9月2日 

1月末に会社から解雇を告げられたときは、一瞬目の前は真っ黒、頭の中は真っ白になったが、
いまの状況を見ると、クビになってよかったと思う。

ウチの会社は経費節約のため、冷房はほとんど使用しない。
その中で機械が出す熱や油などの劣悪な環境で働く。特に今年はこの猛暑だ。働いている者は大変だろう。

少なくともその異常な職場から解放されたことは、結果的によかった。
失業したことがありがたく思える。

太陽光発電も購入したときは、ずいぶんもったいない買い物をしたか、と半分後悔じみていたが、今、昼間を近くの図書館で過ごす事で、日中の電気代(冷房代)を節約すれば太陽光が発電しているので、売電で電気代は逆にプラス(収益)になっている。
人間関係でも、周りの無理解から孤立せざるを得ない状況が、一人で生きられる力を得ることができた。

その時は自分にとって厳しい状況が、後になって自分にプラスになっていることは、いろんな面である。

それをもっと大きな視点から、霊的な視点から見れば、たとえ不幸だらけの人生でも、何度も転生を繰り返す大きな人間の生の流れから見れば、すべては必然であり、すべては役に立っている、無駄なものはなにもない、という。

霊的に見れば、失敗した人生とは、何もかもが恵まれている人生だという。
なぜならそこから人は何も学び取ることはないから。
人生を俯瞰すること、空から見下ろすように見ることが大切だろう。
そうすると、人生はおもしろく見えてくる。





 9月7日

腹部の皮膚の下に腫瘍が出来たので通院している。
このくそ暑いのに、じっと部屋にいてばかりでは運動不足だ、として奈良の滝坂の道をハイキングしたのが悪かったかもしれない。
森の中の石畳の坂道で、鶯の滝まで行くなら片道約5キロの道のり、けっこうな運動になる。
疲れか汗でばい菌が進入したのだろう。

そのせいか皮膚の下に膿がたまった。
皮膚を切って膿を出すのは麻酔を打って処置されたが、その後の処置は麻酔なし。
これがすごく痛い。どうあがいても、痛いのは痛い。けっこう痛みには我慢強いほうだと思うけれど、少し自分を試してみた。
痛みを伴う処置に、どれだけリラックスできるか。どれだけ力を抜けるか。

どれだけ痛いかは予測できない。やっぱり体を緊張させてしまう。
痛みに対しては、あきらめの心境だったから、動揺などなく平静に痛みを味わったが、やっぱり痛いのは痛い。
しかし、何か貴重な機会のようでもある。
昔のサムライの切腹はこんなものじゃなかっただろう、とかいろんなことを考えさせられた。

肉体の痛みはエーテル体が感じるが、それを不快に思うかどうかはアストラル体の反応になる。
マゾヒストは痛みが快感につながっているのだろう。
一般の人間はこのエーテル体・アストラル体の反応に振り回されている状態だという。
霊的修行を積んだ人は、このふたつの体を自我の支配下に置く、いわゆるコントロールできる境地に至るらしい。

その例といえる話が、21才て究極の悟りに達したといわれるインドの和尚の逸話にある。

彼の弟子である医者が和尚に麻酔無しで歯の治療をしていた。和尚は治療の間、ずっと笑顔を絶やさなかったという。
訝ったその医者が和尚に尋ねた。
「あの、ものすごく痛いはずなんですけど・・・?」
すると和尚はニコニコしながら答えた。
「うん、痛い。」

痛みに同化しないことが、そのポイントらしいが、まだまだこんな境地には至れない。






 9月9日

図書館で瀬戸内寂聴と若い僧侶との対談集を読むと、人は死んだらどうなりますか、という問いに対して、二人とも「わからない」と言う。自殺はなぜいけないのか、という問いに対しても、同じく「知らない」と言う。
それよりは、空海はすごい、とか、日蓮はすごい、とかいう話に盛り上がり、で、結局、仏教はすばらしい、という結論でその対談は締めくくられる。

ひろさちやの本も覗いてみると、彼の言う仏教とは、物差し(個人的価値観)を捨てて仏に身を任せて生きることだ、という。宿命論のようなものか。
病気になったら病気を楽しめばいい、とまで言う。これはちょっと言い過ぎな気もするが・・・

例えば禅の坊さんに、「死んだらどうなりますか?」などと聞いたならば「心が迷っているからそんなことを考えるのだ ! 」と、喝が飛んできそうだ。

仏教が人の心のありかたに焦点を当てているのはなんとなくわかる。
だが、いろんな人いろんな心があるわけだから、結果的にいろんな教えが生まれてきたと言える。
仏教がつかみどころがないのは、そのせいだろう。
法華経が最高の教えだという人もいれば、原始仏教、スッタニパータこそ仏陀の本来の教えと見る人もいる。
いろんな教え・宗派が乱立している。

だから仏教が、いまだによくわからない。
法華経や日蓮宗がなんとなく好きになれないのは、やはり創価学会のイメージがあるからだ。とすると創価学会も仏教になるのか?


だいたい仏教の仏の意味がはっきりしない。
それがゴータマ・ブッダを指すのか、阿弥陀仏を指すのか、人の内側に在る仏性を指すのか、さまざまだ。仏の意味の解釈しだいで、なんでも仏教の教えになりうる。

仏教の経典にも、死後の世界や輪廻の世界を説いたものはある。しかしそれも他の宗教(儒教など)の影響を受けたものという説もある。
どちらにしろ、そこで説かれている内容を現代に受け入れるには無理がある。ひとつの象徴として書かれたのであれ、荒唐無稽で古臭い。
今の時代に説得力がない。

霊や死後の世界を否定する人で、先祖供養の儀式を細かくうるさく言う人がいる。彼らは何を供養しているのだろう?

霊の存在は信じなくても、仏の存在は信じているのか・・?
自分の人生に生かせる部分を信じていけばいいのだろう。

個人的救済ならそれで十分かもしれないが、やはりそれでは飽き足らず、本当の仏教の教えを求めていた人は多くいた。
それが近年では、初めてチベットに渡った河口慧海や多田等観らがいる。
中国ではなくチベットなのだ。仏教の原型を残しているのはチベット仏教にあることを彼らは知っていた。

もともと仏教開祖ゴータマの教えは口伝で弟子たちに伝えられた。それも最初はその教えを伝えることの困難さを感じていたという。
最初の経典が作られたのが仏陀が入滅して数百年後のこと。自分が聞き伝えで知っている仏陀の話をまとめたもの。
そこからいろんな伝説・解釈が加わって、各時代各民族の要求に応じて膨大な種類の経典が作られていく。

自分に合った仏教に出会えた人は幸せかもしれない。
仏教はつかみ所がない、それが仏教と言われれはそうなのかもしれない。それで納得する人、しない人、さまざま・・・
私は、納得しない人、だな。





 9月14日

人間は死んでしばらくすると、その魂は自分の人生をパノラマのように全て振り返る。それも時間を逆戻しする形で。

ただ、そのまえにアストラル体(感覚体)の欲望を制御するのに大変らしい。
肉体は死んでいるので、もう使えないのに、肉体がないと満たされない欲望にいつまでもしがみついたままだという。
欲望が満たされないので、いつまでも苦しむという。
仏教でいう六道輪廻の餓鬼界がこれに相当するらしい。修行を積んで欲が消えた人などは、この段階を早く通過する。

だから、物質欲は生きているうちになるべく執着しないようにすべきだろう。
いまの自分にどんな欲が残っているかを自己点検することは必要だろう。

その後、魂は霊界で反省の時期に入る。自分の人生をつぶさに見つめ直す。
この期間は、その人生で睡眠時間に費やした時間に相当するらしい。だいたい8時間睡眠として一日の1/3だから、75年生きた人で25年かかる。

そこで自分への課題がわかり、次の生のテーマ・目的が決まる。そのテーマに沿って、生まれる国・親を選び出す。
これがけっこう大変で、かつ、こみいっているらしい。

だから生まれる境遇は、その人の前世が原因となっているわけだが、そこにその家系の先祖の因縁や国・民族の因縁なども背負うことになる。
そして魂は自分がこれから生まれ、生きていく人生がどういうものになるかを全部知っている。
それを承知で、覚悟を決めて生まれてくる、という。

だから人生で起こることは全て、その人自身の責任ということになる。
で、生まれてきたら、そんなことをすっかり忘れてしまう。そして自分の人生を嘆き始める。

特例として、生まれることに抵抗する魂もいるらしい。生まれることを嫌がる。
すると魂と肉体とがうまく合体せずに誕生する場合がある。
これが知能障害や精神障害の原因となっているそうだ。

この輪廻転生の法則から見ると、これからの生き方が、次の転生の内容を決めることにもなる。

だから、残りの人生をどう生きるかが、来世の境遇・環境の準備につながっているといえる。








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