5月2日

 今更ながら、遅れましてPerfumeに夢中になっている。きっかけはBABYMETALから振り付け・演出家のMIKIKOを知ったことからの繋がりで、それまではテクノ・ポップにはあまり関心はなかった。それはプログレ・ロックに比べて軽すぎたからだ。クラフトワークなどもまあいいけれど、それほど聞き込むことはなかった。
 Perfumeは、音楽とダンスが一体となっているところが魅力で、それに彼女たちの歌声の質の良さとそのヴィジュアルの美しさがある。テクノ・ポップにある無機質的なつまならさに、ある柔らかさが感じられる。不思議な世界と言える。



 スピリチュアル・オカルト・霊的世界の動きと、表面的な社会現象との関連、その影響を知ることに前から興味があった。

 高校時代に学んだ現代美術〜例えば、モンドリアンやカンディンスキーという芸術家はみんな神智学やシュタイナーに影響を受けている。
こういうことは学校の美術の授業では教えない。
 バロック時代の様式は、当時の薔薇十字会の思想が基になっている、という研究がある。シュタイナーは現代西洋に、その薔薇十字会の思想を再認識させようとしていた。
 錬金術は、完全に薔薇十字会の秘教的知識を守るためのカモフラージュである。

 そのあたりの知識を簡略的に体系づけられた本を知りたい。
 スピリチュアルを知るということは、結局、この世界とは何か?生きるとは何か?死とは何か?という根本命題を探求するということであり、そうでなければ結局は生きている意味はわからない。

 とどのつまり、ではなぜ生きるのだ?ということだ。
世間的な成功に関心があるのなら、金持ちになったり有名になったり一番になったりすることに価値があると思うのなら、その世界でがんばればいい。
では、そんなことに価値を感じられないなら、どうすればいい?

 スピリチュアルな道への出発点はそこにある。だからある意味で、これは少数派の道であり、一般的には理解されず受け入れられないのは当然でもある。
 だから、これに関する議論、特に理解できない者との議論はまったく不毛である。無駄である。
 だから、共感できる同士に出会うことも非常に難しい。そういう意味で、孤独な作業である。
 結局は、独り篭って研究していくしかないのかもしれない。





 
5月3日

 「神秘学カタログ」(昭和62年発刊)という本を読んで印象に残ったこと。
 膨大なページ数と細かい文字で、とても全部読む気にはなれないが、その中で、日本が1970年代にオカルトや神秘学を受け入れ始めたのは、新しい生活運動をしている人たちのグループであると指摘している。いわゆる自然回帰とかコミューン作りとして、学生運動上がりの世代がその方向に捉えているということ。そしてそれはあくまで社会運動の一つとして扱われ、神秘学をそのまま受け入れることはなかった、と言っている。
 これは私が前に感じていたこと、そして私の性に合わなかったところを言っている。

 また、日本では心霊学、心霊科学、心霊研究、心霊主義、が雑然と用いられていて、各々の区分が明確ではない。我が国では欧米の基準でいう「心霊研究」というほどの科学的研究がなされたことはほとんどない。・・・と、日本のスピリチュアルに対する扱いの浅さ、貧しさを指摘している。

 近代でいろいろなスピリチュアルの指導者・先駆者が現われたが、結局はブラヴァッキーとシュタイナーが大きな柱になっている、ということになる。
 この中ではブラヴァッキーがスピリチュアリズムを、特に交霊会を批判したことについての矛盾が書かれている。つまりブラヴァッキーは勇み足的な行動をしていた、彼女の霊的知識には優れたものがあるが、その外的活動にはいろいろと問題点も多いと言える。

 この本に書かれてあることは神秘学に関する動きの現象を書いたもので、それを全て知る必要もない。
 自分にとっては、今のところOshoを中心として、神智学、シュタイナー、インドの古代思想〜ウパニシャッドを基本に進めていくことは変わらない。
 日本の神秘学的現象にはあまり関心はない。変に神道に関連付けるのは好きではない。日本はブラックホールだ、自分では何もせず、気づこうともしない、という表現がこの本でされているが、ある意味納得できる部分もある。外国からの情報を得て、初めて動き出す、というのはこの時代(昭和60年代)には見られる。

 最近は、音楽や文化、テクノロジーの世界では日本が自ら世界に発信しているが、スピリチュアルな世界に関してはどうだろう・・・
 西洋が捉えた東洋思想を逆輸入の形で取り入れた方が、そこから日本のこびりついた古い概念を落とすのにはいい。  
 だから西洋の神秘学を翻訳する、ということが最もいいのかもしれない。





 
5月4日

   スピリチュアリズムと神智学とOsho〜

 こういう知識を知ることは、世界の本質を知ることであり人間の可能性を知ることでもある。

 スピリチュアリズムは、そもそも心霊現象を解明することから始まったもので、基本的に霊界通信である。それは様々な形があり、主に霊からのアドバイスや霊界・死後の世界の説明、それと物質界・この世との関係を説く。

 神智学は、世界の創造・歴史、人間の構造、生命、カルマなどの霊的解明で、霊視者〜ブラヴァッキーの見た世界と、アデプト〜高次の見えない助力者・奥義体得者〜からの霊的通信を伝える。このあたりはスピリチュアリズムと似ている。主要なアデプトとして、クートフーミ大師、モリヤ大師、ラコーシ大師、ジュアルクール大師などがいる。

 守護霊などに関してはスピリチュアリズムが詳しいが、人間の7つの身体、チャクラなどに関しては神智学が詳しい。神智学はあくまでアデプトの存在を絶対視し、その指導に従うが、神智学から離れたシュタイナーの人智学は、アデプトの存在には関わらず、人間の霊的な観点・生き方・展望・主体性を説く。そこにはどうしてもキリスト教を主としたシュタイナー独自の哲学が出てくる。
 同じく神智学から離れたアリス・ベイリーは完全にジュアルクール大師の媒体・道具であり、その教えをただ伝えているだけだ。

 スピリチュアリズムと神智学の違いは、扱っている世界が微妙に違っているだけで、重複しているところもあり、それはそれぞれの霊視者の視点・見方による。決して両者は対立するものではないし、優劣をつける意味もない。実際に、スピリチュアリズム界のモーゼスやアラン・カーディックなどは神智学と交流がある。

 で、Oshoは、そもそも人間を目覚めさせるために働いているため、あまりこういう秘教的知識の伝達には力を注いでいないところがある。知識は邪魔になると言っている。それでもいろいろな講話の中でその知識を伝えている。あちらこちらで小出しにしている感じだ。そして別のところでは自分の言ったことを否定し、矛盾させるので、素直な読み手は混乱する。それが知識に囚われなくさせるためのOshoの策略でもある。

 この3つを比べた場合、個人的に最も心に響くのはOshoだ。
 スピリチュアリズムや神智学は、ある種の現実逃避のための材料にもなり得る。それは読み手次第だが、死後の世界であれ、未来であれ、現実以外のところに希望を持たせる可能性がある。それがアセンションという考えを生み出す土壌になる。アセンションの基本知識は全て神智学からのものだ。

 Oshoは、そういう希望を壊し、全てを今とここに持ってきて、現実(リアリティ)に直面させる。
 Oshoの説く秘教的知識は、もちろん神智学と重なるところも多い。これをみて、Oshoは神智学から影響を受けた、などと言う知ったかぶりの者もいる。Oshoの表現は独自のもので、自らの体験に基づいているもので、神智学と食い違うところも多い。ただ、その洞察はOshoの方がはるかに深い。

 ところが、巷の神秘学に関する本では、神智学〜ブラヴァッキーとシュタイナーは基本的事案として必ず取り上げられているが、Oshoについてはほとんど無視されている。クリシュナムルティでさえ取り上げられているのに・・・。 おそらくOshoを把握すること、Oshoについて説明することが困難だからだろう。特に社会的地位のある知識人にはOshoを認めることに及び腰な感じがある。一般人〜サニヤシン以外〜で、Oshoを広めようとした人に玉川信明、阿部敏郎、山川 紘矢がいるくらいだ。

 スピリチュアリズムを一般に普及させた江原啓之も、最近は人生相談的な仕事をして、大衆に媚びているように見えて好きになれない。

 霊的世界を知るだけならスピリチュアリズムか神智学で十分だろうが、人間の霊的可能性を知り、そこへどう到達するかを知るためには、個人的にはOshoしかないと感じている。なぜならOshoは多くの道を説いていて、一つの道だけに囚われないからだ。他の聖人たちはみんなそれぞれ一つの道を説く。それが彼らの独自性でもあり、だから一般的にはわかりやすく、捕らえやすい。クリシュナムルティは全ての方法論を否定するが、それも一つの道である。

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 ここんところずっとPerfumeに夢中になって翻訳が進まない。邦楽にこんなに夢中になったのは初めてだ。最初は去年の秋頃がBABYMETALに夢中になり、それが和楽器バンドになり、そしてPerfumeに至る。
 Perfumeを最初に知ったのは、2008年歌謡祭で「love the world」を見てからだが、その時もすごくいい曲だなという印象を受けた。
ただこの曲のタイトルを知ったのはつい最近だ。それまで心のどこかに残っていた。 
次にPerfumeを知ったのは、バラエティ番組でインド映画のダンス・シーンと日本の音楽をシンクロさせたものがあり、そこで「セラミック・ガール」を知った。
 BABYMETALを知ったのはネットからで、最初に知った曲は「メギツネ - MEGITSUNE」。
 和楽器バンドを知ったのもネットからで、最初に知った曲は「千本桜」。

 最初に聞いた曲は強く印象に残っている。だから自分にとってもPerfumeは「love the world」が印象深い。
 Perfumeをよく聞くようになったのは、振り付け師のMIKIKOの特集番組-情熱大陸を見て、そこで取り上げられていたから。
MIKIKOという人は、リオ・オリンピック閉会式のトーキョー・ショーで演出をしたことを知り、またBABYMETALの振り付け師としても知ってから。
ただ、MIKIKOの振り付けとしては、ほとんどPerfumeが取り上げられる。その番組の中で、Perfumeの新曲「TOKYO GIRL」の振り付けを作っているシーンがとても好きだ。
 Perfumeは、その前に、ネットでJ-POPを外国人が見た時のリアクションの映像を見て、そこで「レーザービーム」を知った。

 この3つのグループを比べて、BABYMETALと和楽器バンドは、割と順風に人気が出て活躍しているが、Perfumeはけっこう下積み時代が長い。また、BABYMETALと和楽器バンドは外国人の反応から人気に火がついたが、Perfumeは日本の活躍で人気を上げてきている。
 音楽的には、和楽器バンドはボカロから入って、現在は曲はメンバーが作る。和楽器と洋楽器のコラボが魅力となっている。
 BABYMETALは、曲ごとに作者が違い、その魅力はステージ・パフォーマンスにある。盛り上げて熱くさせてくれる。
 Perfumeは、ずっと中田ヤスタカが作った曲を歌っている。その曲のセンスの良さとPerfumeのダンスが魅力となっている。
 だから、BABYMETALとPerfumeは周囲のスタッフの意志によって作られ、動かされている、という感じがあり、和楽器バンドはメンバー自身の意志で活動している、という感じが強い。

 それでも、それぞれに音楽的完成度は高く、その音楽性はそれぞれ違っていて、それぞれ好きだ。
 好きな曲としては、全体的には和楽器バンドの音楽が多い。
 だがキャラクター的にはPerfumeが一番である。とにかくあーちゃんの天然トークがおもしろすぎる。Perfumeが一番苦労人である。そこが一番好感が持てるところだ。





 
5月9日

 Perfumeには毎日新しい発見と感動がある。バラエティ番組でのコメントには本当に幸せにさせてくれるが、
 今日知ったこの 「Edge 」 のステージ・パフォーマンスは、もう芸術である。すごいとしか言いようがない!
 また、2006年のこの曲 「
エレクトロ・ワールド」もいい。
 こういう世界を、本当は夢見て、追い求めていた。まさにドラックのような、恍惚とさせるもの。

 私の中では、イーノやクラウス・シュルツの電子的世界と共通している。
 つまり、メッセージ性の強い音楽ではなく、無機質だが、聞き手が自由に想像できて、創造的に聞くことができる音楽だ。

 昔のサニヤシンやセラピスト、昭和20年代生まれの連中から受けた傷やトラウマを、Oshoの翻訳をすることとPerfumeやBABYMETALの音楽を聞くことで、自分を取り戻し、癒している。





 
5月11日

 音楽の部屋に Perfume のページを作る。





 
5月12日

 音楽の部屋に 和楽器バンド のページを作る。





 
5月25日

 自分を支えてくれている人はいない。帰る故郷もない。公共工事で面影は全て消えた。
 私にアイデンティティーはない。逆に、何も囚われていない、とも言える。

 自分の好むものは周囲から否定されてきた。
 中学・高校と、音楽はベートーヴェンが好きだった。高校の美術教師にそれを否定された。現代に生きているなら、現代の音楽を聞くべきだ、というわけだ。ただ、ベートーヴェンは古い音楽としか見られなかった。だが、クラシックの専門家によれば、ベートーヴェンは音楽史上重要な音楽家に見られている。
 モーツァルトが好きだったが、いわゆる音楽通からは、モーツァルトは子供っぽいと批判される。

 専門家が評価するものを、素人の知ったかぶりは否定する。このパターンを多く見てきた。実際に、素人の知ったかぶりに悩まされてきた。

 霊・スピリチュアルも同じだ。一般の知ったかぶりは、霊と聞いただけで拒絶反応を起こし、否定する。
 霊・スピリチュアルの世界は、オリジナルの仏教でも説かれている。そのルーツはインドのヴェーダにあり、仏教はその流れにあるから当然だが、単にそれが日本に伝わらなかっただけ。

 自分の好むものは周囲から否定されてきた。自分を支えてくれる人はいなかったし、今もいない。そんな状況で、どうやって自分に自信を持つことができるだろう?どうやって確信をもって生きることができるだろう?

 自分探しや自分の道を見つけることは困難で、一つに定まらなかった。常に迷っていた。だから、いろんな事をやった。それは今では自分の肥やしになっている。一つの道を、一つのやりたい事を究める、という見方では、私の人生は失敗である。私は成功者ではない。

 逆に、だからこそ一つの見方に囚われずに済んだと言える。私にアイデンティティーはない。帰る場所はない。ある意味、自由である。
他人からの評価、他人に認められたいこと、他人の役に立ちたいということ、他人を期待すること、それらが苦しみの種になっていた。

 他人から理解され、支えてくれる人がいる人は幸いだ。
 私にはそんな人はいない。そして、そんな人を求めることをあきらめた。だから一人で生きている。だから、一人で生きられるようになった。

 老人の詐欺被害が増えているらしい。人を信用しやすい人、優しい人が狙われやすい。私は電話を止めている。外にも出ない。詐欺に遭いようがない。

 他人を避けているわけではない。単に興味がないし、今の自分にとっては邪魔になる。それだけのこと。
 これは、実は、自分の親の生き方とはまったく正反対である。真逆だ。こんな生き方を親から非難されてきた。それでも、自分に正直に生きるとなると、こういうふうに生きることになる。だから、長い間、葛藤があった。今、ようやく、その生き方を受け入れられた。

 確かに昔の人の生活は一人で生きられないような状況だっただろうから、そのような考え方になるのは仕方がないかもしれない。

 親からの影響がプラスに働く人は、いわゆる社会の成功者になれる。世の成功者の事例を調べればわかることだ。
 親から否定されてきた人が、親の生き方を受け入れられない人が、どうやって自己を確立して成功して生きられるのか、私はいまだにそれについては否定的だ。
 親の子供への影響は絶対である。自分の親を愛し、尊敬できる人は幸いである。ただ、そこに満足できる人は、私のようにスピリチュアルな世界には興味を持たないだろう。そもそも、その方向への渇望が生じないからだ。

 ただ、昔に否定された自分の生き方や自分の好みが、現代では主流になりつつあること、認められつつあることを見ておもしろく感じている。





 
5月27日

 生まれてからずっと、住む所は変転し、学校も1年単位で転校してきた。人間関係・友人の繋がりは1年で断ち切られた。家庭内でも、兄弟関係はいびつだった。
 当然、一人で生きるしかないようになるだろう。自分の過去を共有できる人間が存在しないのだから。
 当然、自分のアイデンテイティーは築けない。
 唯一、熊本の母方の祖父母が心の拠り所だった。彼らだけは私を受け入れて、愛してくれた。だが、彼らもいなくなった。彼らが住んでいた家も、私にとっても思い出深い家も、取り壊された。感謝をこめて彼らの肖像画を描いて贈ったが、彼らが死んだ後は、その絵は物置の片隅に捨てられていた。

 自分の拠り所を求めて生きてきた。正直、常にぐらぐらの状態で、かろうじて立っていられる状態だった。マジで精神病院に入ろうとも思った。
 今でこそ、アダルト・チルドレンやら、うつ病やら、発達障害など、もっともらいしい精神疾患の病名があるが、当時はそんなものは何もなかった。

 そんな中、Osho〜当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ〜の本に出会ったのは衝撃だった。

 「あるがままの自分を受け入れること」・・・・自己否定や自己卑下で生きてきた自分にとっては、大きな救いだった。
 あるがままの自分〜弱さ、醜さ、欲望、嫉妬、・・・〜それを全て、何の非難もせずに受け入れること。だが、サニヤシンからは、そういうところを批判された。これが、Oshoとサニヤシンは真逆だ、と言う意味だ。Oshoは受け入れて、サニヤシンは否定した。彼らはただ、気づかずに、他の新興宗教団体と同じゲームをしていただけだ。それはまさに政治ゲームだ。

 素人の知ったかぶり・・・・・、大した人生経験もない者が、にわかに覚えたセラピー・テクニックで人を指導しようとしていた。他人の傷や痛みをわからない者が、苦しんでいる人を導こうとしていた。当然、その洞察は表面的なものでしかなかった。それでも、藁をも掴む心境だった当時の自分にとっては何らかの助けになれると期待していた。確かに、それなりに気分の高揚は得られたが、それは数日後にはすぐに消えて、また元の自分に戻った。それだけだった。ただ、金の浪費だった。
 単なるセラピーごっこだ。今でもどこかでそんなゲームをしている者がいるのだろう。やりたいやつはやればいい。ただ、ずいぶん金のかかるゲームだ。

 そんな経験を経て、今の自分がある。
 世間は、エゴ、欺瞞、競争、批判、野心だらけだ。私はそんなものに関わることに興味がない。何の得にもならない。ただ時間とエネルギーの浪費だ。言いたいやつには言わしておけばいい。批判したいやつにはそうさせておけばいい。世間はそんな人でいっぱいだ。相手にする価値は何もない。自分のやりたいことを大切にしなければならない。自分の人生は自分のためにあるのだから。日本では、そんな生き方はエゴイストと見られるのだろう。なら、エゴイストとして生きればいい。

 「世間の中に生きて、世間に染まらず」・・・・・Osho





 
5月28日

 宇宙科学の最先端の研究では、既に太陽系の他の惑星に生命の痕跡を認め始めている。太陽系などは宇宙全体から見ればほんの辺境の星団にすぎない。宇宙に知的生命体がいることは、専門科学者の間では暗黙の肯定説になっている。

 科学の知ったかぶりは、全宇宙で生命が住む星は地球だけだ、他は全て不毛な死の星ばかりだ、と断言する。

 神秘学では、既に全ての星に知的生命体が存在すると説いている。知ったかぶりの大衆はそれを嘲笑する。

 これは単なる一例であり、最先端の科学は少しずつ神秘学と同調し、同意するようになっている。これはOshoも各所で語っている。
 そもそも神秘学とは、数万年におよぶインドでのスピリチュアルな探求の成果をまとめたものにすぎない。

 霊的な探求の結論に科学的探究が近づきつつある。

 つまり、神秘学とは荒唐無稽な空論ではないということだ。単に、一般大衆の理解がそこまで及んでいないだけのことだ。彼らは自分の理解できないことを否定する。それは彼らの勝手である。
 ただ、確かに荒唐無稽な説もある。地球空洞説やら、宇宙人による遺伝子操作やら、ムー大陸説やら、プレアデスや他の次元からのメッセージなど・・・・。
 個人的にはこれらの説にはまったく興味はないし、受け入れていない。

 数万年におよぶインドでのスピリチュアルな探求の成果の一つが、仏陀の出現であり、それが仏教となった。
 そしてOshoの出現もその成果の一つであり、Oshoはそのインドのスピリチュアルな伝統を現代に合わせた形で伝えようとした。

 仏陀の出現も、Oshoの出現も、長年にわたる霊的な探求の地盤があってこそ可能だった。
 その霊的な探求の地盤が世界から失われつつある。人間があまりに物質主義的に、物欲的になりすぎたために・・・。

 宗教は完全に誤解されている。宗教イコール狂信・カルト・洗脳というイメージに繋がる。そんな状況で、霊的な探求の地盤を作ることは非常に困難だろう。









   2017年 5月
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