序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




                 The Silent Explosion 第6章:生命のバランス

質問: 私たちの文明では、私たちのような人々に問題があります。それもとりわけ私たちの専門職に・・・。私たちはあまりにも知性を使いすぎます。それは私たちが知力だけを通して生を眺めがちになるほどのもので、そのために他のそのような行動の手段を全て否定する傾向があります。この傾向は生を退屈に、そして鈍くさせ、その輝きを奪い取ります。

 誰も自分の知力を使いすぎることはできない。それはとても多くの潜在能力を持つ非常に大きな力なので、それを使いすぎることはできない。私たちはそれを完全に使うことすら決してない。普通、私たちはその総ての潜在力の10パーセントか15パーセントより多くは使わない。
 別の事、あなたが知的な仕事をする時、それは必ずしもあなたが自分の知性を使っているという意味ではない。知的な仕事も機械的なものだ。それはどんな知性も全く必要としない。いったんあなたがこつを得たら、マインドはちょうどコンピューターのように働く。

 本当の問題は多くの知性を使いすぎることではなく感情を使わないことにある。感情は私たちの文明で完全に捨てられている。そしてバランスは失われている。私たちの全ての文明は反感情的だ。そこで偏った人格が発達する。それはちょうど片足だけを使うようなものだ。あなたはそれを使い続けるかもしれないが、あなたはどこにも到着しない。あなたはただただ自分自身に疲れる。もう一方の足を使わなければならない。感情と知力は二本の足だ。それらは二枚の翼のようなものだ。私たちが一枚の翼だけを使う時、唯一の結果は欲求不満だ。両方の翼を同時に、バランスの中で、調和の中で使うことで生じる至福は決して達成されない。

 知力を使うことを恐れてはいけない。知性が使われる時、あなたはその奥深さに触れる。知的な仕事は単に表面的なものにすぎない。何も挑戦されないし、これは退屈を生じさせ、輝きのない仕事を、楽しみのない仕事を作り出す。楽しみは常にあなたの個性が挑戦を受ける時に、そしてあなたが自分自身を証明しなければならないか、または挑戦に応じなければならない時に生じる。知性または感情は、挑戦する時、それ自身の至福を引き起こす。

 人は、彼の人格の一部だけが働いていて、他の部分が死んでいるなら、精神分裂症になる。過度に働くことのせいで、働いている部分でさえ本当にうまく働くことはないだろう。それは働くことができない。なぜなら人格は一つの全体性だからだ。それは分割されない。それには全く分割はない。実際のところ、人格全体が一つの流れるエネルギーだ。エネルギーが論理的に使われる時、それは知性になり、論理的ではなく感情的に使われる時、それはハートになる。これらは二つの別々のものではなく、違う経路を通って挑戦する同じエネルギーだ。

 ハートがなくて、ただ知力だけがある時、あなたは決してくつろげない。それはくつろぎの意味が、同じエネルギーが違う経路で働くことだからだ。くつろぎとは働かないという意味ではない。それは既に働きすぎた次元がくつろぐための、別の次元での働きだ。継続的に知的な作業に従う人は、決してくつろがない。彼は自分のエネルギーを他の次元に転用せず、したがって、マインドをひとつの方面だけで不要に働き続けさせる。これは退屈を生み出す。思考はただ行ったり来たりするだけで、エネルギーは放散し、浪費される。あなたはそれを楽しむことはできない。それどころか、あなたは失望し、この不要な重荷が 嫌になる。それでも、マインドまたは知力に落ち度はない。交替される次元が用意されてこなかったのだ。エネルギーはまぎれもなく損ねられ、その方に開いている扉が他にない時、それはくるくる回り続ける。エネルギーは決して停滞することはできない。エネルギーとは停滞しないもの、常に流れているもの、という意味だ。くつろぎとは停滞したエネルギーまたは眠っているエネルギーを意味しない。くつろぎは、科学的には、別の経路の中の、別の次元の、別の部屋の中のエネルギーを意味する。

 たとえ部屋は違っていても、まったく正反対のものでないなら、マインドはくつろがないだろう。もしあなたが科学的な問題に取り組むなら、あなたは小説を読むことでくつろぐことができる。その仕事は違っている。科学的な問題を扱うことは能動的でいることであり、非常に男性的な特性だ。小説を読むことは受動的でいることであり、絶対的に女性的な特性だ。たとえマインドが使われても、その働きは異なる。もう一つの、それも正反対の極のマインドが使われる。あなたは何も解いてなく、行動的ではない。あなたは単なる受け入れる者だ。次元は同じで、ただ感情だけが、正反対の極性が用いられる。同様に、私たちが愛する時、知力は全く戯れの中に入って来ない。むしろ全く正反対の、あなたの人格の不合理な部分が行動に入って来る。

 知性は愛によってバランスを保たなければならないが、普通このバランスはどこにも見あたらない。もしある人が愛していても知性的でないなら、これも退屈の原因になる。愛でさえそれが24時間の務めなら緊張になる。いったん挑戦が失われるなら、楽しみも失われるだろう。遊びは失われ、それは単なる仕事になる。同じことが知的なことで起こる。これらの人間の個性の二つの部分、二つの両極端はバランスをとっていなければならない。その時にだけ、統合されて個である存在が生まれる。そうでなければ、それは感情の部分からであろうと知力の部分からであろうと、同じ病気だ。

 東洋はハートのせいで歪められてきた。現在、西洋は別の極端を試みた。両方とも悲惨な結果に達した。西洋には知力に対する、理性に対する反抗がある。新しい世代の全てのマインドは不合理な方へ傾いている。自然はそれ固有の復讐をする---常に、だ。それは決して許さず、決して忘れない。もしそれのある部分が抑圧されたままか満たされないままでいるなら、それはその復讐をするだろう。西洋においては不合理なものがその復讐をしている。東洋では、合理的なものが、科学的なものが、共産主義が訴える力を得た。宗教は失われた。理性がその間ずっと抑圧されてきたため、宗教は東洋にとってもはや魅力はない。

 人間の存在も、人間の文化も、合理的なものと非合理的なものの間での内側のバランスなしには健全であり得ない。全てのエネルギーは正反対にある二つの極の間に存在する。エネルギーはそれ自体を作り出すために、在るために内的な緊張を必要とする。それは電気にあるような、陰(ネガティヴ)と陽(ポジティヴ)になり得る。それは磁石にあるような、一つの極と別の極になり得る。それは生物学にあるような、雄と雌になり得る。エネルギーは一つの極では存在できない。他のものが、正反対のものが挑戦するために、刺激するために、必要な緊張を作り出すために必要になる。人間社会においては、他方のものは常に抑圧される---知性か感情のどちらかが・・・。したがって、全体としての文化はまだ存在の中に入って来ていない。そこには知性の、または感情のどちらかの文明だけがあった。そのようなものとしての文化はまだ誕生していない。文化とは同時に機能する両極を意味する。

 常に他方のもので一つのバランスを保ちなさい。他方が使うように押し進められれば進められるほど、くつろぎで、輝かせるものであることがわかるその一つは照らされる。マインドには、ちょうどそれが歩くことから眠ることに移るのと同じくらい容易に極性を変える能力がなければならない。人は一つの次元を閉じてもう一つの次元を開くことができなければならない。これが起こる時、生はもはやぼんやりしたものではない。

 あいにく、私たちは一つの極性に没頭するようになった。私たちが一つに没頭するようになったのは、使用されているものと、そのために私たちが練習することは、するのがより簡単だからだ。あなたはどんな意識的な努力もなしにそれをすることができる。意識は必要とされない。あなたがその極性を変える時、全ての展望を変える時、あなたはアマチュアになり、この分野では熟練者ではないので、あなたはそれから逃げようとする。そしてあなたが達人である分野では、あなたはやり過ぎる傾向がある。やり過ぎることは問題だ。人は24時間の間ずっと熟練者であってはいけない。人は何も知らないこともしなければならない。人は時には子供でいなければならない---遊んでいて、未熟で、知らないで、無知でいなければならない。するとそれはマインドの熟達した部分を助けるだろう。

 どんな天才も彼の中の子供なしに存在することはできない。子供は彼の全てのエネルギーの源だ。彼はすぐに初心者でいることができる。彼はすぐに全くの無知でいることができる。彼は自分が何も知らない分野に触れることができる。詩に目を向けている数学者は決して敗者ではない。彼はより純粋な心で、数学の分野にとって未知の新しい体験をもって自分の数学に戻る。

 発明されたり発見されてきた全てのものは決して専門家によって為されてきたのではない。それをしたのは常に部外者だ。なぜなら彼は子供の心を持ってやって来るからだ。熟練者は同じ事を繰り返し続けるだろう。それをするが、やり過ぎる。彼はそれをより完璧にさせるが、決して新しくない。知っている人や専門家である人は常にありふれている。彼らは決して革命的ではない。彼らはそうあることはできない。彼らのまさに存在が重苦しい。彼らは新しいものを見ることができない。彼らは常に新しいものには気づかないでいる。

 科学者が詩に目を向ける、または詩人が数学に目を向ける、または商売人が絵画に目を向ける、または画家が出家者になるためにやって来る、ということが起こる時はいつでも、新しい何かが誕生する。新しい何かを誕生させることは喜びに満ちている。そうでなければ、あなたのあらゆる仕事はぼんやりして退屈なものになるだろう。人間は機械のように働くことはできない。彼は同じ事を機械的にただ生み出し続けることはできないし、同じ決まり切った仕事をただ果てしなく繰り返し続けることはできない。もしこれをやり続けるなら、彼は自分が死ぬずっと前に完全に死ぬだろう。彼は死が来る時にだけ自分が生きていたことを知る。機械的な日課の中には、人間の機械性が機械的人間と交換されつつあるというあらゆる危険性がある。これらの人間の機械性は取り替えることができる。なぜなら彼らがすることは何でも機械的な装置によってより能率的にすることができるからだ。人がもし機械的な装置に変えられてしまうなら、その人は決して安らぐことはできない。

 社会は個人性を必要としない。それは能率が必要だ。人が人になればなるほど、彼は社会にとって役立たなくなり、より危険になる。私たちの文明の全てのパターンは、そしてこの世界に存在してきた全ての文明という事実において、人間を自動機械に変えるものだ。その時彼は従順で、能率的で、しかも危険ではない。創意的で、好奇心に満ちて、新しいものを探求し、新しいものを捜し、そして常に未知の何かを誕生させようとするマインドは必ず騒動を引き起こす。体制は彼と一緒では安心できないので、彼らは子供が生まれるとすぐに個人性を殺し始める。もし偶然にも彼らがこれをすることに成功しないなら、その時だけ人は彼自身の個としての自己になるが、これはめったにないことだ。

 あらゆるタイプの社会の制度は個人を殺して彼を機械に転換するための手段だ。私たちの全ての大学は自発的なことを殺すための、閃きを殺すための、精神(スピリット)を殺して人間を機械に変えるための工場だ。その時彼は頼りにされ得る。私たちは彼が何をすることができるか、そして何をするだろうかを知っている。彼は予測され得る。人間は機械になるとすぐに予測可能になる。私たちは夫、妻、医者、法律家、科学者を予測できる。私たちは彼らが誰なのか、そしてどう反応するだろうかを知っている。私たちは彼と安らぐことができる。

 生きていて、自発的な人と一緒では、安らぐことは不可能だ。なぜなら私たちは彼が何をするのか知らないからだ。彼は予測不可能で、予測不可能性は常に不安定の源だ。妻は予測不可能な夫と一緒では安らげないだろう。彼をどうにかすることはできないし、彼をうまく扱うことはできない。しかも、ただ予測不可能な人だけが幸せを感じることができ、生を感じることができる。他には誰もできない。生そのものが予測不可能で、取り扱いにくいものだ。それ自体としての生は瞬間から瞬間へのものであり、未知へ向かうものだ。それは未知なるものへ開くことで、それ以上の何でもなく、それ以外の何でもない。

 もしあなたが生それ自体のようにただ開いているなら、あなたは必然的に自分の全ての次元で生きる---肉体的な、知的な、感情的な、霊的な次元で。その時あなたは全面的に生きる。そこに分割はない。あなたのエネルギーは、一つの部屋から別の部屋へ、それからもう一つの部屋へ、というように流れる。それは一つの流れる川だ。あなたはどんな分野に対してもただ切り替えればいい。あなたは常に新鮮でいてくつろぐ。あなたが自分の特定の仕事場に戻る時はいつでも、あなたはただ正反対の場でくつろぐことから生じる新しさ、新鮮さをもってそれに取り組む。

 だから問題は、私がそれを見る限り、過度の知的な働きではなくて、他の次元での、特に感情面での働きが少なすぎるか全くないことにある。理性は感情でバランスを保つ。もしあなたが論理の練習をすることはできるが涙を流すことができないなら、あなたは困難に陥らざるを得ない。あなたが論ずることだけができて、笑うことができないなら、あなたはトラブルを招いている。その生が流れる川のような人が現われる時はいつでも、彼を理解することは難しい。なぜなら彼は分類され得ないからだ。

 禅の物語がある。ある有名な僧が死んだ。彼は偉大な師で、彼の一番弟子のせいでよく知られていた。何千人もの人々がこの僧に敬意を表するためにやって来た。驚いたことに、彼らは一番弟子が涙を流しているのに気づいた。彼らは彼をどう理解したらいいのか途方に暮れた。無執着の人は、とりわけ霊魂は決して死なないと常に言ってきた彼は、涙を流すべきではない。誰かが彼に「なぜあなたは涙を流すのですか?」と尋ねた。僧は答えた。「私は常に『なぜ』とともに生きることはできない。そこには『なぜ』がない瞬間がある。私は涙を流している、そしてそれが全てだ。」彼らはそれでも言い張った。「あなたはいつも魂は不滅だと言います。それならなぜあなたは涙を流すのですか?」彼は答えた。「私はそれでも魂は不滅だということを主張するが、それは私が涙を流すのを止めはしない。」これは非論理的に思われる。魂は不滅なので、人は涙を流してはいけない---だが僧は言う、「魂そのものが涙を流していて、私はそれについて何もできない。私はこれまで自分自身で何かをしたことがない。私のところに来るものが何であろうと、私はそれと共にある。涙が来ている。そして私はそれらと一つだ。」この態度は分類され得ない。

 もし誰かが魂は死を免れないことを信じているなら、私たちは彼が涙を流しているのを理解できる。もしある人が魂は不滅であると信じていて、そして涙を流さないなら、それも理解可能だ。だがこの男は、魂は不滅だと言い、それにもかかわらず彼は涙を流す。そこに『なぜ』はない。涙はただ流れる。彼らは自分たちを混乱させたことで彼を非難した。彼は言う、「私自身が混乱している。生はそのようにある。とても矛盾している。それは矛盾の中に存在する。私自身が混乱しているが、私は自分の混乱に安らいでいる。私は自分の矛盾に安らいでいる。だから私は緊張していない。私の涙を診なさい。涙を流している私を見なさい。私は安らいでいる。私はくつろいでいる。私は至福に満ちている。」

 他の部分を否定してはいけない。理性を使えば使うほど、あなたはそのバランスを保つために不合理なものを使わなければならない。それがバランスを保つ瞬間、あなたは重さがなくなる。あなたは自由を感じる。一つの重さは他のものの重さによって相殺される。そうでなければ重荷だけがあってあなたはもういないという瞬間が来る。重荷があなたが意識する唯一の現実になる。この重荷は常に、それなしで在ることがどんなものなのか思い浮かべることができないほど多くあなたと共にある。

 重荷なしでいる人は誰もいないが、ある重荷は正反対の極から、別の重荷によってバランスを保つことができる。二つの重荷がバランスを取る時、そこに重荷はない。したがって重荷を持たないマインドは重荷のないマインドではない。むしろ、それはバランスを保っている重荷を持つマインドと言える。重荷が感じられるとすぐに、あなたはバランスが失われていることを知らなければならない。どこであれそれが必要とされるところに必要な重さを加えることで、それを元に戻すことに取り組まなければならない。もし知的なことで重苦しいなら、不合理な何かをしなさい。瞑想しなさい。瞑想は理性ではない。それは不合理だ。ある人が私に瞑想を説明するように求める時、単に瞑想を理解することはできないため、私は途方に暮れる。あなたはそれをしてそれを知ることはできる。それは論理、理性、議論、そして理解とは全く関係がない。

 生涯瞑想を勉強してきたが、それでもそれを理解しなかった人々がいる。彼らにはできない。クリシュナムルティはそれを理解することについて語り、理解を瞑想と同等にさせる。まるで瞑想が理解すべき何かであるかのように。むしろ、理解は瞑想によってバランスを保たならければならない。それは正反対の極なので、瞑想を理解しないようにするなら、あなたはそれを行うことができる。もし人が瞑想を理解しようとし続けるなら、それを実行する可能性は少なくなる。そして理解が知的なものであるため、クリシュナムルティを完全に理解したと言う人々がいる。知的に私たちは彼を理解するが、彼が言っているにもかからわらず、知的な理解は役に立たない。彼はそれでも理解を瞑想と同等にする。もし知的な理解が役に立たないなら、非知的なジャンプが役に立つと言おう。知的でない理解はない。あなたが瞑想に入る時はいつでも、それはあまり理解のようなものではなく、より感覚のようなものだ。それは感じられる。それは決して理解されない。

 哲学と科学は知的なプロセスだ。宗教と芸術は非知的なプロセスだ。哲学は宗教によってバランスを保たなければならないし、科学は芸術によってバランスを保たなければならない。そうしなければ、逆さまになった、一方に偏った世界が作られる。そこでは誰でも病気にかかる。私は安らいでいるたった一人の個人にも出会ったことがない。何かしらが常に彼を邪魔している。私たちのまさに人間という概念の中に間違ってしまった何かがあるに違いない。私たちの社会の構造そのものにおいて、何かが間違ってしまった。従って、精神(マインド)の病気にかかる人はただ徴候的なものにすぎない。

 そこには非常に驚くべき事実がある。1930年代に、精神分析医たちを訪れた全ての精神病患者たちは、基本的に暴力でかき乱されていた。それから第二次世界大戦が起こった。同じことが第一次世界大戦の前に起こった。だから私がそれを見る限り、精神病患者たちはみんな私たちの先駆者たちだ。彼らは来るべきものを予告する。ある意味で、彼らはより敏感だ。彼らは物事を前もって感知する。

 同じことが芸術家に起こる。起こるべきあらゆるものは、最初に詩、絵画、音楽、等で起こる。ピカソの芸術を深く見入るなら、私たちは病んだ文明の兆候を見つけるだろう。彼の作品ゲルニカで、またはついでに言うなら、他のどんな作品でも、彼は決してあるがままの人間の姿を描かない。彼は決して自分の全ての身体の部分を調和させて描くこともせず、または正しい位置関係で描くこともしない。頭はある場所にあり、首は別のどこかにある。目は頭の下にある。精神分裂症、または分裂病質、そのようなものが彼の絵画だ。彼は来るべき物事の形状が、来るべき時代の人間の苦境がわかる特別に感じやすい人物だ。

 基本的に哲学的な社会は宗教を欠いている。基本的に科学的な社会は美感のある芸術を欠いている。芸術は醜くなるだろう。そういうわけで全ての西洋の芸術は醜くなってしまったのだ。グロテスクで馬鹿げたものが標準になった。醜さは芸術では偉大なものとして評価される。絵画が醜くければ醜いほど、より歪められれば歪められるほど、それはより良く評価される。そこにはどんな調和も、どんなリズムも、どんな音楽もあるべきではない。あらゆるものは現在の人間の心(マインド)のように乱れさせ、腐らせなければならない。

 これらは指し示すものであり兆候だ。それらは象徴的な表現だ。人間のマインドの別の部分がその復讐をしている。それは注目を必要としている。社会がますます宗教的でなくなる時、宗教はその復讐をする。それは醜くなり、儀式的になるだろう。聖職が表立ってきて、宗教は陰に潜む。教会が表立つようになるだろう。教会とは宗教が醜くなったものだ。聖職者とは預言者の復讐だ。預言者に場所はない。それで聖職者が入って来る。彼はその空白を満たす。

 私たちはいまだに総体的(トータル)な文化を、総体的な人格を、総体的なマインドを思い描いていない。その総体性は正反対の極の両方の総計だ。従って、完全に首尾一貫した人格は不完全で部分的な人格であり、ある意味で、狂気への途上にある。これは危険だ。首尾一貫したマインドのせいで表現を否定され、注目を否定された部分は、その復讐をするだろう。不合理なものは攻撃的になる。それは復讐心に満ちた力を持ってやって来て全ての理性を打ち砕く。

 あなたはこれを理解するだけでなく感じることもしなければならない。これは知的に理解するには難しくない。厄介な事は感じることについての疑問に関してのみ生じる。あなたはそれを感じることもしなければならない。これはあなたが不合理な何かをする時にだけ可能であり得る。ちょっと一時間ほど飛び跳ねたり踊ったりして、どのようにくつろぎと新鮮さを感じるのか、そしてどのように輝くのかを見てごらん。不合理なものが満足させられるのでマインドは浄化される。今や理性は背後にどんな敵もなく自由に働くことができる。今、その働きの中に自由がある。そのため、マインドの両側にそれ自身を自由に表現するための機会を与えなさい。常に二つのバランスを保ちなさい。これらの二つの補足的な区画の中で生きなさい。それらは矛盾していない。それらがそのように見えるのは、私たちがただ一つの中でしか生きてこなかったし、それに固定されてきたからだ。

 夢を見る時、あなたは夢の気まぐれさに矛盾を感じない。あなたは近寄ってくる友人を見る。突然彼は他の何かに変わるが、あなたは夢の中の事実としてこれを受け入れる。あなたはその人がどうやって動物に変わることができるのか尋ねない。これは夢に論理がないからだ。夢はそれでもそれのアリストテレスを知らなければならない。夢の中であなたは、もしAがAなら彼はBではあり得ない、と言うことはできない。もしAがAなら、彼はAではないものではあり得ない。夢の中では、AはAでないものであり得る。そしてAでないものはAであり得る。どんな論理も考慮されないし、どんな矛盾も押し付けられない。そこには論理が完全に欠けている領域がある。それでもそれらはあなたの一部だ。むしろ、それらはより大きいため、あなたがそれらの一部だ。

 もしこのバランスが合理性と不合理性の間で達成されるなら、退屈は消える。そこには瞬間から瞬間への至福がある。その時あらゆる瞬間がそれ固有の至福を持ってやって来る。そうでなければ生は重荷になる。そして生はこれに対する責任がない。私たちにある選択に対しては私たちだけに責任がある。


 質問: もし人が自分自身のバランスを保とうとするなら、彼は範疇に合わないでしょう。その時彼は社会によって拒絶されるでしょう。彼はやっかい者になるでしょう。

 生によって拒絶されるよりも社会によって拒絶されるほうがましだ。


 質問: 私が日本に帰る時、あなたのこの技法を続行するためにどのように計画するべきでしょうか?

 どんな計画もしてはいけない。ただこつこつとやり続ければいい。物事は独自の道を進む。計画することは常に欲求不満を前提にしている。あなたが計画する時、あなたは欲求不満の種を作り出している。それを起こさせなさい。それが自然に起こる時、それは常に美しい。それは常に満たしている。なぜなら期待がなかったからだ。期待がない時、あなたは決して失望しない。がっかりしなければしないほど、あなたは行うことができる。がっかりすればするほど、行うことは少なくなる。

 私たちの計画---私たちが作った計画---のせいで、生は働くことができない。私たちの計画はそのように起こる。私は自分の生を計画なしにさせてきたが、私は決して欲求不満にならなかった。欲求不満という問題はない。だから、私は常に成功する。私が計算立てる計画がない時、私は失敗できない。

 もし計画をし損なうなら、あなたは失望する。エゴは傷つく。あなたが成功するならエゴは力づけられ、それはより以上に、絶え間なく計画を立て、マインドへの絶え間のない緊張と重荷の原因となるだろう。エゴは常に生を恐れている。生において私たちは何が起ころうとしているのかを決して知らないので、自分の安全のために計画する。私たちが全体ではなくたった一人である時、生はそれを妨害する。私たちは無限の存在の取るに足らない小さな部分にすぎない。


 質問: 私が日本で従っていた計画は、あなたのおっしゃっていることと一致しているように思えます。

 そうだ、それはそのようにあるだろう。計画を立て始める瞬間、あなたは比較し、対比し始める。疑いと恐れがあなたをつかまえる。私は成功するだろうか?それは可能だろうか?何が起こるのだろう?人々は何と言うだろう?私たちは通常は不安から解放されるために計画を立てるが、その計画そのものが不安だ。私たちは不安になる。不安は計画のせいで生じる。

 だから計画してはいけない。ただ続けなさい。あなたは自分の呼吸を計画することはない。あなたはただ呼吸し続ける。だからそれを容易に生じさせなさい。容易に生じるものは全て神性になる。そして努力のせいで生じるものは全て神性にはなり得ない。神性なものは努力無しで生じる。それは実際、いつも生じている。だからそれを生じさせなさい。ちょっとあなた自身を手放して、そして見てごらん。物事は動き始めるだろう。あなたは動きのまっただ中に自分自身を見つけるが、そこに不安はないだろう。その時心(マインド)に対して引き起こされる面倒な事は何もない。もし何かが起こるなら、それは申し分ない。もし何も起こらないなら、その時もそれは申し分ない。このタイプの心(マインド)にとってはあらゆることが申し分ない。

 その時にだけあなたは瞑想で何かをすることができる。なぜなら瞑想はビジネス(損得)ではないからだ。それはビジネスにさせるべきではない。もしそれがそうなら、あなたは瞑想をもって他人の役に立つことはないだろうし、ましてやあなた自身に対してもそうだろう。むしろ、あなたは自分自身の瞑想に対して自滅的であるだろう。それがあなたにとって重荷であるため。


 質問: それでは私は計画してはいけないのですね?

 あなたが計画をしないように計画をするなら、その時再び同じことが起こる。計画してはいけない---ただ続けなさい。もし瞑想があなたに生じたなら、もし何かがあなたの中で開花したなら、芳香が広がるだろう。それはそれ自身の方法で働きかける。何かがあなたに起こった。あなたは静かで安らいでいる。静穏さが達成される。それは働く。あなたが働きかけることはない。それは人々をそこに集めるだろう。彼らは自分からやって来るだろう。彼らは尋ねるだろう。彼らに計画させなさい。あなたはただ行って瞑想すればいい。物事は起こり始める。それらは起こるに違いない。その時にだけ、それらはそれ固有の美しさを、至福を持つ。そうでなければだめだ。

 ビジネスは常に汗をかいている。それには美しさはなく、喜びはない。瞑想はビジネスではないが、いまだにインドではそれはビジネスに変えられてきた。繁盛するビジネスに----。そこには店があり工場がある。瞑想をこの方法で扱ってはいけない。あなたは瞑想を体験した。あなたは扉にやって来た。あなたは何かを見た。あなたは何かを感じた。それを続けさせなさい。神に働かせなさい。








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