592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により暗殺した。
臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である(他には、毒殺の疑いのある孝明天皇の例が未確定である。
安康天皇は同じ皇族によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い)。
死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。
その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。
欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君(おあねのきみ)で、
敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。
(すしゅん)
奈良県桜井市大字倉橋
第32代 崇峻天皇陵