前代の敏達天皇が亡くなると即位した。敏達天皇とは違い、用明天皇は蘇我稲目の孫と言う事もあり、崇仏派であり仏法を重んじた。
一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の息子の一人である穴穂部皇子と通じていた。しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位二年あまりの587年4月9日(古事記では4月15日)に死去した。享年には諸説あり、48(欽明天皇元年(540年)出生説)とも69(継体天皇13年(519年)出生説)とも伝えられている。
用明天皇(ようめいてんのう、不明 - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))は、第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。
大阪府南河内郡太子町
第31代 用明天皇陵