5月12日

失業して早三月。最近ちょっとだらけ気味。生活に緊張感がない。よっぽどの好景気が来ない限り、この年での再就職はほぼ不可能。
それにそんな好景気の予感など全くない。それにとりたててやりたいこともなし。

 物欲・性欲ともに枯れはじめてきたか・・・? いや・・性欲はまだまだ・・・でも往年の勢いは消えている。
しかし確かに過去のような感動が少なくはなってきた。これは自分のせいか? 社会のせいか? 54歳という年のせいか? 

 経済的にはぎりぎりなんとか年金まで生きていけそう。
つまり大きな事故でもないかぎり、働かなくても生きていけると計算上では出ているが、実際そう思い通りにいくかどうか。

 会社を辞めた最初の一ヶ月は隣町天理市の石上神宮や、その奥の桃尾の滝によく参拝した。
これは無意識にもそれまで自分に纏わりついた邪念を払う意味があったのだろう。しきりと神社や滝に行きたかった。

 今はとにかく本が読みたい、知識を得たいという欲求は強いが、いかんせん、頭が悪く理解力が弱いせいか、読むスピードはまったく亀のごとくのろのろのろのろ。まあ、読んでいる本がちとややこしいものばかりだからかも。
今読んでいる本は、平田篤胤関係のものと、河口慧海の「チベット旅行記」





 5月14日

ウチはオール電化の はぴeプラン なので、電気料金が時間帯によって変わる。
これが一人暮らしの自由な生活にメリハリをつけてくれる。朝7時になると電気代が上がるので、7時前には起きようとする。
朝食などでけっこう電気を使うので、節約のためにそうしてしまう。

また、平日の10時から17時までは割高になるので、パソコンなどもなるべく使わないようにしている。
その時間帯を外に出たり、本を読んだりして過ごす。

電気代節約のためにしていることが、結果的に生活に規則を与え、健康的にさせていることはありがたい。
もしこれがなかったら、もっと怠けた生活になつた可能性がある。自分の意志だけで生活を規則的にすることはけっこう大変だ。
がんばるための目的・意味が感じられなかったら、なかなか続けられない。
自分ひとりだから、誰も自分の生活を監視したり注意したりする人がいない。
当然、楽な方向へ流されやすい。
オール電化を導入したときは、もったいないことをしたかなあ、とけっこう迷ったりしたけど、こういう面でのプラス効果もあった。





 5月18日

心霊世界、スピリチュアルな世界に対する先入観、偏見、誤解はまだまだ根強いが、だからこそ正確な霊的知識を知ることが必要だと思う。
知識を知ることで得るものというと・・・

(1) 自殺をしようとしなくなる・・・・
  自殺の無用さ、無意味さがわかるからだ。死んでも苦しみは消えないことを知れば自殺が役に立たないことがわかる。

(2)苦しみに耐えられる・・・・
  苦しみの意味、必要性、原因がわかり、大局的な目で人生を捉えられる。苦労は必ず報われることを知る。

(3)擬似宗教や特定の宗教団体に惑わされなくなる・・・・
  宗教の真の意味がわかれば、現宗教団体のうそ臭さが見えてくる。教祖の言うことのデタラメさがわかる。

(4)心霊現象、超常現象のからくりがわかる・・・
  いらぬ恐怖心をいだくことがなくなるし、超能力をもっていることで選民意識にはまることの愚かさがわかる。

(5)死んでから役に立つ・・・
  死後の世界を知識として知っておくことは、死んでから役に立つ。ガイドブックを持って旅をするようなもの。
自分に起こることがあらかじめわかっていれば、それへの対処はスムーズになる。この重要性はいろんな本に書かれてる。

(6)自分は守られている、という安心がある・・・
  ひとりの人間に対してどれだけ多くの霊たちがサポートしているかを知れば、寂しく思うことがなくなる。

(7)長い目で人生を達観できる・・・・
  人生が一度きりでないことがわかれば、全ての体験に意味があり、無駄なものなどないことを知れば、諦めることなく人生をポジティブに生きれるようになる。
例えば、年老いてから新しいことを学ぶことは、次の生への大きな布石となる。

・・・思いつくことを書いた。まだまだあるとは思うが、ただ一つの知識、或る人の知識だけにとらわれることなく、いろんな本を読んで自分なりに吟味することが一番大切だ。






 5月19日

高校生のとき、先生が手相を観るというので、観てもらったら、まず、自分の思ったことがやれる、と言う。
・・・確かにやりたいことをやって生きてきた。

50歳半ばで交通事故に遭う、足を怪我する、と言う。・・・当り! 今年(54歳)の1月に交通事故を起こす。
両足の打撲。
私がバイクで相手が車。原因は車の突然の飛び出しで相手の不注意によるもの。

女は関係ない、と言う。
・・・確かに! ・・・

23歳の頃、別の人にも手相を観てもらったら、50歳半ばで人生が変わる、非常に厳しい状態になる、と言う。
・・・確かに! リストラで失業した。経済的に厳しい状態だ。

手相は当る。実感した。





 5月20日

死後の世界を信じない人は多い。逆に信じている人をバカにする傾向がある。

では信じていない人は、墓参りなどはしないのだろうか? 葬式や法要、供養などは一切しないのだろうか?

死んだら全て無になる、というのであれば、このような儀式は無意味でばかげていることになる。
では、なぜそれをするのか? 
死んだ者への弔いの気持ちからだ、と言うだろうか。その弔う、ということ自体、死後の世界を想うことではないか? 
単純なことだ。その矛盾に気づかないことこそ、不思議なことだ。

日本の仏教がよくわからない。
仏教の教えとは何なのか? 各宗派によって言うことが違う。

仏教に詳しい人によれば、どの宗派にも共通する仏教経典はない、と言う。
なんのこっちゃ・・・

そもそも仏とは何か、はっきりしない。よく神仏という。では神と仏の違いは? これもはっきりしない。

葬式では仏僧が法要を行う。しかし、そもそも葬式とは儒教から来たものらしい。
法要では経典を唱える。その経典の意味を知っている人はどれだけいるのだろう。
各法要の儀式・しきたりだけがうるさく言われる。
その意味もわからず、ただ形式にしたがう。

結局は、信ずるものは救われる、となるのか。

では救われるとは何か、これもはっきりしない。

すべてがあいまいではっきりしない。これが日本の仏教の姿である。
霊的なものを迷信だと決めつけながら、こんな仏教の行事には何の疑いも無く従っている。意味もわからず行っている。

これが迷信でなくて何だろう? 

神仏習合の歴史を経てきて、現在のような形になってきたのだろうが、私にはただの権力闘争にしか見えない。
それぞれの僧侶、開祖たちの欲が映し出されている。 

私はこういうものを信仰する気にはなれない。





 5月21日

浄土真宗。信者の数は日本最大らしい。開祖は親鸞。

その教えのひとつは、釈尊がこの世に現われた目的は阿弥陀如来の本願を説くため、ということらしい。

よく人が言うには、霊魂の存在は科学で証明されたことがない、だからデタラメだと言う。

では、阿弥陀如来の存在は科学で証明されているのだろうか?

霊魂の世界を説く人は必ずバッシングに遭う。
しかし、阿弥陀如来を信じている人がバッシングに遭ったという話は聞かない。
そして阿弥陀如来を信仰しているひとは多い。

不思議なことである・・・。

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久々にレコードを聴いた。
気分を落ち着かせるにはシンプルな音楽がいい。

ヴァイオリン・ソナタがいい。特にバロック、中でもビーバーのロザリオ・ソナタは最高だ。演奏者別で3枚持っている。
CDが2枚で、マンゼの演奏は情熱的、レイターの演奏は優しく繊細。同じ曲で対照的な印象を与えてくれる。
レコードが、その中間で、堅実だがやや薄味なヨーゼフ・マイヤーの演奏。
今日はそのレコードを聴いた。その薄味な演奏が、軽くて疲れなくていい。

ビーバーの音楽はおもしろい。
ドイツのバロック音楽の作曲家でバッハよりも50年ほど古い。
すごくアバンギャルドな面もあれば、センチメンタルな面もあるが全体的にはわりと攻撃的-男性的な音楽といえる。

クラシック音楽、特にヴァイオリンの音はレコードの方が断然良い。音の余韻が自然に空気に溶けていく。
伸びやかで開放感がある。

使っているオーディオは、アンプ=Luxman SQ505X
スピーカー=タンノイ・スターリングHW
LPプレーヤー=テクニクス SL-1200MK3-E
カートリッジ=Denon DL-103
心に響く音を求めて、このシステムにたどり着いた。





 5月23日

小学生中頃にビートルズ来日。わけがわからずともメロディは耳に残った。
それの影響でグループサウンズがブームになったが、なよなよしていて好きになれなかった。好きだったのは加山雄三。

中学時代はベートーヴェンにのめり込む。深刻で重い音楽を求めていた。モーツァルトは軽すぎて興味がなかった。

高校時代は、悪友の影響でロックの世界に浸る。ロックバンドを組む。ロックに限らずブルース、C&W、ジャズ、ソウルなどなんでも聴いた。
ただ、最初に聞いたのがキング・クリムゾンだったせいか、じきにプログレ系に行く。
この頃(1970年代)はロックの黄金時代でもあった。コンサートにもよく行く。

大学時代は京都に住んでいたため、音楽喫茶に入り浸り。
特にジャズ喫茶は味わい深い。ただ、ジャズはあまりのめり込めず、ミルト・ジャクソンくらいしか知らない。
百万遍にあったプログレ・アングラ系の音楽喫茶「彷徨館」でイーノ、クラウス・シュルツを知り、虜になる。

この頃はフォークソングがブームで、たくろう、陽水、NSPなど、特にかぐや姫の歌う世界は当時の私の生活そのものだった。
山崎ハコの世界にもはまる。
ド演歌も聴く。石川さゆりは私にとって永遠のアイドルである。

東京に移り住んで、やたら気難しい音楽を好んで聴くようになる。
テリー・ライリー、フィリップ・グラス、シンセサイザー、ミニマル・ミュージック、現代音楽等・・・
それのなれの果てか、インド音楽に行き着く。そこから瞑想、精神世界に入り込み、ヒーリング・ミュージックなども聴く。

インド旅行でラタ・マンゲシュカールとナジア・ハッサンを知る。
この二人の音楽は自分にとって最も大切な友となる。

映画「アマデウス」の影響でモーツァルトを再認識、その音楽性の豊かさにようやく気づき、全作品を収集し始める。
モーツァルトの史跡を求めてウィーン、ザルツブルグに行く。

その後はどのジャンルにもかたよらず、気分によってモーツァルトを聴いたり、ラビ・シャンカールを聴いたり、スレイド(ハード・ロック)を聴いたりの毎日。

ドイツ人と知り合ったことが縁で、ケルト音楽、教会音楽、バッハ、ルネッサンス・リュートなどに興味を持つ。
それがきっかけでなぜか古いものに憧れを持ち始め、古楽、バロック音楽の世界に入り込む。
ヴィヴァルディ、テレマン、パーセル、マラン・マレ、ビーバー、コレッリ、ルクレール、スカルラッティ、ラモー等・・・

ただ、チェンバロ曲は好き嫌いが大きい。
いまは、インド音楽かミニマル・ミュージックのようなクラシック音楽が聴きたい。
バッハのオルガン曲の中に、それに近いものもあるが・・・





 5月26日

父親の仕事の都合で小学校を4回、中学校を2回転校した。

常によそ者だった。
友だちとの話がかみあわない。共有できる思い出がない。友だちができても1年で別れた。幼馴染などいない。

学校によって授業の進み方が違う。転校前の学校では、これから習う予定の学習が、転校後の学校では、すでに習い済ということはざらにあった。
学習の流れが、自分の中で分断されていた。自分ひとりでそれを処理するしかなかった。

卒業式の時、入学から卒業までの思い出をみんなで振り返った。自分にとっては他人事の話だった。
共感できるものが何もなかった。
みんな泣いている中で、自分ひとりが醒めていた。

周囲の人はよく私のことを「ひとりでいられるから強い」なとど言うが、子供の頃からひとりにさせられていたのだから、どうしようもない。
ひとりであることは、私にとって、普通のこと。

寂しい、という感情は、いつのまにか忘れてしまった。
失業して一日中ひとりでいる生活が、自分にとってとても居心地のいい生活に感じている。





 5月27日

私はまだ宇宙人に会ったことはないし、UFOを見たことも無い。

UFOを見たことで選民意識に芽生え、自分を特別な人間と思い込み、地球最後の日には自分だけは救われるという幻想をいだく人がいる・・・
子供っぽい。

古代文明の起源、謎とされている世界をすべて宇宙人の仕業と結論づける人がいる・・・
子供っぽい。

私は宇宙人の存在は疑わない。いて当たり前だと思う。
問題は、その存在がどういうものなのか、だ。

人は自分の世界を基準に考える。
地球的環境を生命維持の必須条件とするなら、この宇宙はただの死の世界、無機質な世界になる。
少なくとも現代宇宙学が観察できる宇宙に限れば・・・そこでは宇宙人の存在は単なる仮説になる。

心霊学の世界においては、驚くべきことが言われている。

それは、この太陽系すべての惑星に知的生命体がいる、と言う。当然太陽も含まれる。
物質のレベルが違うので地球人には見えないという。つまり地球の物質世界だけが全てではない、と言う。
となると物質とは何か、という問題が生じるが、それはさておく。

興味深いのは、惑星それぞれ霊的なレベルに差があるということ、そしてこの地球は下位から二番目に霊的レベルが低いらしい。
最も低いのは火星で、最も高いのは惑星の中では木星らしい、そして一番レベルが高いのは太陽となる。

これにはもうひとつの説もあって、太陽に近い星ほど霊的レベルが高いというものもある。
これによると水星が一番高く地球は三番目ということになる。
ここから太陽神という信仰はリアリティを持つ。この太陽神からも興味深い話がある・・・

もうひとつ驚くことは、人間は生まれ変わる時、他の惑星にも生まれ変わるという。
特にE.ケイシーによると、前世でいた星はその人のホロスコープのある場所に現れているという。その場所は忘れたが・・・

おもしろいのは、この話がいろんな霊視者によって同じように語られていることだ。
シュタイナー、エドガー・ケイシー、シルバー・バーチ、アラン・カーディック、スウェーデンボルグ、M.ドーリル、そして江原啓之氏も・・・

信じるか、信じないかはあなた次第だ。






 5月28日

子供の頃に思った将来の夢は隠居、世捨て人、山水に住む仙人のような生活だった。

山間の滝のそばで、ひとり自然と戯れて生きるのが理想だった。
奈良に滝は多いが、ほとんどハイカーの景勝地になっている。山も観光者たちで騒がしい。ゴミも多い。田舎には田舎の騒音がある。
そしてやはりいろんな面で不便なことが多い。そういう面ではいまの生活状況はベストなのだろう。

失業中のいま、これからどう生きるか、自問自答の毎日だが、とにかく就職はほとんど不可能だ。
あまり余裕のない限られた予算の中で何をするか、これがいまの自分に課せられているテーマだろう。

心霊学を知ったことは今すごく役立っている。死後どうなるかがわかれば、死ぬのは怖いが、不安はない。
死ぬときの自分の心境が大事であって、この世への執着が少ないほうがいい。
物欲がないほど、また死後の世界の知識があるほど、霊界での成長は早くなる。

だから、今の自分に何の物欲があるか、やり残していることは何か、それを調べている。
人はみんな生まれる前は、自分の人生がどうなるのか全部知っている。自分でそれを選んで生まれてきている。
カルマの法則によってそうなっている。

不幸や苦痛に出会うことは負のカルマ - 借金を返すこと。
幸運に出会うことはそれまでの徳の利息をもらうこと。

美輪さんのいう正負の法則は絶対だ。シルバーバーチも、因果の法則は完璧だと言う。
だから、幸・不幸のどちらにも執着しないこと。

タントラの教え (和尚、トゥルンパ) を知ったことも役立っている。
自分を変えようとしないこと。変えようとする努力が変わることの邪魔になる。その願望が障害になっている。

変えようとすることを止めて今の自分を全て受け入れること。
あるがままであること。
和尚はそれを美しく語る。トゥルンパはそれを泥臭く語る。

両方を知ることでバランスが取れる。理屈は単純だがこれがなかなかやっかいで難しい。

心霊・神智学の知識とタントラの教えは、私にとって生きる上での道しるべとなっている。


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ダーウィンの進化論によれば、人間は猿から進化したそうだが、霊智学的に見ると違ってくる。
もともと人間の原形となるモノが存在し、その進化系が人間であるのに対し、猿はその退化したものであるという。
つまり猿は進化の流れに取り残されたモノ、落ちこぼれ的存在であるらしい。

動物の中で最も霊的に進化しているのは犬だそうだ。
一見人間に近い猿がそうだろうと思われるが、確かに犬が一番人間に役立っている。番犬、警察犬、盲導犬、猟犬など・・・

ネコや猿ではどうも勤まりそうにない・・・
ペットとして飼われた動物は、死んだ後もずっと霊界で飼い主を待っているという。
つまり、死んだ後も霊としてずっと飼い主のそばに居るのである。

ただ、動物が人間に生まれ変わるということはありえない。動物は群魂といって集団でひとつの魂となっている。
だから動物には輪廻転生も因果律もない。死んだ後は群魂の中に溶けてしまう。個性も消える。

ただ、ペットとして人間に愛された動物は、飼い主が死んで霊界に移るまで、個性を維持して飼い主と会えるのを待っている。
しかし動物は人間の進化のスピードについて行けないので、途中で別れて群の中に消えていく。





 5月30日

私は熊本生まれで実家は牛舎で牛を飼っている。
そのせいか、たまに熊本に帰ってどこからともなく牛糞の臭いがすると、すごく懐かしい気分になる。
牛糞の臭いが、私にとっては故郷の匂いになっている。

また、小学生の頃は大阪の港区に住んでいたが、その当時このあたりには鉄工関係の町工場が多く連なっていた。
そのせいか、たまに港区あたりに寄って鉄の焼き焦げた臭いがすると、すごく懐かしい気分になる。

ただ次の話はちょっと信じられないものだが・・・
ある日部屋の中で、石ノ森章太郎のマンガ「日本の歴史」の邪馬台国あたりの部分を読んでいたら、なんとなくこの当時の、卑弥呼の時代らしき空気の匂いを感じた。森の香り、建物の木の香り、土の香り、水の香り・・・

部屋の中であったのに、それを感じて直感的になぜかすごく懐かしさを感じた。
自分はこの匂いを知っている、という確信があった。理由はわからない。ただそう思った。

たんなる自分の想像、思い込みだったのかも知れないが、その匂いを味わったこと、その匂いに自分は深い懐かしさを感じたこと、は自分にとって確かだった。部屋の中であったので、その匂いの元となるものはなかった。
とすれば自分の中の深層意識の記憶の何かが呼び起こされたものだったのか・・・


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ウチにはよく猫が寄りつく。野良猫、飼い猫、関係ない。
勝手に玄関先で昼寝をする。外からジーッと我が家を見つめる。
玄関を開けると、ずけずけと中に入ってくるブレイモノもいる。でもカワイイから許す。
猫には霊が見えているらしいが、いったい何を見ているのだろうか・・・
常連客だけでも3名さまになる。
ただ、大小便だけはご遠慮願いたい。我が家はあなた方のトイレではありませぬ。とにかく臭いのである。
昔、バイクを持っていた時は、やたらと放尿された。猫に放尿されたバイクで通勤するのは、ホントに情けなかった。
でもカワイイ・・・


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もともとは神仏などはまったく信じていなかった。中学・高校の頃は哲学少年だった。

中学校の校長がプラトンを子供用に翻訳し、自費出版するといって、たまたま私が美術が得手だということで、その本の挿絵を描くはめになり、プラトンを読むきっかけとなった。
その頃はトルストイ、ロマン・ロラン、ショーペンハウエルにはまっていた。

なぜか友人に宗教団体の信者である者が多かった。その伝手でいろんな宗教団体を覗いた。
天理教、ほんみち、創価学会、真光の業、統一教会、・・・どれも胡散臭かった。

人生の意味が知りたかった。なぜ生きるのか知りたかった。
本当のことが知りたかった。信じるものは救われるようなごまかしは大嫌いだった。

だから、宗教よりは哲学に行ったが、哲学もただの屁理屈に見えてきた。
ホントはカントとかデカルト、サルトルとか理解できなかった。

横尾忠則の影響で、瞑想を始めた。TM、ヨーガ。そのながれで和尚の弟子になった。
そこにひとりの霊能力者がいた。
その人と関わっていく中で、ひとつの言葉が胸を刺した。

「人はみんな、親を選んで生まれてきている。」と言うのだ。

それまで自分の親を嫌っていたから、この言葉はショックだった。その他もいろいろな霊的な話を聞かされた。神秘的な体験も少々あった。
そこで神智学を勉強することをすすめられた。その後ごたごたがあり、別れて、しばらくは霊的な世界も忘れていた。

しばらくして江原さんをテレビで知り、彼の本を読んで、その書かれてある内容が、あの霊能力者の言っていた事とほとんど同じであることに気がついた。
それで自分にとっては心霊知識の確かさと大切さを知るようになった。

振り返ると、流れにまかせて必然的にこうなって来たような、なるべくしてなってきたような気がする。
やっぱり江原さんのよく言う「この世に偶然はありません。すべて必然です。」ということなのだろうか。






 5月31日

約20年間、奈良を中心に風景写真を撮り続けてきたが、今はまったく止めている。

写真に関してまず対比させられることが、昔はフイルムの選択-ネガかポジかであり、次にカメラの選択-マニュアルかオートかであり、つい最近まではフイルムかデジカメか、というところか。
現在ではデジカメのオート撮影が主流となって、個人の選択の余地はなくなってきたように見える。
デジカメについては詳しくないのでこの辺はよくわからないが。

誰でも簡単に美しい写真が撮れる。それが私にとってはつまらない。面白くないのである。

ちなみに私はずっとネガフイルムを使い、カメラはNikon FM2のマニュアル機、それで20年間撮り続けてきた。
写真撮影の楽しみとは、フイルム装填、シャッタースピード・絞りの設定、レンズのピント合わせ、構図取り、などこれら撮影するための手間にあった。
自分で手作りをする過程が楽しいのである。

最近の便利なカメラではそんな過程は必要ない。便利なものはつまらない。

よく、プロはポジを使い、初心者はネガを使うという偏見から自分がネガを使っていることでバカにされたりもした。
私はポジ(リバーサル)の画質が大嫌いだ。冷たい。色が派手すぎる。ネガの柔らかさが好きだ。

FM2は20年間の酷使に耐えたのだ。その信頼性はすごい。
撮ったフイルムの本数は約1500本。
その私の愛用してきたカメラも寿命が来た。レンズのピントが合わなくなってきた。修理も不可能で、替えのマニュアルレンズも市場には無い。
この撮影スタイルで撮り続けることは無理になった。時代の流れに負けてしまった。
最近、初めてオートフォーカスのカメラを安く手に入れて撮ってみたが、やっぱり物足りない。
撮る喜び・楽しさが半減している。

だから、今は、写真を撮ることを止めている。
手作りの楽しさを忘れてはいけない、と思うけどなぁ・・・







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