序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




                 The Silent Explosion  第7章:宗教と人間の窓

質問: OSHO、インド哲学で究極の真理の性質は真理(サティヤム)、美(スンダラム)、そして善性(シヴァム)として描写されてきました。これらは神の特質なのでしょうか?

 これらは神の性質ではない。むしろ、それら---真理、美、そして善性---は神についての私たちの体験だ。これらは神性なものが知られる三つの窓だ。本質的に、それは不可知だ。本質的に、それは全ての性質か、それとも全く性質ではないかのどちらかだ。

 人間のマインドが構成されるにつれて、それは三つの窓を通して神性なものを体験することができる。あなたは美を通して、または真理を通して、または善性を通してその一瞥を見ることができる。これらの三つの次元は人間のマインドに属する。これらは私たちによる制限だ。その枠は私たちに与えられるが、神性なものそれ自体は枠無しだ。ちょうど私たちが窓から見る時、そこには窓からの空があるが、その枠はあなたの窓が与えたものだ。空そのものに枠はない。それは無限だが、あなたの窓がそれに枠を与える。これらの三つは私たちが神性なものをちらりと見る窓だ。

 人間の人格は三つのタイプを通してしか体験することができない。人間の人格は三つの層に分割される。もし知性が優位なら、神性なものは真理の形を取る。なぜなら知的なアプローチは窓を、真理の窓を、真理の枠を、真理の身体を作るからだ。

 もしマインドが情緒的なら、そして人が頭ではなくハートを通して真実(リアリティ)に至るなら、神性なものは美になる。詩的な質があなたによって与えられる。それはそれでも枠であり、ただ枠が異なるだけだ。知性はそれに真理という枠を与え、情緒はそれに美という枠を与える。もしその人格が情緒的でも知性的でもなくて活動的なら、活動が優位なら枠は善性になる。

 インドでは三つの用語が付けられている。いわゆるバクティ・ヨーガは情緒的なタイプを、または帰依の道を意味する。その時神は美としてやって来る。ギヤーナ・ヨーガは知識の道で、神は真理として枠付けられる。そしてカルマ・ヨーガは活動の道だ。その時神は善性だ。そしてまさに神godという言葉は善goodから来ている。なぜだろう?まさにその言葉が目立った影響を持つのは、より多くの人類が主に活動的だからだ。彼らは知性的でも情緒的でもない。これはそこに知性がない、または情緒がないということではなく、それらは主な要因ではないという意味だ。知性的なものは非常に少なく、情緒的なものは非常に少ない。人類の残りの部分は、大部分は主に活動的だ。活動を通してそれは善になる。

 もし神が善として知覚されるなら、悪魔は悪として知覚される。活動的なマインドは悪魔を醜さとして知覚するだろう。そして知的なマインドは悪魔を不真実、錯覚、誤り、偽りとして知覚するだろう。

 これらの三つは枠のない神性に枠組みを作る人間の区分だ。それらはそれ自体としては神性の質ではない。もし人間のマインドが何か四番目の次元を通して知覚できるなら、四番目の次元は神性な質になるだろう。それは神性は善ではないという意味ではない。善性は私たちによって選択され、私たちによって見られるものだ。もし私たちが世界にいないなら、神性は善でも、美でも、真理でもないだろう。それにもかかわらず神性は存在するが、これらの質は私たちによって選択されたものであって、それらはそこにはない。これらは人間の知覚であって、私たちは他に知覚のしようがない。動物が神性を知覚するのかは私たちにはわからない。彼らがどのように知覚するのか私たちは知らない。一つのことは確かで、彼らは人間のやり方では知覚しないだろう。もし少しでも彼らが神性を知覚するなら---もし少しでも神性を感じるなら---彼らは全く異なる方法でそれを感じていて、それを知覚しているだろう。そしてその質は私たちに対するものと同じではないだろう。

 ある人が主に知的である時、神は美しいとどうして言えるのか、彼には理解できない。まさにその概念が彼にとっては相容れないものだ。それは全く彼のマインドとは性に合わない。

 詩人は真理が美を除いた何かを意味し得ることが理解できない。それは他の何かを意味することはできない。それは美を意味するに違いない。美は真理だ。詩人にとって、画家にとって、芸術の見地から、ハートの見地から世界を認識する人にとって、他の全ては単に知的なたわごと(ナンセンス)だ。真理は美なしでは赤裸々な言葉だ。それはハートを抱え込むことはできない。それは知的な範疇にあり、さらに人間のマインドが主に知的なら情緒的なマインドを理解することはできない。だから神についてとても多くの誤解があるのだ。そこにはとても多くの誤解があり、とても多くの定義があるが、たった一つの定義も全ての人類によって受け入れられることはできない。それは決して受け入れられないだろう。

 神はあなたの言葉であなたに生じるに違いない。あなたが神を定義する時、あなたはそこにいるに違いない。その定義は神からではなくあなたから生じる。神は定義できないものだ。

 ある意味では、これらの三つのタイプを通して見る人たちは、神性に彼ら自身を押し付ける。自分の人格の中でこれらの三つの区分を超越する人に対して、四番目の可能性がある。インドでは、私たちはその四番目を知ってきた。私たちはそれを単純に「四番目」と呼ぶ。三つは情緒的、知性的、そして活動的な手段を持っているが、四番目は単に「トゥリヤ」として知られている。それは「四番目」という意味だ。

 あなたは知的でもなく、情緒的でもなく、活動的でもなく、単に意識しているという意識状態がありえる。その時は窓を通して見ていない。あなたは空の下に来た。あなたは自分の人間の家から出て来た。あなたは空を、窓無しで知る。その時は型や枠はない。これが四番目---最も偉大で最高のものだ。四番目を認識したこのタイプの意識だけが三つの限界を理解することができる。それは別のものを理解する難しさを理解することができ、美、善、そして真理の底流として流れる類似点を理解することができる。ただ四番目の道だけが理解でき、寛大に扱うことができる。そうでなければこれらの三つのタイプは常に言い争うだろう。地球上の全ての宗教はこれらの三つのタイプの一つに属していて、それらは言い争っている。

 仏陀はこの衝突が生じるところを思い浮かべることはできない。彼はそれを想像することができない。なぜなら彼は四番目に属するからだ。彼はこう言う。「それは全てナンセンスだ。なぜあなた方は言い争っているのだ?」

 あなた方は神性の質について言い争っているのではない。あなた方は自分たちの窓について言い争っている。確かにそれらは違うが、それは空に対してどんな違いも作らない。空はどんな窓からでも同じままだ。従って、私はこれらを神性な質とは言わないのだ。これらは私たちによって知覚される限り神性な質になる。そしてもし私たちが自分の窓を壊すことができるなら、私たちは質の無いもの、「ニルグーナ」として神性を知る。その時それは質を超えて行き、その時だけ人間は無効になる。その時だけ人間は参加しない。

 その時それは言うのが非常に難しくなる。言われるものは何であれ窓を通してしか言うことはできない。なぜなら言い得るものは何でも窓について言われるからだ。私たちが窓を超えて見る時、空はとても広大で、無限だ。その時それは定義できず、全ての定義は馬鹿げていて、全ての言葉は適用できない。その時全ての理論は不適当になる。

 四番目は常に沈黙したままでいる。神性の全ての定義は三つから生じて、四番目は沈黙したままだ。彼が話すなら、彼は私たちにとって馬鹿げたものに、非論理的に、不合理に見える言葉で話す。彼は自分自身と矛盾し、矛盾を通して彼は何かを示そうとする。何かを言うためではなく、何かを示すために。ヴィトゲンシュタインはその区別をしてきた。彼は、言うことのできる真理があり、そして示すことはできるが言うことのできない真理がある、と言った。私たちは物について何を言うことはできる。それは定義できる。私たちは真理について何も言うことができない。何かは物について言うことができる。なぜならそれは物に囲まれて存在するからだ。それは関連させて定義することができる。私たちは常にテーブルは椅子ではないと言うことができる。私たちはそれを比較できるし、他のものによってそれを定義できる。なぜならそれは、それがなくなるところと、それを超えて他の何かが始まるところの境界線を持つからだ。

 しかし全体(トータル)については、私たちは何も言うことはできない。神性は全体(トータル)だ。そこには境界線はなく、別の何かが始まるところの境界はない。そこに「別の何か」はない。それは境界無しであり続けるので、それは定義され得ない。だから四番目はただ見せることしかできない。それは指し示すことはできる。だから四番目は神秘的なままなのだ。四番目は真正だ、最も真正だ。なぜならそれは人間の定義ではないからだ。全ての偉大な聖人たちは見せる人たちで、彼らは少しも言っていない。

 彼らがイエス、仏陀、マハーヴィーラ、またはクリシュナであるかどうかはどうでもいいことだ。彼らは言っていない。彼らは見せている、何かを指し示している。ちょうど月の方へ上げる指のように。彼らは決して何も言わないが、何かを見せている。そこには常に指にとりつかれるという困難がある。もしあなたが月を見たいなら、指は完全に忘れなければならない。だがこれは神性と示している指に関する限り最も大きな困難だった。あなたは示しているものに耳を傾け、それから真理を感じる。するとそれはそれ自体の目的を壊す。指は月ではなく、月はあなたの指とは全く関係がない。それらは絶対的に異なる。だからキリスト教徒が聖書を忘れることができないなら、そしてヒンドゥー教徒がギータを忘れることができないなら、まさにその目的は殺される。まさにその目的は壊される。その時物事全体は無目的に、無意味になり、ある意味で非宗教的に、またはむしろ反宗教的になる。

 もし私たちがこのように見ることができるなら、そしてこのようにそれにアプローチするなら、私たちは常に自分のマインドに気づくことができる。人が神性にアプローチする時はいつでも、人はその人自身のマインドに気づかなければならない。なぜならあなたはマインドを通してアプローチするからだ。マインドが干渉する時、それは難しい。もしあなたがマインドなしで、間に人間が入ることなしにアプローチするなら、あなたはまさに虚空として、まさに空として、まさに無として神性にアプローチできる---どんな先入観もなく、どんな傾向もなく、どんな次元の態度もなしに。もしあなたがあなたなしで神性にアプローチできるなら、あなたは神性の質を、またはその質のない状態を知る。そうしなければ全ての質は人間の窓に属していて、私たちはそれらを押し付ける。


 質問: あなたは私たちには空に入るための窓は必要ないと言っているのですか?

 全く見ないよりも窓から見る方がましだが、それは窓無しの空とは比較にならない。


 質問: しかし人は窓なしでどうやって部屋から空へ入ったらいいのですか?あなたは私たちには窓は必要ないと言っているのですか?

 違う!あなたは窓を通過して空に行くことができるが、私たちは窓の後ろに留まってはいけない。


 質問: 人は空に入るために窓が必要ですね?

 そうだ、それはそこにある。それはそこにある。それは障壁のようであってはいけない。それは開いていなければならない。それは後ろに置き去りにしなければならない。それは超越されなければならない。


 質問: いったん人が空の中にいるなら、その人が部屋に戻るまではそこに言葉はないのですか?そうしたらその話はどうなるのですか?

 そうだ!人は戻ることができるが、彼は以前と同じではあり得ない。彼は無型のものを、無限なものを知った。たとえ窓からでも彼は空が型取られないことを、窓化されないことを知る。窓の後ろからでさえ彼は窓によって騙され得ない。彼はたとえ窓が閉められて部屋が暗くなっても騙され得ない。彼は無限の空がそこにあるのを知っている。今や彼は再び同じではあり得ない。いったんあなたが無限なものを知るなら、あなたは無限になる。いったんあなたが知るなら、あなたはそれになる。私たちとは私たちが知ったものだ。私たちとは私たちが感じたものだ。いったんあなたが境界無しを、境界線無しを知ったなら、あなたはある意味で自分で無限になる。
 知識は表現だから、何かを知ることはそれで在ることだ。愛を知ることは愛で在ることだ。神性を知ることは神性で在ることだ。知識は実現だ。知ることは在ることだ。その時あなたは再び同じではあり得ない。


 質問: 人が部屋に戻った後、人は三つの全ての窓を通して見るのですか?

 それはその人次第だ。ある人は別の窓へさまようかもしれないし、ある人はそうしないかもしれない。それはその人による。


 質問: それらは一つの窓になり得るのですか?

 いや、それは一つの窓にならない。それは同じ窓のままだろう。窓が同じなのは、窓は変わらないからだ。あなたが変わる。もしその人が感情的なら、彼は感情的な窓を通って出たり入ったりするだろうが、今、彼は別の窓を否定しない。別の窓に対立しない。今や彼は別のものへの理解を欠くことはなく、別の窓も同じ空に導くことを知る。いったんあなたが空の下にいるなら、あなたは別の窓が同じ家のものであることを知る。それはあなた次第だ。あなたは別の窓へさまようかもしれないし、そうしないかもしれない。あなたにその必要はない。一つの窓で充分だ。もしある人がラーマクリシュナのようなら、彼は別の窓へもさまようかもしれない。同じ空が別の窓を通して見られるかどうかをただ見るために、ただ問いかけるために。彼はそれらの窓が同じ事のために開いていることを確かめる。空を知った人は宗教的になるが、宗派的であることはできない。宗派的なマインドは常に窓の後ろにある。宗教的なマインドは常に窓を超えている。彼はさまようかもしれないし、別の窓にも行くかもしれないが、窓は無限にある。これらの三つは知られているタイプだが、それらが唯一の窓ではない。これらの三つはとても多くの組合せがあり得るものの主要なタイプだ。


 質問: そこにはそれぞれの意識に対する、それぞれの人間に対する窓があるのですか?

 そうだ!ある意味でそれぞれの人は独自の窓から、独自の枠から神性なものに至る。そしてそれは異なり、ある意味でそれは独特だ。これらの三つは単なる原型にすぎない。それぞれの人は彼固有の窓を得る。そしてそれは基本的に異なる。それは別のものとは違う。窓は無限にある。宗派は無限にある。ある意味、それぞれの人は彼固有の宗派を持つ。二人のキリスト教徒は同じキリスト教徒ではない。一人のキリスト教徒は「A」で、別のキリスト教徒は「B」で、「A」のキリスト教徒は、少なくともキリスト教がヒンドゥー教と異なるのと同じくらい「B」のキリスト教徒と異なる。違いは必ずある。それは個性があるからだが、いったんあなたが空に来たなら、全ての違いは家に属していることを知る。それらは決してあなたに属してはいない。


 質問: 空まで行って来て、そしてこの概念を持って戻ってきた非常に少数のキリスト教徒がいるように思われます。

 そうだ!聖フランシス、エックハルト、ベーメがいる。


 質問: 彼らは、それは同じ空だったと私たちに言いませんでしたね?

 そうだが、空は常に同じだ。


 質問: 彼らはこれを私たちに言いましたか?

 いや、彼らにはできない。空は常に同じだが、彼らは同じ空を伝えられない。彼らが伝える時、違いがそこにある。


 質問: インドの聖人たちはどんな違いにもあまり気づいていないように見えます。西洋にはより多くの違いがあります。

 伝えは必ず異なるが、伝えられたものは異ならない。そして伝えられたものを知らなかった人たちにとっては、その伝えが全てだ。その時その違いは重大になる。なぜなら伝えられたものは全て抜粋、選択だからだ。それは選択であらざるをえない。その中で、何かを伝えることはできるが、その何かは死ぬようになる。

 聖フランシスは一人の聖フランシスとして伝えることしかできない。彼はモハメッドのように伝えることはできない。なぜならその伝えは空から来ていないからだ。その伝えは傾向、個性から、マインド、記憶、教育、体験、言葉、言語、宗派、生活から来る。その伝えはそのようなものから来る。それは聖フランシスから来ていない。なぜなら伝えは決して個人的ではあり得ないからだ。それは共用的でなければならない。そうでなければそれは完全な失敗だろう。

 もし私が独自の個人的な言語で伝えるなら、誰もそれを理解しないだろう。そして私が空を感じた時、私はそれを共用性なしで感じた。私は一人だったし、そこにはどんな言語もどんな言葉もなかった。私は完全に独りだった。私が知った時、そして私が伝える時、私は知っていない他の人たちに伝える。彼らの言語は使われるべきものだ。私は自分が知ったそれ以前に自分が知っていた言語しか使うことはできない。

 聖フランシスはキリスト教の言語を使う。そして私に関する限り、宗教は唯一の言語だ。私にとってキリスト教はイエス・キリストから導き出された特別な言語だ。ヒンドゥー教は別の言語だ。仏教は別の言語だ。違いは常に言語に関するものだが、その違いは膨大だ。もし彼らがその言語しか知らないなら、その違いは膨大にならざるをえない。イエスは「神の王国」と言う。なぜなら彼は自分の聴衆によって理解された用語で話しているからだ。彼は「王国」と「神」を使っていて、その言葉は一つになる。それは聴衆に理解され、また誤解もされた。十字架がその後に生じたのは「王国」という言葉のせいだ。イエスを理解した人たちは「神の王国」によって意味されたことを理解した。理解できなかった人たちは、彼は地上の王国を扱っていたのだと考えた。

 彼は仏陀の言葉を使うことができなかった。仏陀は決して「王国」という言葉を使わない。そこにはとても多くの理由がある。イエスは貧しい家庭から来ている。その言語は貧しい人のそれだ。だから王国は意味深長な何かだ。仏陀にとって王国は何でもない。彼は王国から来ている。彼は一人の王でいたので王国は何でもない。その言葉は仏陀にとっては無意味だが、イエスにとっては意味深い。そこで仏陀は乞食になり、イエスは王になる。それはそうあらざるをえない。別の極は意味深くなる。未知の極は未知のものについて意味深長になる。仏陀にとって、乞い求めることは最も未知の形だ。そこで知られ得ないものは乞食の形を取る。彼にとって「ビクシュ」--乞食--は最も意義深い用語になる。

 インドで私たちは決してビクシュという言葉を使わない。彼らはずっと乞食でいたので、私たちは「スワミ」--王--という言葉を使う。バラモンがサニヤシン(出家僧)になる時、バラモンが放棄する時、彼はスワミに、主人になる。仏陀が放棄する時、彼はビシュク、乞食になる。彼は必ずそうなる。仏陀にとってビシュクという用語は、乞食という用語はイエスにとって持つことのできない何かを持つ。
 イエスはずっと乞食でいた。彼はユダヤ人の文学から、ユダヤ人の文化から借りた用語でしか話すことができない。彼はユダヤ人で、ユダヤ人のままで、そしてユダヤ人を扱う。彼はあちこちの何かを変えることはできるが、総ての言語を変えることはできない。さもなければ誰も理解しないだろう。ある意味で、彼はキリスト教徒ではない。聖フランシスはキリスト教徒で、キリスト自身より以上にそうだ。なぜなら彼はキリスト教徒の言語を使っていてユダヤ人の言語は使わないからだ。

 時折、あなたがキリスト教徒として生まれるなら、キリスト教はあなたにとって意味深長ではないかもしれない。それはあなたに触れないかもしれない。それはあなたに対して啓示しないかもしれない。なぜならあなたがそれを知れば知るほど、それは無意味になるからだ。神秘性は失われる。キリスト教徒にとって、ヒンドゥー教徒の態度はより意味深くて意義深いものになる。それは未知で、それは意味深長な不可知のものであることができる。

 私に関する限り、人は生まれつきの宗教に属すべきでない方がいい。誕生や姿勢はどこかで否定されなければならない。そうしなければ冒険は決して始まらないだろう。人は生まれたところに留まるべきではない。宗教に関する限り、人は未知の場所に行って爽快さを感じるべきだ。たまに、私たちは自分が理解していたと思っていることが理解できていない。キリスト教徒は、自分はキリスト教を理解している、と思っている。そしてそれは大変な障壁になる。仏教徒は、自分は仏教を理解している、と思っている。彼は既にそれを知っている。この知っているという感覚が妨げになる。ただ未知のものだけが人を引き付けるものになり得る。未知のものだけが神秘的(オカルト)に、秘教的になる。

 人は誕生という脚本を超越しなければならない。人が誕生によってキリスト教徒であるというのは脚色されている。人が誕生によってヒンドゥー教徒であるというのは脚色されている。人は自分の誕生に制限されるべきではないし、宗教に関する限り、二度生まれでなければならない。人は未知の場所に行かなければならないし、未知の言語を、未知の姿勢を探し求めなければならない。

 宗教は、ある意味で、補い合うものだ。それらは別のもののために働かなければならない。それらは別のものを受け入れなければならない。そしてキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、またはユダヤ教徒は改宗のスリルを知らなければならない。改宗のスリルは変容のための環境を作り出す何かだ。

 従って、ある人が西洋から東洋に来る時はいつでも、そこには何かがある。全ての態度はあなたがそれを自分の範疇に収めることができないほど違っている。全ての態度はまったく他の極と関わっている。もしあなたがそれを理解しようとするなら、あなたは自分自身を変えなければならないだろう。

 ある東洋人が西洋に行く時、同じことがその人のマインドに起こる。それは起こるべきであり、人はそれが起こり得るように開いていなければならない。人は西洋から東洋に来る時、閉じているべきではない。変化を引き起こすものや偉大な瞑想だとわかるかもしれないものは未知のもの、よく知られていないものだ。

 西洋人が考える時はいつでも、それを分類に基づいて、論理で考える。インドでは、私たちはキリスト教のような神学を作り出すことはできなかった。私たちはカトリック教会を作り出すことはできなかった。私たちは同じ意味で教会を作り出すことはできなかった。寺院はあるが、教会はない。東洋人のマインドは基本的に非論理的だ。アプローチそのものが非論理的だ。だからそれは非体系的にならざるをえない。ある意味でそれは混沌的であらざるをえないし、それは個人的であらざるをえない。それは組織的であることはできない。

 カトリックの司祭は非常に違っている。階級制度のどこかの、ある組織の一部として仕込まれ、彼は何かの既成組織に属する。それは働く。それは論理的だ。だからキリスト教はそれ自身を広げることができたのだ。

 ヒンドゥー教は誰も改宗させなかった。それは決して誰も改宗させようとしなかったし、ある人が自分自身で改宗しても、彼にとってヒンドゥー教は落ち着かない。それは非改宗の宗教であり、非組織的だ。そこにはキリスト教に存在するような意味での聖職はない。ヒンドゥー教の僧は単なる個人であり、どんな階級制度もなく、どんな既成組織に属することもなく放浪する。彼は絶対的に根無しだ。これは世界に関する限り影響を及ぼさないだろうが、内的な深さに関する限り作用する。それは必ず成功する。

 ヴィヴェカーナンダはキリスト教に非常に心を引かれていたので、彼はここに教団を、カトリック聖職の様式でラーマクリシュナ教団を作り出した。
 これは東洋とは非常に性質の異なるものだ。それは完全に西洋的だ。ヴィヴェカーナンダのマインドは全く東洋的ではなかった。ヴィヴェカーナンダは西洋的なマインドだった。ちょうどエックハルトや聖フランシスが東洋的だったように。彼らは基本的に東洋に属している。

 イエス自身は東洋に属している。キリスト教は東洋に属していない。それは西洋に属している。イエスは基本的に東洋的だ。彼は反教会であり、それは彼にとって致命的になった。彼は反組織的で、それは闘争だった。彼は既成組織と戦ったが、西洋的マインドは既成組織なしで変わることはできない。だからキリストの名においてさえ、カトリック教会は設立されたのだ。カトリック教会は成立した。覚えておきなさい。マインドは論理、理性、体系、議論という範疇で考える。それはあまり深く進むことはできない。それは表面的なものだ。それは広範囲に及ぶextensiveだろうが、決して集中的intensiveではない。


 質問: 確かに組織は私たちにとってカーテンであり、それは空を見るために私たちから消え去らなければならないでしょうね!

 そうだ、なぜならそれらは窓だからだ。


 質問: それらは邪魔物ですか?

 それらは邪魔物だ。


 質問: では西洋的なマインドは東洋的なマインドにあるように拡大しなければならないのですか?

 いかにも。西洋的なマインドは唯一科学に関する限り成功できる。それは宗教的意識では成功できない。西洋でさえ、宗教的マインドが生まれる時はいつでも、それは東洋的だ。まさにその質が東洋的だ。
 エックハルトにおいては、まさにその質が東洋的だ。ベーメにおいては、まさにその質が東洋的だ。彼らは東洋に属している。科学的なマインドが東洋で生まれる時はいつでも、それは西洋的であらざるをえない。それは東洋的であることはできない。

 私にとって東洋と西洋は地理的なものではない。西洋は貴族的という意味で、東洋は非貴族的という意味だ。西洋は均衡を、東洋は非均衡を意味する。西洋は合理的を、東洋は非合理的を意味する。

 テルトゥリアヌス(カルタゴの神学者 160-230年)はこう言っている---彼は西洋における東洋的なマインドの持ち主だ---「私が神を信じるのは、信じることが不可能だからだ。私は神を信じる、なぜならそれは不合理だからだ。」と。「なぜならそれは不合理だからだ。」---これは基本的に東洋的な態度だ。西洋では誰もこう言うことはできない。

 あなたはそれが合理的である時にだけ信じる。さもなければ彼らは、信仰は信仰だ、と言うかもしれない。それは迷信だ。狂っている。だがテルトゥリアヌスは「私は神性なものを信じる、なぜならそれは不合理だからだ。」と言い、「なぜなら」という言葉を使う。まさに「なぜならそれは不合理だからだ。」と言う。そのようにエックハルトも東洋的なマインドを持つ。彼は言う、「あなたが可能なものを信じるなら、それは信仰ではない。あなたが議論を信じるなら、それは宗教ではない。それらは科学の一部だ。あなたが不合理なものを信じるなら、その時にだけ、マインドを超えた何かがあなたに生じる。」

 確かにこれは西洋的ではない。そのようなことは東洋でもある。例えば、孔子は西洋的なマインドだ。西洋は孔子を理解することができる。だが決して老子を理解することはできない。老子は、あなたは愚かだ、なぜならあなたはただ合理的なだけだからだ、と言う。合理的であることは道理をわきまえるために充分なことではない。非合理なものが存在するためにそれ自身の場所を持たなければならない。老子は言う、もし人が同時に合理的と非合理的の両方であるなら、その時だけ彼は道理をわきまえている、と。合理的な人は決して道理をわきまえることはできない。なぜなら理性は非合理性というそれ自身の暗い場所を持つし、根は常に暗いところにあるからだ。

 子供は暗いところで、暗い子宮で生まれる。花は光の中で見られるが、それは暗いところで、地下の根の中で生まれる。暗さは否定されてはいけない。それは基本であり、より意義深く、より生気を与えるものだ。
 西洋的なマインドは世界に貢献する何かを持っている。それは科学であって、宗教ではない。

 東洋的なマインドはただ宗教にだけ貢献できる。それはテクノロジーや科学には貢献できない。これらは両方とも補い合うものだ。もし私たちがそれを見抜いて、その違いと補うことを認識するなら、より良い世界文化がそれから生まれることが可能だ。

 従って、もし科学を必要としているなら、その人は西洋に行くべきだ。あなたが何らかの宗教を作り出すなら、それは決して神学より以上のものではあり得ない。あなたは神に対する論証を自問自答する。神に対する論証?あなたは神性なものを証明しようとする。東洋にとってこれは考えられない。あなたは証明できない。まさにその努力が無意味であり、証明され得るものは決して神ではあり得ない。証明されるものは一つの対象物であり、それは科学的な結論だ。だから東洋では私たちはこう言うのだ。あなたはなんでも証明していいが、神性なものを証明しないでほしい。それは証明できないものだ。あなたが自分の証明にうんざりする時、その中に飛び込みなさい。あなたが自分の証明と論証から苦悶を生み出す時、その中に飛び込むがいい。

 東洋的なマインドは何度も試みてきたが科学を作り出せなかった、その理由がこれだ。それはできない。それは擬似科学的にしかなれない。西洋的なマインドが擬似宗教的にしかなれないように。西洋は偉大な神学を作り出してきたが、東洋が科学に向かおうとする時はいつでも、私たちは科学者ではなく技術者しか、実際的な知識を持つ人しか生み出すことはできない。時おり、境界を横切ることや生反対の極にいることは、非常に健全で生気を与えるプロセスになる。

 だから私は言う、西洋的なマインドを持って東洋に来てはいけない、と。そうしなければあなたは決して理解しないだろう。あなたはただ誤解するだけで、理解しているものとしてその誤解を持ち運ぶだろう。その態度は対極的なもので、それは無条件に正反対の、それでも補足的だ。唯一正反対のものだけが補い合う。男性と女性は補い合う。東洋的なマインドは女性で、西洋的なマインドは男性だ。西洋的なマインドは論理的だ。論理は攻撃的で、暴力的で、活動的であらざるをえない。

 宗教は受容的で、女性のようなものだ。それは攻撃的であることはできない。神は受け入れることしかできない。宗教は決して発見されたり発明されたりできない。それは受け入れることしかできない。だから人は女性でいなければならない---全面的に受容的であるために、開いているために、そして待つために。これが私たちが瞑想、開くこと、そして待つことで意味していることだ。


 質問: ラーマクリシュナは、バクティ(神への献身的な愛)のアプローチがこのカリ・ユガ(現在の時代)に最も適している、と言います。これはそうですか?

 それはそうではない。それはラーマクリシュナに適していた。それはラーマクリシュナにだけ適していた。それは基本的な窓で、それを通って彼は空の下に来た。それはそれ以上には適していない。

 私たちは時代の見地から考えることはできないし、また時間の見地から考えることはできない。数世紀が同時代に生きている。私たちは同時代にいるように見えるが、そうではないかもしれない。私は20世紀前に生きているのかもしれない。どんな時間も絶対的な過去ではない。ある人にとってそれは現在だ。どんな時間も絶対的な現在ではない。ある人にとってそれは過去であり、ある人にとってそれはまだやって来ていないので、どんな断定的な声明も時代に対してそのように述べることはできない。それはそうすることはできないが、私たちはそれをする。私たちは断定的な声明を述べたり、それをする人たちに賛同する。彼らは申し分ないように見える。

 ラーマクシリュナは帰依者だ。彼は祈り、愛、そして情緒を通して神に至った。彼はこれを成就した。それで、彼にとってこれは他の誰に対しても役に立つように思えたのだ。私たちがどれほど同情的であっても、私たちは常に自分自身に照らして他人を見る。彼にとって現代に適しているのはバクティ・ヨーガ、帰依の道であるように思えた。

 私にとってそれは、もしその用語を使うことができるなら、カリ・ユガ(暗黒の時代)だ。全てのユガ(時代)を使うことができないのは、それらが全て連続的に、そして同時代に生きているからだ。カリ・ユガは最も知的な時代で、それは最も科学的で技術的な時代で、帰依や情緒の最も少ない時代だ。

 ラーマクリシュナは基本的に村に属していて、非技術的で、非科学的だった。彼は村人で、教育を受けていなくて、より大きな世界についてよく知らなかった。彼が言ったことは何でも彼の村の言語で、彼の村人的な態度で理解することができた。彼は訪れる時代---今の時代---について思い描くことができなかった。彼は基本的に知的なものは何もなくて情緒が全ての百姓の世界の者だった。彼は情緒的な環境で育てられ、そして彼は成就した。

 ある意味で、彼はこの時代の人間ではなかった。彼は第二の初歩的な基準までしか教育されなかった。彼は科学的なマインドを少しも知らなかった。彼が言ったことは彼が移動した世界にとっては申し分なかったが、現在のような世界にとってはよくない。彼はそれを決して知らなかった。彼はそれを知ることができなかった。

 知性的、活動的、情緒的---これらの三つのタイプは常に存在していて、それらは常に存在するだろう。その三つの間にはバランスがある。そこには常にバランスがある。ちょうど男性と女性との間のバランスのように。それは長い間失われ得ない。もしバランスが失われるなら、それはすぐに元に戻されるだろう。

 西洋はバランスを失ってきた。知的なものが主な要因になったので、ラーマクリシュナが帰依はカリ・ユガのための道だと言うことはあなたの興味を引くかもしれない。それがあなたの興味を引くのは、あなたがバランスを失っているからだが、ヴィヴェカーナンダは何か他のことを言う。東洋も、バランスを失ってきた。それで彼は知性が優っている。それもまた、ある意味で、補足的だ。

 ラーマクリシュナは情緒的なタイプで、彼は知的なタイプの一番弟子を得た。それもバランスを取っている。彼の一番弟子は彼とは完全に正反対だ。それはそうならざるを得ない。それはペア、男性と女性だ。ラーマクリシュナは全く女性的で、非攻撃的で、受容的だ。性別は生物的な中にだけ存在するのではなく、あらゆるところに存在する。両極端のものがある時はいつでも、そこには性別があり、その反対のものはあらゆる場で魅了するようになる。そこで時には、非常におかしな事が起こる。ラーマクリシュナはヴィヴェカーナンダを引き寄せた。ヴィヴェカーナンダはどんな知的な人にも決して魅了され得なかった。(そしてベンガルには偉人たちがいた。) ラーマクリシュナは可能な限り最も知性の少ない人物だった。ヴィヴェカーナンダは決してどんな知的な偉人たちにも魅了されなかった。彼はそうなることができない。彼は対極ではない。彼は行って、訪れて、そして手ぶらで戻って来た。彼は魅了されなかった。

 ラーマクリシュナは彼が捜していた全てになった。その弟子はそれでも全く正反対だった。ヴィヴェカーナンダがラーマクリシュナのためにしたことは何でも、それは同じ心(スピリット)でではない。心(スピリット)は変わった。誰であれヴィヴェカーナンダを通してラーマクリシュナのところに来る人は、全くラーマクリシュナのところに来ることはできない。誰であれラーマクリシュナについてのヴィヴェカーナンダの解釈を理解する人は、決してラーマクリシュナを理解することはできない。その解釈は正反対の極から来ている。

 だから人々が、ヴィヴェカーナンダなしではラーマクリシュナを知ることは決してできなかった、と言う時、ある意味で彼らは正しい。世界全体はヴィヴェカーナンダなしでは決してラーマクリシュナについて耳にすることはなかっただろう。しかしヴィヴェカーナンダを通して、ラーマクリシュナについて知られているものは何でも偽りだ。それは誤った解釈だ。ラーマクリシュナは決してどんな議論も知らなかったし、ヴィヴェカーナンダは議論好きだ。ラーマクリシュナは全く無知だった。ヴィヴェカーナンダは知識の人だ。ラーマクリシュナについてヴィヴェカーナンダが言ったことは何でも、ヴィヴェカーナンダの鏡を通して言われる。しかしこれは常に起こってきたし、そして起こり続けるだろう。

 仏陀は完全に対極の人を受け入れる。イエスは精神的に別の性別の人を魅了する。そして彼らは組織を作り、教団を作り、そして解釈して、まさに弟子たちが誤り伝える----しかしそれはそうなる。そしてそれは役に立つことができない。








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