ザ・サイレント・エクスプロージョン
  第2章:瞑想、新しい次元
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翻訳・出版暦
The Silent Explosion
   序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問



       The Silent Explosion      第2章:瞑想、新しい次元

 瞑想の体験
実習の長さ: 40分。朝に行なうためのもの。

 第一ステージ: 10分間の速くて深い呼吸。

 眼を閉じて立った姿勢でくつろぎなさい。出来るだけ強く、深く、そして速く鼻で呼吸し始めなさい。まる10分間強烈に呼吸し続けなさい。それを混沌的にあなたの100%のエネルギーを用いて行いなさい。深い、速い、強烈な呼吸は生理学的なプロセス、過剰な酸素の増加によって供給される身体電気をもたらす。身体は震え始め、精神(マインド)は自由になって開放され、あなたは発電機になる。

 第二ステージ: 10分間。身体と感情の反応に協力しなさい。完全に手放しなさい。

 速くて深い呼吸は自動的に続く。その間に身体と精神(マインド)は動き始めるだろう。反応を制御してはいけない。あなたの身体に完全に協力しなさい。動きは多くの形を取るだろう。それを抑圧してはいけない。起こることは何であれ起こらせなさい。飛び跳ね、踊り、泣き、叫び、笑いなさい。あなたが好きなことを何でもやりなさい。内側の狂気を全て外に出させなさい。あなたが感じるものを完全に表現しなさい。身体はそれ自身の方向を取るので、その動きに干渉してはいけない。そのプロセスの目撃者でありなさい。あなたは身体が別々の、分離した何かになり、自動人形になったのを感じるだろう。今、あなたは自分が身体ではないことを知るようになる。

 第三ステージ: 10分間のフー、フー、フー、フーという叫び。

 混沌としたプロセスが続いている間に、フー、フー、フー、フーと叫ぶことであなたの身体的な中心を叩き始めなさい。フーという振動の貫通はあなたの保存されていたエネルギーの活力に満ちた氾濫を呼び起こし、全ての心霊的(サイキック)な神経中枢を刺激して変える。脊柱の基底に目覚めた渦巻状のエネルギーは頭の天辺への旅でクンダリーニの通路の中を上昇するように強いられる。今やあなたはエネルギーの開いた流れになる。あなたの生の力は意識をエネルギーの頂点にもたらす上方への流れの中を動く。

 第四ステージ: 10分間の深いくつろぎ。動かずに、ただ沈黙して待ちなさい。死んだようになりなさい。あなたのマインドと身体を完全に手放しなさい。

 身体は倒れる。全ての緊張は完全に出し尽くされる。座るか横になればいい。しかし今、完全にくつろぎなさい、そして空っぽになりなさい。あらゆるものを捨てて、ただあるがままのあなたのままでいなさい。これが非行為の瞬間だ。呼吸することもなく、動きもない。ただ沈黙しなさい。

 あなたは真空に、虚空に、神性な恵みのための開かれた経路になった。それはあなたがいない時に流れる。あなたは完全に意識していて、くつろいでいて、何もしていない。この瞬間に瞑想は自然に起こる。あなたは瞑想するために何もすべきではない。あなたが自分の活動指向の精神(マインド)を明け渡すようになる瞬間、瞑想がまさにあなたの中に花開くだろう。エゴは行為者と一緒に去る。あなたは中心にジャンプした。


 質問: 和尚、このテクニックで内側の感覚、感情を表現することは不可欠なのですか?

 和尚: そうだ、あなたは自分がそうであるものを完全に表現しなければならない。もちろんそれが狂気を意味しているのはあなたが狂っているからだ。私たちは何世紀にもわたり、そして誕生以前にあらゆるタイプの狂気を集めてきた。だがもしあなたが最も奥深い核からこれらの混沌とした波動を表現するなら、それらは永遠に投げ捨てられる。そのため、まず第一に、人は狂気から出るために気違いにならなければならない。悪魔と幽霊はそのからくりがほどよく働くことができる前にそれから出て来なければならない。それをひとつの実験にさせて、精神的重圧はそこに信じるべきものはないということをあなたの友人に言いなさい。それを信じてはいけない。ただ何が起こるのかを知るためにそれをやりなさい。そして物事は起こらざるをえない。なぜなら狂ったマインドはすべての人の内側にあるからだ。

 私たちは、自分は正常で正気の存在であることを信じるように自分自身に催眠をかけてきた。真実というものは微塵も無い。これは催眠だ・・・。全世界は大きな気違い病院だ。背後事情で抑制されている狂気は常に上がって来ようと、出て来ようとする。瞑想はひとつの爆発だ。爆発は夢を見たり酔っ払っている間にも起こる。L.S.D.やメスカリンは爆発の原因になる。しかしその爆発はL.S.D.やメスカリン、または似たようなドラッグから生じるのではない。瞑想もそれを作っているわけではない。爆発はあなたの存在そのもの、あなたの内在的な性質だ。瞑想はあなた自身を、あなたの内側にある真の存在をただ露わにするだけだ。

 サダク(探求者)にとって、化学的ドラッグを通してその人自身を知ることは多くの古い伝統の本質的な部分になっていた。さまざまな酔わせる物は内側にあるものを知るために使われてきたと知られている。そしてマインドに規律を守らせようとすることさえまったくナンセンスになる。あなたに対しては、最も奥深いところの核を知ることはなく外面的に規律を教え込まれている。あなたは外面的には規律を守るようになるが、狂った存在は常にあなたの内側に残っている。だから最終的な結果は精神分裂症にならざるをえない。あなたの内側には同時に生きている二つの存在がある。存在全体は分裂する。そこには優柔不断と内側での絶え間ない葛藤がある。そしてこの葛藤はあなたのエネルギーを浪費する。だから存在の調和と統一へ向けた最初の一歩は規律ではなく内側にあるものを知ることだ。

 そしてその内側は何世紀にもわたって、何千年にもわたってとても多く抑圧されているので、それはあなた自身の一部になってしまっている。あなただけでなく、人類全体がそれを抑圧してきた。私たちはその系統の単なる一部に過ぎない。私たちはそれを知っていながら、意識的には抑圧してこなかった。それは私たちの遺産の一部だ。そしてこれがこのテクニックにある唯一の恐れだ。抑制され、抑圧されて集められた精神(マインド)、知られていない要因がその狂気の、全ての緊張の、全ての葛藤の根底にあるものだ。だからそこには、もし私たちが自分を開くなら、自分の抑制を捨てるなら、何かが出てくるだろう、という無意識の恐れがある。そしてこれは起こらざるを得ない。その恐れは疑いを作り出して、その疑いは再び恐れを抑圧する道具になる。


 質問: 第一ステージでの呼吸はバストリカや他のヨーガの呼吸の実習よりも深くあるべきなのですか?

 和尚: バストリカよりも深くて速い、その両方だ。


 質問: 呼吸している間に何らかの特定のリズムや波動を持つことは必要ですか?それは心臓に問題を抱えているかもしれない医学的に病弱な人を傷つけたりしませんか?

 和尚: いや、波動やリズムの問題はない。そしてそれは決して傷つけない。もしあなたが何らかのリズミカルな技法をやってみるなら爆発は起こらないだろう。なぜならその時再びあなたは規律を守っているからだ。だから深さ、強烈さ、そして速さを強調するだけにして無秩序的にあらしめなさい。全存在がその中に巻き込まれなければならない。何も引き止めることはできない、でなければあなたは外側に留まるだろう。そしてあなたは内側にいなければならない・・・深い内側に。あなたが完全に巻き込まれる時、身体電気が動き始めて、精神(マインド)全体は振動し始める。そしてあなたが自分の身体の中に以前には決して感じたことのない何か新しいものを感じる時、そのテクニックはあなたをつかんだことになる。今やそこには何の疑いもない。なぜならあなたがこれまで知ったことのない感覚がやって来て、あなたはその何かを体験したからだ。

 私たちは自分の身体電気を決して体験したことがない。その感覚も私たちの人格の抑圧された部分だ。私たちは自分の精神(マインド)を抑圧してきただけでなく自分の身体も抑圧してきた。私たちは身体の知恵を抑圧してきたが、これは最も不自然なことだ。だがもしある人が完全に振動するようになるなら、電気は再び動き始めるだろう。まさにその瞬間に、彼は社会の束縛から外へ出る。彼はとても活気に溢れ、とても力強くなるので、今やあなたは彼に従うように圧力をかけることはできない。エネルギーがそれ自身の目覚めに成長する時、あなたは自分がほんの一つの存在に過ぎない、奴隷状態に在るもの、とは決して感じない。あなたは境界のない、限界のないもの、力強いものとして感じるだろう。この瞬間に人々は自分自身を神と、ブラフマスミ---私はブラフマンだ---と宣言してきた。アハム・ブラフマスミ---私は神だ---という最初の感覚は、私たちの身体の中で眠っている電気の動きの感覚だ。

 深くて、速くて、強烈な呼吸はこの感覚を作り出す。その時身体を通して得たすべての体験は私たちにとって真実になる。私たちが現実(リアル)と呼ぶあらゆるものがそうであるのは、私たちがそれを自分の身体を通して感じるからだ。私たちにとっての現実性(リアリティ)とは、私たちの身体を通して感じた何かを意味している。私があなたは現実(リアル)だと言うことができるのは、私があなたを見ることができるから、あなたに触れることができるからだ。もしあなたに触れることができないなら、あなたは単なる幻覚になる。私たちにとっての現実性(リアリティ)とは、私たちの身体だけを通った現実性(リアリティ)だ。

 だから私たちの身体にある新しい次元の体験を作り出すどんなテクニックも、私たちにとっては現実になる。今、第一ステージであなたは強烈に呼吸していて、あなたは生き生きと、どんな疑いも生じないほどの現実を感じる。その時あなたはこの強められた現実性(リアリティ)の体験の後、さらに先へ進むことができる。そしてこれが私が第一ステージを強調する理由だ。
 さて二番目の段階だ。呼吸は続いている。その間に、身体には多くの反応があるだろう。それは多くの形を、多くの姿勢を取るだろうが、それらは起こるものであって、あなたが訓練するものではない・・・。だから多くのことが起こるだろう。


 質問: 私たちはそれをどのようにするべきなのでしょうか? どんな身体の姿勢で?

 和尚: どんな方法で座ってもいいが、もしあなたが立っているなら、その方が更によい。目は閉じているべきだ。あなたはこれを空腹の状態で、食事をする前にしなければならない。
 さて第二段階のためには、身体をくつろがせなさい。それに自由な動きを与えるためにそれをくつろがせなさい。それを踊らせ、泣かせ、笑わせなさい。起こることは何であれ起こらせなさい。何も抑圧してはいけないし、身体にそれ自身の方向を取らせなさい。それは内側に隠されたものを表現するだろう。
 今、第三段階を加えよう。その動きが頂点に達すると、あなたはフー、フー、フーと叫び始める。振動の響き、マントラには、あなたの内的なエネルギーへ、あなたの内的な個性へ影響を及ぼす打撃がある。フーという響きは、それが身体電気を目覚めさせるような身体的熱を作り出す。そしてもしあなたがこの振動でたたき続けるなら、それはセックス・センターを打って、それらの組織の中に蓄えられたエネルギーを解き放す。あなたは自分の全身が活気を帯びて変わったのを感じるだろう。

 異なる響きが何世紀もの間サダカス(探求者たち)によって使われてきた。スーフィーたちはアラー・フーという非常に力強くて響きがよく通るマントラを使った。ヒンドゥー教徒たちは比較すると非常に穏やかでハートのセンターよりも深く浸透できないオウムを使った。だからこのテクニックでは私たちはスーフィーのマントラの一部であるフーだけを使う。

 あなたの目覚めたエネルギーがより力強く成長する時、あなたは自分と自分の身体との間に隔たりを感じ始めるだろう。この隔たりが感じられるのは、今、あなたが意識の海に浮かんでいるからだ。あなたは身体が踊っているのを見るが、今や分離した実体として見るだろう。あなたは上方にあって超えている何かだ。あなたが身体を、それ固有の動きやそれ固有の表現を持つ生物学的単体として、自動人形として感じる時にだけ、意識は自由を、物質と肉体の重荷からの自由を感じ始める。


 質問: なぜ私たちはこの非同一化を私たちの俗世間の場では感じないのか言っていただけませんか?

 和尚: あなたがそれを感じることができないのは、すべての瞬間にあなたはそれと同一化しているからだ。そこにはあなたとあなたの身体との間に隔たりはない。あなたがしていることをあなたの身体はしていて、そしてその逆もある。あなたとあなたの身体の行為は一つで同じものとして同一化されている。しかし身体がそれ固有の方向を取る時、それは自動人形になる。あなたが決して計画しなかった、決して考えなかった物事が起こり始める。私はこれをしているのだろうか?私はこれを感じているのだろうか?そしてあなたは自分がそれをしていないことを知っている。あなたはそれを意図していなかったが、ダンスは元気よく続いている。その時そこには隔たりがある。行為者と行為との間の隔たりがそこにある!あなたはどんな行為も行っていない。

 今やあなたは身体と、自動人形と自分自身を同一化することはできない。それは不可能だ。あなたは機械と自分自身を同一化することはできない。動く者と動く物はその動きを通して一つになる。だが身体があなたの意思なしで、あなたの意識的な努力なしで動く時、身体は分離した機械になる。その時だけあなたは自分が違っているのを見ることができる。
 これはある感覚として、そのように絶対的にはっきりしたものとして生じるので、そこにはどんな混同も残らない。だから私は身体の動きを強調するのだ。それらを起こらせなさい。その時あなたは自分の身体が狂人のもののように、または動物の、または機械のようになったのがわかる。あなたはそれと同一化できない。あなたは遠ざかったままでいる。

 このように観照する意識は効力を持つようになる。あなたは起こっていることを全て観照し始める。身体は動いている、手は動いている、それはとても多くの形、ムドラーを取る・・・知ることなく、案出することなく、計画することなく。今やあなたは行為者ではなく、単なる見る者だ。今、あなたは自分は身体ではないという否定的な段階を知るようになった。
 私の考えでは、本当の正気は狂気さの超越の後に生じるもので、既成の答えに基づいたものではなく、落ちた質問から、失敗した、死んでしまった質問から生じる。その時そこには質問も答えもない。マインドは穏やかに、静かになり、そして一つになる。その時第四ステージが達せられる。それはあなたが緊張の頂点に、その絶頂に達した時にだけやって来る。その時くつろぎが生じる。

 前の三つのステージを、それぞれの10分間を通過すると、次の10分間の、またはそれ以上のことのためにただくつろぎなさい。あらゆるものを、三つのステージと全てを捨てなさい。ただ倒れなさい、またはただあなたがそうあるままでいなさい。今やすべきことは何も無い。あなたは完全に疲れているために、どんなことをするのかという質問は全くない。マインドは疲れていて、身体は疲れていて、全ては使い尽くされた。あなたの全てのメカニズムは疲れている。その時「手放し」が自動的なプロセスとして達成される。ただ第一ステージにおいてのみあなたは行為し始め、それからそこにはステージの結果がある。そしてもしあなたがやり続けて四番目を追加しなくても、それは自然とやって来るだろう。

 あなたが続ける時、全てが使い果たされる瞬間がやって来るに違いない。あなたは倒れて、すべきことは何も無い。第四段階は非行為の瞬間だ。この非行為を私はディヤーナ、瞑想と呼ぶ。最初の三つのステージは単に階段であるにすぎない。四番目が扉だ。その時あなたは在る。その時すべきことは何も無い。呼吸もなく、動きもなく・・・、ただ沈黙だけ。三つはある程度まで為されなければならないが、四番目は自発的にやって来て、これらの後に続く瞬間において何かが起こる。それはあなたの行為ではない。それは恩恵としてやって来る。あなたは空白に、空っぽの状態になり、そして何かがあなたを満たす。その何かがスピリチュアルだ。それはあなたがいない時に注がれる。あなたはそこにいることはできない、なぜならあなたは何もしていないからだ。

 エゴは行為者と共に去る。行為者がエゴだ。あなたは最初の三つの階段には在ることができる。あなたが在ることができるのは、その時あなたは何かをしているからだ---呼吸や、またはフーと繰り返すことを。しかし今、あなたは在ることができない。私たちのエゴについての全ての概念は、記憶の、過去の行為の単なる集積にすぎない。私がしてきたことが私のエゴだ。だから、人がすればするほど、彼はエゴ中心的になる。彼はどんな社会奉仕をしてもエゴ中心的だ。どんなタイプの行為でも、長期的には集積されて、エゴの一部になる。エゴとは単なる結果の集積だ。それはひとつの実体ではなく、ただの行為の記憶にすぎない。
 そこでまったく行為がないこれらの瞬間に、何かが起こる。あなたは自分が何もしていない時でさえ意識している。あなたは完全に意識して、沈黙している。ただ死ぬ、だが意識している。疲れ切っているが意識している。


 質問: このステージで人はさまざまなことを体験するのですか?

 和尚: そのような体験は心霊的(サイキック)なものだ。言うなれば、スピリチュアルな体験というものはあり得ない。体験者がそこにいない時、そこにはただ空白しかない。だからあなたは体験という用語を使うことはできない。あなたは非体験の瞬間を体験する。それは言語が指し示せる限りにおいては全くの空白だ。そしてあらゆるタイプの指し示すことが否定的にならざるをえないのは、言語が出来事のためのものだからだ。それは沈黙のためのものではない。しかし私たちが言語という媒体を通してそれを表現しようとする時、私たちがどんな用語を使うかは私たち次第だ。言うなれば、どんなタイプの用語も他のどんなものとも同じくらい無意味なものだ。あなたはそれをブラフマンと呼ぶかもしれない。あなたはそれをニルヴァーナと、または何であれあなたの好きなように呼ぶかもしれない。それは間違っているものの間での単なる選択にすぎない。すべての名前は他のどんな名前とも同じくらい無意味だ。だからすべてのタイプの宗教言語---キリスト教、ヒンドゥー教、または仏教のそれ---は同等に無意味だ。それが全ての宗教で唯一の類似点、唯一の本質的な一致だ。それらの言語は等しく誤っている。それらはそうあらざるをえないために、これは非難ではない。それが空白が表現され得ない理由だ。空白はただ感じることができるだけで、感覚に言語はない。それは言葉を持たない。


 質問: エゴが本来の状態に戻るプロセスとはどんなものですか?

 和尚: それが戻るのは、全てのメカニズムがそこにあるからだ。それは死んでいなかった。全ての過去はそこにある。しばらくの間、あなたはそれの一部ではなかったが、それに戻ることはできる。しばらくの間、あなたはちょっとそれより高いところにいた、それを超えていた。あなたは自分の家から去っていたが戻ることはできる。しかし今やあなたは同じ人物であることはできず、同じ家に戻ることはできない。あなたはそれを超えた何かを知った。あなたは再び同じであることはできないが、戻ることはできる。
 外へ出たり中へ入ることが簡単になればなるほど、あなたは中にも外にもいないという新しい段階に入って来る。その時あなたは両方を超越した。それが最高地点であり、それがサマーディだ。外に出たい時、あなたは外にいることができる。または、中に入りたい時、あなたは中にいることができる。あなたは中にも外にもいない。


 質問: 人はこの段階で混乱しないのですか?

 和尚: いや、混乱という問題はない。私が来ることができて、そして行くことができる時、私がそこにいられるか、またはそこから離れることができる時・・・、これがますます簡単になる時、そこには新しい感覚が、あなたは両方を、内側と外側を超越できるという感覚が生じる。ただその時にだけ最も奥深いものが達せられる。それがサマーディだ。悟りはひとつの一瞥だ。あなたはそこから戻って来ることができる。しかしサマーディからは、あなたは戻って来ることはできない。それは戻れない地点だ。


 質問: それならこの身体で生きる目的はありませんね。

 和尚: 違う、そこには目的の問題や、または目的がないという問題はない。


 質問: 誰かがそのサーマディの段階に達する時、何が起こるのですか?

 和尚: 誰かが達するとあなたが言う時、誰かがそこにいる。誰もそこにいない時、私たちは達する。誰かが達するということではなく、誰かが中に入る、誰かが外に出る、ということだ。それは魂の感覚だ。四番目のレベルで止まるとても多くの宗教がある。だから彼らはそこには魂が、アートマンがあると言うのだ。彼らは入ることと出て行くことを、中と外を知った。そのため彼らはこの入ることと出ることで止まってしまった。
 しかし四番目の段階はひとつの一瞥だ。あなたは行って、そして戻って来る。それは戻れない地点ではない。そこには戻って来れるあらゆる可能性がある。あなたが戻って来れるのは、あなたを待っている全てのメカニズムがそこにあるからだ。あなたが戻って来ると物事全体が働き始める。その時そこではただ空白を記録するだけだ。その空白はあなたを何度も呼ぶ。

 禅のような宗教は悟りを、この一瞥を究極の体験またはサマーディと間違えて理解した。それは戻って来ることがまだ可能であるためにサマーディではない。エゴは死んでいなかった。それはただジャンプしただけだ。あなたは外へジャンプして、そして戻って来た。それはちょうど地面をジャンプしているようなものだ。あなたは地面の上にジャンプする。引力がある、地球がある、だからあなたは戻って来る。一瞬あなたはそのつかむ力から外れていたが、今あなたは戻っている。

 同様に悟りとは単なるジャンプだ。サマーディは究極だ。それは、あなたは外にいて、そして入って来たが、外向きのジャンプに執着しなかったという意味だ。あなたが執着を持つようになりうるのは、それはそこでは非常に喜びに満ちているからだ。だからあなたは単に同じ体験を繰り返し続ける。あなたは瞑想に入って、その至福を感じ、そして戻って来る。それはあなたにひとつの新鮮さを与える。それはあなたをぞくぞくさせる。やがてそれは型にはまったものになる。

 あなたは外へ出て、戻り、そしてそれは非常に至福に満ちているため、「私はそれを達成した。」と考える。しかしあなたは至福を超えた何かを知ることはない。それぞれの体験はそれから型にはまったものになる。それは繰り返しの機械的なシステムになる。その空白も、その一部になる。
 ここで止まってしまった宗教がある。そのため彼らは、魂がある、個人の魂がある、と言う。彼らがブラフマンを思いつくことができないのは、ブラフマンが究極的には五番目の段階でやって来るからだ。あなたが来て去る時は、来ては去り、その空白の至福に執着するのではなく、それを超越し、これらの出て行くことと入って来ることを、マインドの非瞑想的な状態と瞑想的な状態を観照し始める。この入って来ることと出て行くことを観照し始める時、あなたは最も微妙な地点に達したのだ。あなたはこれも習慣であり、人は誕生のためにそれを長引かせられることを知る。これが悟りだ。

 あなたがそれを観察し始める時、沈黙の覚醒 awareness が下る。ただこの段階においてのみあなたは黙って気づくようになることができる。それ以前ではだめだ。それがクリシュナムルティが失敗してきた理由だ。なぜなら沈黙の覚醒、無選択の覚醒はこの地点においてのみ可能であり得るからで、決してそれ以前ではないからだ。


 質問: 悟りの後ですか?

 和尚: そうだ、悟りの後だ。決してそれ以前ではない。
 私たちが静かにそれになる時、究極の爆発が生じる。あなたは「外と内」を超えて行く。それはあなた自身がその爆発に入ることを意味する。今やメカニズムを記録することがないのは、そのメカニズムが分解してしまったからだ。これがニルヴァーナ、ブラフマ-ウパラブディ、モクシャの、またはあなたがそう呼びたいと思う名前が何であろうと、その地点だ。これは決して記録されてこなかった。これは決して記録することはできない。


 質問: この後、人は身体の中に生きるのですか?

 和尚: 確かに、なぜなら身体の働きは別のプロセスだからだ。それはそれ自体でそこにあり、それ固有のプロセスを持っている。人はその中で生きることができるか、またはそれから外へ出て生きることができる。私たちにとってそれは、人は家の中に住むが、その居住者にとって今や家はない、というように見える。


 質問: しかしそこにはまだ個人の身体がありますね?

 和尚: そこには身体はあるが、私たちがそれを感じるようなものではない。全宇宙が身体になっている。


 質問: しかしそこにはまだ個人の身体がありますね?

 和尚: いや、私たちがそれを考える時、それを言葉に表わす時、あらゆることが問題になる。この五番目の段階は、私たちがそれについて語るものは何でも問題になる。だからそれは決して説明できない。どんなタイプの説明も新しい謎を、新しい矛盾を引き起こすだろう。


 質問: ではこの五番目の段階では、個人的な覚醒の爆発はあるのでしょうか?

 和尚: あらゆるものについて爆発がある!そうあったあらゆるものは、今はない。この五番目の段階はその全体の爆発、あなたの記憶、知性、エゴ、人格の、あなたの存在とあなたの魂の爆発だ。そうあったあらゆるものは、今はない。あなたはまさに超えて行く。そこにあなたはいない。あなたはあらゆるものになる。それがブラフマンの、宇宙意識の地点だ。
 この技法は、またはどんな技法でも、あなたを悟りにまでしか、四番目の段階にまでしか導くことはできない。五番目は技法を超えている。指導は四番目までしか可能ではない。それがクリシュナムルティが、どんな指導もない、ということについて語る理由だ。なぜなら五番目の地点は指導を超えているからだ。沈黙の覚醒awarenessは常に指導を超えている。それは起こるか起こらないかのどちらかだ。


 質問: この爆発において、人はそれに気づくのですか?

 和尚: いや、四番目の後と五番目の段階の前では自覚awarenessや自覚がないという問題はない。なぜならその時は両方がその意味を失うからだ。それは意識状態でもなく無意識状態でもない。それは中に入ることと外に出ることの過渡期だ。私たちは両方に気づいていなければならない。


 質問: しかしそれは存在existenceの段階ですか?私はそれは存在だと思います。

 和尚: それは存在であって、存在の状態ではない。物事は実在existし、存在は決して実在しない。存在はある!存在とはあることisnessだ。そこには、それは実在するか実在しないか、という問題はない。
 仏陀は何度も、繰り返し、同じ質問を尋ねられた。「光明を得た人に何が起こるのですか?彼はどこに行くのですか?彼は実在するのですか、しないのですか?」仏陀は同じことをしつこく尋ねられて、それで彼は言った。「それは見当外れだ・・・尋ねてはいけない。これは尋ねてはいけない質問だ。」彼は尋ねてはいけない11の質問を分類した。そしてこの質問はそれらの一つだ。仏陀は知らなかったということではなく、どんなタイプの声明も必ず新しい謎を作り出したからだ。


 質問: 生の使命とは何ですか?

 和尚: いや、使命はない。


 質問: 個人にとってではなく、全般においてです。私たちはこの世界に生きていて、とても多くのことをしなければなりません。私たちはとても多くの変化を受けなければなりません。時には私たちはヨーガをしています。時にはこのタイプの訓練を、時にはそのタイプの技法を。その目的は何ですか?結局、なぜ私たちはこれらの全てのことをしているのですか?

 和尚: ふむ、あなたがそれは神秘だと言う時、それは解決され得ない。そしてもしそれが解決され得るなら、それは神秘ではなくなるだろう。それは神秘だ。そしてそこに役目がないのは、神秘の中に役目はありえないからだ。神秘の中に目的はありえない。そこにはただ遊びに満ちた状態、リーラがあるだけだ。だからこの全ての存在は単なるエネルギーの、そうあるものの、実存的なエネルギーの遊びに満ちた状態だ。それはこの全ての創造物の単なる遊びにすぎない。そして遊びとは無目的であるもの、またはそれ自体が目的であるものを意味している。それは目的を超えている。達成すべきものは何もない。まさにその行為が達成だ。

 だから生に使命がないのは、生きることそれ自体が達成だからだ。あなたは多くの方法で生きるが、それもエネルギーの流出だ。それはこの無目的な宇宙的遊びの単なる一部にすぎない。それは無目的で、だからそれは神秘なのだ。だが西洋は決してそれを無目的として考えることはできなかった。だから西洋は宗教的精神(マインド)を決して実現できなかったのであり、それが唯一の理由だ。西洋はより多く発見し続けて、より鋭く意識して、問いかけるが、それでもそれは決して宗教的にはならなかった。西洋は世界を、生を、それが無目的であるとは決して考えられなかった。それは無意味(ナンセンス)に見える。しかし東洋は無意味(ナンセンス)の中に意味(センス)を見ることができた。東洋はそれ固有の目的を持つ、それ固有の内在的価値を持つ無目的を見ることができた。生はそうある、そしてそれが全てだ。存在はそうある・・・、なぜそれ以上を求めるのだ?どうすれば存在より以上の何かがそこにあり得るのだろう?そしてあなたが四番目の段階に来る時、この感覚があなたにわかり始める・・・悟りにおいて---。生は遊びになる。それが禅の僧侶たちが陽気で、そして深刻でない理由だ。

 深刻な人とは奇跡を、神秘的なものを感じなかった人を意味する。だから深刻な人は決して宗教的ではあり得ない。四番目の段階では、マインドの悟りの段階では、あなたは遊びに満ちるようになる。生はジョークになる・・・。それについて深刻さは全くない。あなたはそれを笑うことができる。だから禅僧は仏陀を笑うことができるのだ。とても美しい!とても素晴らしい!それは他のどんなところでも決して達成されなかった。


 質問: しかし人々がこの状態にやって来ることを恐れているのは、それは社会のパターンを妨害するだろうというのを彼らが知っているからです。

 和尚: それは妨害する。なぜなら社会は深刻という病にかかった人々によって作られているからだ。そして社会全体はこの特別な病気、深刻さに支配されている。それは全ての物事を支配してきた。そこであらゆるものは特定のパターンに、部類に押し込められてきた。あらゆるものは限界を定められてきた。しかし遊びは限界を定められ得ない。
 私が誰かを愛する時、それは遊びだ。しかしそれが結婚になる時、遊びはなくなってしまった。それは深刻な事柄になる。愛は常に遊びに満ちている。そのためそれは常に束の間だ。それは来ては去る。しかし結婚は静止した何かだ。それは来るが決して去らない。それはひとつの計画だ。それはひとつの境界設定だ。それはひとつのパターンだ。


 質問: では結婚はスピリチュアルではあり得ないのですか?

 和尚: そうだ、それはスピリチュアルではあり得ない。結婚は決してスピリチュアルではあり得ない。これは単にひとつの例に過ぎない。社会全体が決してスピリチュアルではあり得ない。なぜならそれは規則に、深刻な規則に基づいているからだ。あなたはそれらに関して遊びに満ちていることはできない。
 ボーディダルマが中国に着いた時、彼は一方の靴を足に履いてもう一方の靴は自分の頭に置いていた。皇帝は尋ねた、「なんと馬鹿げたことか!お前は何をしているのだ?」ボーディダルマは「私は冗談をしています。」と言った。皇帝は言った。「しかし我々は冗談をする、笑う行者(サドゥ)を決して予期していなかった。」ボーディダルマは言った。「それはどうやって、行者(サドゥ)にとって深刻であることが可能でしょうか?神は深刻ではありません。彼は遊びに満ちています、全く止めどなく遊びに満ちています!」そして創造性は遊びに満ちた状態から生じる。そのため悟りからとても多くの創造性が生まれる。


 質問: その人々はこの段階から内側の知識を得るとあなたは考えるのですか?

 和尚: この内側の知識、この体験、その体験---これが深刻という病気にかかった人物の全ての重要な部分だ。深刻なマインドはこれの中でも作用し始める。それは知識を、権威を分類している。つまり、私は権威者だ、私は知っていてあなたは知らない、あなたに教えよう、ということだ。いいかな、それは再び深刻な社会のパターンを作り直すことを試みている。宗教的な社会はこのためにだけ作られている。宗派、アシュラム、修道院など、これらは最後の社会だ。深刻なマインドは再び入って来た。

 そこで宗教的なマインド、遊びに満ちたマインドは常にあらゆるものを失う間際にある。彼はただ遊ぶだけだ。彼は深刻ではない。そして四番目の段階では、あらゆるタイプの深刻さは消え去る。それが四番目の段階の唯一のしるしだ。あらゆるタイプの深刻さはナンセンスになる。だから悟りに達する人は宗教的になるのだ。他に根拠はない。彼が宗教的になるのは、すべてのタイプの深刻さに対して反抗しなければならないからだ。


 質問: もっともです。しかし社会へ向けた安全も必要です。もし多くの人々がこのような宗教的なものになるなら、彼らを管理することは不可能でしょう。

 和尚: まさに管理という概念が全世界の乱雑を作った。管理という見地から考える瞬間、あなたは抑圧し始め、型に入れ始め、タイプを作って個性を壊し始める。そして十分逆説的に、あなたが個性を壊してパターンやタイプを作る時、とても多くの無秩序が続いて起こることになる。
 秩序を作ろうとする人は無秩序を作る人だ。無秩序は死んだ秩序の押し付けに対するまさに反動だ。もし宗教的な精神(マインド)がたった一日の間でさえ勝つなら、そこにはどんな無秩序もないだろう。実のところ、秩序と無秩序は同じコインの二つの面だ。

 だから規律を定めようとするその態度、その精神(マインド)が無規律の原因になる。あなたのエゴはあなたを躾けることに関心を持つ人に反発する。しかしこれは反動であって、反逆ではない。反逆的であることはただ四番目の段階の後に、悟りの後にだけ浮かび上がる。だから反逆的な人たちは少ししかいない。ただイエス、仏陀、ソクラテスだけ、極めて少数だ。
 しかし反動主義者たちはありふれている。共産主義者たちがいる、マルクス、バクーニン、レーニン、毛沢東。これらはみんな反動主義者たちだ。反逆的な人は非凡な人で、私たちは全世界が反逆的になる時にだけ生きるだろう。


 質問: 世界が持つことはできなかったこの遊びに満ちた精神と非深刻な態度をもってして、創造的な人々と科学的な発明を生じさせることは可能なのですか?なぜならこれらの物事では、私たちには多くの集中が必要で、遊びに満ちた状態は必要ないからです。

 和尚: むしろより多くの発見、より多くの発明があり、そしてこれが、あらゆるタイプの発明が遊びに満ちた子供らしさを持つ理由だ。


 質問: 芸術や音楽についてはそれを理解できますが、科学についてはどうなのですか?

 和尚: 科学でさえもだ。科学でさえ遊びに満ちた状態から来ている。ある人は遊んでいる。彼は研究所で遊んでいるかもしれない、何か新しい要素で、何か新しい実験で遊んでいるかもしれない。アインシュタイン、アルキメデス、ニュートン、そして他の人たちはみんな遊んでいた。そして物事は深刻でない時に、集中ではなくマインドの手放し状態で起こる。
 ニュートンはリンゴの木の下に座っていて、リンゴが落ち、そして何かが起こった。アルキメデスは浴槽に浸かっていて、そして何かが起こった。彼は浴槽から飛び出して「ユリイカ!ユリイカ!・・・わかった、わかったぞ!」と叫んだ。アインシュタインはシャボン玉で遊ぶことが大好きだった。彼は何時間もぶっとおしで泡にまみれて浴槽に横たわった。宇宙の概念は膨張して分解するシャボン玉を通して彼に一撃を与えた。膨張する宇宙の概念はそれらを通して生じた。

 人間の歴史は一般大衆の歴史ではなく、それは順応者の、深刻な人の、立法家の、統治者と被統治者の歴史ではない。一般大衆はたった一つの傑作も創造しなかった。ましてや発明も、絵画も、詩も、音楽もそうだ。しかし自分たちの生について深刻でなかった少数の進化した人たちは創造した。そうしなければ彼らはビジネスをして工場を始めたかっただろう!それが教授たちが決して何も創造しなかった理由だ。発見は常に未知の片隅から、ただ自分の生と遊んでいた人たちを通して起こった。まず一番目には自分の生と遊ぶことだ。その時とても多くの驚くべきことが起こり始める。宗教、科学、芸術、あらゆるものは非深刻さから、遊びに満ちた精神から生じる。

 私にとって、生にはどんな目的も、どんな使命もない。生は十分なものであり、それはあなたには想像できないほど多くのものがある。それは十分以上のものだ。
 全てのタイプの伝道者たちは宗教、使命、組織団体等を装った政治家たちだ。指導者たち、導師たち、弟子たち、これはみんなナンセンスだ。それは消え去らざるをえない。だがもしあなたがこれを知るなら、それは難なく消え去って、あなたは他の人たちを打ち砕かれることから助けることができる。


 質問: しかしその条件では、どのようにしたら人々はなんとか生きて、彼らの標準的な必要性と必要物を満たすことができるのでしょうか?

 和尚: (笑って)生はそれ自身をなんとかする。人間は決してそれをなんとかしてこなかった。それをなんとかしてこようとした人たちは、それを殺すこと以外の何もしなかった。生はそれ自身をなんとかするほど力に満ちている。それをなんとかしようとしてはいけない。それをなんとかしようとするあなたとは何様なのだ?あなたがどのように試みようとも、それ自身をなんとかしているのが生だ。


 質問: では、私たちは瞑想のためにその技法を使い、それを強烈にやって、それを頂点に持って来るべきなのですか?

 和尚: そうだ、それは頂点に行かなければならない。あなたは完全に気が狂わなければならない。その時にだけ正気さが生じるだろう。





               





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