天皇系図

古墳・天皇陵

墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。
穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。

直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている

2009年6月6日

本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。
また母親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父にあたる蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸(うまやと)と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。
別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』(こじき)では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。
『日本書紀』(にほんしょき)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳豊聡耳法大王法主王と表記されている。
聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。
聖徳太子
時代 飛鳥時代
生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)
死没 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)
改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子
別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王
諡号 聖徳太子
墓所 叡福寺北古墳
官位 摂政、皇太子
主君 用明天皇崇峻天皇推古天皇
氏族 皇族、上宮王家
父母 用明天皇、穴穂部間人皇女
兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子、殖栗皇子
茨田皇子、田目皇子、麻呂子皇子
酸香手姫皇女
菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、
膳大郎女
山背大兄王、財王、日置王、白髪部王
長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王
片岡女王、手島女王、春米女王、
久波太女王、波止利女王、馬屋古女王

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族。
用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。

★地図

叡福寺 - 聖徳太子御廟 (大阪府太子町)

☆誕生の地 (奈良県明日香村)

聖徳太子

1998年6月7日

★地図

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