7月5日
 あるサニヤシンのサイトで、「知恵の書」下巻の翻訳について「訳が悪い、暗くて重く、まるで宗教書のようだ」という批判文を見つけた。
当然私はショックを受け、傷ついたが、それでもその批判内容にはまったくピンとこなかった。どういうところが重くて暗いのか理解できない・・・
 他のOshoの邦訳本と比べてみたが、何も変わらない。納得できないので、メールで返信した。「それはただ、あなたの好みに合わなかっただけの話でしょう。私はあなたの好みなど、知ったことではないし、自分の翻訳スタイルを変えるつもりはない。」という内容で〜 すぐに、その人から謝罪のメールが返ってきたので、一応おさまったが・・・

 これから感じたことは〜ネット社会の恐ろしさだ。平気で簡単に、他人への批判、誹謗、中傷が書けるということ。私の場合、小さなことで済んだが、人によってはすごく傷つけられたり、自殺する人もいる。
 便利なものは危険でもある。それに、それを止めさせる方法はない。一番安全なのは、ネットをしないことだ。
 もう一つ感じたことは、自分は何もしないで、他人の批判ばかりしている人が多い、ということ。ずるい人間だ。批判するのなら、自分で翻訳しろ、と言いたい。実際、今では翻訳する人はほとんどいないのに・・・

 そして驚いたのは、この批判した人がサニヤシン・セラピストだということ。人の心理的な問題を解決する手助けをしている人なのだ。そういう人が、他人の気持ちを考えられないとは・・・?おそらく、心理療法のテクニックは知っているが、人間性としては未熟なのだろう。自分は他人を助けることができる、という傲慢さ、エゴが感じられる。私自身、過去にもそういう傲慢なセラピストを知っているから、それはすぐにわかった。
 それと、自分に対して開き直りもできた。どんな好き勝手なことを書かれようと、自分のやり方で翻訳していこう、と〜そういう風にしか出来ないし〜
 いろいろと勉強にはなった一件だった。






7月7
 インドで生まれたこれらの宗教の目的、目指すところは、大雑把に言って、輪廻からの離脱、生まれ変わりを止めること、と言える。ということは、既に生まれ変わりはある、ということを認めている。基本的に、それがあることを見つけ、それを無くす方法を見つけた、ということが凄いけど・・・
 バラモン教の典拠、ヴェーダ、ウパニシャッドで説くのが「梵我一如」自己(我・アートマー)と宇宙(梵・ブラフマー)は同じであること。ジャイナ教は、自己の浄化を行なうことで、輪廻から離れる、と説く。だから厳しい修行をする。菜食主義・不殺生など。ジャイナとは「征服した」という意味。自分に打ち勝った人、という意味になる。

 仏教は、そもそもこの自己を否定する。無我(アナッタ)の教え、一切は無常だと言う。自己が無いのだから、苦行は無意味になる。ある意味、自己が無いことに気づくための修行とも言える。そのための瞑想だが・・・
 ブッダとは「目覚めた人」という意味。夢や幻想から目覚めること〜 自己というのも、ひとつの夢、と考える。自己という夢から欲、エゴ、苦が生まれる。その自己が無くなれば、輪廻も無くなる。輪廻、生まれ変わる本体が無いのだから〜
 この点が、仏教の理解しにくいところである。頭だけでわかる世界ではない。この点がジャイナ教と対立するところで、実際、ジャイナ教の経典の中で仏教を批判している。 ただ、こういう、無自己を説いたのは唯一仏教だけである。世界的にも、非常に珍しい宗教と言える。その意味では、仏教が人間の最も深いところまで洞察している、と言える。

 ある意味、ジャイナ教は男性的、攻撃的で、仏教は女性的、受容的とも言える。
 仏教では、自己が無くなる〜ニルヴァーナ(涅槃)〜ことで、宇宙と一体になる。それは全てになることでもある。それを最高の喜び、至福と説く。それが悟りなのだが、「梵我一如」によく似ているようだが、仏教ではそこに「我」がない。この違いが微妙でもある。
 ただ、仏陀の弟子の多くが、もともとジャイナ教の信者であったのはおもしろい。般若心経に出てくるシャーリプトラもその一人。

 本来の仏教は、神への信仰も偶像崇拝もなかった。ひたすら、無我の境地を体験することを目指したのだから、自分以外の、外部への信仰は必要ない。それで、仏陀の死後、数百年間は仏像が作られなかった。ただ、それでは分かり難いのか、次第に自己探求よりも信仰の方向に進む。神は信仰しないが、如来や菩薩は信仰する。私には同じように見えるが・・・
 バラモン教の大衆化されたヒンドゥー教の影響が来る。日本の仏教の世界には、もともとヒンドゥー教の神だったものが多く入っている。
 現在の仏教は、いろんな人の思想が入り混じっていて、つかみ所が見つけにくい状態でもある。それぞれが、これこそが本当の仏陀〜釈迦の教えだ、と主張している。
 それに比べるとある意味ジャイナ教はその純粋性を保っている。閉鎖的ではあるが、その性格上、インドの土地でないと生き延びていけないところがある。ただジャイナ教は、一般的にはその厳しい修行ばかりに注目されて、その教えの内容はほとんど知られていないらしい。知られているのは表面的な部分〜

 それを知ったのは、Oshoの本からだが、ジャイナ教の経典は、まだほとんど知られていない。Oshoはそれを、いろんな講話の中で、断片的に紹介しているので、それをひとつにまとめたい気もあるが、おそらく大変な作業になるだろう。





7月12日
 昨日から、Oshoの翻訳「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」のリバイス・チェックを始める。
翻訳自体は4月の初めに終わっていたもので、全部で46章だが、そのうちの15章分がリバイスが終わって出版社から返送された。リバイスとは翻訳の間違いや、日本語での表現をチェックすること。 出版社側の指摘を、こちらで再検討して、また送り返す。それを何度か繰り返して、出版に至る。

 これがけっこう退屈でつまらない作業である。一度やったことを見直す、ということは・・・新鮮味がない〜 それでも、けっこうミスが見つかる。後になって頭を冷やしてわかることや、他人の目を通してわかることは多い。
 1章の量は、レポート用紙くらいの大きさで20ページほど。だいたい一日で1章くらい処理できるが、Oshoの本の中では、1章の長さは短いほう・・・先日、1巻分を訳し終えた「超越の訓練」はその3倍の長さがある。

 昨日、チェックした訳文の内容は、なぜ人は他人を批判するのか、というもの。そして今チェックしている内容は、意気消沈・落ち込みについての話〜一応、来年の春に出版予定だが、タイトルはどうなるのやら・・・直訳すれば「明かりの伝達」だが、意味が伝わるだろうか・・・・





7月16日
 シュタイナーの本はこれまで20冊以上は読んできたが、この「霊視と霊聴」という本は、難解といわれるシュタイナーの本の中ではとても分かりやすくて読みやすい。ページ数も180ページほどで手軽な量である。
 いわゆる霊能力を得るための方法、霊的世界について書かれてあるが、この本ではそれを「超感覚的世界の認識」と言っている。
まだ読み始めたばかりだが、その中で印象的な言葉は〜
「超感覚的世界の認識〜内的進化の成長の歩み〜のために必要な二つの条件は、孤独と、利己主義の克服であること。」
孤独とは神秘学で言う「高次の人間的孤独」のことで、ようするに独りであることを受け入れること。
「自分よりも高次に進化している人に愛と信頼をよせること。」つまり、自分を導いてくれる人〜導師〜が必要であること・・・(現実的に厳しいが・・・)

 発展させるべき六つの特性〜
(1) 思考のコントロール〜思考に支配されないこと
(2) 行動のコントロール〜外界からの誘惑に支配されないこと
(3) 忍耐〜感情に支配されず、平静さ、冷静さを獲得すること
(4) あらゆる存在を理解すること〜あらゆるものの中に美しいものを見つけること
(5) とらわれのなさ〜先入観、偏見を捨て、新しいもの、未知のものに対して開くこと
(6) 内的調和・・・上の五つの特性を発展させると、自ずと獲得される。

 そしてその鍵は瞑想〜規則的に同じ時間に続けることが大切とされる。時間は15分くらいでもかまわない。
 そして霊については・・・
「私たちの世界には、霊的世界に依存していないものはない。私たちの周囲にあるものは、霊的世界の外的な表現なのだ。物質というものはない。どの物質も、凝縮した霊なのである。霊的世界を覗き見た者にとっては、物質的・感覚的世界は霊化する。」「高次の世界のための器官〜(霊能力)〜が発展するまでは、人間は何も知らず、自分自身を知ることもない。」

 そして霊的世界に参入するためには・・・「人間は準備以外のことはできない。その他のことは霊的世界からもたらされる。霊的世界が現われるのは霊的世界の恩恵である、と理解しなければならない。」と言う。

 そこで準備とは・・・「心静かに待つこと。完全な心の安らぎを獲得すること。完全な心の安らぎのみが、霊的世界が私たちに接近することを可能にする。」と言う。

 霊能力は授かりものとよく言われるが、それはシュタイナーも同じことを言っている。シュタイナーの方法論は西洋人向けで、特にイメージ・トレーニング的なので、この点については私としてはタイプがあまり合わないのだが、言っていることはとても整然とされていて納得できる。
 私自身は霊能力を得ることにはほとんど興味はないが、この本で語られていることはその霊的世界の仕組みを知る上ではとてもおもしろい。





7月19日
 インドでの寺院とは、本来、ある悟った人、聖者、意識の高みに達した人の波動を残し、後世に伝えるための場所だった。人の波動は物質に宿る。高い波動を持つ寺院の中では、参拝者はその波動に同調し、簡単に瞑想することができ、自分の波動を高める助けになった。寺院とは、本来そういう働きのための場所だった。

 現在、インドでも寺院などは観光化されてきている。まだ、ヒンドゥー教徒でなければ入れない寺院も多いが、例えば、アジャンターやエローラなどは、毎日数多くの観光客が訪れる。そうすると、観光客の世俗的な波動が、その石窟全体を満たすことになる。元々持っていた清浄な波動が失われていく。
 去年、アジャンターとエローラに行った時、それを感じた。石窟の形や彫刻などは、非常に素晴らしいのだが、多くの観光客がいると、高い波動は感じられない。単なるテーマパークのように感じられた。ああいうところは、まだ来訪者の少ない早朝に行くべきだろう。高い、清浄な波動は弱まっていても、少なくとも世俗的な波動に邪魔されることはない。

 唯一、カジュラホの寺院には、まだその高い波動は残っていた。それは、以前は交通が不便で、まだまだ訪れる人が少なかったからだからだが、数年前から鉄道が開通し、バスは廃止され、非常に便利になって、寺院周辺も整備されて、観光客を多く呼び込む方向に進んでいっているため、いずれ、将来は、カジュラホの波動も失われていくような気がする。
 チベットがまさに、それだろう。チベットは国そのものが寺院のようなところだが、中国の超世俗的な波動に侵されて、チベットの持つ高い波動は失われている。

 日本は、寺院よりも神社に清浄な波動を感じられる。特に田舎の森の中にある神社に〜〜 それでも、明治時代に、そういう鎮守の森は多く失われた。物質主義的な現代人が、そういうものを形だけ復元しても、失われた高い波動は戻らない。それは数百年、数千年もの長い年月をかけて生まれるものだから〜 だから私は、新しい寺院や神社には何も高い波動は感じない。






7月31日
 だいたい、いままで観察してきて感じたことだけど〜 スピリチュアルがなぜ毛嫌いされるか、の理由は〜 スピリチュアルを「霊」と考えていて、それはそれで正しいのだけれど、そもそもは「霊」を「幽霊」〜死んだ霊〜としか考えない、ところにあるのだろうな・・・
 つまり「霊」という言葉の持つニュアンスに問題がある。で、死後の世界や霊を否定する人は、当然、スピリチュアルをデタラメと決め付けるのであって〜 そういう人は、霊性、霊的成長なんて、さっぱり理解できないだろう。すべて、言葉から受ける印象の誤解によるものだけど、みんな、自分の誤解を絶対正しいものと思い込んでいるから、めんどくさくなっている。

 で、結局、スピリチュアルという言葉は、非常に毒され、本来の持っている意味はほとんど伝わっていない。
だから、この言葉は使いにくくなってきたのだ。これにとって代わる言葉がないから問題なのだし・・・

 精神世界、という言葉もあるけれど、厳密にいえば、精神とは、霊の世界のほんの一部だから、それは正確な表現ではなく、すごく、この世界を狭く限定しているのだけれど、ま、そこまで厳密に考えない人たちにとっては、それで十分かもしれない。
 所詮、真実は一般的には理解されない、ということがよくわかった。いったん、言葉に植えつけられた悪いイメージは、そう簡単には取れないし・・・それは「神」や「宗教」という言葉も同じだし〜〜








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