ザ・サイレント・エクスプロージョン
  第3章:アーサナとムドラーの神秘的な意味
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翻訳・出版暦
The Silent Explosion
   序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




         The Silent Explosion   第3章:アーサナとムドラーの神秘的な意味


 質問: OSHO、ヨーガのアーサナとムドラーの意味と、精神霊的(スピリチュアル)な目覚めにおけるそれらの位置づけについて説明していただけますか?

 人間としての存在は単に身体的なだけでも精神的なだけでもなく、両方同時にある。むしろ、それは精神身体的と言うほうが正しいだろう。その二つの間に隔たりはない。身体的な面に起こるものは何でも精神的な面に響く。そして逆も同じだ。

 目に見えるマインドが身体であり、目に見えない身体がマインドだ。これらは一つの存在の二つの極性だ。マインドとは私たちの感覚を超越したものという意味で、それは私たちの感覚が及ぶ範囲の外にある。身体とは私たちの感覚が及ぶ範囲内に生じるものという意味になる。その区分けは感覚とそれらの限界が理由でそうなる。それは一つだ。それは単に振動の違いにすぎない。身体はより粗い振動で、感覚を通して受け止められ得るものだ。そしてマインドはより細かい振動で、感覚の能力を超えて行くもの、超越したものだ。

 なぜ私はこのように言っているのだろう?西洋の心理学によく知られた一つの理論があった。その理論はジェームス・ランゲの理論として知られている。常識では常に身体がマインドに従うというように理解してきた。恐れる時、身体は逃げ始める。怒っている時、あなたの身体は戦う用意をし始める。しかしジェームスとランゲ---これらの二人の心理学者---は全く正反対の見解を提案した。彼らは、逃げることを引き起こすのは恐れではなく、恐れを引き起こすのは逃げることだ、逃げるから恐れを感じるのだ、と言う。それらによると、戦う気分や身体に対して戦う状況を作り出すのは怒りではなく、その反対ということになる。あなたが戦い始める時、あなたは怒りを感じる。身体が最初に来て、マインドが後に続く。彼らの論点は、もしどんな身体的な兆候も存在しないならあなたは恐れることはできない、というものだ。もし身体が反応しない状況が作られるなら、怒ることはできない。だから彼らは、もし身体が怒りに反応しないで怒ることができるなら、その時だけ怒りは精神的な何かであることが証明され得る、と主張した。もしあなたの目が血走っていなくて、あなたの拳が戦う用意をしていないなら、怒りを見つけることは不可能だ。

 しかしジェームスとランゲは正しくなかった---たとえ彼らの理論が非常にもっともらしく見えたとしても。身体的な反応はそこにあるが、身体的な反応なしではどんな精神的な態度も表現され得ない。しかしそれは、精神的な態度は身体的な反応なしでは存在しない、という意味ではない。それは表現なしで存在できる。人は身体に関する限り怒りの兆候を示すことはできるが、それにもかかわらず怒りなしでいられる---ちょうど役者のように。彼は演じる---完璧に演じる。身体に関する限り怒りはあるが、彼の内側に怒りはない。彼は見かけにおいては愛の全ての兆候を示すことができるが、それでも愛を感じていない。身体はマインドがそれを感じなくてもそれそのものを表現できる。マインドは身体が表現しなくてもそれを感じることができる。だがより粗いものは私たちの把握力の範囲内にある---微妙なものがそうではないのに反して。私たちが怒りを見る時はいつでも、私たち自身のであれ、他の誰かのものであれ、私たちは身体を通してそれを見る。私たちの身体がそれを表現しない限り私たちはそれを知ることはできない。だがたとえ私たちがそれを知らなくても、それは種という形である。それはその潜在力の中にあるが、それがより粗い水準に来るまでは私たちはそれを発見することさえできない。

 ---このジェームス・ランゲの理論は50%正しい。常識は常に50%正しかった。ジェームス・ランゲが知って普及するようになったものは何世紀も昔からヨーガに知られていた。それがアーサナやムドラーが開発された理由だ。ヨーガは、精神的なものはすべてそれに対応する状況を身体の中に持っていることを既に理解するようになっていた。愛がある時、身体は変化する。あなたが愛する時、顔はそのムドラー(表情)を変える。あなたが沈黙して、静かで、平和でいる時、あなたの身体は特定の姿勢や体勢を取る。あなたが怒っている時、あなたの身体は別の姿勢を取る。そしてこれらの姿勢は内側のマインドと関係している。ヨーガはその反対も可能であると考えた。もし身体が特定の姿勢を取るなら、それに対応する精神的な態度がマインドの中に生み出されるに違いない、と。

 これはジェームス・ランゲと同じくらい間違っている。あなたは単なる見せかけでいられる。ある人は仏陀のような同じ姿勢で座ることができる。それは内側の静寂が生み出されるという意味ではない。それは単なる見せかけだ。もし誰かが仏陀の態度に入るなら、身体は勝手に仏陀の姿勢を取るだろう。だから私はこれらのアーサナの全てに反対するのだ。それらはそれ自体によって生じなければならない。あなたはそれらをしてはいけない。なぜならあなたがそれらをしても、それに対応するマインドの内的な状態が後に続くだろうという保証はないからだ。それは見せかけの身振りになり、それは私たちにとって簡単だ。あなたの身体はちょうど仏陀のように座ることができる。またはマハーヴィーラのように立つことができる。なぜこれらの動作が生じたのだろう?同じ理由でだ。ブッダの状態のマインドがある時はいつでも、身体は特定の姿勢に従わなければならない。それは従うはずだ。これは何世紀もの間知られてきた---特定の精神状態に対応する特定の身振りがある、ということが。だから、もし私たちが身体にこれらの姿勢や身振りを起こすことができるなら、それに対応する精神状態が間違いなく後に続くだろう、ということが推測された。

 それは常に正しくはないし、また必然的ではない。それどころか、それは非常に危険な憶測だ。あなたは他人を欺くだけでなく、あなた自身がごまかされるだろう。仏陀の姿勢で座るなら、あなたは静寂を感じる、それはあなたの身体がそれを表現しない限りあなたは静寂を感じることができないからだ。そしてあなたの身体がそれを表現する時、あなたは今静寂が達成されたというふりをするだろう。あなたは静かに感じて沈黙するだろうが、この静けさはあなたの身体の姿勢の単なる欺きにすぎない。それはあなたにやって来た。それは内側からではなく外側からのものだ。あなたはそれを自分自身に押し付けた。それは非常に気分がいいだろうが、これは身体を通して、身体によって作られ、条件付けられ、生み出され、そして企てられた静けさだ。

 一生を通して私たちはこれをしている。これらの事柄は私たちの普通の日々の生活でも私たちによって為されつつある。あなたはちょっと笑う、それを感じることなしに。それは単なる身振りだが、あなたが笑う時、その感覚は生じる。この感覚は非常に間違った感覚だ。他人が欺かれるだけでなく、あなた自身が欺かれる。どんな愛も感じることなく、あなたは愛を示すことができて、他人は欺かれる。そして本物の愛、革命、新しい死、完全な変容であるものはこの代用が原因で決して可能ではないだろう。

 だから私はアーサナとムドラーには全面的に反対なのだ。それらは実習されてはいけない。それらは生じるだろうが、自然にそれらを生じさせなさい。その時それらは重要なしるしであるだろう。それならそれらは欺くものではなく、むしろ指標であるだろう。それらはあなた自身についての、そしてまた他人についての象徴と兆候であるだろう。しかしそれらを内側から生じさせなさい。もしあなたがそれらを外側から押し付けるなら、これらが一般的な形である時、それらはあなたの個人的な状況によって必要とされたものではないかもしれない。

 もしあなたがブッダの境地に至るなら、特定のアーサナと身振りが後に続くだろうが、それは決してゴータマ・ブッダのアーサナのようなものではない。何かが本質的に違っている。あなたはゴータマ・ブッダのようではない。あなたの全ての個人性やあなたのマインドと身体の全ての機構は異なる。もしあなたが何かを自分自身に押し付けるなら、それはまさに仏陀のようだろうが、それはあなたの個人的な状況に対応しないだろう。

 マハーヴィーラは非常に異なる体勢で彼のサマーディに達した。彼らはそれをゴドゥハサンGoduhasanと呼んだ。それはまさに乳搾りの女が牛の乳を搾る時の彼女の姿勢に似ている。彼はそのように座っていた。誰もこれまでその体勢でサマーディに達してこなかった。誰もそのように座らないが、あなたは無限に長い期間を永遠にそのように座ることができる。なぜマハーヴイーラはそのように座っていたのだろう?彼はそれを実習していなかった。それは単に生じた。何かが彼の内側で起こって、身体は特定の姿勢を、非常に馬鹿げた姿勢を取った。とはいっても、サマーディにおいては、多少なりとも不合理な、または非論理的なものは何もない。

 仏陀の体勢は申し分なかったが、マハーヴィーラの姿勢は非常に馬鹿げている。もし彼がアーサナを実習してきたなら、彼はちょうど仏陀のように座っただろう。なぜならそれは瞑想的な姿勢の伝統的な形だからだ。だが彼はアーサナを実習していなかった。サマーディが起こると、それは彼の身体と個性のために特別に必要とされた姿勢を作り出した。個人とはとても真正なものであるため、彼の中で開花するあらゆるものは独自の、そして独特の方法で開花する。だがもしあなたが外側から押し付けるなら、それは常に一般化された概念であるだろう。それはあなたの状況に合わないか、または調和しない。それは決してそうはあり得ない。

 私がアーサナに反対であると言う時、私はそれらには用途がないと言っているのではない。私はそれらは馬鹿げていると言っているのではない。私が言っていることは、それらを実習するのは馬鹿げている、ということだ。それらを生じさせなさい。それらは生じるだろう。そしてそれらが自然と生じる時、それらにはそれ自体の理由がある。それらはあなたの身体の内側に働きかけ、そしてあなたの身体は、それらを通して、新しい状況に適合するようになる。

 あなたはシルシアーサナ(逆立ち)で眠りにつくことはできない。あなたにはできない。なぜなら眠りには特定の身体の姿勢が必要だからだ。あなたが横たわっても、それは眠りが生じるに違いないという意味には必ずしもならないが、眠りが生じる時は、あなたは横たわるだろう。それはそのようにある。私が言っていることは、またはこれをどのように結論付けることができるかというなら、それは外側から始めてはいけないということだ。始まりは内側からでなければならない。開花は外側で起ころうとしているが、その根はあなたの存在の内側の核から、つまりあなたの心(マインド)から始まらなければならない。あなたは瞑想で始めなければならない。そして他のあらゆるものをその後に続かせなさい。いつであれアーサナはそれが必要とされる時に生じるだろう。その必要が済む時、それは自然と去るだろう。


質問: それは時々、私があなたの瞑想をする時、第二ステージで私はあるアーサナを行い始めているように思えますが、私は思うに、自分がそれらをしている時、私は行っているのか、それらを実習しようと望んでいるのか、それともそれらは自然に生じているのかどうか、その違いを言うことができません。私は自分がその違いを感じられるのかが確かではありません。

 その違いについて考えてはいけない。それらを生じさせなさい。その必要が済む時、その必要は果たされる。それらは自然に衰える。だから考えてはいけない。あなたはあらかじめ知ることはできない。あなたは実習しながら知ることはない。あなたはその違いを知ることはできないが、やがて、違いが感じられるだろう。それは非常に多く存在する。

 あなたが特定のアーサナを実習する時、それは規律が課された行為であるだろう。それは特定の機械的な手順、形、様式に従う。それが自然に生じる時、それは混沌としている。その中にはどんな規律もない。それは混沌とした行為だ。それが混沌としている時だけ、それは役立つ。なぜなら規律が課された行為は常に意識的な心(マインド)のものだからだ。それは決して深く進まない。

 それは混沌としている時に深くなる。それがより深く進むのは無意識の心(マインド)が混沌としているから、大変な混沌だからだ。それはまさに世界の始まりのようなものだ。あらゆるものは潜在的な形で在る。それはさまざまな形を取ることができるが、今のところはまだそうではない。それは全て煙のようで、全て雲っている。それに何らかの定まった型を押し付けようとするなら、あなたは何も成し遂げないだろう。あなたは自分の意識的な心(マインド)を周回し続ける。なぜならただ意識的なものだけが規律を強いられ得るからだ。無意識は決して規律を強いられ得ない。無意識が根本だ。無意識は源泉だ。

 瞑想の意味は無意識の中に入ること、その中に飛び込むこと、その中に在ることだ。それは混沌とともに混沌としていること、それは形なしで在ること、形の無いもので在ることだ。それは自分自身を未知の暗雲の中に、繋がれていないものに手放すこと、地図上にない領域に、海図にない海に自分自身を手放すことだ。あなたは規律が課された心(マインド)をもって行ってはいけない。そうしなければ、あなたは決して入ることはない。あなたは単に意識的なものの中で周遊旅行をするだけだ。あなたは繰り返し続ける。それは習慣になり、あなたはただ自分の意識的なものと提携させられるだけだ。規律が課された心(マインド)は常に貧しいマインドだ。それは決して混沌を歓迎しないだろう。それはこれまで限界の外側にいたことがない。それは無限のものに関わらない。それは常に少ない心(マインド)、小さな心(マインド)だ。規律が課された心(マインド)がどれほど偉大であろうとも、それは常に小さな心(マインド)だ。

 ある人は偉大な人かもしれない、ちょうどガンジーのように。ある人は偉大な人かもしれないが、その人は小さな心(マインド)を持っていて、全面的に意識的なものと規律に関わっている。彼は決して規律が課されていないもののところへは行かず、決してそれに触れない。それはちょうどあなたのバンガローの前にある庭のようなものだ。それは決して森のようではないが、無意識は常に境界のないうっそうと茂った森のようなものだ。あなたは決して境界を知ることはない。そこには道に迷うというあらゆる可能性がある。すべての大きなものと一緒では、危険な目に遭う可能性が存在する。すべての小さなものと一緒では、危険はない。道に迷う可能性はない。

 だからあなたの身体に規律を課してはいけないし、あなたの心(マインド)に規律を課してはいけない。規律が課されていないものと共に生きなさい、混沌的なものと共に生きなさい、危険と共に生きなさい。それが私にとって瞑想が意味することだ---不安定に生きること、混沌の中で生きること、限界無しで生きること。だがそれは規律があなたに生じないという意味ではない。それは生じるが、それは自由として生じる。それは内側からの規律、生きている規律であり、常に限りないものに触れ、常に潜在的に混沌としていて、常に爆発の中にあり、常に未知の中にあるだろう。その時それは瞬間から瞬間への規律だ。それは外側からは非常に一貫していないように見えるが、それにはそれ固有の一貫性が、すみからすみまで行き渡っている内的な一貫性がある。

 あなたが外側から自分自身に規律を課すなら、あなたは決して無意識を知ることはないというあらゆる可能性がある。そして意識的な心(マインド)は全く心(マインド)ではない。それは全く生ではない。それは単なる道具だ。それは全くあなたではない。それは社会のために開発させられた単なる実用的な道具にすぎない。私たちは他人たちと生きなければならないため、私たちには規律が必要で、特定の人格が必要で、自分たちについて知ることができて頼れる一定の事柄が必要だ。意識的な心(マインド)は単にあなたと他人との間の関係性にすぎない。それはあなたとあなたが関わる全ての人たちとの間を繋げるものだ。しかしそれは決してあなた自身との関係の中にはない。

 私はある物語を思い出す。アショカ王は仏陀のメッセージを伝えるためにセイロン(現スリランカ)に彼の息子を派遣した。彼はそこで王に会い、いくつかの質問をした。まさに最初の質問はこれだった。「あなたが関わる人たちが世界にいます。そしてあなたが関わらない人たちがいます。これらは二つの範疇です。これらの二つの範疇にいない誰かが残されていますでしょうか?」王は「私が残っている。」と言った。アショカの息子は言った。「ではそのメッセージはあなたに届けることができます。あなたは知的な人で、あることをあなたに言うことができます。これらの二つの範疇の、関わったものと関わらないものとの間に何かが残っているのか、それともすべてが終わっているのかを知るために、私はこの質問をしました。」

 この三番目---あなたに関わっているのでもなく、関わっていないのでもないもの---があなた自身の存在の無意識だ。この三番目が瞑想の領域だ。意識的な心(マインド)は決して助けにはならない。それはあなたの世界との関係性、または非関係性に関する限り助けになる。それはあなたに関する限り決して助けになり得ない。瞑想は意識的な遂行を意味していない。それは努力せずにあなた自身の中へ飛び込むことを意味している。規律と共に一歩一歩行くことはできるが、あなたは決してジャンプに規律を課すことはできない。真の瞑想はジャンプを意味する。私が話しているテクニックに適用した三つの段階は瞑想の段階ではない。それらはただジャンプのための踏み段にすぎない。

 瞑想とは本来ジャンプで、未知なるものへ飛び込むことだ。だからあなたの身体に規律を課してはいけない。それをジャンプに従わせなさい。物事は後に続く。アーサナはあるが、ただあなたによって必要とされるものだけがある。そこには新しいアーサナが、通常は描写されないものが生じるかもしれない。なぜなら可能性は無限だからだ。描写は単に一般的に感じたいくつかのアーサナの一般化された形でしかない。

 ムドラーは無限だ。それらも後に続くだろう。それはあなたがそれらに名付けることさえできないものかもしれない。それらを生じさせ、そして去らせなさい。それらを実習してはいけない。そしてそれらが生じる時はそれらにしがみついてはいけない。それらを自然に生じさせ、そして自然に去らせなさい。全くそれらと関わってはいけない。それが私が全てのアーサナに反対すると言う時に意味していることだ。全くそれらと関わってはいけない。

 アーサナには浄化的な価値がある。普通、私たちのマインドは誰かと、または何らかの状況と関わる時にだけ働く。その意味は、私たちのマインドはただ反応するだけだ、ということだ。それは決して行わない。もしある人が行い始めるなら、私たちは彼を気違い病院に入れる。なぜなら彼は不合理で馬鹿げているように見えるからだ。もし彼が行い始めるなら、それは彼がどんな状況にも関わっていなくて内側から行っているという意味を持つ。

 そこで多くのものが私たちの中に抑圧されている。なぜなら私たちは行うことができないからだ。私たちは常に反応しなければならないし、反応するための状況を待たなければならない。もし怒るとしても、あなたは単に怒ることはできない。怒りが現われるための適当な状況を待たなければならない。誰かが、あなたが反応できるための状況を引き起こさなければならない。もしあなたが挑発なしで怒り始めるなら、あなたは狂っていると言われるだろう。あなたが反応している時でさえ、あなたは狂っているが、反応においては、あなたは自分自身を、そして他人を正当化する。もしあなたの行いが反応でないなら、あなたは決して正当化されないだろう。

 そこで多くのものが表現を必要としているが、それは決して表現されない。なぜなら表現されるべきどんな状況もそれに対して現われないからだ。だからあなたは抑圧して戦い続ける。あなたは愛を大気中に表現できないので、愛は抑圧される。その時別の好奇心をそそる現象が具体化し始める。あなたは愛に満ちているが、それを表現できない。それから誰かが、あなたが愛することのできる者としてやって来るが、あなたは愛していない。そこであなたは行い始める。本物は抑圧されて、わざとらしいことがそれに行われる。このように生全体は混乱状態になる。

 瞑想においては、抑圧された印象のはけ口が必要になる。あなたの抑圧した態度、気分、行為、ムドラー---あなたの抑圧した波動は外へ出なければならない、反応としてではなく、自発的な行為として---他の誰かと関わるのではなく、ただ溢れ出すものとして---誰かに対してではなく、誰かへ差し向けるのではなく。それらは差し向けられない。あなたは泣き始める。笑い始める。ただ差し向けられない時だけ、表現は完全なものであり得る。あなたにはそれに対するどんな正当化も必要ない。それがそれ自身の正当化であり、そしてそれは完全なものであり得る。それは他の誰かとは無関係だ。したがって、あなたが表現している時、あなたはそれを全面的に表現している。それを抑圧する必要はない。今やあなたは空に向かって話していて、今や大気を愛していて、今や神に対して怒っている---無関係に、差し向けられず。その時あなたは全面的に表現に富むようになり、抑圧されたマインドは失われる。これは浄化(カタルシス)だ。あなたは状況なしで表現する必要がある。人間のマインドは非常に抑圧されているので、状況がそこにある時にだけそれを表現し続けるなら、私たちは決して抑圧から解放されないだろう。

 あなたは行いを止めなければならない。なぜなら行いは代用として作られるからだ。それは抑圧の本質的な部分だ。あなたの周囲の事情とあなたの必要は一致しない。あなたが必要とする時、事情は都合が悪い。そして事情が好都合の時、あなたの必要は過ぎ去ったものを切望し、それであなたは行う。

 瞑想で、浄化が起こる時、あなたの内側に打ち寄せる新しい生を感じ始めるだろう。あなたは決して二度と行うことはできない。

 今、あなたは何の理由もなく笑うことに対して十分大胆でいるだろう。そして何の理由もなく、何の関係もなく、どんな状況もなく怒ることに対して十分大胆でいるだろう。今、二番目の大胆さが後に続く。あなたは行わないことに対して十分大胆でいるだろう。そしてそれは勇気の最も大きなしるしの一つだ。あなたの人格は真正のものであり始める。

 これらのアーサナ、ムドラー---それらは浄化、表現、溢れ出るもので、それらが溢れ出れば出るほど、あなたは無重力になり始める。それからあなたが完全に無重力である日がやって来る。ただその状態においてのみ、一人だけの独りへの飛翔が起こる。それでも、もしあなたがアーサナを実習するなら、そこに浄化はなく、ただ抑圧だけがあるだろう。もしそれらがあなたに生じるなら、それらは表現に富んでいる。それらがあなたに生じさえすれば、浄化はある。

 あなたがアーサナを自分自身に押し付けるなら、その行為もあなたの全ての抑圧的な手順の重要部分であるだろう。あなたはアーサナを押し付けるが、あなたのマインドはそれらに対する用意ができていない。あなたが身体に特定の姿勢を強いると、それはあなたの意志に従わなければならないだろう。このタイプの修練は、もしそれの論理的な結末のために為されるなら、人格に分裂を引き起こすだろう。あなたは精神分裂症になるだろう。あなたは二人になる。抑圧されている人と抑圧している人に---。そしてヨーガは一つになることであって、二つになることではない。それは統合であって、分割することではない。ヨーガ的な修練は体操であって、決してヨーガではない。

 私にとってのヨーガサナは、あなたに生じた、あなたに起こったアーサナだ。そうでなければそれはただ肉体的な修練、負担、規律であるだけだ。それは健康を与えることを証明できるかもしれないが、それは決して精神霊的(スピリチュアル)であることを、または統合されたことを証明することはできない。その健康はあなたの人格が二つに分割されるために非常に高い代価であるだろう。あなたは精神霊的(スピリチュアル)であるよりも非精神霊的(スピリチュアル)になり始める。これは好奇心をそそる現象だ。これらのアーサナは全て瞑想指向であるように見える。それらはそうでなければならないが、いまだに、世界中で、アーサナについて語られる時はいつでも、瞑想は最も少なく語られる主題だ。彼らは瞑想をアーサナに変えた。

 私にとっては、瞑想が始めにあり、他のあらゆるものはその後に続く。瞑想は地盤だ。それは基礎だ。それは種だ。あらゆるものが瞑想指向であるべきだ。


質問: あなたの瞑想をした後、人は時が経つにつれてより深く瞑想することができるのでしょうか?

 時が経つにつれてあなたは深みを持ち始めるだろう。ますます深く進みなさい。ちょうど井戸を掘っている人のように。彼は同じ道具を用いて、同じスピードで、そして同じ方法で掘り続ける。やがて、全ての土が取り除かれ、井戸は水が噴出する瞬間が来るまで深く、深く、深く進む。それらはそこにある、果てない水が、深い無意識という水が---。ただ土の層だけが完全に取り除かれるべきものだ。深いマインドはそこにあって、あなたを待っている。それとあなたとの間には土の大きな層がある---抑圧された雰囲気や抑圧された思考の大きな層が---無意識の不安定と攻撃に対する障壁としてあなた自身によって作られた大きな層がある。あなた自身がこの障壁を作ってきたのだ。

 あなたは掘り続けなければならない。時が過ぎるにつれて、あなたは自分が前進しているとは感じないかもしれない。あなたはある地点に来るまで感じないだろう。なぜならあなたは自分が水に達した時にジャンプしたことしか感じられないからだ。内的な源泉が爆発する時、ただその時だけあなたは感じることができる。その時まであなたはまだ乾いた土を掘っているだろう。あなたが掘ったものは既に捨てられていて、もうそこにはないため、それは同じ土ではない。それでも、そこにはまだ掘り出されなければならないより多くの土がある。この掘ることはあなたとあなたの瞑想にだけ関するものだ。それは爆発に関するものではない。爆発は最高地点の時に生じる。それはたった一分で生じる。それはあなたの中で爆発し、あなたはそれとともに爆発する。それは時間を超えた出来事だ。だからただ掘り続けなさい。その仕事は退屈で、また単調であるだろう。何かがそれぞれの段階で達成されるようなものである時、その作業は決して退屈ではない。あなたは結果を得ていて、あなたの野心はますます達成するようにあなたを駆り立てる。

 しかし瞑想では、ある地点に来るまで、すべてが退屈で、すべてが単調だ。それは同じことのように見える。たとえそれが同じではなくても。あなたはあらゆる瞬間にますます深く進んでいるが、その深みがあなたの内側で爆発しない限りあなたは自分が深みに進んだことを決して判断できない。ある瞬間に内側でそれが起こる時、あなたはその過程が完璧であるのがわかるだろう。その時まで、何もそれから生じていないように見える間、ずっとあなたは暗闇で手探りしていて、万が一に望みをかける。それから突然、それは生じる。瞑想に関する限り、深い状態では段階的には何も成し遂げられない。それはあるか、それともないか、だ。だからあなたはそれと共に忍耐強くなければならないだろう。そしてあらゆる個人の探求者について言えば、時間的なギャップは当然異なる。

 あなたがあなた自身とあなたの深みとの間にどれだけ多くのものを蓄積してきたかは誰も知らない。その層は非常に薄くて、たった一つの企てがそれを押し破るということがあるかもしれない。その層は濃密で、それを形成するためにあなたは多くの生を費やした、ということがあるかもしれない。それはそれぞれの個人次第だ。

 一つのことが重要で、それは忍耐だ。忍耐、そして結果を期待せずに働きかけることだ。もしあなたが結果を切望するなら---もしそれらを渇望するなら---あなたは自分のゴールを失うだろう。結果がどこにあるのかを尋ねることは本当に気短かだ。もしあなたが忍耐をもってそれを行い続けるなら、それはそれ自体で変化をもたらすだろう。どんな期待もなしの忍耐はそれ自体で大変な変容だ。たとえ瞑想が達成されなくても、あなたは変わるだろう。なぜなら忍耐強くあるためには、結果を求めずに何かをするためには、大変なスタミナを、大変な忍耐力を必要とするからだ。このスタミナはしだいに強さを増してゆく。中間にある層のせいで時間的なギャップはあるだろう。

 その上、もしあなたが決断するにおいて全く忍耐と強さがないなら、あなたは爆発の衝撃に耐えられないだろう。爆発は至福だ。それはとても強烈なので保持する能力を必要とする。それは強い内面の意志を必要とする。だからたとえあなたとあなたの深みとの間のその層が薄くても、それは長い時間を要するだろう。その時間はあなたの意志を強くするために必要とされる。結果なしで生きることに耐えられる人は偉大な結果を観察できるようになる。そうでなければ、彼は偉大な瞬間に適していない。

 もしあなたが準備をしていない時に至福があなたにやって来るなら、あなたはそれに耐えられないだろう。それは耐え難いものだろう。あなたは気が狂ってしまうだろう。あなたは自分のバランスを永遠に失うだろう。それは大変な現象だ。それは宇宙的な現象だ。それは海が滴の中に注ぎ込まれることだ。だからあなたはそのために準備をしなければならない。そしてこの準備はあなたが忍耐強く、絶え間なく努める時に生じる。結果を求めてはいけない。忍耐強く待ちなさい。それがシュラッダによって本当に意味していることだ。それは何か特別な事を信用することではない。それは自分自身を信用することだ。それは他の誰かを信じることではなく、自分自身を信じることだ。私たちが結果を求める時、それらも生じるだろう。その時私たちは自分自身に対して誠実ではない。

 時間が経つにつれて、あなたは深く進む。これは時間的な要因のせいではなく、それを通過している間のあなたの忍耐が理由だ。カレンダーの時間のせいだけではなく、単調さにもかかわらず、何も得られなくとも、どんな結果も期待しないあなたの忍耐強さのせいで、だ。あなたは衰えない熱意をもって更に続けるだろう。これは意志を作り出し、この意志はあなたが大きな至福でいられるようにさせる。宇宙を充満させるためには、特別な成熟が必要になる。この霊的な充満において、宇宙があなたのところにやって来る。これはあなた自身の再誕生だ。

 インドで彼らは、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族)、そしてヴァイシャ(市民)は二度生まれる、そしてスードラ(下層労働者)は一度生まれる、と言う。私は、一度生まれる者はスードラだ、と言う。二番目の誕生を達成しなかった人はスードラだ。だから私たちはみんなスードラ、不可触賤民だ。なぜなら神は私たちに触れなかったからだ。この誕生は私たちが誠実で忍耐強いなら生じるだろう。それのために待ちなさい。それのために祈りなさい。それを望みなさい。しかし急いではいけない。


質問: スピリチュアルの頂点に達するために、霊的(サイキック)な力と霊的な事柄の段階を通過することは必要ですか?

 霊的(サイキック)な領域を通過する必要はない。それはあなたがそれらを通って行かないという意味ではない。あなたはそれらに注目しないほどの非常なスピードでそれらを通過することができる。あなたはゆっくり過ぎて、霊的な世界のありとあらゆる段階を踏むこともできる。それらを通って行くことは間違いない。なぜならその領域はあなたとあなたの内的な深みの間に、ありのままのあなたとそうあるであろうというあなたとの間に存在しているからだ。あなたはジェット・スピートで通過することができて、それらを決して経験しないことがあり得る。またはあなたは牛車の速度で通過することができる。もしあなたが景色を見たいなら牛車に乗る方がいいが、私が話しているものはジェット技法だ。あなたはこれらの領域を通過するだろうが、あなたは知らないだろう。

 けれども、あなたにこれらの力への何らかの憧れがあるなら、あなたのジェットは牛車のようにふるまう。あなたに何らかの霊的な力を開発したいという熱心な願望があるなら、それらを通過する時、それらはあなたを捕える。私たちには自分が気づいてさえいないものへの内的な憧れがある。私たちのマインドは基本的に力を求めている。私たちは外側の世界で求めるか、または内側で求めるかのどちらかだ。人は自分が求めているものに気づかなければならない。もしあなたが力を求めているなら、霊的な領域がそこにある。あなたはそのどこかで捕えられるだろう。なぜなら外側の世界は内側の世界が与えられるような力をあなたに与えられないからだ。内側には大変な力の潜在性がある。

 たった一人の人間の身体の中には非常に多くの原子エネルギーがある。もしそれが爆発するなら、そしてその総てのエネルギーが解放されるなら、地球全体とその住民を破壊することができる。物理学者は原子エネルギーについて語る。ヨーギたちは霊的(サイキック)エネルギーについて語る。そのエネルギーは同じだ。そのアプローチは異なる。物理学者は身体の原子を通してアプローチする。ヨーガは霊魂(サイキ)の原子を通してアプローチする。そして両方のこれらのアプローチは同じものの二つの極だ。

 ヨーガは内側からアプローチする。それでヨーギは霊的な力について語る。それらは存在するが、あなたがそれらを求めているなら、あなたはそれらに捕えられるだろう。そしてそれは非常に痛ましい、哀れなものだろう。あなたは宇宙の、絶対的な至福の非常に近くにいる。あなたは花の近くにいるが、あなたはその上で自分の手を閉じてしまった。そこで人は用心しなければならない。

 この技法で私はあなたを油断なくさせるようにはしない。なぜならそれは「ジェット技法」だからだ。それはとても速く行くので、あなたは霊的な領域に注目することなくそれを通過するだろう。それでも、私たちが読んだり聞いたりした全てのものが私たちのマインドの中に蓄えられ、集積されているために、私たちは霊的な力に注意しなければならない。それらは存在するが、それらはそれ自体にどんな重要性もない。

 力を求めるマインドは決して安心できない。なぜならそれは基本的に激しいからだ。激しさは力を必要とする。私たちは他人より優りたいと思う。これは原子エネルギーか霊的エネルギーによってそうあるのかもしれない。それは政治指導者か、または精神霊的(スピリチュアル)な先導者のようなものだ。私たちは力を、威信を、高くあることを望む。力指向のマインドは激しいマインドを意味する。激しいマインドは決してスピリチュアルであることはできない。せいぜい、霊的であることはできる。最も低いものとしての力は物理的だ。最も高いものとしてのそれは霊的であり得る。

 だがもし人が真理を、至福を求めているなら、人が神性なものを求めているなら、この力は求められるべきではない。あなたはこの力を否定しなければならない。あなたは柔和でいなければならない。イエスは「柔和な者は幸いなり、彼らはその地を受け継ぐために」と言ったが、あなたはその地を受け継ぐことができるように柔和でいる必要はない。もし受け継ぐことがその理由と願望であるなら、あなたは柔和ではない。柔和な人とは謙虚な人を意味する。彼は力を求めていない。彼はその次元を完全に捨てた。彼はこの意味では貧しい。彼は何者でもない。何者でもない人だけがあらゆるものである人になることができる。何者でもない人が全てである人でいることができる。

 だから力は求められるべきではないし、憧れてはいけない。そしてそれがあなたの道に生じる時、ただそれに対して目撃者であり、そして先に進みなさい。ほんの一瞬もぐずぐずしてはいけない。なぜならその休止でさえ、その近くに立つことさえ致命的であることが証明されるだろうからだ。それは堕落させる。力は堕落させる。それが悪いからではなく、私たちがそれの後を追い求めるからだ。絶対的な力は絶対的に堕落させる。そして外側の力は内側の力ができるほど酷く堕落させることはできない。それはより以上に絶対なものであり、より以上に他人から独立している。それはエゴにとっての重要な拠点であると証明することができる。

 外側の力は常に他人に依存している。あなたは決して絶対者ではない。あなたは決して君主ではない。あなたは常に依存的だ。どこか遠く離れた誰かがあなたの堕落の原因であり得る。もしあるブロックが取り外されるなら、宮殿全体が崩れるかもしれない。ヒットラーはひたすら外側の権力に基づいたこの力を実現した。そのような人々は偉大なピラミッドを建てて、その頂点に立つが、彼らは完全にこれに依存している。だから彼らは常に恐れている。ピラミッドのたったひとつのブロックが取り外されると、彼らは落ちてしまう。内側の力は、あなたは他の誰にも依存しないという意味で絶対なものになる。あなたは全体であり、それのたった一人の主人なので、それはより自己中心的になる。外側の力は人を堕落させてきたが、内側の力はより以上に彼を堕落させてきた。堕落させるものはエゴを求めること、それに憧れることだ。真実の現象はそれとは異なる何かだ。もし私たちが堕落させられるなら、力が生じる時に、私たちは正体が暴かれる。それは堕落することに対しても私たちは力を必要とするからだ。

 人は内側の霊的な力に気づいていなければならない。それらは存在する。それらを見てはいけない。ただそれらを通過しなさい。ただ目撃者でありなさい。それらはあなたと共にあるだろう。それらの働きはあなたと共にある。影のようにそれらはあなたの後に続くだろう。物事はあなたの周りで起こり始めるが、あなたはそれらを意識しない。あなたはそれらを用いて自分のエゴを強くさせない。

 この技法を通してあなたは霊的な水準を通過するが、スピードを用いてそうする。あなたの力はあなたによってではなく他の人たちによって感じられる。シッディたち(偉大な霊力に達した人たち)がいる。物事は変わり始める。あなたではなく、他の人たちがそれらに意識するようになる。もし誰かがあなたのせいで自分に何かが起こったと言うなら、あなたは常に見上げて、そしてこう言う、「<彼>のせいであって、わたしのせいではない。私は何者でもない」イエスが、人々はイエスが触れたために治癒された、ということを人々から知った時、彼は言った。「私のせいではなく、<彼>のせいだ。私は何者でもない。私はただの仕える者にすぎない。私は単なる道具だ。」

 力はそこにあるが、それらはエゴを中心としたものではない。エゴはそこにないだろう。力はそこにある。それらは神指向であるか、または神を中心としたものだ。しかしあなたはそれらに関わってはいけない。それらが生じる時、ただそれらを通過してさようならと言いなさい。











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