天皇系図

古墳・天皇陵

古墳・天皇陵

天皇系図

592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により暗殺した。
臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である(他には、毒殺の疑いのある孝明天皇の例が未確定である。
安康天皇は同じ皇族によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い)。
死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。

物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。
しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。

大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。
その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。

第32代天皇
在位 587年9月9日 - 592年12月12日
在位中の時代 飛鳥時代
在位中の皇居 倉梯柴垣宮
死去 592年12月12日
先代 用明天皇
次代 推古天皇
夫人 小手子
河上娘
布都姫
子女 蜂子皇子
錦代皇女
父親 欽明天皇
母親 蘇我小姉君

欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君(おあねのきみ)で、
敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。

(すしゅん)

奈良県桜井市大字倉橋

第32代 崇峻天皇陵

2009年6月1日

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