8月 3日

 Oshoの伝記「反逆の軌跡」の校正をチェックしながら、改めてOshoは意識が高くて愛情深い家族に恵まれていたことがわかる。まあ、そういう家族でないとOshoの魂を受け入れられないだろうし、そんな家族を待つために700年も待ったのだが・・・。

 自分の家族・生い立ちと比べたら惨めに感じるものだ。それも私自身の魂のレベルを表しているのであり、それに見合ったものであり、解消すべきカルマのために必要なものだったのだろうが・・・。
 何であれそこを基点に育ってきたのであり、そこから現在の生活、生き方に辿り着いたのは、自分でも奇跡的な部分を感じている。やはり何かに守られ、導かれているのかもしれない。まあ・・・、毎日、過去から積もってきた家族関係に関するカタルシスを仏壇の前で先祖に向かって吐き捨てているから、いつかは報復されるかもしれない。バチが当たる、というふうに・・・。普通の宗教・スピリチュアル的考えではそうなるだろう。私はそれをデタラメと思っているが・・・。

 結局のところ、今でも何が正解かわからない。いや、正解などないのかもしれない。少なくとも、家族から受けた屈辱を先祖に返して、それでバチが当たるのなら、先祖は何と言うエゴイストなのだろうか?
 私の今の境遇は先祖の助けによるのかもしれない。それは単なる思い過ごしかもしれない。少なくともそういう実感はない。少なくとも先祖に尊敬できる人は誰もいないし、誰も知らない。スピリチュアルでは先祖や守護霊に関係づけて捉えるが、私は最近はそういうことはどうでもよくなっている。ただ、伝統的な宗教儀式、仏教的法要は、単なる形式にしか見ていない。中身は何もないと思っている。そんな中身のない形式を、意味もわからず遂行している人が世間では尊敬される。
 家系・先祖に尊敬できる人や憧れる人はまったくいない。むしろ、恥ずかしく思える人は多い。だから、先祖に感謝せよ、と言われても、誰に感謝したらいいのか思いつかない。

 そういう境遇を基点に生まれ育ってきた。誰も何も教えてくれなかった。だから、人よりも無知であり、人よりも子供っぽいため、人一倍笑われ、バカにされ、変に見られてきた。サニヤシンになり、セラピーを受けたら何か変わるだろうかと思ったが、同じように笑われ、批判された。

 だから、今でも何が正解かわからない。たぶん私は発達障害なのかもしれない。

 でもね・・・、そうでない人たち、いわゆる正常な人たちが中心となっている世の中がこれだろ?笑ったりバカにしたりした人たちが集まっている世界がこれなの?この程度なの?
 毎日、Yahooニュースで知る世界の出来事は狂気に満ちたものばかり。
 イジメ、子供の自殺、学校の隠蔽、老人の暴走運転、過労、NHKなどのメディア不祥事、解決の見えない原発事故、沖縄基地問題、政治家の堕落・・・・、

 何かまともなものがある? 何か夢がある? 何か展望が見える?

 私には、その方が、この世間・世界の方が発達障害に見えるけれど・・・・。







 8月 8日

 各地で集中豪雨被害と猛暑の日々が続く。
 衣食住に足りているのはありがたい。
 静かに自分のやりたいことに没頭できることはありがたい。

 61歳にして、今とここに憂いなし。ただ、過去の傷が残るのみ。
 あとは寿命が来るまで、ただひたすらOshoの翻訳を続けるのみ。






 8月14日

 池上彰の「特攻隊」について解説した番組を見た。自分が特攻隊の立場にいたら、と思っただけで胸がしめつけられた。自分なら、とても怖気づいて出撃できないだろう。

 その番組の中で、出撃前に特攻隊員が婚約者に宛てた手紙が紹介されていた。
 それを見て、すぐに和楽器バンドの「風鈴の唄うたい」という歌を思い出した。その歌詞がこの手紙を元に作られたというのは聞いていたので・・・・。

 映像は2016年新年の武道館ライブで、「残響」という筝ソロから「風鈴の唄うたい」に移る。
 ちなみにこの筝ソロは、その場で演奏したものを録音して再生するループマシンという機械を使っていて、1人で多重演奏をしている。
 和楽器バンドのライブでも、この2016年の武道館ライブは最高の演奏である。

 
https://www.youtube.com/watch?v=rMR25FKS8dQ






 8月15日

 今日は明け方、まだ布団の中で過去に受けた傷がぶり返してきた・・・。途方もない後悔と悔しさが襲い掛かってきたが、偶然にも竹下気学のメルマガからそのヒントを得ることができた。
 私は、気学的には竹下流で言う宇宙人・芸術家の相、つまり変な宇宙人ということになり、ようするに周囲から理解されない変人なのである。それはこの鑑定でそう出ている。つまり、持って生まれた性分・性質なのだ。だからどうしようもない。それが私の個性なのだ。

 そして、私の母親は五黄土星生まれで、パワーが強く専業主婦向きではない。しかも手相にますかけがあった。これも強い運気を表わす。ようするに家庭に閉じこもっていてはストレスが溜まる性格で、そのはけ口は子供に行き、そのストレスを受けた子供は萎縮して言いたいことが言えなくなり、自分を抑え込んでいい子を演じるようになる。これがまさしく私だった。
 ただでさえ宇宙人で周りから理解されず、しかも母親のストレスを受けて、ますます自分を出すことができなくなり、そして宇宙人=変人という性格を持つ者は家族で私だけだったため、ますます孤立感は強まり、自分の世界に閉じ篭り、そのストレスから喘息を発症し、その発散からか夜尿症が中学生まで治らなかった。毎朝、自己嫌悪で目が覚めた。生まれてからずっとそんな状態で育ってきた。
 とにかく母親が怖かった。家の中では絶対的存在だった。逆らうことはできなかった。だがこのままではダメになると思い、思い切って18歳の時に親元を離れて一人暮らしを始めた。とにかく母親の呪縛から逃げたかった。だが20年近く萎縮して生きてきたため、一人で生き始めてもそのパターンが強く残り、というか、他の生き方をしたことがないため、他人に対する強い劣等感を抱きながら生きていた。
 そのため、自分を変えたいという思いから、精神世界や瞑想に興味を持ち、Oshoの弟子になったりしたのだが、Oshoのセラピーや他の弟子たちからも非常に表面的な俗っぽい批判ばかり受け、結局誰からも理解されないことは一緒だった。

 この竹下気学のメルマガを読んで、それは当然のことであり、何も間違っていなかったということがわかった。初めて理解された。この変な宇宙人というタイプは全体の1割しかいないらしい。そして日本は全体主義の国である。みんなと一緒に、が重要で、周りに合わせて生きることが要求され、それができない子は非難され、変な目で見られ、いじめられる。当然生き難くなり、結果、うつ病になったり引き篭もったりする。

 そんな自分のことを発達障害だとか、アダルト・チルドレンだとか思ったりもしたが、竹下気学によれば、単なる少数派のタイプであり、何も問題なく間違ってはいない。そう言ってもらえることはありがたい。できれば同じタイプの、変な宇宙人タイプの人と友人になれば非常に生き易くなるらしいが、どこにそんな人がいるのかもわからないし、もうさんざん人間関係で嫌な目にばかり遭ってきたので、いまさらそんな気にもなれない。
 他人に理解されないことが私にとっては自然な、当たり前のこと、私の個性であることがわかれば、何も無理せず今の生き方を続けていけばいい。
 一人で生きられるようになったのは、そういうことが原因だったのだろうし、それに加えて何度も転校を繰り返していたことも影響しているだろう。友人関係は1年で断ち切られた。どこにいってもよそ者で、部外者で、打ち解けられる場所はどこにもなかった。

 Oshoのセラピストは、それを批判した。世間的な判断で、「弱い!逃げている!」と。まあ、セラピーそのものが元々は西洋人向けに作られたもので、日本人には向いていないのだが・・・。だから私にとってセラピーは傷を治すどころか、むしろさらに大きく深くさせた。しかもそのために金を払っているのだから、こんなバカな話はない。
 私は今でもセラピーを恨んでいる。セラピーで受けた傷を約30年も引きずって生きてきたのだから、まさに本末転倒だ。
 ようするに、セラピーで自分を変えようと思っていたのが間違いだったのだ。そもそも変える必要などなかったのだ。必要なことは、そんな自分を全面的に受け入れることだ。それがわかればセラピーなど受ける必要はない。いや、受けないほうがいい。私のことを何も知らないセラピストから好き勝手なことを言われたり判断されたりする危険がある。それはセラピストの解釈であり、表面的な解釈にすぎない。往々にしてそれは俗っぽいものが多い。それはセラピストがその程度の人生しか生きていないから、私が受けた苦しみなどまったく理解できないだろうからだ。

 平凡な人には変人の苦しみはわからない。


 だから、私を本当に理解してくれるのは竹下気学だけだということになる。
 そして、Oshoの翻訳を通しながら、自分を受け入れようとしている。自分は何も問題ない、と思うようにしている。そして、Oshoの翻訳を通して、Oshoのセラピストの、セラピーの問題点がわかるようになった。


 ようするに、61年目にしてようやく、自分の人生の問題点がわかり、整理できるようになり始めているということだ。






 8月17日

 おもしろいのは、竹下宏とOshoに共通点があること。

 竹下気学を始めた竹下宏は、元々は占いが大嫌いで、何でも自分で確かめないと気が済まない性格だった。それがひょんなきっかけで気学の信憑性を知り、それにはまっていく。ただ、それは現代に合わせた独自のもので、だから伝統的・正統的な気学鑑定士たちからは異端視されているらしい。竹下氏曰く〜、気学が確立された昔の時代と現代とでは生きている環境が大きく変化しているので、伝統的な気学の理論を現代に当てはめることはできない、と言う。

 Oshoも同じで、伝統的な宗教を全て疑った。初期の頃は完全な合理主義者で、最も非宗教的で、誰もOshoが宗教の世界で生きるとは考えられなかった。そしてOshoが説いている教えは、宗教が本来持っていた本質性を現代に適応させることだ。だから形骸化した伝統的宗教家たちからは酷く非難された。


 どちらも伝統に反逆し、独自性を貫いている。そして伝統にこだわる人からは理解されていない。
 そして私にとって自己理解の助けになるのはこの竹下気学とOshoだけである。Oshoであって、Oshoのセラピストではない。







 8月18日

 まあ・・・、変人でないと、朝から夜までOshoの翻訳ばかりすることはないだろうな。






 8月22日

 自分の基盤となるもの、ルーツは何もない、ということ。
 なぜなら生まれてからほぼ1年ごとに転居し続けてきたから。まるで旅芸人だ。それもほとんどが工業地帯。つまり、コンクリートや石炭、コンビナートや倉庫に囲まれた環境で生きてきたので、土を見たことがなかった。土がなかったから当然植物や花は何も知らなかった。
 自分の感性を、美感を育むものは何もなかった。その中で、自分なりに作り上げたもの〜絵画〜は、無関心な親によって捨てられた。

 30歳過ぎから長く風景写真を撮り続けたのは、そんな時期を取り戻したかったからでもある。
 風景写真を撮り始めて、初めて花の名前や種類を知るようになった。

 自分に基盤が無いということは、逆に言えば、失うものは何もない、失うことへの恐れはない、とも言える。
 それは何にでもなれる、ということでもあろう。


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 よく、死ぬ前にお迎えが来るとか言うが、私の場合誰が来るのだろう。少なくとも、来てもらって嬉しい人は家族親戚にはいない。いや、それ以外にもいない。お迎えが来て喜ぶ人は幸せな人生だったのだろうな。
 逆に、こんな私に誰が来るのか、興味がある。そしてその人に対する自分の反応にも・・・







 8月30日

 長らく電話を不通にしていたが、最近はまた繋いでいる。特に気にならなくなった。一つの変化かもしれない。
 精神療法の一つには、誰にも関わらず、何もしない、というのが効果的であることを知っている。禅の真髄もここにあるのだと思う。Oshoの言う瞑想、ノー・マインドも・・・。
 今の自分の生活も、そこまではいかなくても、ほぼ隔離的な生活であり、これが少しずつ自分を癒やしている。これはそれまで世間から教え込まれてきた価値観に反するものだ。誰にも会わず何もしないというのは最も非難される。自分の殻に閉じこもっている怠け者、と。
 それでも最近は本でも、一人で生きることを勧めたり、孤独でいることの大切さを説いたりしていて、時代が変わってきているのを感じる。

 まあ、何にせよ、うるさくて迷惑な人間が周辺にいないのはありがたい。


 ぶっちゃけ、新聞は取っていないし、NHK受信料も払っていないし、ケイタイも持っていない。ガラケーやらあいふぉんやらあいぱっどやら、何のこっちゃわからないし興味もない。ニュースはYahooで十分だし。






   2017年 8月
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