10月19日

 シュタイナーの「民族魂の使命」という本を読んだが、相変わらす難解というか、現実味が感じられないのでピンとこないのだが〜〜それでも興味深いところはある。

 それぞれの民族には、それを守護指導する霊があり、それが民族の特徴になっていること。それぞれの時代には、それを導く時代霊がいること。で、時代が変わる節目で、その進化から堕落する守護霊がいる。それはあえて自分からそうしているようで、それがいわゆるキリスト教で言う悪魔と呼ばれるもので〜シュタイナーはそれをルシファーと呼んでいるが、そのルシファーの働きで、人間に自我が目覚めた、と言う。

 これが、アトランティス時代の後期らしくて、自我のない時代の人間は、ただ高位の霊的存在の言いなりになって、ぼんやり平穏に生きていたらしい。ある意味、幸せな時期とも言えるが、エゴや苦しみ、不幸を知らないから、その幸福を実感できない、自覚のない無意識な状態とも言える。そもそも、自分という意識、自意識がまだない時だ〜

 これが、いわゆる旧約聖書で言うエデンの園であろうし、アダムとイヴに禁断の果実を食べるように誘った蛇は、このルシファーと言える。この果実を食べたことで、アダムたちはエデンの園から出てゆく〜楽園追放〜なのだが、禁断の果実を食べるとことは、自我に目覚めることで、それは高位の霊的存在〜神〜からの独立を意味する。神の言いなりにならず、自分で生きることの宣言であり、それは必然的に人間の行為の間違い、過ちを犯す結果になる。
 それは人間の進化のためには必要であり必然なことなので、聖書で言う原罪は間違った解釈と言える。ある意味、聖書の楽園追放から洪水伝説・ノアの方舟は、アトランティスの歴史を物語っているのだろうけど〜

 おもしろいのは、この自我の目覚めが、アトランティス崩壊後の東洋と西洋で違っていること。
西洋では自我を強くすること、そして自我と世界との対立、という観点から、物質文明、科学が発達してきたが〜東洋〜特にインドでは、自我を消す方向に働く。アートマーとブラフマーの合一〜梵我一如〜 特にインドでは、その霊的世界との関係が高度に進んで、自我や物質より霊的世界を重視したため、逆に、インドの物質世界は貧しいままになった。
 西洋では、自我と物質世界を重視したため、次第に霊的世界から離れていった。西洋で、霊的世界の名残りを強く持っているのがケルト民族〜

 これらも全て、それぞれの民族霊、時代霊の働きによって変化していった、とシュタイナーは言っている。時代霊の働きとしては、それまでそれぞれの民族の存在を強める方向にあったのが、これからは全体とひとつになる、という方向に移っているらしい。それがグローバル化とか、ネットの時代に特徴づけられるだろうし、逆に、各地で起こっている民族紛争は、その変化に対する抵抗とも言えるかも・・・

 で、アトランティス時代に失われた、人間の霊的世界に関わる能力は、また除々に進化・発達していくのだが、それは、例えばアセンションの思想のような、急激な変化ではなく、シュタイナーによれば、3000年くらいのスパンで発達するらしい。でも、これも各人の努力によるもので、進化を早める人もいれば、進化から取り残される人もいるだろう・・・
 そして単純に、アトランティス時代に回帰することは退化であって進化ではない。アトランティス時代の人間の霊能力は、非常に原始的なものだったから、そこにそのまま戻ることは意味がない。だからよく、巷の本で、アトランティス時代を過去の栄光の時代のように書いているものがあるが、それは全く違う。アトランティス時代の人間は、まったく成熟してなく、ただ無意識な霊能力だけに従って生きていた、と言える。現在の人間の方が確実に進化している。

 で、ここで最も危険なのが、何か特別な宗教、方法、教えだけを絶対的なものと見ること〜これだけが唯一の、最高の道だと主張すること〜 これが最大の誤りである、と、シュタイナーも言っている。





10月26日


 「ブッダ・チャリタ」を読んだ。「仏所行讃」ともいい、現存する最古の仏伝〜仏陀の生涯を伝えたもの〜らしい。
 作者はアシュヴァゴーシャという西暦100年頃の仏教詩人。漢訳では馬鳴(めみょう)と表記されているが、個人的に漢字の名前は好きではない。この人はインド人であって中国人ではないのだから。西暦100年頃の作品だから、仏陀が入滅してから600年後か・・・

 本来28章あったものが、後半の半分ほど紛失してしまい、サンスクリット語の原本では14章までしか残っていない。それからの現代語訳。だから物語は、釈尊誕生からさとりを開くまでの期間だけが描かれている。中央公論社の大乗仏典全集の一部で、300ページほどだが読みやすい。ただし、あくまでこれは文学作品である、と見たほうがいい。というのも、あまりに装飾美麗な表現が多すぎる〜〜と、私は感じた。

 釈尊誕生、宮殿内での生活の場面などでは、この若き釈尊〜シッダールタ王子が、いかに素晴らしい人物であるかをあらゆる表現を使って描いている。
 また、シッダールタ王子が人の生を憂いて、宮殿生活を捨て、出家し、森に入るところでは、それを悲しむ父国王、妃、待女たちの心情を、これもとことんまで詳しく表現している。
 そして、出家を思い止まらせようとする人とシッダールタとの議論では、シッダールタには全く迷いはなく、理路整然と論破している。もう既にさとりを開いているかのように・・・
 それから苦行林に入るが・・・そこでも彼は苦行する先人バラモンたちを観察して、その苦行の無意味さを語る。

 この仏典に関して、仏陀はこれらの苦行はしていない。少なくともその記述はない。6年間の苦行は、ただ断食とだけ書かれている。そして、その断食も無意味であると知って、悟りを得る。その悟りを得るまでに、いろんな魔の勢力からの攻撃・誘惑があるのだが、この表現もかなり詳しく長く描かれている。
 そして全体に言えることは、終始、シッダールタ王子に苦悩や迷いの様子はない。初めから、何かに導かれて仏陀になったようなストーリーである。

 その目的は、仏陀という人の偉大さを描くことだったのだろう。そしてそのための表現として、仏教的な教えを用いているところもある。だから、ここから仏陀の生涯の史実的な資料、歴史的な事実を知るのは難しいだろう。仏陀入滅後600年が過ぎているから、既に伝説となっていただろうし、古代インド人が、あまり個人の歴史事実には関心がなかったらしく、だから、どこまでが事実で、どこまでが作り話かは、今となってはわからない。
 だから、このブッダ・チャリタは、ひとつの文学的仏典として読んだほうがいいだろう、と、個人的に感じた。





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