6月1日

最近、星を見なくなった。街中の夜ではせいぜい北斗七星を見るくらい。
感動がない。
生まれて初めて天の川を見たのは、アメリカ・オレゴン州に行った時、その星の数に圧倒された。
天の川は、天の川だった。本当に星の川だった。星の数が多すぎて、逆に星座を探すのが大変だった。
ただ、夜空を眺めているだけで、幸せになれた。昔の空はどこでもこんな風だったんだろうな・・・





 6月3日

道という名のつくもの ・・・ 柔道、剣道、弓道、武道、武士道、合気道、茶道、華道、書道
番外として、極道
まだ他にもあるだろうが、日本人はいろんな場に精神性を重んじてきた。

東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取った円谷選手は、競技場に帰ってきた時は2位だった。10メートル後方に3位のヒートリー選手がいた。円谷は後ろを確認しなかった。そのため途中でヒートリーに抜かれた、といわれている。もし、後ろを振り向いて3位のヒートリー選手が迫って来ていることを知っていたら2位のままゴールしていたかもしれない。これは結果論である。ただ、ここで円谷は勝負の美学にこだわったともいえる。幼い頃から父親に、決して後ろを振り向くな、と教えられたという。彼はその教えを貫いた。

極真空手の大山倍達は、海外での試合で自分の弟子が相手の外人に対して反則をしたとき、審判員がそれに気づかなかったので、自分からそれを審判に告げたという。周囲の観客はその大山の行為がバカ正直に見えて笑ったという。大山にとっては空手はまさしく空手道であった。

しかし現代では、相撲の朝青龍、ボクシングの亀田など、ただ強ければ礼節などどうでもいい、という風潮がある。そういう派手なパフォーマンスがなければ世間が注目しない、という現状もある。実際、皮肉にも亀田のおかげでボクシングへの関心が高まったのはある。マスメディアに載らなければ廃れていってしまうという危険性があるからだ。

たぶん、明治維新と敗戦の二大ショックによって日本の精神性はボロボロに解体されてしまったのだろう。特に戦後の復興期では精神よりも物質が必要とされていた時期だから。
そういう意味では、今いろんな場でその精神性の乱れが見られるわけだから、もう物質は十分あるわけだし、これから、その本来の日本人の精神性を取り戻すための探究がなされていくべき時期にきていると思う。
現状の日本を嘆くよりも、もう一度精神的再生をめざすためのチャンスとして、何に、その精神的基盤を求めるのか、考える必要があるだろう、と思う。






 6月4日

デジタル放送がアナログ放送よりいいとは、全然思えない。スポーツ番組など動きの激しいものはブロックノイズがひどい。
ハイビジョンのテレビ放送を見たが、色合いが気持ち悪かった。人間の肌合いが蝋人形のように感じた。あれを高画質というのだろうか。信じられない。ウチはパソコンでテレビを見ているが、一度モニターを液晶に変えてみた。粒子が粗くて、とても見れたものじゃない。すぐにCRTに戻した。
たとえそれが高画質だとしても、低俗なバラエティ番組を高画質で見る必要があるのだろうか。番組の質は完璧に低下している。

デジタル保存についても、保存先はHDDかDVD-Rかだろう。最新のメディアは知らない。
それでもHDDの寿命は5年から10年程度、DVDについてもせいぜい30年くらいだとか、保存状態では2-3年でダメになる。
ドライブの不具合、相性などで読み込めないことも起こる。ましてや、どんどん新しいメディア、システムが開発されていっていると、それへの対応でまた手間がかかる。

京都の萬福寺には、仏教経典の一切経の版木が保存されている。その数 約6万枚。
1669年より、隠元の弟子、鉄眼という僧によって、一枚一枚手彫りで、9年の年月をかけて作られた。
350年間、その版木から多くの仏典が印刷されていったことだろう。
テジタル化が本当にいいのかどうか、非常に疑問に思う・・・






 6月5日

今の日本を例えると、太平洋の真ん中に浮かんでいる状態・・・ 泳ぎ方もわからない、どっちの方向へ泳いでいったらいいかもわからない・・ 現代は、例えるならば、そんな状態なのだろうか。

昔は、しっかりした船があったのだろう。その船に乗っていれば安心だ。
しかし、行き先は船長が決める。全体主義で個人の自由は許されなかった・・・?
いま、その船はボロボロの状態だ。修理して、また昔のような旅をするのか、まったく新しい船を作るべきなのか、そもそも船の作り方がわかるのか。
それとも、個人の泳ぐ力 = 良心 = を信じて各自の生き方にまかせるか・・・






 6月7日

パソコンのHDDに保存していた明日香村の写真が全て消えていた!
それまで二台のパソコンを使っていたのを一台に統合する時に、データの移動をしたが、その際に何かのトラブルが起きたのかもしれない。キツネにつつまれた感じだ。

すべてDVD-Rにバックアップしていたが、今度はそのDVD-Rがドライブで読み込めないものがある。
読み込めるものもあるのでメディアのせいだと思うが、デジタル処理はこういうトラブルが困りものだ。データが読み出せなければどうしようもない。また原因の特定もややこしい。
幸い、すべてフイルム撮影の写真だから、元のフイルムは残っているため、またフイルムスキャナで取り込めばすむ。
その手間は大変だが、これがデジカメだったらどうなっていたことか・・・

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方位取りをするようになってから、いろんな地方へ旅をすることが多いが、気づいたことは、どの町も似たり寄ったりで特徴がない。
主要な駅周辺は特に、整備されればされるほどその地域の特色が失われているような気がする。
そして現代的建築からは全く心が冷たくなるようなエネルギーを受ける。

一番嫌な駅が京都駅だ。多くの店舗を抱えるためにあのような巨大なビルになったのだろうが、外観をもうすこし考えて欲しい。
京都らしさがまったく感じられない。私は現代建築のデザイン感覚が大嫌いだ。非常に冷たい。
ドイツのバウハウス時代の機能美だけを追及したものがいまだに受け継がれているようだ。

環境が人間の心に与える影響というものに対して、全く無知なのだろう。都会に行くと頭が痛くなる。
それでも少しずつだが、古い街並を保存する運動が各地に起こっている。
京都の祇園界隈・上賀茂、山口の萩、岐阜の郡上八幡、金沢、函館、倉敷の美観地区、大分や鹿児島の武家屋敷跡・・・・
木の温もりが感じられる街並が増えていって欲しいと思う。そうすれば人の心ももっと柔らかくなっていくのではないだろうか。






  6月8日

結婚していない人を負け犬と蔑する。相変わらず結婚することが幸せの道だと決め付けている。
ではなぜこんなに離婚が多いのか? 実際、結婚をして幸せを感じている人は何パーセント位いるというのだろう。

独身を寂しい、と決め付ける。精神的に自立できていない人はそうだろうけれど、そうでない人もいるはずだ。それに結婚している人はたいてい独身者を羨ましく思う。
私は結婚したとも思わないし、いま独りだが寂しいとも感じない。たぶんこんな私は世間からみたら理解できない変人なのだろうか。

何もしていなかったら、何かしろ! 人生をムダにするな! と鼓舞される。何もしないで生きることが罪悪のような見方だ。
経済的に自立していれば、どう生きようと個人の自由だ。私は、独りで、何もしないで充足感を感じられれば、それが最高の生き方だと思う。
仏陀が到達した境地もそれであったと思う。

たぶん、現代に仏陀が生まれてきたら、一斉に世間からの非難を浴びることだろう。
人のために生きることは素晴らしいことだ。そうしたい人はそうしたらいい。そうしない人を批判するのは当らない。
それは自発的な行為であるべきだ。そうしないからといって罪悪感を持つ必要はない。

人は、間接的にしろ、何らかの形で人の役に立っている。目立つ働きだけで評価することは間違っている。
ヒーローがスポットライトを当てられるのは、それを支える多くの人がいるからだ。社長ひとりでは会社は成り立たないのだ。

出世街道を勝ち抜くことが人生の勝利者などという価値観には、私はまったく賛同できない。
生きている、ということは生かされていることであり、この世界に必要とされているから生かされている。

世間の価値観など時代によってコロコロ変わる。戦争の時は人を多く殺した者が英雄になる。チャップリンが映画「殺人狂時代」で訴えたテーマだ。
自分の生き方を見つけるのは難しいかもしれない。だから集団に属したり、誰かの後についていったりする。
世間の価値観にまどわされずに、自分の価値観を持つことは難しいかもしれない。でも、自分に正直になればそれは見えてくるはずだ。
その自分らしさを見つけることが人生の意味かもしれない。






 6月9日

我が家の電気代は、太陽光発電によって、3月から3ヶ月連続黒字。余剰電力が使用電力を上回る。
4月分が最高で約6000円の売電収入。
設置前の年間電気代が約12万円だったから、設置後の電気代を年間2万円に押さえれば、10年で元が取れる計算。

商品はサニックスの韓国製だから割安の100万ちょっと。
これから梅雨に入るので、売電はあまり期待できないが、また8月頃には発電量が上がるようなので、今のペースでいけばもっと早く元が取れるかも知れない。
寿命は約20年といわれているが、20年後に全く発電しなくなるというわけではなく、徐々にパワーが落ちてくるという話だ。

まあ自分の寿命も同じくらいだろうから、ちょうどいい。






 6月10日

いま、働かずに生きていける。すごく恵まれている、と思う。今年は変化の年だという。こういう変化ということか・・・

小欲知足、という教えをいただいた。ピッタリのキーワード とりたてて欲しいものは、ない。
欲望が消え始めている 先に対する不安は、ない。自分の人生、実にうまくできている、と思う。
禍転じて福と成す 耐えることは報われる。 

戻る気にはなれない。人の話を聞かず、自己主張ばかりが渦巻く世界に。

自分に必要なことが起こる ただ それを受け入れるだけ。
あるがままに ビー・ヒア・ナウ。

それまで得た知識・体験が、いま、自分を支えてくれる。無駄なものは、ない。
正負の法則。
静かな幸せ。  自分に「師」はいない。
足をひっぱる者ばかり。 嫉み、そねみ、シカト、冷笑、それは私に 独りで生きる力を 与えてくれた。
ありがとう。人生は振り子のようなもの。 開放感。

昨年の二度のインド旅行が、すごく大きな体験・収穫になった。
交通面でのトラブルから、見知らぬ土地にひとり放り出される。極貧の生活を生きる人々  極限の心細さ  世界は広く、自分は小さい。
インドに限らず、世界で行方不明になったり、事故に遭って亡くなった日本人は多い。
しかし、自分は守られていた。見えない何かに守られた。ありがとう。

人生は、不思議なことでいっぱいだ。






 6月16日

先日、久々に大阪梅田へ行った。
目的地はその先にあったので、ただ電車の乗り換えのために移動しただけだが、その間、自分の欲望を見つめてみた。
今の自分は何に興味を惹き付けられているか・・・多くの広告、宣伝、店、商品、イベント・・・興味を惹くものは何もなかった。
欲は湧かなかった。

最大の書店、紀伊国屋へ行ってみた。人生を上手く生きるための本が多く出てある。
興味がない。

精神世界・宗教コーナーへ行ってみた。和尚の本はひっそりと影を潜めていた。すでに過去の人か。
日本人の本はどうも胡散臭い。ひとつの生き方、価値観を押し付けている。一番苦手な本だ。
江原さんの本をちら読みしてみる。興味ある文を見つける。

「欲のない人は、いまの世の中ではとても生きにくい。ホームレスの人たちは、欲が少ない分、とてもきれいなオーラをしている。」
そういうことか。
そう言ってくれると、何かスッキリした。
この数行の文に出会えたことだけが、この日の収穫だった。





 6月19日

もし自分の余命があと数ヶ月だと宣告されたら、どうするだろう? 何をするだろう? 
当然、緊張感は高まる。限られた時間をいかに充実させるか、自分の生き方が問われる。

人はいずれ死ぬ。死なない人はいない。これほど確実なことはない。みんな100%死ぬのだ。

それなのに、ほとんどの人は死について考えることを避けている。というより、死とは何かがわからない状態だ。
死を考えることは生を考えることでもある。

余命を宣告された時は、仮面や体裁は役に立たない、素の自分が露わになるだろう。本当の自分がそこで見えてくる。
死にたくない、と駄々をこねるか・・・あきらめて静かに死を待つか・・・自分の生きた証を残そうと、何かをするか・・・その人の心境が現われてくる。

時々、自分の中で、それをシュミレートしてみる。
やり残したことはないか・・・気がかりなことはないか・・・いま、やりたいこととは何か・・・それらを見つめながら毎日を生きていく。

死後の世界の知識を得たので、死に対する恐怖・不安はなくなった。
この知識のあるなしで、死や生に対する考え方はまったく違ってくる。余命を宣告されても、あわてふためくことはない。冷静に受け止めることができる。
本当に必要な知識だと思うのに、まだまだ誤解や先入観は根強い。江原さんの大変さが感じられる。






 6月21日

その昔、とある霊能力者と集団生活をしていた頃、同じ友人たちに霊能力に目覚める者が出てきたりして、自分にまだそんな力がないことにコンプレックスを持ったりもしたが、今ではべつに霊能力を持ちたいとは思わなくなった。

霊能力と人格とは関係ない。霊能力があるだけでその人が優れているわけではない。
霊能力は遺伝する。その霊能力者は親子三代ともそうだった。三人とも女性。二代目は私と同年齢、その彼女の娘は6歳だったが、すでにサードアイ(第三の眼)が開いていたそうな。
この人の影響から心霊の世界や神智学に興味を持ち始めた。

生まれつき霊能力を持っている人もいれば、人生の或る時期に目覚めるケースもある。
江原さんは、生まれる前の母親の胎内で両親の夫婦喧嘩をおぼえていたらしい。
有名なスウェーデンボルグは科学の分野で広く業績を残した人だが、彼が霊能力に目覚めたのは50歳を過ぎてからという。

いたずらに霊能力を開発することは危険だ。低級霊に憑依されると人生がメチャメチャになる。
霊能力に目覚める頃は悲惨らしい。それは江原さんも本の中に書いてある。見たくないものも見えてくるからだ。
いや、ほとんどは見たくないグロテスクな魑魅魍魎、妖怪、地獄絵図の世界ばかりらしい。
自己コントロールが必要となる。その霊能力者も、初めの頃は百鬼夜行の霊たちが見えたという。

子供はみんな霊能力がまだ残っている。5歳くらいまでは前世を覚えていたり、生まれた瞬間を記憶している子も多い。
古代人はみんな霊能力を持っていたらしい。
各地に伝わる神話伝説などは霊視した世界を記録したものといわれている。
現代は最も霊的な世界から遠ざかった、物質中心の時代という。

シュタイナーによれば、これから未来へかけて人類の霊能力が目覚めていく時代に入っていく、というが、まあ3000年くらいかかるらしい。

古代の宗教指導者は全て霊能力者といっていい。クリシュナ、マヌ、ブッダ、モーセ、イエス・キリスト
キリスト教は後の宗教会議によって、その霊的な意味を持つ部分が全部改ざんされ、削られてきた。
今、世界に伝わっているあらゆる宗教経典はすべて霊的な資質を失った抜け殻となったものである。つまり、死んだ宗教と言っていい。
その霊的抜け殻の経典の言葉の解釈をめぐって、多くの宗派が対立し醜い争いの元になっている。

霊能力者はだいたいが、バッシングに逢い、晩年は悲劇的だ。
イエスは磔、ソクラテスは毒薬死刑、ピタゴラスは餓死、彼の信者は全て火あぶりの処刑、ジャンヌ・ダルクも火あぶり、魔女狩りもキリスト教徒によるある意味の霊能力者撲滅行為、シュタイナーも食事の中に毒を混入され、それが原因で死んでいる。
江原さんもバッシングを受けている。時代が進んでも人間の愚かさは変わらない。
まあ、そのバッシングの内容は、たんなる霊的知識の無知からくる、いいかげんなこじつけばかりだが。

今の日本は自然霊に憑依されている人が多いらしい。だから善悪の基準、倫理観、道徳などが崩壊している。

霊能力があるかどうかは、今の自分にとってはどうでもいいと思っている。特に欲しいとも思わない。
それより、正確な霊の知識を知りたいと思う。そのためには、ひとつに偏らずいろんな霊的知識を比較検討することが必要だろう。
ほぼ、それらに共通しているものは、見えはじめている。


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リバース・モーゲージとは、自分の持っている不動産を担保にお金を借りて、自分が死んだ時にその不動産を処分して借金を返済する、というシステムですが、私は持ち家に独り住まいなので、財産を引き継ぐ家族もいないので、自分にとっては利用価値のある制度だと思っていましたが、なかなかこれを実施している自治体は少なく、銀行では東京スター銀行がこれをやっているとのことで、問い合わせてみたら、いろいろ条件はあるようで、とりあえず、自分の不動産の評価額がいくらになるのか聞いてみたら、担保対象となる不動産は家ではなく土地だということで、私の土地の評価額を聞いてみたら、安すぎてダメだ、という話で、結局、この制度は利用できない、ということになったのでありました。





 6月22日

E・キューブラー・ロス「ライフ・レッスン」より喪失のレッスンから・・・

「わたしたちはいずれすべてのものを失うが、最終的に問題なのは喪失そのものではない。
家、車、仕事、お金、若さ、そして愛する人でさえ、じつは借り物にすぎない。手にふれることのできない無形のもの・・・夢、若さ、独立・・・も、いずれは色あせ、失われていく。

しかし、その真実に気づいたからといって悲しむことはない。
その気づきによって、地上に生きているあいだに味わいうる多くのすばらしい経験に対する正しい認識があたえられる。この現実そのものが永久不変のものではない以上、所有など永続するはずがない。この世のすべては移ろいゆく仮の姿である。

わたしたちは人生をはかないものだと考えることを好まない。人生はいつまでも続き、すべてが永続すると思いこみたがる。
だから、きたるべき究極の喪失である死を直視することも嫌う。

死の床にあった人たちから、喪失にかんして興味深い報告がとどいている。医学的に死亡が確認され、なんらかの理由で生き返った人たちが、共通した、ある特徴的なレッスンをもち帰っているのだ。
それは、彼らがもはや死を恐れなくなっているということである。

次に、死とは単に肉体を脱ぎ捨てることでしかなかったのだという気づきである。
三番目の共通点は、死の体験のなかで、すべてのもの、すべての人とつながっていると実感し、喪失感はまったくなかったというのである。
彼らは孤独ではなく、そばにだれかがいたとも報告している。」

E・キューブラー・ロスは医学博士、精神科医で、多くの末期患者と接し、その死の瞬間を観察し続けてきている。
そして彼女が説く死の実体、死後の世界の内容は、私が知っている神智学、スピリチュアリズムが説く死後の世界と全く同じである。
それは江原さんが言っている内容とも一致する。
いま久々に、昔録画した「天国からの手紙」を見ている。何度見ても涙が出てくるが、考えれば、この世界は本当に不思議な奥深い世界なのだと思う。






 6月23日

失ってみて初めてそのありがたさがわかる、ということはよくある。
それは自分が何に執着しているのか、自己確認にもなる。

昔、金に困っていた時、所有していた約300枚ほどのLPを売ったことがある。
まだCDが出ていない頃だったからけっこうな値で売れたが、後になって後悔し、余裕が出た頃中古LP店をまわって売ったLPを買い戻したりしていた。

失うと、それがなぜか大切なものに思えてくる。いつも持っているものだと、ときどきうとましく思えるときがある。
人間の心理とはわがままなものだ。
高校、大学と油絵を描いてきたが、今その作品はひとつも残っていない。住宅事情から処分しなければならなかった。自分の過去が染み付いたものを処分することは困難でもあり、また必要なことでもある。これも自分の執着の問題にある。

学生時代の賞状や通知表などはみんな父親に捨てられた。それで憎んだりもしたけれど、これも学びとして受け止めるしかない。
死ぬ時は、物質的なものを持っていくことはできない。それらへの執着を断ち切ることが必要だ。

失うことへの恐怖。これが自分の人生の学びのような気がする。
人間関係も、何度も出会いと別れの繰り返しだ。そんな経験を積み重ねてきて、徐々に外側への執着は少なくなってきている。
しかし、たとえば、もし、自分の家や財産が火事や天災などで全て失ってしまったら、どうなるだろう。
自分はどんな反応をするだろう・・・

実際にそういう人たちは存在する。それは自分の執着度、所有欲を試される機会でもある。





   2010年 6月
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