8月4日

 昔は、何も知らなかったので、自信たっぷりに言う人の言う事に従っていた。
 そして、それは全て、自分には合わなかった。それは、自分の求めていることではない、という感覚はあったが、何も知らなかったし、自信もなかったので、それを否定できなかった。それに反論できなかった。それに合わないのは、自分の何かが間違っているから〜、あるいは努力が足らないから〜、と思っていた。

 そして今、いろんなことを知ってきてから、やはり、それらのことはデタラメだったことが、少なくとも、自分にとっては役に立たないものだったことが、むしろ害になっていたことが、今となって分かってきた。
 何も知らないのに、分かったつもりになっている人が多い。その人にとっては、真実かもしれないが、別の人にとってそうとは限らない。自信たっぷりに押し付けてくるのが、一番困りもので、それに若い頃は振り回されてきた。特に、古い固定観念に・・・
 真実を知りたい原動力になっているのは、その時に感じた悔しさだ。実に、嘘の知識に振り回されてきたことが、知れば知るほど分かってくる。
 真実を知っている人、あるいは知ろうと探究している人は凄く少ないみたいだな・・・ほとんどは、ただ教えられた知識を鵜呑みにしているだけみたい〜



 ヴィパッサナ瞑想も6ヶ月が過ぎた。最近、ますます心が苦しく痛み出している。その理由は〜静かに沈黙して座って、何もしないことによって、表面の意識が静かになっていき、抑圧されていた無意識が、少しずつ現われ始めてきたから〜
 その抑圧されてきた傷が痛む。これは、瞑想が順調に進んでいる証拠らしい・・・抑圧された無意識にある傷は、表面化することで解消される。つまり、苦しみから解放される。

 今、感じているのは、幼年期からの家族関係に関する傷〜生まれた時から、それが当たり前かのように生きてきたので、その原因が見えず、客観視できなかったものが、50数年経って、初めて分かってきた。子供は無力だから、無意識の防衛本能で、何を抑圧したのか、自覚がなかったのだろう・・・自分で見たくもなかったので、深い闇に隠していた・・・
 それが、この瞑想で、少しずつ見え出してきている。これが痛む・・・だけど、それから解放されるための、必要な痛み。

 それを教えてくれたのがOshoなのだが、それでも、今、一人で生きているから、こんなことも可能なのだろう。例えば、一緒に暮らす相手が、瞑想にまったく理解がなかったなら、変な誤解をされて、問題はよけいにややこしくなってしまう。
 でも、本当に、自分を救えるものは自分以外誰もいない、ということを、ますます感じている。まあ、やっと半年だから、まだまだこれからなのだろう。茨の道はまだ続きそう・・・無意識の層が、一つずつ剥かれてゆく。
 いずれは、過去生の傷にも出会うのかもしれない〜〜






8月12

 時々思う・・・もし、釈迦やキリストが現代に現れたらどうなるか・・・
 まず、間違いなく彼らは認知されないだろう。いくら本人が「自分は釈迦だ、キリストだ」と言っても〜なぜなら、誰も彼らの本当の姿を知っている者はいないから。
 仏像の釈迦像や、描かれたキリストの像は全て、彼らの死後何百年も経ってから、想像で作られたものだし〜そして、もし釈迦やキリストが教えを説いても、それを仏教やキリスト教とは認めないだろう。なぜなら、仏教もキリスト教も、その経典は彼らの死後数百年経ってから書かれたものだから〜それが釈迦やキリストの教えを正確に伝えている、という証拠はない。
 そしてみんな、釈迦やキリストに、自分の勝手な理想を押し付けている。彼らはこんな人だったに違いない、とか、こんな人だったはずだ、という風に・・・単なる理想、願望、思い込み・・・その思い込みに当てはまらなかったなら、釈迦やキリストを、本人とは認めないだろう。

 そして、この物質中心のご時世では、間違いなくこの二人は、詐欺師扱いを受けるだろうな〜江原さんのようなバッシングを受けるだろう。Oshoでさえ、そうだったから・・・これは100%確実に言える。
 真実を語る人は、生きている時には虐待を受け、非難され、死んだ後に崇拝され、聖者として祀られる。
 これは歴史が繰り返していること〜





8月17日

 Oshoの翻訳は4冊目の本に入っている。
 「知恵の書」「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」は終わり〜仏陀の経典を取上げた「超越の訓練」は、全4巻の内、第1巻が終わった。

 「超越の訓練」は、最初、仏典の涅槃経を取り扱ったものかと思っていたが、違っていて、古代の中国に伝わっている仏教の教えを42章の経文にまとめたもの、を取り扱っている。最初、中国の・・・と知って、やや抵抗があったが 〜基本的に中国仏教は嫌いなので〜 これは、中国に仏教を伝えるために、当時の中国の皇帝がインドの仏教僧たちに、仏教の教えを短く、わかりやすくまとめるように指示されて作られた経典で、いわば仏教経典のダイジェスト版、エッセンス集のようなもの。

 だから、これのサンスクリット語の原典はない。中国にだけ存在する独自の仏教経典といえる。膨大な仏教経典の教えの真髄・本質をコンパクトにしたもの。それを、西洋人に仏教とは何かを教えるために、Oshoが取上げたもの。

 その本「超越の訓練」の第一巻の翻訳が終わって、気分転換と、より秘教的なものを翻訳したくて、4冊目に、もっと初期の講話、「And Now, And Here」の翻訳を始めた。これは1969年の、Oshoが38歳の時の講話で、主に死について語られている。
 原語はヒンディー語で、それを英訳されたものだから、文章は話し言葉ではなく、論文調になっている。使われている単語も、直接Oshoが使わないような難しい単語が多い。文法も高度になっている。だから、いままでよりも翻訳しにくい。

 そして、インド人相手に話しているので、その内容はより哲学的で深く、難解になっている。それでもかなり霊的な話が多くて、その面ではすごく興味深い。 Osho自身の幽体離脱や、死の時に何が起こるのか、転生、過去生を知ること、動物や植物・鉱物の魂の様子について、ただ知識を伝えるだけでなく、それを知る人間の心理について多く語っている。
 この本は、上巻が「死、終わりなき生」というタイトルで1989年に出ているが、下巻の翻訳は、その後なされていなかったもの。下巻の方が内容的にもより秘教的知識に溢れている。下巻全8章の内、現在3章目を翻訳中〜いままでより翻訳に時間がかかっている。順調にいけば、2〜3年後には出版されるかも・・・





8月27日

 「悟り」と言っても、禅でよくある、難解な公案を解決した時の境地ではなく、究極の悟りのこと〜だから、ここではそれを「光明」と呼ぶことにするけれど・・・Oshoの本を読んだり、Osho自身のエピソードを知れば、光明を得ることがどんな状態なのかが想像できる。

 ★単純に言えば、全てにおいて満たされた状態。だから、何をする必要もなく、どこに行く必要もない。ただ、在るだけで満たされ、至福を感じている。無条件に〜
 例えるなら、セックスで得られる快感が、24時間持続している状態らしい・・・

 ★無意識がなくなる。全てが意識的になる。だから、夢を見ない。いや、そもそも、眠らない。睡眠は、ただ身体を休ませるためのものになる。
 仏陀(釈迦)は、眠っている間、一度も寝返りをうたず、初めから最後まで同じ姿勢で眠っていた、といわれている。それは、寝ているのは身体だけで、意識ははっきりと目覚めていたからだ、という。

 ★身体との同一化がなくなる。分離する。自分は身体ではない、ということが実感される。だから、例えばドラッグや麻酔の影響を受けなくなる。身体の痛みに影響されなくなる〜これが信じがたいことだが・・・ただこれは、よくある厳しい修行で、感覚を鈍くしたり、それに耐える力を身に付けるのとは全く違う。
 Oshoが歯の治療を麻酔なしで受けていた時、すごく痛いにもかかわらず、終始笑顔を絶やさなかったという。

 マンスールという聖者は、自分は神を見た、と言ったことで、民衆から虐待され、生きたまま手足を切断されたが、その間も彼は笑っていたという。
 ただ、身体自体は、光明を得たことで、健康を損なうという。身体そのものが光明のエネルギーに耐えられるようにはできていないらしい。

 Oshoの「神秘家の道」の中で言われていることでは、光明を得た人の内で、90%は即死するという。生き残るのは10%の人だけ。それも光明を得た時の衝撃に身体が耐えられないからだという。生き残れる人は、生前から危険な生き方をしてきた人たちだという。
 また、生き残った光明を得た人の内で、90%は脳が働かなくなるという。だから、光明〜悟り〜を得て、何かを語れる人は、残りの10%の人〜、光明を得た人全体の中の、1%の人にすぎない、ということになる。

 実際、Oshoの日本人最初の弟子は、湖で溺れ死んだが、その時に光明を得たらしい。また、Oshoの父親も死んだ時に光明を得ている。
 そうしてみると、光明を得ても、死んだら意味がない、と思うだろうが、そもそも、死とは魂と身体が離れるだけのことだし、それは魂にとっては身体からの解放であるわけだし、光明を得た人にとっては、身体の中にいることの意味や必要性はなくなっている。

 だから、光明を得たら、もう生まれ変わることはない。輪廻から解放される。それを、インドという国は、何千年間も追及してきたわけだが・・・
 ただ、その人でも、本人が望めば、あと一回は転生できる。それはその人の意思しだい。しかし現実的に、そのための環境がなくなっている。光明を得た魂を受け入れられる両親や、その魂が育てられる環境がどこにあるだろうか・・・

 そして、光明〜悟り〜とは、何か特別な修行をした結果、得られるものではない。むしろ、全ての修行、方法が無用だ、役立たないとわかった後に、光明は起こるものらしい。つまり、求めることが完全に消えた瞬間、光明は起こる。
 このあたりが、霊的修行のややこしさ、というかジレンマ、逆説でもある。だからやれることは、ただそのための準備を整えるだけ〜このあたりは、シュタイナーの霊視の日記にも書いた、霊視できるようになるための方法と同じである。







   2013年 8月
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