある。だから私は意識を脳から押し出すためにこの混沌とした技法を使うのだ。あなたが混沌の中にいる時はいつでも、脳は働きを止める。それは混沌の中で働くことはできない。あなたは車を運転していて、突然誰かが道に入って来る。あなたはブレーキを踏む。脳は時間を要する。それはどうすべきか、どうすべきでないか、と考える。しかも、もしそこに事故の可能性があって、それでブレーキを踏むなら、あなたは臍の近くに衝撃を感じるだろう。あなたは自分の胃がひっくり返るのを感じるだろう。あなたの全ての意識は混沌的な事故のせいで突き動かされつつある。

 もしそれが前もって計算されていて、そして予測されていたなら、より低い部分で意識する必要はなかった。脳は有能であった。あなたが僧に、どこで考えるのか、と尋ねるなら、彼は臍を指すだろう。西洋人たちが初めて日本人の僧たちと接した時、彼らはどうしたら人は腹から考えられるのか理解できなかった。だが禅の返答は意味深い。禅は言う---意識は身体のどんなセンターでも使うことができるが、最も原始的な、本源に最も近いものは臍だ。最も離れているものは脳だ。そこで生エネルギーは外向きに行き、最終的に意識の中心は脳になる。もし生エネルギーが内向きに行くなら、最終的に臍がセンターになるだろう。

 だから私はこの混沌とした技法を浄化と共に、意識をその根源に押し動かすために使うのだ。それが根源に行きさえすれば変容は可能になる。そうでなければ、あなたはただ言葉に表わすだけで、そして言葉に表わし続ける。たとえあなたが当を得たことを知っても、あなたは変容しないだろう。正しいことを知るのは十分なことではない。人は変わるために根源まで行かなければならない。そして時々人は正しいことを知る時に更に多くの困難を持つ。彼が変わることができなければできないほど、緊張が生じるだろう。彼は二重に緊張するようになる。彼は理解しているが、することができない。あなたが脳から理解するなら、それは変容することではない。究極の、根源の、内側のものは脳の働きからは作れない。なぜならあなたはただ自分の根源を通して、自分の源泉を通して究極と接するからだ。あなたの完全な開花は臍からある。あなたは臍からやって来て、それを通って死ぬだろう。あなたはその門からやって来て、その門から立ち去るだろう。人はその門を通って来なければならない。そして私たちがその根源に来る時、変わることに困難はない。変化は簡単だが、その根源に来ることは難しくて骨が折れる。クンダリーニは生エネルギーとそれの内向きの流れに関わっている。超越が可能になる統合的な瞬間に---身体が異なり、マインドが異なり、態度が異なり、生きることが異なる瞬間に到着することに関わっている。

 一つの主要な困難は、伝統的な技法には魅力があるということだ。というのもそれらはとても古くて昔からのものだからだ。とても多くの伝統がそれらの中にあり、とても多くの人たちがそれらを通して達成してきた。これはそれらに信望を与える。伝統的な技法を否定することはできるが、仏陀を否定することはできない。パタンジャリを否定することはできない。クリシュナを否定することはできない。伝統的な技法は私たちにとっては不適切になったが、それらは仏陀にとっては、またはマハーヴィーラにとっては、またはクリシュナにとっては不適切ではなかった。それらは意義深かった。それらは使われ、そして役に立った。今、仏陀は否定され得ない。ブッダの境地もそうだ。しかし技法は私たちにとって無意味だ。それでも、もし仏陀がそれを通して達成したのなら、なぜ私たちはできないのか?私たちは非常に異なる状況にいる---まるで異なる状況に。全ての思考の領域が変わった。間違っているものは技法の中にではなく、仏陀の中にではなく、伝統的なマインドの中にある。全ての状況が変わってしまった。そしてあらゆる技法は特定の状況に対して、特定のマインドに対して、そして特定の人間に対して系統的なものだ。

 もう一つの極端がクリシュナムルティだ。彼は技法を否定し、そうすることを否定する。彼は仏陀を否定する。それは同じコインの別の面だ。あなたが仏陀を否定しないなら、あなたは技法を否定できない。それは順応的な態度だ。技法を否定するなら、仏陀を否定しなければならない。それは間違っている。それは極端論であり、極端は常に間違いだ。真実は常に中間にある。正確な中間は常に超越の地点だ。

 技法は変わるだろう。非技法でさえ一つの技法だ。それはある人に適用できるかもしれない。ある人にとってはただ非技法だけが技法だ、ということはあり得る。特別な状況においては、技法そのものが有害になるかもしれないが、それは常に特別な人に対してだ。全ての人間が特別な人間だ。何かが使われる時や何かが言われる時はいつでも、それは常に特別な人間に向けられている---ある状況に向けて、あるマインドに向けて---彼に対してであって、他の誰にでもない。これも現代的な困難になった。なぜなら古い時代ではそれは一対一の関係だったからだ。霊的(スピリチュアル)な探求は常に一対一だった。それは師と弟子との間のもの、個人的な関係であり個人的な交流(コミュニケーション)だった。今日それはそうではない。それは常に個人に関係のないものだ。人は群衆と話さなければならない。人は一般的でなければならない。そしてその一般的にすることが偽りになる。

 私はその困難を感じる。もしあなたが私のところに来て私に何かを尋ねるなら、私はあなたに答えていて他の誰かに答えてはいない。別の人が私に何かを尋ねると、私は彼に答えていて他の誰かに答えてはいない。その二つの答えは矛盾しているかもしれない。なぜなら尋ねた二人の人物は両立しないかもしれないからだ。だからもし私があなたを助けるためにいるなら、私は特定でいなければならない。そして私が特定でいるためには、私は終始一貫しないものでなければならない。

 現代人は非常に多く変わってきたので、彼には新しい技法が、新しいテクニックが必要になる。もちろん、真理は永遠だ---それは決して新しくも古くもない。だが真理は実現だ。それが最終結果だ。言葉は常に特定の人に対して、特定の態度に対して、特定のマインドに対して適切か、または不適切なものだ。

 混沌とした技法は現代的マインドの役に立つだろう。なぜなら現代的マインドが混沌的だからだ。実のところ、現代的マインドの混沌は、現代人の反乱的な状態は抑圧されてきた身体の反乱だ。現代人の反乱はハートと臍の反乱だ。もしヨーガ的な参照を引用するなら、現代の反乱は脳に反対するものだ。脳は人間の魂の領域全体をひっくり返してしまった。それは存在を独占した。それはこの先も大目に見ることはできない。それが大学が反乱の中心になった理由だ。これは偶然ではない。大学は来るべき時代における反乱の中心であるだろう。なぜならそれらは脳のセンターだからだ。大学は破壊され得る。それは可能で、それはますます可能になっている。社会では、大学は脳であり、身体ではあなたの脳は大学だ。それらは対応している。

 現代的マインドは混沌の方に傾かざるをえない。そして混沌とした技法は役に立つ。それは二つの方法で役に立つ。それは意識の中心を変容させ、そしてそれはあなたから反乱を取り除くだろう。この技法を使っている人は決して反乱的にはならない。なぜなら彼の存在の原因が満たされるからだ。彼は大学を妨害しないだろう。なぜなら意識のセンターが内に入ったからだ。彼はどんな敵意も感じないだろう。彼はくつろいでいる。瞑想は個人の救済、個人の変容だけでなく、より大きな意義のあるものでもある。それは社会全体の変容のための基盤だ。

 人間は自殺しなければならないか、それとも彼は自分自身を変えなければならないか、のどちらかだ。


質問: アチャリヤ尊師、ヨーガの科学で、クンダリーニという言葉はエネルギーの通路という意味で使われます。この通路はどこに位置づけられるのでしょうか?

クンダリーニは生命力の通路、一つの道で、生命力は他の道も行くことができる。だからクンダリーニは絶対に必要なものではない。人がクンダリーニを通過せずに成就するかもしれないということはあり得る。クンダリーニは最も簡単な通路で、生命力のための最短の道だ。とはいえ、無限の数の行路が可能だ。
クンダリーニに言及さえしないヨーガがある。チャクラのようなものが何もない技法がある。しかしクンダリーニは最も簡単で、だから普通、成就する人たちの90%はクンダリーニを通過する。

このクンダリーニ、そしてそのチャクラ、またはセンター、は肉体に位置していない。肉体は相似する箇所を持つが、チャクラの正確な位置は持たない。その通路はエーテル体にあり、そのセンターもそこにあるが、それぞれのセンターは肉体の中に対応する部分を持つ。
あなたが愛を感じる時、あなたは手を自分の心臓の上に置くが、あなたの物質的な心臓の中に見つかるものは何もない。そこに愛のセンターはない。あなたの物質的な心臓はただエーテル体の中のセンターへ対応している箇所であるだけだ。

 クンダリーニの道で達成されるものは何でもあなたの肉体と共に死ぬことはない。もし誰かが三番目のチャクラに来たなら、例えば、この進歩は彼の次の生の一部であるだろう。それは彼と共に進むだろう。それは肉体と共に死ぬことはないエーテル体の中に蓄えられる。

 肉体の中にチャクラを見つけるために多くの努力が為されて来たが、それらは馬鹿げている。ただ対応している箇所だけがある。肉体の中にチャクラを示す図解は、本当はほぼ相似する箇所を示すことができるだけだ。それらは個人差がある。そしてこれらの箇所は肉体で検査することはできない。それらはただ感じることができるだけだ。エーテル体のチャクラが開花し始める時、あなたは肉体でそれを感じる。なぜならあなたの知識とあなたの自己認識は肉体と共にあるからだ。対応している箇所はその感覚を、それが振動するのを把握し、そしてあなたは肉体でそれを感じる。

 だがそれはそこにはない。クンダリーニ、ナディス(プラーナの経路)、そしてチャクラは全てエーテル体の中にある。生命力がクンダリーニを通過する時、チャクラは振動して開花し始める。エネルギーがそれらのところに来る瞬間、それらは生き生きとするようになる。まさに水力電気が作られる時、水の力、圧力は発電機を回転させ始める。そこに圧力や水がないなら、発電機は止まる。そのようにそこにはチャクラがあって、死ぬ。生命力がそれらを貫通する時、それらは回転し始める。だからそれらはチャクラと呼ばれるのだ。チャクラとは動いている何か、車輪、精力的に回転するセンターを意味する。それぞれの車輪は、それ自体の回転によって、それ固有の新しいエネルギーを作り出す。このエネルギーは次のより高いチャクラを目覚めさせるために使われる。だから生命力は、それがそれぞれのチャクラを通過するにつれて、より生気に溢れるように、より生き生きとするようになる。

 この生命力はセックス・センターに蓄えられている。それはその低い通路を通して新しい生を、生物学的な生を生み出すために使われるか、またはそれはその上昇する流れを用いてクンダリーニの通路を上に開けるために使われ得るかのどちらかだ。セックス・センター、ムラダーラ・チャクラは生物学的生を生じさせるために、またはクンダリーニを通して霊性(スピリチュアル)を目覚めさせるために開けるべき最初のものだ。

 アストラル体の通路が使われ得る。そこには7つの身体があり、そしてそれらはそれ固有の通路を持つ。ただハタ・ヨーガだけがクンダリーニをそれの通路として使う。それは最も簡単だ。なぜならそれは肉体に最も近いからだ。あなたが関わっているのはただ二番目の身体だけだ。三番目、四番目の身体などへあなたがより深く進めば進むほど、それは難しくなる。クンダリーニは肉体に最も近いので、あなたは段階的にそれが目覚めるにつれてそれを感じることができる。あなたはより確信する。なぜならあらゆる瞬間にあなたは自分がいるところを知るからだ。

 もしあなたが他の身体をもって働きかけるなら、あなたはそれらのセンターを感じるためのテクニックを学ばなければならない。そしてこれは非常に難しい。四番目の身体は三番目に対応している箇所を持っている。三番目はニ番目に対応している箇所を持っている。しかしそれらは感知することが非常に難しい。肉体に対応しているクンダリーニの箇所は感知するのが簡単だ。

 そこで私の技法はクンダリーニを扱う。なぜならそれは最も簡単で最も直接的だからだ。もしあなたがこの技法を使うことはもちろん、自分の呼吸により気づくようになるなら、それはさらにもっと効果的だろう。なぜなら呼吸はエーテル体に関係しているからだ。あなたの呼吸をただ見守ってごらん。一日24時間あなたの呼吸に対して無言の目撃者でありなさい。この気づくことは呼吸に調和をもたらし、それでかなり多くのエネルギーの量が保たれる。気づくことはエネルギーを生み出し、エネルギーを霊的なエネルギーに転換し、そして生命力が上向きに行くのを助ける。これはあなたの霊的な前進のための大きな助けになるだろう。






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  第4章:クンダリーニ : 超越の科学
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