4月2日

 歴史は、歴史家が作った仮説にすぎない。残された証拠だけを基に作られた物語。だから、証拠のないものは、存在しないと決め付ける。
だが、歴史に残っているものは、支配者たちの都合の良いように作られたものが多い。

人類の歴史は、戦いの歴史だ。戦いに敗れた民族、国の歴史は、支配者によって歴史から消されている。文字を持たない民族も多かった。彼らの事は何もわからない。神話として伝えた民族も多い。今日、神話を実際の出来事と考える人は少ない。シュリーマンの発掘は、神話が事実であることを証明した。
 四大文明が人類文明の始まりとされているが、それ以前のことや、それがどこから来たのかなどは知られていない。それもせいぜい、4000年前くらいのことと決めている。4000年より古い時代には、人類はまったく文明がなかったかのように・・・ただ、長い石器時代が続いてきた、と・・・そして、文明は段階的に進化していった、と・・・これは仮説だ。 オーパーツは無視される、否定されている。仮説に合わないため〜

スピリチュアルな探究を続けると、これらの歴史の仮説が、いかに表面的で狭い見方によるものかがわかるが、それを言うと、常識的に歴史を信じている人から反論されて、めんどくさい。
ただ、我々は、真実の世界のほんの小さな部分しか知らないということ。それは、見えている部分にすぎない、ということ。隠れている部分、消えた部分は、それの何倍も大きい。だから、見えている部分だけが全てだと決め付けることは傲慢である。ただ、その人が知らないだけの話だ。

 スピリチュアルの探究とは、真実の探究であり、それは普通の歴史を覆すことでもある。歴史家が作った固定観念を壊すことでもある。
神話の解明・・・各宗教の起源の調査・・・それぞれの宗教の、元々の教えと、現在の教えの違い・・・文明のルーツ・・・
 知りたいことは山ほどある。






 4月4日 

 今、知ったニュースで、理論上、宇宙に大量にあると考えられている正体不明の「暗黒物質」が、実際に存在する可能性を示す痕跡を、欧米やアジアの国際研究グループが初めて見つけた、という。
アメリカの観測では、宇宙の組成は、通常の物質が全体の4%、暗黒物質が23%、暗黒エネルギーが73%としている。
 暗黒とは、別に邪悪な意味ではなく、光で認識できないから、こういう名称にしているのだろう。

これで、いわゆる物質主義者、唯物論者は、宇宙全体のわずか4%だけを取上げて、それだけが全てだと主張していることがわかる。
その主張が、いかに狭い見方であることが証明される。残りの96%は、物質的観測では認識できない、ということだ。それでも、その存在を確認できただけでもすごい。

 これらは、精神世界・スピリチュアルでは、別の言葉で既に言われてきたことである。
宇宙は多次元の世界であり、人間の住む世界、人間が知ることの出来る世界は、その中のほんの一部にすぎない、ということを・・ ・そして古代からの、多くの覚者たちは、その世界を知ってきた。そしてそれを、いろんな形で伝えてきた。

 ただそれらを、物質主義者が否定してきただけの話。ただ、そんなことは考えられない、それは作り話だ、という単純な理由で・・・ そして、そういう未知の世界を伝えていた本や聖者たちは、邪教だ、ということで、歴史から抹殺されてきた。科学の発見が、少しずつ宗教の説いてきた世界に近づいてきているのが興味深い。
 ただ、私がここで言っている宗教とは、既成の宗教団体のことではない。
私は、既成の宗教団体はどれも表面的で、利己的で、何も真実を伝えていない、と考えている。





 4月6日

 言い古された諺〜「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」 「君子、危うくに近寄らず」 相反する生き方。
昔の自分は、虎穴に入って、虎子に噛まれた〜〜 落とし穴によく落ちた〜 特に、スピリチュアルな道の落とし穴に・・・
石橋を、渡ってから叩く、ようなものだった〜 今は〜 君子、危うくに・・・の生き方になっている。
どんな落とし穴があるか、だいたいわかったし、もう経験する必要もなし〜
危うくに近寄らず・・・ではないか〜 虎穴に、虎子を得ることに、もう興味がなくなっただけかも・・・

スピリチュアルな道の落とし穴・・・ それはまさに、傲慢さ、エゴから来る〜
スピリチュアルな道は、負けるが勝ち、だな。それはすごく実感している。


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 スピリチュアルな道とは〜いろんなきっかけがあるだろうけど・・・基本的には、疑問から始まる。
生きるとは何か?自分とは何か?死とは何か?死んだら、どうなるのか?生きる意味、目的は何か?・・・など・・・
 現状の生活に満足していても、それ以上の何かを求めたり、自分と周囲との不調和から、自分を変えようとか、自分とは何かを知ろうとしたり、何か霊的な体験をして、それが何なのかを知るために・・・ ようするに、ややこしいことを考えすぎる人が進む道とも言える。

そういう道に進むことは、それまでの価値観を疑うことでもある。一般的な価値観に疑問を感じないのなら、何もこんなややこしい道に進むことはない。
普通の生活で幸せなら、自分の人生に疑問を持つ必要がないのなら、既成の宗教に満足しているのなら、 (実際は、どれほどの人が満足しているのか疑わしいけど・・・)スピリチュアルの道など進まないほうがいい。

 スピリチュアルの道は、不安定な道。古い価値観は通用しないが、新しい価値観はまだ見つからない状態が続く。中途半端で、何も頼りにならない時期が来る。だから、何かにしがみつく。特定の宗教、特定の神、特定のスピリチュアルな思想に・・・ だから慰めを求める。アセンションが起こって、世の中は良くなっていく、と・・・ 何かを信じ込んでいる人は、自信たっぷりに説教する。これが絶対の教えだ、と・・・ そういう人は危険である。自分が不安定だと、そういう人に負けてしまう。

 真実を求めることと〜〜 安定、安心を求めること〜〜 どうもそれは両立しないみたい。だから、真実を求める人はとても少ない。以前、日記に、洗脳されている方が楽かもしれない、と書いたのも、そういう意味から〜
だから、真実を知っている正しい指導者を見つけることが重要になる。
 自分1人だと、独りよがりになり、自分勝手な解釈で、変な妄想を作り上げることもある。自分にとって都合のいいように・・・ それが落とし穴〜 自分のエゴを満足させる道になる。 また、妄想はおもしろくて興味を引くので、それに捉われてしまう。それを知っている自分は、特別な存在だと思い込んでしまう。これはエゴを満足させる。

 でも、それもその人の勝手だけど・・・ (で、そういう人が多い・・・) そんな妄想が、真実の探究の邪魔をする。それが世間に、スピリチュアルについてのいろんな誤解を作る。 今、宗教と言っただけで、拒否反応をする人は多いだろう。これだけ宗教嫌いになっている時代もめずらしいかも・・・
だから、スピリチュアルの道は、よけいにやりにくくなっている。あまり、一般の人には話さない方がいいようだ。





 4月8日

 久々のマチャアキJAPAN
 この番組大好きで、また久々に昨日放送された。

 今回はアフリカのガーナで、井戸掘りと釜戸作り。
 生活の不便な地方へ、日本人の職人が、必要なその技術を現地の人に伝えるもの。
 現地の人が利用できる材料で、自然を壊さずに作れるように。

 いつも感じることだけど、こういう技術は、本当に日本は素晴らしいものを持っているし、また、職人の心配りがとても細やかで優しい。
 また、未だに、原始的な生活をしている人が、この地球上にいる、ということ。

 そして、井戸掘りにはとても学ばされる。
 水が出るか出ないかわからなくても、ひたすら掘り続ける。
 まったく単調な作業を、朝から晩まで、約一ヶ月ほど続ける。
 それでも、水が出るという保証はない。

 ネパールの時は、水は出なかった。
 アフリカの他の地域では、水は出ても、水質が悪くで飲めない。

 でも、こつこつ続けること・・・
 これは自分の日常でも、すごく学ぶところが大きい。

 過去のマチャアキJAPANの放送は、3つほど録画したが、その前の放送も見たい。
 いつか再放送して欲しいな。

 ネットでも断片的には見れるけど・・・・





 4月10日

 Oshoの「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」の翻訳が終わった!去年の2月から始めたが、途中、インド旅行の準備などで3ヶ月ほどブランクがあり、正味、1年たらずで完了したことになる。ページ数はたぶん1000ページくらいになるだろう。
 すでに出版権も取れていて、上下巻に分けて、上巻は今年の12月に出版予定。

 内容はバラエティに富んでいる。アメリカ政府から追放されて、ワールドツアー中、南米のウルグアイで語られたもので、Oshoのエピソード、幽体離脱、霊体投視、意識のいろいろな層、仏教の流れ、ジャイナ教、いろんな聖者の逸話、グルジェフ、禅、キリスト教の欺瞞・悪行、魔女狩り、Oshoに対する世界各国の政府の態度、アメリカ政府の愚行、古代の神託・預言の真実、人類の未来へのOshoの展望など・・・
 これも当然、翻訳しながら、いろいろと考えさせられることが多かった〜〜


さて、次は・・・仏教がテーマとなる「The Discipline of Transcendence」で、42章の経文から、となっているが、何の経典かは知らない。これも大著で長い話だ。もう一つ、クリシュナについての講話も訳したいし、両方平行してやろうかとも思っている。片方だけでも、1〜2年はかかるだろう・・・・





 4月14日

 無為---何もしないこと 悟り
 瞑想とは、ただ静かに坐ること。それだけ。

 なんだ、そんな簡単なことか? と思われるだろうが、実際にやってみると、何もしないで静かにしていることが、なかなかできないのがわかるだろう。
 人間とは、いかに落ち着きがなくて、じっとしていられないものか。
 身体はじっとして動かなくても、頭の中はいろんな考えが浮かんでくる。
 眠っていても、夢を見たり、寝返りをうったり、寝言を言ったり、歯ぎしりをしたり、とにかく忙しい。

 なぜ、人間はじっとていられないのだろう? なぜ静かにしていられないのだろう?

 Oshoは何度も言っている・・・ 人間にとって、最も難しいことは、何もしないことだ、と。

 老子の説くタオは、無為自然。

 仏陀は、全ての苦行を放棄して、ただ静かに坐って悟りを得た。 彼は、その前に世間的な楽しみも放棄している。 王族としての最高の物質的生活を。
 その放棄は、無理やり捨てたわけではない。 その虚しさ、無意味さが解ったから。

 世間的な楽しみも、伝統的な修行も、仏陀を満足させなかった。 彼には、もう為す術がなかった。 何もする必要がなかった。 何の望みも期待もなかった。
 全てをやりつくしたが、何も起こらなかった。 どこにも行くべき所はなかった。

 ある意味、完全な絶望状態だが、ネガティヴではなかった。 希望と絶望の両方が消えた。 幸福と不幸の両方が消えた。 それが二元性を超えて、中庸に在ること。

 ただ、今とここに居た。 ただ、存在した。

 そして、自然と「悟り」が起こった。

 だから、
 悟りを得ることとは、何もしないための努力の成果。

 確か、禅の言葉だったかな・・・
 「何もせずに、静かに坐れば、春が来て、草はひとりでに生える」

 それが、いつ生えてくるかはわからない。
 何もしないから、といって、いつ悟れるかはわからない。

 期が熟したら、それは起こる。

 だからそれまでは、徹底的に自分のやりたいことをやって生きるのがいい。 もう充分やりつくした、悔いはない、という地点に来るまで。
 そうすれば、自然とそれが終わる時が来る。

 無理やり、何もしないようにするのは間違い。
 それは自分を抑圧、コントロールすること。 それは自然ではない。
 熟していない果実を無理にもぎ取るようなもの。
 それは傷つく。

 自然に成長していけば、何も傷つかない。

 人間は、本来悟っている。
 それに気づいていないだけ。
 ただ、無意識に眠り込んでいるだけ。

 だから、出来るだけ意識的になること、小さなことに注意深く気づくことが必要。

 それが瞑想で、
 まず、自分の呼吸に注意すること、
 それがヴィパッサナ瞑想。





4月18日

 スピリチュアルな世界への違和感

 Oshoの本の出版社の話で、山川夫妻という人も、Oshoの本を翻訳して出版するらしい。
 それまでこの人のことを知らなかったので、検索してみたけど・・・ スピ系が好きな人には好まれるような本を多く翻訳しているけど・・・

 こんな人がOshoの翻訳・・・? 何か違うような気がするけど??

 そもそも、私自身が、こういうスピ系の世界には違和感を持っている。

 よくわからないけど、少なくとも自分の求めている世界ではない、という感じ・・・

 こういう世界が、今一般的に好まれていて、だから人気があるので、それはそれでいいのだろうけど・・・

 私にはピンとこない・・・

 私は、スピリチュアルの世界でも、異端なのだろうか?

 自分がよくわからないが、ひとつ、はっきりしているのは、これは自分には合わない、ということだけ。
 違和感だけははっきり感じる。

 やっぱり私は変わっているのか・・・・?





4月19日 

 無意識の世界

 人間の意識の層は七つあって、
 下に三つ---無意識、集合的無意識、宇宙的無意識。
 上に三つ---超意識、集合的超意識、宇宙的超意識。

 この辺の分類は、実際よくわからないが、
 とりあえず、無意識には、その人の過去の記憶の全てがある。過去世の記憶が?

 夢は無意識の一部が表面化したもの。
 抑圧したものは無意識に残る。
 無意識にあるものは、普段は忘れられている。
 だから、過去生の記憶も忘れられている。
 忘れているだけで、消えているわけではない。

 その無意識が、その人にいろんな影響を及ぼす。
 好み、くせ、恐れ、フィーリングなど・・・

 催眠や心理学、精神分析などは、その無意識の世界にスポットを当てる。

 いわゆる修行というものは、
 その無意識が表面化しないように抑圧して、良い人格を作る、というようなものかも・・・

 だから一般的に、抑圧の強い人、自分の醜い部分を押さえられる人、自分をコントロールできる人が、良い人だと言われる。

 無意識が表面化したら、確かに危険である。
 でも、抑えていても、それは存在している。
 だから、修行は一生続けなければならないことになる。自己抑制の訓練を・・・・


 瞑想とは、静かになること、
 つまり、表面的な意識を静めること、
 意識が静かになると、無意識が表面化してくる。

 だから瞑想とは、表面化した無意識の醜い部分を見ること、それを抑圧せずに対峙すること。
 意識的に見守ることで、抑圧された無意識は消える。
 無意識と同化しないこと。
 無意識に影響されないこと。
 それが「悟り」とも言えるだろう。

 だから、何もしない、ということは、無意識を表面化させて、それを消す、という目的もある。

 それは浄化であり、これは時間がかかる。
 何生も生まれ変わる必要がある。
 成長はゆっくりと進むから。

 でも、無意識を抑圧したままなら、何も変わらない。むしろ、ますます無意識は大きくなっていく。
 それは成長にはならない。

 無意識を抑圧して、良い人格を作っても、それはちょっとしたことで、すぐに壊れてしまう。
 作ったものは壊れる。

 でも、
 普通の社会生活の中で、瞑想して、無意識を解消していくことは困難がある。
 たぶん、その人は気違い扱いされるかもしれない。
 だから、その人をサポートする正しい指導が必要なのだけれど、

 でも、
 ウツ病になったり、他の精神病になったりするよりかは、そうする必要があると思うな。


 



   2013年 4月
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