3月5日
「知恵の書」下巻の校正が終わった!後は出版を待つばかり〜〜 下巻は、上巻より少なめの12章。
たぶん、500ページもいかないかも・・・でも、内容的には下巻の方が、より充実している。
ほぼ、この「知恵の書」上下巻だけで、Oshoの世界が全て解るだろう。
内容は〜〜 宗教と科学の違い、瞑想とは何か、キーポイントである「気づき」「観照」の意味、人間関係、世俗的快楽、嫉妬、比較、自分の中の空虚さを見ること、マスターと弟子の関係、信仰の否定、信じないこと、愛の三つの段階、自分自身であること、失敗を恐れないこと、等・・・・
精神世界を歩む中で、陥りやすい落とし穴や過ち、疑問点などに、的確に答えている。
ただ、ほぼ1年前に翻訳したものの見直しで、やはり、けっこう誤訳〜〜間違って訳したところも多いし、日本語での表現には、本当に苦労する。
特にこれは、精神世界についての話だから、そのニュアンスは微妙になってくる〜
それと、ところどころにジョークの小話が挿入されているのだが、だいたいが、英語でないと面白さが理解できないようなものばかり・・・
だから、その場合は、訳註として解説を書き込んでいる。そのためには、私自身がそのジョークの面白さを理解しなければならない。
Oshoの翻訳で一番悩まされるのがジョークの小話の翻訳だ。ともあれ、ひと段落した〜
3月8日
雨樋から水漏れしていたので、掛かりつけの業者に見てもらったが、そのついでに、外壁のひび割れが見つかる。
と言っても、前々から気づいてはいたけれど、それの危険性を知らなかっただけで〜 外壁にひびの入った家は、よく見かけるので、こんなものか〜、くらいに思っていたのだ・・・ ひびから、雨水が入ってきて、中の柱を湿らしてしまう〜 これ、でも、入居した時からあったみたい。TVアンテナの取り付け金具の跡〜
中古で買った5DKの二階建て、入居して、早15年〜 15年も、ひび割れを放置していたわけだ。ちょっとヤバイかも・・・
で、雨樋の方は、やはり老朽ということで、四方全面交換とする。築29年だからな・・・ リフォーム関係のサイトでも、外壁や雨樋の補修は、築20年が目安になっている。工事は、足場組みに費用がかかるようで、だから、これもついでに、ベランダのトタン屋根も交換することにする。これも、実際、ボロボロの状態だし・・・
今度は、少し高くつく〜 三種類の工事だから・・・ でも、これで最後になりそう。後は・・・シロアリ予防くらい〜 家は、本当に金がかかる。
3月23日
昨日、出版社より電話があって、Oshoの出版権の問題は解決したようで、これからも本の出版は可能とのこと。
なんとなく利権からみの問題だったようで、ややこしくてよくわからないが、本当にこういう俗な世界は嫌だ。
内容的にもOshoの本とは、何か特定のものを信じれば、願いが叶うとか、幸せになれるとかいうものではない。インスタントな答えを与えるものでもない。慰めや希望を与えるものでもない。ひたすら、探求者のためのもの、真理とは何かを知りたい人のためのものだから、どうしても、少数派になるのだろう。
それに、伝統的な宗教や価値観に反対しているし・・・ だから、誤解や偏見も生まれやすい。ようするに、一般受けしない。ただ、その価値がわかる人にとっては、非常に貴重な本ではある。だから、翻訳・出版の必要性を強く感じている。
たとえ非常に少数の人だけかもしれなくても、求めている人がいる限り・・・既成の伝統宗教や、安易な新興宗教、スピ系には満足できない人がいる限り・・・
だから、とりあえず、出版の可能性が見えただけで、安心できた。とにかく、翻訳すべきものは山ほどあるのだから・・・
3月28日
誰が言った言葉か知らないが、こんな言葉がある。「道で仏に会ったら、仏を殺せ」
昔、ある雑誌に、画家の岡本太郎が仏教僧たちに対して、この言葉の意味を問うた記事が載っていたが、問われた僧たちが、何も答えられなくて、岡本太郎は「仏を殺すということは、己(我)を殺すという意味だ」と息巻いていた。岡本太郎の解釈は、まったくくだらないと思うが、何も答えられなかった僧たちも情けない。
Oshoは、これについて明快に答えている。
道とは、普通の道路のことではない、スピリチュアルな成長の道、という意味だ。
道で・・・霊的な修行の道で、仏に会う・・・これは仏のビジョンを見る、ということ。大日如来、観音菩薩、などなど・・・ 修行の途中で、そんなイメージ、ビジョンを見ることがあるという。
そして、仏を殺せ・・・ そういうイメージを殺す、否定する、消す、という意味になる。
そういうイメージやビジョンは、何の意味もないし、修行の妨げになる、ということだ、という。
広い意味でも?
霊感の強い人は、イエス・キリストや聖母マリアの像を見るかもしれない。それは、天照大神やその他の神を見るかもしれない。
それを利用して、新興宗教の教祖になる人もいる。
見えたから、といって、だから何なんだ?ということ。
それは何の意味も価値もなく、ただ霊的成長の妨げになる、という意味での、戒めの言葉である。
「道で仏に会ったら、仏を殺せ」
ここで言っている仏とは、まさに釈迦のことである。修行の途中で、釈迦のビジョンが見えたとしても、それに捉われないこと、それを消すことを求めている。
大切なのは、釈迦ではなく、その人自身なのだから。
霊や、光や、不思議なエネルギーを感じられることで、何か自分は普通の人よりも一段高いレベルにいるのだ、と思い込んでいる人がいる。
この言葉は、そういうスピリチュアル的傲慢な人への戒めでもあろう。
仏教で説く「仏」とは何か?
仏の語源は、サンスクリット語のブッダ buddha。ブッダの意味は、目覚めた人、悟った人。
つまり、人の意識レベルを指す言葉なので、当然、悟った人はみんなブッダ=仏と呼ばれることになるのだが、
しばしば、仏は釈迦(仏教の開祖、ゴータマ・ブッダ)を指すこともある。つまり、固有名詞になる。
これが、仏教の混乱を起こしている。小乗と大乗、数多くの宗派・・・
仏教の「仏」を、釈迦1人にこだわれば? その経典の言葉は、釈迦が本当に言ったことかどうかが論争になる。
ここから「大乗非仏説」が生まれる。釈迦の本当の教えは、原始仏典にある、ということになる。
「仏」を、悟りの境地と見るなら、その教えが仏教であるかないかは、その教えの質の高さ、内容で判断される。つまり、釈迦という人物にはこだわらなくなる。
また、釈迦の名を借りて教えを説く、ということもある。ある意味、釈迦と同じ境地に達した人が説いた教えも、仏教になる。
だから、膨大な仏教経典が存在する。というか、そもそも、釈迦自身はひとつの経典も書いていない。
現存する経典は、全て、釈迦以外の人によって書かれたものである。
「仏」について、いろんな解釈があり得る。このへんが仏教の複雑さ、解り難さでもある。
ただ、仏教は、そんないろんな解釈に捉われないことを教えている、と思う。その意味では、仏教はおもしろい世界とも言える。
人間の作る迷妄の世界が、仏教の世界に反映されているように見えるな???
3月31日
ガンの原因、病気の原因
勝手な推測だろうけど・・・・ 樹木希林が全身ガンだとかで、なんとなく、その原因として思い浮かんだのが、夫内田裕也との悲惨な夫婦生活・・・
樹木自身は、かなり耐えて生きてきたらしいが・・・
抑圧されたネガティヴな感情は、体内で毒になって、細胞を侵すらしい、という話を聞いたことがある。
樹木希林の、我慢し続けてきた感情が、ガンとなって発病した可能性はあるだろうな??
私の両親もガンで死んだが、二人とも、心の中には、かなりいろんな不満を抱えていたし・・・
自分が、ガンになる可能性があるかどうか、ガン検診に行くまでも無く、自分の心を調べて、鬱積した感情があれば、危ないかも・・・
病は気から、
だから、病気なのだし、
病気の心理的な原因の解明は、どけだれ進んでいるのだろう? 薬ばかり与えて、安静にする、という処方しか見えないけど・・・
昔から、善人は早死にする、馬鹿や、悪いやつは長生きする、と言われるし??
うつ病や認知症も、だいたい真面目すぎる人がかかりやすいようで、
何か、病気を、真面目に生きた証しみたいに見るところもあるような・・・
だから、リラックスすること、自分を愛すること、あるがままの自然な自分を受け入れることが大切だとわかるのだけれど、
それが瞑想でもあるのだけれど・・・
よくいう修行というやつ、あれって、無理強いすることじゃないの?
良い人格にするとか、
欲望を抑えるとか・・・
修行が抑圧ならば、
それも、ガンの原因にならないのかな???
2013年 3月
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