序文
 1 一人だけの独りへの飛翔
 2 瞑想:新しい次元
 3 アーサナとムドラーの神秘的な意味
 4 クンダリーニ : 超越の科学
 5 セックス、愛、祈り、そして瞑想
 6 生命のバランス
 7 宗教と人間の窓
 8 イニシエーションの神秘
 9 イエスの知られざる生涯
10 OSHOからの手紙
11 チベット僧院への訪問




               The Silent Explosion   第5章:セックス、愛、祈り、そして瞑想

質問: OSHO、性エネルギーの霊的な意義をどうか私たちに説明してください。性エネルギーの昇華と霊性化のための実用的な次元は何でしょうか?そして意識の高次のレベルに向かう瞑想としてセックスをすることは可能ですか?

 性エネルギーというようなエネルギーはない。エネルギーは一つで同じものだ。セックスはそのための一つの方向であり、それはエネルギーの適用の一つだ。生エネルギーは一つで、それは非常に多くの方面で表に現わすことができる。このエネルギーが生物学上のものになる時、それは性エネルギーになる。しかし「性エネルギー」としては、そこにエネルギーは全くない。セックスは生エネルギーの一つの適用なので、昇華という問題はない。だがもし生エネルギーが別の方向に流れるなら、そこにセックスはない。要するにそれは昇華ではなく、むしろ変容だ。その時セックスは全く存在しない。セックスは自然で、生エネルギーの生物学上の流れで、そして最も低いものだ。それが自然なのは、生はそれなしでは存在できないからだ。それが最も低いのは、セックスがただの基礎にすぎないからだ。それは頂点ではなく、ただ基礎であるだけだ。そしてそれは不完全だ。それはちょうど基礎を造るようなもので、家を建てることなしに---それのために基礎は意味を持つのだが---基礎を造り続けるようなものだ。

 セックスは生エネルギーの高次の変容のための単なる一つの機会だ。それが進む限りではそれは問題ない。だがセックスが生エネルギーの全てで唯一のものになるなら、それは破壊的になる。それはただ手段であり得るだけで、最終目的ではない。そして手段は最終目的が達成される時にだけ意味がある。人がその手段を誤用する時、全ての目的は壊される。もしセックスが生の中心に、最高のものになるなら、それがそうなるにつれて、手段は最終目的に変わりつつある。セックスは生の生物学上の基礎を作るために、存在するために、継続するためにある。それは手段として進む限り問題ない。それは最終目的になるべきではない。セックスが最終目的になる瞬間、霊的な次元は失われる。もしセックスが瞑想的になるなら、それは霊的な次元へ向けられる。それは踏み石に、跳び台になる。

 そこで理解すべき最初のことは、セックスとは生物学上の生が存在するための必要な背景的素地だ、ということだ。それは基礎的なものだ。それは手段として基礎的なものであって、最終目的としてではない。だからそれは生の全ての領域に重なってはいけない。

 二番目に、そこにはどんな昇華もない。なぜならエネルギーはそれ自体としては性的でも霊的でもないからだ。エネルギーは常に中立だ。それ自体においてそれは無名だ。名前はそれが流れる扉によって生じる。名前は常に表に表わされたものに関するものだ。名前はエネルギーそのものに関するものではない。それはエネルギーの形に関するものだ。だからあなたが「性エネルギー」と言う時、それは性的なはけ口を通って、生物学上の領域を通って流れるエネルギーを意味する。それが神性なものの中に流れる時、それは霊的なエネルギーだ。このエネルギーは中立的なエネルギーで、激しいものではない。それはとても多くの形状や形態を取ることができる。無限の形態が可能だ。それが生物学的に表現される時、それはセックスだ。それが感情的に表現される時、それは愛になるかもしれないし、憎しみになるかもしれないし、怒りになるかもしれない。それが知的に表現される時、それは数学になるかもしれないし、科学になるかもしれないし、文学になるかもしれない。それが身体を通る時、それは肉体的になるかもしれない。それがマインドを通る時、それは精神的になるかもしれない。違いはそれ自体としてのエネルギーにはなく、適用された現われにある。私たちが「性的エネルギーの昇華」と言う時、そう言うことは正しくない。もしセックスのはけ口が使われないなら、エネルギーは再び純粋になる。エネルギーは純粋で単純だ。それが神性な扉を通って明らかにされるなら、それは霊的になる。名前と形は常に明らかにされたものを適用することで考慮される。名前と形はそれ自体としての純粋なエネルギーには全く適用できない。

 二番目に、昇華という言葉には非常に悪い連想がある。昇華についての全てのタイプの理論は抑圧の理論だ。あなたがセックスの昇華と言う時はいつでも、あなたはそれに反対するようになる。あなたはそれに敵意を持つ態度を取る。あなたはそれを非難する。非難はまさにその言葉の中にある。それならそれについてどうすべきだろう?何であれセックスに対して直接的に為されるものは抑圧だ。性的なエネルギーを否定的に考えなければならないようになるのではなく、肯定的に神性への扉を開くようにする、そのためには間接的な技法しかない。神性の扉が開く時、あなたと共にある全てのエネルギーはその扉を通って流れ始める。セックスは吸収させられる、または言い換えれば、そこに高次の次元がある時や高次の至福が可能な時はいつでも、至福のより低い形態は不適切になる。あなたはそれらを抑圧することはなく、それらと戦うことはない。それらはただ衰えるだけだ。そこに昇華はない。セックスは超越される。

 だから私にとっては、セックスに対するどんな否定的な行為もエネルギーを変容させることではない。それどころか、それはあなたの内側に破壊的な葛藤を作り出すだろう。あなたがエネルギーと戦うときはいつでも、あなたは自分自身と戦っている。その時あなたは内側で暴力的になる。そしてあなたの二つのエネルギーがお互いに反対する敵として見なされる時はいつでも、その結末は馬鹿げたものであらざるをえない。それどころかそれは決して楽にはならないだろう。それはただ戦い続ける。両方のエネルギーはあなたのものだが、それでも誰も戦いに勝つことはできない。今日、あなたは自分が勝ったと感じ、次の瞬間、あなたは他の人が勝ったと感じる。これが繰り返される。時にはセックスがなくてあなたは制御した、昇華させたと感じる。別の瞬間、あなたはセックスを感じてあらゆるものは失われる。これは正反対の変化になるかもしれない。なぜなら誰もその人自身のエネルギーとの戦いに勝つことはできないからだ。そこでセックスは始末すべきものとして受け取られるべきではない。実際に、もしあなたのエネルギーが他のどこかで積極的に必要とされて、それがより喜びに満ちたものなら、セックスは単に無意識のものになる。それはエネルギーが昇華されることではない。それはあなたが変わったということではない。むしろより大きな至福の新しい道が開かれる。自動的に、自発的にそのエネルギーは新しい扉へ流れる。

 それはちょうどあなたは石を持っていて、ダイヤモンドがあなたの道にやって来るようなものだ。あなたは自分がその石をいつ落としたのか決して知らないだろう。それらはただ自然と、まるであなたはそれまでそれらを持っていなかったかのように落ちる。石をつかんでいたエネルギーは今やダイヤモンドをつかみ、そしてその石は完全に忘れられる。あなたは決して二度とそれらを思い出さないだろう。あなたは放棄さえ、自分がそれらを捨てたことさえ思い出さないだろう。あなたは単に通り過ぎる。それは何かが昇華したとか変容したということではない。何も起こらなかった。幸福のより大きな源泉が開放されて、より小さな源泉はひとりでに閉じる。これはセックスに反対するどんな肯定的な行動も必要ないほど自動的で、それほど自発的だ。昇華は肯定的であるように見える。しかしあなたが何かのエネルギーに反対する何かをしている時はいつでも、それは否定的だ。本当の肯定的な行動はセックスに反対しない。それはセックスと繋がってさえいない。だがそれは瞑想に関心を持っている。そこであなたはセックスがいつなくなったのか知らないだろう。今、それは新しいものの中に吸収されつつある。

 だから私にとって、昇華は醜い言葉だ。それはその中に対立を、その中に非難を、そしてその中に争いを抱えている。セックスはそうあるものとしてみなされるべきだ。それは生が存在するための単なる生物学上の基礎にすぎない。それにどんな霊的(スピリチュアル)な、または反霊的な意味も与えてはいけない。それにどんな名前も付けてはいけない。むしろ、その事実を理解しなさい。そしてそれの周りにどんな虚構も作ってはいけない。あなたがそれを生物学上の事実として受け取る時、あなたは全くそれに関心を持たない。何らかの霊的な意味がそれに与えられた時にだけ、あなたはそれに関心を持つようになる。だからそれにどんな意味も与えてはいけない。その周りにどんな哲学も作り出してはいけない。質問もなく、単にその事実を見なさい。それのための、またはそれに反対するどんなこともしてはいけない。それをあるがままに在らせなさい。普通でありなさい。だからどんな異常な態度も取ってはいけない。

 あなたに目があるように、あなたに手があるように、あなたにはセックスがある。あなたは自分の目に反対しない。あなたは自分の手に反対しない。だからあなたはセックスに反対するべきではない。その質問は的外れになる。セックスに賛成か反対かというニ分法を作ることは無意味だ。それは与えられた事実だ。あなたは生物学上の進化を通り抜けて来た。あなたはセックスを通して生まれる。そこであなたは再びセックスを通して生まれるための内蔵プログラムを持っている。あなたは偉大な連続性の一部だ。あなたは一人ではない。あなたのエネルギーは死に対する安全装置のような内蔵プログラムを持っているに違いない。この身体は死のうとしている。そこでそれはそれに取って代わる別の身体を創造するための内蔵プログラムを持っている。そして死はとても確実なので、自然はそれを考慮しなければならない。死は確実だ。だからセックスは非常につきまとうものなのだ。もしいつか私たちが死に勝つことができるなら、まさにその日にセックスは死ぬだろう。その時私たちはその衝動を感じないだろう。なぜならセックスは死に対する安全装置だからだ。死はそこにあり、あなたは永遠にここにはいない。そこで自然はあなたに頼ることはできない。あなたはより新しい身体、複製と入れ代わらなければならない。だからセックスはとても重要になったのだ。自然全体がそのためにある。でなければあなたは在ることができなかった。

 もしセックスが自由意志であるなら、セックスが単なるあなたの選択であるなら、この地球には誰もいないだろう。セックスは非常につきまとうものだ。それはとても強制的で、とても自然で、そのプロセスがそれほど大きいのは、自然の全てがそれに賛成しているからだ。だから生は存在し、そして生存するのだ。そうでなければ生は存在できない。

 そして同じことが、セックスが宗教的探求者と宗教にとってとても重要である理由だ。それはまったく自由意志ではないもので、とても強制的だ。それはとても自然で、自然の全てはそれに賛成する。そしてだからセックスは、特定の人の中の生エネルギーが神性なものを迎えに行ったかどうかを知るための一つの基準に、一つの試金石になり得たのだ。私たちはある人が神性な遭遇にまで進んだことを直接的に知ることはできない。私たちはある人がダイヤモンドを得たことを直接的に知ることはできないが、ある人が石を捨てたことは直接的に、すぐさま知ることができる。なぜなら私たちは石を知っているからだ。私たちはある人がセックスを超越したことを知ることができる。

 セックスはとても強制的で、自由意志ではない。それは非常に偉大な力なので、ある人が神性なものを達成するまで、そして達成しない限り超越できない。それはそうあることはできない。だからブラフマチャリヤの、非性的なふるまいが、または性的さを越えたふるまいが神性なものを知った人の試金石になり、基準になったのだ。その時普通の人間の中に存在するようなセックスは彼にとっては存在しないだろう。それはセックスを超越することで彼は神性なものを達成するだろう、という意味ではない。その逆は真実ではない。その逆は詭弁になる。その人はダイヤモンドを見つけたから、石を捨てたのだ。これの逆は真実ではない。なぜならあなたが石を捨てたことは、あなたが超えた何かを達成したという意味ではないからだ。

 三番目の選択肢がある。あなたは神性なダイヤモンドを達成しなかったかもしれないが、性的な石を捨てようとしたかもしれない。それならあなたは中間にいるだろう。あなたは昇華したものではなく抑圧した心(マインド)を持つ。そしてセックスはそこにあってあなたの中で沸騰しているだろう。そしてセックスが内側の争いとして中で沸騰する時、それは内的な地獄を作る。それはセックスを超えていない。それは生物学上の事実としてセックスがそれ自身の務めを持っているからだ。それは自然な流れだ。それについて何も間違ったものはない。セックスが抑圧される時、それは醜くなり、病気にかかり、神経症になる。それは倒錯するようになる。だからいわゆるセックスに対する宗教的な態度は倒錯した性文化を、完全に神経症的な性文化を作り出す。

 私はセックスに賛成ではない。それは生物学上の事実だ。それは問題ない。それと戦ってはいけない。そうでなければそれは倒錯し、そして倒錯したセックスは前進ではない。それは正常より低く落ちることだ。それは狂気への一歩だ。抑圧がとても緊張するようになってあなたがそれを長引かせられない時、それは爆発する。そしてその爆発の中ではあなたはどこにもいないだろう。あなたには全ての人間の性質があり、あなたには全ての可能性がある。正常な事実は健全なものだ。それが異常に抑圧されるようになる時、それは不健全になる。あなたは正常な事実を通して非常に簡単に神性な方に進むことができる。しかし神経症のマインドから神性な方へ行くことは骨が折れるものになり、ある意味で不可能だ。人はまず健全に、正常にならなければならない。するとその終わりには超越があり、それの可能性がある。だからセックスと戦ってはいけないし、それに反対してはいけない。ただそれに反対しないことによってのみ、それは超越することができる。それなら何が為されるべきだろう?それに気づいていなさい。それと戦ってはいけない。それを知りなさい。それでも無意識にその中に入ってはいけない。これが新しい扉を開ける秘密だ。もしその中に無意識に入るなら、あなたは生物学上の進化の手の単なる道具だ。あなたはそこにいない。進化はあなたを通してその未知の方法で働いている。あなたは捨てられるだろう。あなたは利用され、そして捨てられる。その行為に意識しなさい。なぜなら性行為の中で非常に意識していることは深い瞑想になるからだ。全面的に意識しなさい。その行為が不本意で強制的なのは、その行為があなたの内側に本来備わっている性質の手の内にあるからだ。意識することは難しいだろうが、それは不可能ではない。

 もしあなたが性行為の中で意識するようになれるなら、生の中で他にあなたが意識できない行為は全くない。その時あなたはどんな行為でも意識するようになれる。なぜならどの行為もそれほど深くないからだ。セックスは最も深い行為だ。だから性行為の中で気づくことができるなら、あなたは生の全ての行為で気づくことができる。死においてさえ気づくだろう。性的な行為の深さと死の深さは同じで相似している。あなたは同じ地点に来る。もし性行為に気づくことができるなら、あなたは偉大な事を成し遂げたのだ。これは計り知れないほど貴重な何かだ。

 そこでセックスを瞑想の一つの行為として使いなさい。それと戦ってはいけない。それに反対してはいけない。それと親しくなりなさい。自然なものと共にでは消え去ることはない。あなたは自然の重要部分だ。あなたは親しくて思いやりのある交感の態度を持たなければならない。そしてセックスはあなたと自然との間の最も深い交感だ。実のところ、性行為は本当は男女間の交感ではない。実際は、それは女を通した自然と男の、男を通した自然と女の交感だ。それは自然との交感だ。しばらくの間あなたは宇宙的な流れの中にいる。あなたは天上の調和の中にいる。あなたは全体と調子が合っている。もちろん、男は女を通して、そして女は男を通して満たされる。

 男は全体ではなく、女は全体ではない。彼らは一つの全体の二つの断片だ。だから彼らが性行為で一つになる時はいつでも、彼らは自分たちの最も奥深いところにある本性的なものと、タオと調和することができる。この調和は新しい存在のための生物学上の誕生であり得る。もしあなたが気づいていないなら、セックスが唯一の可能性だ。もしあなたが気づいているなら、この行為はあなた自身にとって誕生に、霊的な誕生になり得る。あなたはそれを通して「二度生まれ」になるだろう。そしてあなたが意識的にそれに関わる瞬間、あなたはそれの目撃者になる。いったんあなたが自分の性行為の目撃者になることができるなら、あなたは超越するだろう。なぜならその目撃することであなたは自由になるからだ。

 今や強制はないだろう。今、自由意志のない押し進めはないだろう。今、あなたはその中で押されたり引き寄せられたりしない。あなたはそれの単なる無意識の関与者ではないだろう。いったんあなたがその行為の目撃者になったら、あなたはその行為を超越した。あなたは身体だけではない。あなたの中の目撃する力はそれを超えた何かを知った。そしてこの超えたものはあなたが深くいる時にだけ知ることができる。そうでなければだめだ。これは外面の遭遇ではない。だからあなたが市場で買い物をしている時、あなたの意識は全く深く進むことができない。なぜなら行為そのものが表面的だからだ。人間の通常に関する限り、ただ性行為だけが、人が内側の深さの目撃者になることができる行為だ。

 そこであなたがそれを瞑想として使えば使うほど、その影響は少なくなる。瞑想はそれから成長するだろう。そして成長する瞑想からあなたは新しい扉を知り、セックスは弱まるだろう。これは萎れることだ。これは意識した昇華ではなく、ちょうど枯葉が落ちるようなもので、木は決して知らない。あなたは機械的な押し動かしがなくなった時を決して知らないだろう。セックスから瞑想を創造しなさい。セックスを瞑想的な対象にさせなさい。それを寺院として扱いなさい。するとあなたはそれを超越し、そしてあなたは変容するだろう。セックスはその時そこにはない。だが今やそこにはどんな抑圧もない---昇華も、抑圧も全くない。セックスは単に不適切で無意味になる。あなたはそれを超えて成長した。それは今、あなたにとって意味をなさない。

 それはちょうど子供が成長するようなものだ。今、玩具は無意味だ。彼は何も昇華しなかったし、何も抑圧しなかった。彼はただ成長しただけだ。彼は成熟した。今、その子供はもはや子供っぽくない。あなたが瞑想すればするほど、セックスはあなたにとって魅力が少なくなる。そしてほどなく、自発的に、昇華についてのあなたの意識的な努力なしに、エネルギーは流れるための新しい源を持つだろう。セックスを通って流れていた同じエネルギーは今や瞑想を通って流れる。それが瞑想を通って流れる時、神性な扉が今開きつつある。

 もう一つの事、あなたはセックスと愛という言葉を使った。普通私たちはまるでそれらに内的な関連があるかのようにセックスと愛の両方を使う。それらは違う。愛はセックスが去った時にだけやって来る。そうでなければ愛は単なるおとり、単なる前戯であって、それ以外の何でもない。それは性的な行為のための単なる地ならしだ。それは前戯だ。愛として私たちに知られているものはセックスへの導入、序文に他ならない。二人の間にセックスがあればあるほど、愛は少なくなる。なぜならその時前書きは必要ないからだ。もし二人が愛の中にいるなら、その愛は長くて深いだろう。それはそのように現われるだろう。もし二人の間にセックスがないなら、そこには多くのロマンチックな愛があるだろう。セックスが入って来る瞬間、愛は出て行く。

 セックスはとてもぶっきらぼうだ。本質的にそれはとても激しい。それは導入を作り、前戯を作るが、私たちが知っているような愛は赤裸々な事実のための単なる衣服だ。事実は赤裸々で衣服は愛と呼ばれる。あなたが深く進むなら、あなたは自分の愛の後ろにセックスを見つけるだろう---それは立っていて、ジャンプするための準備をしている。それは常に角を曲ったところにいる。愛は話していて、セックスは準備している。この愛は、もちろん、セックスと関連づけられるが、私は序文のような、前置きのような愛について言っている。もしセックスが生じるなら、愛は落ちるだろう。だから結婚は愛を殺すのであって、しかもそれを完全に殺す。二人はお互いをよく知るようになり、そして赤裸々な事実、前戯、愛は無用になる。

 だが愛は序文ではない。それは芳香だ。それはセックスの前ではなく後にある。それは序章ではなく終章だ。もしあなたがセックスを通過して慈悲を感じるなら、その愛は発現する。そしてあなたが瞑想するなら、あなたは慈悲深く感じるだろう。あなたが性行為の中で瞑想するなら、あなたのセックスの相手はただ利用されるだけではない。その時あなたの相手は肉体的快楽のための単なる媒介ではないだろう。あなたは彼または彼女に対して感謝を感じるだろう。なぜならあなた方は両方とも深い瞑想に至ったからだ。

 そしてあなたがセックスの中で瞑想する時、新しい友情が二人の間に生じるだろう。なぜならお互いを通して、彼らは自然との交感に入って来ることができ、そしてお互いを通して彼らは真実(リアリティ)の知られざる深さへの一瞥を持つことができるからだ。だから彼らは親しみを感じ、お互いに感謝を感じて同情を寄せるようになる---苦しみに対する同情、探し求めることへの同情、仲間への、旅を共にする者への同情、手探りする友人への同情を。

 もしセックスが瞑想的になるなら、ただその時だけ後ろに長く残る香りが、セックスの前戯ではなくそれを通した成熟の、成長の、瞑想的な認識の感覚がある。そこで性行為が瞑想的になるなら、あなたは愛を感じるだろう。愛は感謝することの、親密さの、そして同情の結合だ。そしてもしこれら三つがそこにあるなら、その時あなたは愛の中にいる。

 この愛は、もしそれが発現するなら、性的さを超えたものになるだろう。愛はセックスを通して発現するが、それを超えて行く。ちょうど花のように、それは根を通って来るがそれから超えて行く。そしてそれは戻らない。反転はない。だからもし愛が発現するなら、そこにセックスはないだろう。それも愛がこのセックスという卵を通して発現したことの基準になる。だからセックスは単なる卵、貝殻であり、それを通して愛は出て来る。しかしそれが出て来る瞬間、卵はそこにない。それは壊されて捨てられる。

 しかしセックスは瞑想がそこにある時だけ愛に達することができる。そうでなければ無理だ。さもないと同じセックスが繰り返されてあなたは退屈するようになるだろう。あなたはますます鈍くなる。そしてあなたは敵意を感じる。相手はあなたを支配してきた。彼がセックスを通して支配するのは、それがあなたにとって必要なものになったからだ。あなたはそれなしでは生きられない。そして今、あなたは奴隷になった。あなたは決して自分を奴隷にさせた人に親しみを感じることはできない。そして両者は同じことを感じる、相手が主人だ、と。支配を拒絶して喧嘩するだろうが、それでもセックスは繰り返されるだろう。それは日課になる。あなたはセックスの相手と喧嘩をして、それから再び物事をうまくまとめる。またもや同じ行為が繰り返される。その時愛はせいぜい一つの調停だ。あなたは親しみやすく感じることはできないし、同情はない。そこには残酷さと暴力があるだろう。あなたは騙されたと感じる。あなたは奴隷にさせられた。セックスは奴隷状態になり、それは愛に発展することはできない。セックスが愛に発展する瞬間、それはセックスとして残ることはできない。

 セックスを通って行きなさい。それを恐れてはいけない。なぜなら恐れはどこにも導かないからだ。もし人が何かを恐れなければならないとしたら、それは恐れだけだ。セックスを恐れてはいけないし、それと戦ってはいけない。それも一種の恐れ、または逃避だ。これらは恐れについての二つの道だ。それから逃げてはいけない。それと戦ってはいけない。当たり前のことだと受け取りなさい。その中に深く入りなさい。それを全面的に知りなさい。

 それを理解して、それに瞑想しなさい。するとあなたはそれを超越するだろう。あなたが性行為の中で瞑想するやいなや、新しい扉が開かれる。あなたは新しい次元に、全く知られていないものに至り、そしてより大きな至福がそれを通して流れる。あなたはとても喜びに満ちた何かに遭遇するので、セックスは的外れになり、ひとりでに沈静する。なぜなら今やそれはあなたのエネルギーには感じられないからだ。あなたのエネルギーはその方向に流れていない。

 エネルギーは常に至福の方に流れる。水が下向きに流れるように、エネルギーは「至福向き」に流れる。それがあるところはどこでも、それは流れる。それがセックスの中に現われる時、それはセックスに向かって流れる。もっと至福を探し求めなさい---セックスを超越し、それを超えて行くものを、より満たすものを、より深くてより大きなものを。その時自然とエネルギーはセックスの方に流れなくなるだろう。

 そのようにセックスが瞑想になる時、それは愛に開花する。そしてこの愛に開花することは神性なものに向かう動きだ。だから愛は神性なのだ。セックスは肉体的で、愛は霊的だ。愛の花が指し示され、今、祈りが生じるだろう。それは後に続く。今やあなたは神性なものから遠くにいない。あなたは我が家のすぐ近くにいる。今、愛に瞑想し始めなさい。これは二番目の段階だ。

 そこに交感の瞬間が、愛の瞬間がある時、瞑想し始めなさい。その中に深く入って行きなさい。それに気づきなさい。今、身体は出会っていない。セックスでは、身体が出会っていた。愛では、魂が出会っている。それでもそれはある出会い、二人の間の出会いだ。その出会いに気づきなさい。それは微妙だ。身体が出会う時、それは粗い。あなたがセックスを見てきたように愛を見てごらん。その交感を、その内側の出会いを、その内側の交際を見てごらん。その時あなたはそれを超越するだろう。そしてその愛の出会いから、その瞑想からあなたは祈りに至る。この祈りが扉だ。

 あなたが祈りに至る時、それはまだ出会いだが、二人の間のものではない。それはあなたと全体との交感だ。今や一人の人としての他者は落とされた。今、それは非個人的な他者と、全ての存在とあなただ。だがそれでもそれは出会いなので、究極的に祈りも超越されるべきだ。更に帰依者と神は違う。祈りにおいて「バクティ(絶対的帰依)」と「バグワン(祝福されし者)」は違う。そしてまだそれは出会いだ。だからミーラ(16世紀、クリシュナに帰依したインドの女性神秘家)やテレサ(16世紀のスペインの女性神秘家)は彼女たちの祈りの体験に性的な用語を使うことができたのだ。

 そこで人は祈りに満ちた瞬間に瞑想しなければならない。再びそれの目撃者でありなさい。あなたと全体との間の交感を見なさい。そしてこれは可能な、これまで起こってきた最も微妙な気づくことだ。これは最も大きな、そして究極の気づくことだ。そしてもしあなたが、あなたと全体との間の出会いに気づくことができるなら、あなたはあなた自身と全体の両方を超越する。その時あなたは全体だ。そしてこれの中に二つはない---二元性はない---そこには「一つ」がある。

 この「一つ」はセックスを通して、愛を通して、祈りを通して探し求められる。この「一つ」がゴールで、この「一つ」が切望したものだ。セックスにおいてさえ、その切望は「一つ」に対するものだ。至福が生じるのは、たった一つの瞬間でさえあなたは「一つ」になるからだ。だから愛が必要であり、あなたはそれなしでは成長できないのだ。あなたは食べ物なしでも成長できるが、愛なしでは成長できない。そして祈りなしでいる人は決して満たされないだろう。セックスは愛の中で深くなる。愛は祈りの中で深くなる。そして祈りは完全な超越の中で、完全な「一つであること」の中で深くなる。この深くなることは常に瞑想を通してある。

 技法は常に同じだ。レベルは異なり、次元は異なり、段階は異なるが、始まりの技法は同じだ。掘り続けなさい。セックスの中を掘るとあなたは愛を見つけるだろう。愛の中へ深く進むとあなたは祈りに至るだろう。祈りの中を掘るとあなたは「一つ」の中へ爆発するだろう。この「一つ」は総計だ。この「一つ」が至福だ。この「一つ」がエクスタシーだ。

 しかし戦う態度を取らないこと、「掘る」態度を持つこと、親密な態度を持つことが不可欠だ。あらゆる事実の中に神性なものは存在する。それは装っているかもしれない。それは服を着ているかもしれない。しかしあなたはそれを剥ぎ取らなければならない、その服を脱がさなければならない。再びあなたは更により微妙な衣装を見つけるだろう。再びそれを脱がせなさい。あなたがその「一つ」のところに、全面的に裸であるところに来ない限り、あなたは満足を見つけないだろう。あなたは満たされたと感じない。あなたが衣装をまとっていない「一つ」のところに、服を脱いだ「一つ」のところに来る瞬間、あなたはそれと一つになる。なぜならあなたがその裸を知る時、それはあなた以外の誰でもないからだ。実際、誰もが他人を通して自分自身を探している。人は他人の扉を叩くことで自分自身の家を見つけなければならない。真実性(リアリティ)が服を脱がされる瞬間、あなたはそれと一つだ。なぜならその違いはただ衣装についてだからだ。衣服は障壁だ。

 そこで、あなたが自分自身の服を脱がない限り、あなたは真実性(リアリティ)の服を脱がすことはできない。だから瞑想は二重の武器なのだ。それは他人の服を脱がし、そしてそれはあなたの服も脱がす。あなたが瞑想する瞬間、その行為は二重だ。真実性(リアリティ)は裸になり、あなたも裸になる。そして全くの裸の状態の、全くの空っぽである瞬間に、あなたは「一つ」になる。

 だから私はセックスに反対ではない。それは私がセックスに賛成だという意味ではない。それは、私は内を掘り、深く進んで超えたものを明らかにすることに賛成だ、という意味だ。超えたものは常にそこにある。しかし通常のセックスはひき逃げのようなセックスだ。何一つ深く行かない。もし深く行くことができるなら、あなたは神性なものに感謝を感じるだろう。セックスを通して扉は開く。もしあなたがひき逃げのように行うなら、あなたは自分がより素晴らしい何かの近くにいたことを決して知らないだろう。だが私たちはとてもずる賢いので、セックスの後ろにはなくてセックスの前にある偽りの愛を作り出してきた。これは教え込まれた、人為的なものだ。だから私たちはセックスが満たされた時に愛が失われたと感じるのだ。なぜならどちらにしろあなたは再び序文を持つからだ。真の愛は常にセックスを超えている。それはセックスの後ろにある。それの中に深く入ってごらん。敬虔にそれに瞑想してごらん。するとあなたは愛する心(マインド)の状態へと花開くだろう。

 私はセックスに反対ではないし、愛に賛成でもない、と言おう。あなたは更にそれを超越しなければならない。それに瞑想しなさい。それを超越しなさい。瞑想によって私は、あなたは十分に油断なく、気づいてそれを通過しなければならない、ということを意味している。あなたは盲目的に、無意識にそれを通過してはいけない。偉大な至福がそこにあるが、あなたは盲目的に通過することができて、それで何もないところに来る。この盲目さは変えるべきものだ。あなたは開いている目にならなければならない。目を開けることで、セックスはあなたを「一つであること」の道に連れて行くことができる。

 滴は大洋になることができる。それはあらゆる滴の心の内側にある切望だ。そしてあらゆる行為とあらゆる欲望の中にあなたは同じ欲望を見つけるだろう。それを明らかにしなさい。それを追求しなさい。そしてこれは偉大な冒険だ。なぜなら私たちは無意識に生きているからだ。これくらいはすることができる。それでもこれは骨が折れる。しかしこれは不可能ではない。これはイエス、仏陀、マハーヴィーラにとっては可能だった。そしてこれは他の誰にとっても可能だ。この強烈さをもって、この油断のなさをもって、この感じやすさをもって、あなたがセックスに入って行く時、あなたはそれを超越するだろう。そこには全くどんな昇華もない。あなたが超越する時、そこにセックスはなく、昇華されたセックスさえない。そこには愛、祈り、そして「一つ」があるだろう。これらは愛の三つの段階だ。肉体的な愛、精神的な愛、そして霊的(スピリチュアル)な愛だ。そしてこれらの三つが超越される時、そこには神性なものがある。

 だからイエスが「愛は神だ」と言う時、これは可能な定義として最も近いものだ。なぜなら神への道で私たちが知る最後の事柄は愛だからだ。それを超えると未知であり、未知は定義され得ない。私たちは自分の最後の認識を通して神性なものを指し示すしかできないし、そしてそれが愛だ。その愛の地点を超えると、そこには体験者はいない。その時滴は大洋になった。

 一歩一歩進みなさい。だが緊張せずに、奮闘せずに、友好的な態度をもって。油断しないでただ進みなさい。油断しないことは生の暗闇の中の灯りだ。この光をもって、その中に入って行きなさい。あらゆる隅々を探し求めなさい。あらゆるところが神性だから、どんなものにも反対してはいけない。しかし何かの手中にあってもいけない。超えて行きなさい。なぜなら更に偉大な至福があなたを待っているからだ。旅は続かなければならない。そしてあなたがどこにいようとも、もしセックスの近くにいるなら、セックスを使いなさい。愛の近くにいるなら、愛を使いなさい。抑圧や昇華の見地で考えてはいけない。戦いの見地で考えてはいけない。隠れん坊のゲームのようにありなさい。「彼」は何かの後ろにいるかもしれないので、戦ってはいけないし、どんなものからも逃げてはいけない。実際は、「彼」はあらゆるものの後ろにいる。だからあなたがどこにいようとも、そこから最も近い扉を取りなさい。するとあなたは前進するだろう。どんなところにも停滞しなければあなたは到達するだろう。なぜなら生はあらゆるところにあるからだ。

 イエスは「あらゆる石の下に神はいる」と言ったが、あなたは石しか見ない。あなたはマインドのこの石のような状態を通過しなければならない。あなたがセックスを敵として見る時、それは石になる。その時それは非透明になる。それならあなたは超えたものを見ることはできない。それを使いなさい。それに瞑想しなさい。すると石はまさにガラスのようになるだろう。あなたはガラスの後ろを見る。あなたはガラスを忘れて、それの後ろにあるものを思い出すだろう。透明になるものは何でも消える。だからセックスを石にさせてはいけない。それを透明にさせなさい。それは瞑想を通して透明になる。







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  第5章:セックス、愛、祈り、そして瞑想
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