2月2日

 もう、以前のように過去の夢にうなされることはなくなった〜
朝、目覚めた時は、まるで初めてこの世に生まれてきたような感覚になる〜
でも、しばらくすると、昔の古いパターン、過去の記憶が押し寄せてくる
ただ、それらに捉われることは少なくなってきている

その鍵は、Oshoの教えから得たもの〜
「判断したり、評価したりせずに、ただ観察すること、それに同一化しないこと、今とここにあること」
そのこつを、ようやくつかみ始めてきた。

少しずつ、楽になってきている  でも微妙・・・
油断すると、すぐ昔の自分に引き戻ってしまう  でも、それも、ただ見守ること
それについて、自分を責めたり批判したりしないこと

それに気づかせてくれているのが、今、翻訳しているOshoの本から〜  この本、本当に凄い内容だ!
そして、これまでの私の日記も、自分の微妙な変化から書いたもの〜  光は見え始めている〜
ただ、すごく弱くて、頼りない・・・  すぐまた消えてしまう  現われたり、消えたり〜

でも、以前はまったく見えなかったのだから、これも、一歩前進したのだろうな〜





 2月5日 

 今まで生きてきた経験で感じたことは、誰も本当のことを知らない、ということだった。
ただみんな、教えられてきたことをそのまま教えていた。それは、そういうものだ、という理由だけで・・・

 私は、当然子供の頃は何もわからないから、人が教えたことを信じた。他人の批判は、甘んじて受けた。
だが、ある人の教えに従うと、別の人はそれを、笑ったり、批判したりした。
当然、私は混乱した。みんな、自分の好き勝手なことを言っていた。

私はいままでいろんな所に住んできた。それぞれの場所で、その常識は違っていた。
場所が変わるごとに、それまで教えられたことは通用しなかった。
ある所では、とても真剣に、真面目に扱われていたことが、別の所では、嘲笑の対象になったりした。

私には、何の確信も持てなかった。何も確かなものはなかった。
だから、自分に自信が持てなかった。
批判されたり、嘲笑されても、反論できる確かなものがなかった。
だから、真理が知りたかった。
ただ、逆に見れば、特定の固定観念に縛られなくてすんだのはよかったかもしれない。

で、今、振り返ってみると、批判したり嘲笑したりした者も、本当は何もわかっていなかった、ということが見える。
何もわかっていない者ばかりが集まって、ごじゃごじゃ、がやがややっているのがこの社会。
そこでは、強く言った者が勝ちだ。はったりの上手い者が勝つ世界だ。単なる、虚偽の世界〜
盲人が盲人を導いている世界〜

人間は何をやっているのだろう・・・?





 2月7日

 翻訳したOshoの「アティーシャの知恵の書」下巻の出版の前に、カビールについての講話「パス・オブ・ラブ(愛の道)」が出版される予定だったが、
本部から出版認可の通知が来ないらしくて、急遽、「知恵の書」を先に、4月に出版することになった。
私としてはありがたいことで、これから原稿の最終チェック〜校正の作業に入ることになる。
認可が下りない、と言っても、拒否されているわけではなく、ただ連絡がない、とのこと。たぶん、本部の体制が変化しているのだろう、という推測。
だから、現在翻訳中の「トランスミッション〜」もまだ出版認可は下りていない。「知恵の書」に関しては、それ以前に認可されているので問題はない。

 ちなみに、上に書いたカビールとは、15世紀のインドの神秘家で、捨て子という境遇から、イスラム教とヒンドゥー教の教えを受けながらも、既成宗教を超えた本質を探究した人〜 Oshoは、このような一般には知られていない聖者たちを、いろんな講話の中で紹介している。
その取上げられた人物たちをまとめたサイトが以前あったのだが、なぜか今は見当たらない〜

 そういうのを知ると、人間の歴史では、これまでいかにすごい人たちが生きてきたか〜がわかる。
それでも、一般に知られているのは、その中のほんの僅かの人数であり、そして普通は、それが全てであるかのように思い込んでいること〜
実に狭い世界しか知られていない、ということだ。





 2月10日

 翻訳で疲れた頭を休めるため、毎日夕方、約40分ほどヴィパッサナ瞑想をしている。
坐り方は座禅と同じ。目を閉じて、ただ自分の呼吸を見つめるだけ〜
瞑想をして何を感じるかは、人それぞれだろう。 ある人は、霊的なメッセージを受けたり、別次元の世界に飛んでゆくかもしれない。
私の場合、そういった超現実的な現象はない。
起こることは完全なリラックス。何もしないこと〜

身体を長時間くつろがせるには、座禅の坐り方が最も適している。エネルギーは、身体の先端から放出されている。手や足から〜
その手や足を組むことで、エネルギーはどこにも放出されず、自分の中で循環することができる。
自分の中にエネルギーが蓄えられてゆく。何もしないので、ますます蓄えられてゆく。そうやって、自分はリフレッシュしていく〜

呼吸を見つめることは、自分の気をそらさないため〜何もしていないと、いろんな思考が起こってくる。
それを無理に止める必要はないし、そんなことをしても意味がない。
瞑想は集中ではない。何か、特別な事を起こすためのものではない。 ただ、あるがままの自分を受け入れること〜 起こっていることを許すこと〜

思考を止めようとすることは、思考に捉われていること。思考に捉われていると、呼吸を見つめることを忘れる。
思考に関心を払わず、ただそれに気づくだけ。そうすると、勝手に思考は消えて行く。 ゆっくりと、静かになっていく。沈黙が起こる。

身体が完全にリラックスし、心が沈黙すると、自然と安らぎ、喜びが起こってくる。
ただ、在ること。
何の欲望もなく、何の拘りもなく、何の期待もなく、ただ、この瞬間に、「今」と「ここ」に在ること。 〜ビー・ヒア・ナウ be here now〜

要は、人は、何もしなくても、幸せでいられるということ。 むしろ、何もしないことのほうが、より幸せであるということだろう。
自分にくつろぐこと〜 自分のすべてを愛し、受け入れ、ただリラックスすること〜

自分にくつろぐと、特別な存在である必要はない。普通であること、当たり前であること〜 そうすると、エゴは消える。
エゴは、普通や当たり前を嫌がる、それはつまらないと言う。存在価値がない、と言う。エゴは、特別でありたがる。 
エゴのない時、平安がある。

ヴィパッサナ瞑想は、そんな瞬間にさせてくれる。






 2月13日

 だんだんと、瞑想に簡単に入っていけるようになる〜
瞑想が深まると、呼吸が長く、浅く、静かになっていく。ほとんど、呼吸が止まった感覚〜
第三の目のあたりが、ビンビンとエネルギーを感じてくる。 下から突き上げられるようなエネルギーの上昇を感じる。
肉体的な感覚が薄れてゆく。身体を重荷と感じなくなる。自分が、軽くなる。 心は、理由もなく平安〜

これらは、何もしないことで、勝手に起こっていること。 やっていることは、ただ坐って、呼吸を見つめているだけ。
すべて、自然に起こっている。
瞑想することに目的はない。何かを達成するために瞑想するわけではない。瞑想すること自体が喜び。

人間とは、つくづく不思議な生き物だと思う。瞑想する動物は、人間だけだからな〜〜






 2月17日

 エジプトのアレキサンドリアには、昔、アトランティスの遺産〜全ての知識、科学、文学、財宝、記録などが保存されていた図書館があった。
ギリシャの数学者であり神秘家でもあったピタゴラスは、この図書館で英智を学んだ。
 紀元後、数世紀経って、狂信的なイスラム教徒カリフ・オマールによって、この図書館は燃やされ、そこにあった全ての書物は失われた。
伝承では約20万巻あった、と言われている。 図書館がとても大きかったため、それが全部燃えつくされるまで6ヶ月かかった。
カリフ・オマールがアレキサンドリア図書館を燃やした理由は、そこに保存されている知識が、イスラム教の経典コーランの教えに反しているから、というだけ・・・
だから、現在アトランティスに関する遺産は、現物としては何も残っていない。記録としては、プラトンの「クリティアス」と「ティマイオス」という本に書かれてあるが、伝説としては、ノアの方舟など、世界各地に洪水伝説として残っている。

現代の知識人は、それが確かな証拠がないという理由で、アトランティスの存在をただの空想、神話と決め付けて否定する。
過去の権力者によって、証拠が全て消されたのだから、どうしようもない。

スピリチュアルの分野で、アトランティスについて語っている人は、神智学系のブラヴァッキー、W・スコット・エリオット、エドガー・ケイシー、シュタイナー、M・ドーリル、Oshoなど・・・

多くの貴重な知識・遺産が歴史から消え去ったケースは、他にも多くあるが、それを思うと、本当に口惜しく感じる・・・





 2月20日

 出版社の話では、出版権を持つ本部(アメリカ)からの、出版認可の連絡が数ヶ月もない、という・・・
出版社は20年間もOshoの本の出版に携わってきたが、こんなことは初めてらしい。異常事態のようだ。
電話も通じないらしい。ようするに、誰もいない、ということか・・・?
 このままでは、Oshoの本はこの先出版できなくなる。4月出版予定の「知恵の書」下巻は、認可を得ているので出版できるが、
最悪、この本が、日本でのOshoの最後の本!ということにもなりかねない〜〜
 現在翻訳中の「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」も、今のところ出版できる目途は立っていない。既に、全体の70パーセントは翻訳完了している。
 韓国などは、そんな出版権を無視して、勝手にどんどん本を出しているらしい。国民性が見えるな〜〜 日本は律儀だ。

 先の見えない状態だが、自分としては翻訳を続けていくつもり。
著作権が無効になれるのは、著者の死後50年後らしいが、Oshoが死んだのは1990年だから、その50年後となると2040年・・・
その時なら、好きなだけ自由に出版できるのだろうが、まだ27年後の話・・・私は84才・・・生きていれば、だが・・・

 それでも、他にもいろいろと制約が多い。ようするに、あまりOshoという人物を表に出したくない方針のようで、本の装丁にOshoの写真は使えず、講話の期日も入れられない。訳者の後書きなども禁止されている。
偶像崇拝や、特定の人の解釈の押し付けを避けるためかも・・・ 確かにOsho自身も、「私が死んだ後は、私のことは忘れなさい。」と言っているし〜

時代や世代を超えて、読み継がれていくべき本だと思うので、自分なりにもなんとか後世に残していきたい。





 2月27日

 今、自分の内面で、何かが変わりつつあるのは確かだが、それはとても不安定で、とまどう。
古い、馴染みのある、慣れたパターンから、まったく新しい、未知の状態に変わろうとしているのだから、
「こんなんで、いいの〜?」 という、とまどいを、最近よく感じる。
 古いパターンは、他人からの評価、というガラクタにまみれたもので、そこがどんなに地獄のようでも、それに慣れ親しんでいるから、
ある種の安心感はある。
でも、それはもう、自分にとって、役立たずになってしまったのも、解っている。
だから、もうそこには戻れない。
では、これからどうなるのか〜〜 何が起こるのか〜〜 何も、はっきりしていない。そんな、とまどい・・・
でも、何か変わりつつある。ただ、流れにまかせるだけ〜 でも、少しづつ、楽になっていってる。

Oshoの世界に戻り、翻訳を始めてから約2年・・・ それが、自分を変化させていっているようだ。







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