天皇系図

古墳・天皇陵

古墳・天皇陵

天皇系図

 翌年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。
 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。
 ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。

 その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(旧暦4月9日『古事記』では4月15日)(587年)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。

 そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。
 しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(592年)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。
 時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。

 第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。
 『日本書紀』に「姿色端麗・進止軌制」(「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)いた)と記される。

 欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。敏達天皇5年3月(576年)、皇后広姫の逝去を承け皇后に立てられ、敏達14年8月乙酉朔己亥(8月15日)(585年9月15日)、35歳のとき、敏達天皇が没した。

 菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。
 用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。

日本の歴史書である『古事記』には、「その年の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳とされている。
後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ、考古学名としては山田高塚古墳)に改葬された」とある。

第33代天皇
在位 593年1月15日 - 628年4月15日
在位中の時代 飛鳥時代
在位中の皇居 豊浦宮・小墾田宮
別名 豊御食炊屋比売命
豊御食炊屋姫尊
出生 554年
死去 628年4月15日
小墾田宮
陵墓 植山古墳→磯長山田陵
先代 崇峻天皇
次代 舒明天皇
敏達天皇
子女 菟道貝蛸皇女
竹田皇子
小墾田皇女
尾張皇子
田眼皇女
父親 欽明天皇
母親 蘇我堅塩媛
注釈 最初の天皇号使用者(異説あり)
欠史十代の一。

推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。
日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主である。
額田部皇女
(ぬかたべのひめみこ)。天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着している。
ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。
『古事記』ではこの天皇までを記している。

大阪府太子町

第33代 推古天皇陵

2009年6月6日

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