3: バグワン・シュリ・ラジニーシ 1970-1974年 ボンベイ

7: 瞑想キャンプ

 瞑想キャンプは少なくとも年に4 回、 Oshoによる指導で続けられ、アブ山のような彼のお気に入りの場所のいくつかは今でははるかに近づきやすくなり、ボンベイからも行けるようになった。
 キャンプのプログラムはまもなく瞑想中にドラム音楽が含まれるようになり、インドの古典音楽が優れたインドの音楽家によって演奏されるのを聞くことができた。もちろんこれらのキャンプの特徴となるサンスクリットの聖歌をタルーが詠唱したことは言うまでもない。ウパニシャッドの時代を超越した聖歌を歌う彼女の魅惑的な声は数年後にプーナUのブッダ・ホールで聞くことができ、出席した人々にとって忘れられないものだった。さらにOshoはこれらのキャンプの間、より長い講話シリーズの機会を与え、キャンプとウッドランズの家で講話を交互に繰り返した。
 アゲハ・バルティはOsho が行った次の瞑想キャンプに参加したことを思い出している。

「(a) 1968 年、3 日間のナルゴール瞑想キャンプ。
 (b) ジャバルプール農業大学、1968 年3日間。
 (c) ジュナガール瞑想キャンプ: 1969年12月9日〜12日。
 (d) アアジョル瞑想キャンプ: 1970年8月の3日間。
 (e) アブ山第1回キャンプ: 1971年4月の9日間。
 (f) アブ山第2回キャンプ: 1971 年9月25日〜10月2日。
 (g) アブ山第3回キャンプ:1972年4月2日〜10日。
 (h) アブ山第4回キャンプ:1972年10月13日〜21日。
 (i) 「アナンド・シーラ」キャンプ: 1973 年2月9日〜17日。
 (j) アブ山第5回キャンプ: 1973 年4月6日〜4月14日
  [1973年7月のアブ山第6回キャンプはアゲハ・バルティによって言及されていない]
 (k) アブ山第7回キャンプ:1973年10月5日〜13日
 (l) シュリ・ラジニーシ・アシュラム・プーナ。私は15から18のキャンプに参加したが、どんな記録もなく、それを覚えていない。」 (バルティ2007、p. 278)

「Osho は毎年いくつかの瞑想キャンプを指導し続けていて、その多くはラジャスタン州のアブ山のリゾート地で開催された。Oshoは音楽とシャクティ・パットの実験を使って新しい瞑想法を紹介した。講話には、ウパニシャッド、ブラヴァツキー夫人によるサマーディに関する七つの段階への扉、メイベル・コリンズによる道の光Light on the Path、そしてキャンプや瞑想のための指示が含まれている。1972年1月、Oshoは初めて英語とヒンディー語で瞑想キャンプを指導した。1973年7月以降、キャンプはすべて英語とヒンディー語で交互に行われた。Oshoは1981年までこのやり方を続け、その後彼の講話は英語で行われた。」


 「私がヒンディー語で話している時、多くの人はヒンディー語を理解していないが、彼らもこの機会を利用することができる。
 ヒンディー語がわからない人は目を閉じて音だけ聞きなさい。彼らは瞑想しているかのように静かに座らなければならない。そして言葉を通しては理解できない真実が音を聞くだけで理解できるということは多い。私が英語で話している時、英語が解らない友人は、これは自分にとって無用だと思ってはいけない。
 彼らは言葉を理解しようとせずに目を閉じて私の言葉の音に瞑想するべきだ。知らない言語を理解しようとする必要はない。静かに座り、無知な人のようになって、音の影響に瞑想しなさい。ただ耳を傾けなさい。その聴くことが瞑想になり、それは有益になる。
 本当の問題は理解ではなく、沈黙することだ。聴くことが要点ではなく沈黙することが要点だ。理解したことが障壁になることはよくある。そしてあなたがまったく理解できないことを聴くのは良い。その時、思考は干渉できなくなる。何かが理解されていない時、思考が動く方法はない。それは単に止まる。
 従って、時折、木々の間を通り抜ける風、鳥のさえずり、流れる水の音を聞くことは、見者や賢者に耳を傾けるよりもずっといい。本物のウパニシャッドがそこを流れているが、あなたにはそれが理解できないだろう。そしてあなたがそうして、ただ聴くことができるなら、あなたの知力は必要ないので、すぐに静かになるだろう。そしてあなたの知力が静まる時、あなたは自分が探究している場所に移される。」                        
               Finger Pointing to the Moon #2



 「この頃までに何人かの西洋人がOshoと共に滞在するようになった。瞑想キャンプは海外からの訪問者にとって大きな魅力だった。これを念頭に置いて、Oshoは山で3か月に1度、10日間のキャンプを行い始めた。ほとんどがラジャスタン州のアブ山で開催された。アブ山はカシミールほど遠くなく、頂上もそれほど高くなく、麓から車でわずか2時間の絶妙な所にある。海外からの訪問者やサニヤシンがますます増えるにつれて、Oshoは英語で瞑想キャンプを開催し始めた。しばしば彼はヒンドゥー教徒の聖典であるウパニシャッドについて語った・・・
 また、マスターは彼らにエネルギーを伝えた。この伝達プロセスはシャクティ・パットと呼ばれる。言葉では伝えられないもので、Oshoはそれは一つの体験であるためにめったに話すことはなかった。彼は自分のサニヤシンたちに一つであることの風味を与えた。これはコミュニング/コミュニオンcommuning/communionとして知られるようになった。」 (ラクシュミ 2002年)


 「友人が尋ねている。『シャクティ・パットまたはエネルギー伝達とは何ですか?そしてある人が神聖なエネルギーを伝えるということは可能でしょうか? 』誰もシャクティ・パットをすることはできず、エネルギーを変容させることはできない。だが誰かがそのような伝達の媒体になることはできる。誰にもできないというのは本当だ。もし誰かが自分にはそれができると主張するなら、彼はまったくの欺瞞に耽っている。誰もそれをすることはできないが、ある瞬間にエネルギーの伝達は誰かを通して起こることができる。その誰かが完全に空っぽでいて明け渡しているなら、シャクティ・パットはその人の存在の中で起こりえる。彼は伝導体として、触媒として作用することはできるが、故意にそうすることはできない。彼を通して神の無限のエネルギーが他の人に入ることができる。」  奇跡の探究 第1巻 第6章


 「1973年2月から、毎月初日にOshoのシャクティ・パット・セッションがムンバイのチャウパティにあるビルラ・クリダ・ケンドラで午前7時30分に開催され、約700から800人の友人が参加していた・・・。Oshoは公共の場で大規模なシャクティ・パット実験を行いたいという願望を表明しました。そのために、彼は私たちに大規模な準備を求めた。Oshoの指示により、ギーターの第12章の講話のための準備が、ドービ・タラオ近くの小さなクロス・マイダンの代わりにチャーチゲート近くの大きなクロス・マイダンで大規模に行われた。ムンバイの各所に垂れ幕やポスターが貼られていた。新聞では広告が非常に念入りに掲載された。
 美しい準備がマイダンで7万人から8万人の人々のために行われた。巨大なステージが美しく飾られた。Oshoは夕方6時ちょうどによくステージに立っていた・・・。Oshoは1973年3月21日に決定したように大規模なシャクティ・パット実験を行おうとしていた。3月20日のギーターの講話の間、彼は人々を招待し、彼らに特定の準備をして来るよう求めた・・・。[3月21日]の初めに、Oshoはシャクティ・パットの実験について説明し、いくつかの指示を与えた。そして彼が実験を開始して音楽が始まると、人々は立ち上がり、飛び跳ね、水に漏れたりして踊り始めた。さらに、Oshoが椅子から立ち上がり、両手を空に向けると、クロス・マイダン全体に神聖な力が満ちているように感じられた。人々は、踊ったり、飛び跳ねたり、笑ったり、泣いたり、叫んだりして、抑圧された感情を表現していた。1時間の実験は、20分ずつの3段階で完了した。」 (Laheru 2012年, p. 68)

 オーブリー・メネンは著書『The New Mystics and the True Indian Tradition』(1974) の中で、おそらく1972 年頃にボンベイのクロス・マイダンで行われたバグワンの「集団瞑想」セッションの 1 つを鮮明に思い出している。筆者自身はイベントに積極的に参加することはなく、傍観者であり続けた。グラハム・ホールによる写真のいくつかは、マリン・ドライブに沿ったボンベイの西海岸の様子を描いているが、クロス・マイダンの別の様子もOshoによって言及されている (3.8 西洋人と英語の出版物を参照)。


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 『Flight of the Alone to the Alone』(1970年)で、アチャリヤ・ラジニーシは1970年7月29日のバローダでの瞑想キャンプ中、フランス人女性探究者Dr.C.ギュイネバートからの質問、瞑想、ヨガとヨギ、アドヴァイタと睡眠に関する質問に答えている。彼は瞑想のための実践的な準備で締めくくっている。7ページで彼は瞑想キャンプで実践した瞑想テクニックのさまざまな段階を明らかにしている。この小冊子の表紙にはクランティの『Lead Kindly Light』(1972) や他の初期の小冊子の表紙も作ったNath Vairalによる多色の芸術的で人目を引くレイアウトがある。

      

 このセッションの直後、ラジニーシは8月20日から24日までルディアナで開催された瞑想キャンプを再び指導していた。ルディアナがキャンプ地として選ばれたのは、1969年8月と1970年3月のキャンプに続いて3度目だった。このキャンプはカプリ・バーイとクスムによって組織され、ラジニーシはディアナのKrishi Vishwavidyalaya, Shaskiya Mahila Vidyapeeth, Khalsa College、ロータリーとライオンズ・クラブから招待を受けた。ラジニーシがKrishi Vishwavidyalayaの教師や生徒、および何人かの著名な市民に話しかけ、聴衆からの質問に答えた午後、いくつかの広報活動が行われた。この行事は翌日から始まるキャンプの参加者数を増やすのに役立った。
 最初の朝、雨が激しく降っている間に約250人の瞑想者たちがダイナミック瞑想を行った。ラジニーシが朝の話を始めた時、雨は止み、夕方にも約2万人が彼の話を聞きに来たと言われているダレシグラウンドで続けた。 (Bhed 2006, p. 308)

 ルディアナに到着する前、Oshoはアムリトサルから来た何人かのヒンドゥー教の過激派が通りで黒い旗とスローガンを掲げて彼に反対する準備をしていると聞かされた。いずれにせよ、最初の夜の講話は何の妨害もなく進行したが、8月23日の彼の最後の講演では、彼が講話している間、何人かの人々が立ち上がって彼に向かって叫んだ。Oshoはキャンプを組織立てたカピルの妻であるクスムによってヒンドゥー教の群衆から保護され、支持者が「ラジニーシ、キ、ジャイ」と叫んでいる間、駅でさらに多くの抗議者を通り過ぎるデリー行きの夕方の列車に乗るために出発した。ルディアナでのこれらの講話により、Oshoはアムリトサルとチャンディガールで予定されていたそれ以降の講話を取り消すことになり、それはインドでの彼の公的な講話の最終的な終了の前兆となった。講話はカセットNaye Samaj ki Khojに録音されている。これ以降は、瞑想キャンプを除けば、彼は1回か2 回プーナへ話をしに行っただけで、それからの瞑想キャンプは次の数年間、主に彼のお気に入りのアブ山で行われたが、そこだけには限らなかった。ルディアナの行事は通常のキャンプではなく、Oshoがマイクを使って行う公開講話と瞑想という新しい創案であり、ダイナミック瞑想、クンダリーニ、そしてその他の瞑想のための音楽がチャイタニヤ・ハリによって作曲された。アゲハ・バルティは次のように回想している。「私が見たところによれば、サニヤスを与えるという最初の考えはルディアナでの1970年8月23日、夜の話しの中でOshoに起こった。私の著書「Osho Gatha」の「彼は危険に曝されたHe was crowned with danger」というタイトルの章をどうか参照してください。その夜、それはその旅の間に行われたOshoの最後の話しだった。彼は質問に答えていた。彼が45分間話しているとすぐに、何人かの頭の悪い人が叫び声を上げ始めた。しばらく平和が戻ったが、Oshoが話し始めるとすぐに不良たちが再び叫び始め、ステージに向かって進んだ。彼らの何人かはステージにも上がった。他の誰かがテントを破壊して騒ぎを起こした。他の者はワイヤーを外し、その結果マイクが機能しなくなった。会議は大いに混乱した。最終的に、Oshoは何人かの友人から11 時の電車で出発しなければならないと言われたので、彼は話の途中で止めて、主催者の家に連れて行かれた。私は雑誌『Ukrand』を持って20〜25分後に家に着いた。私はOshoの近くに席を取った。
 カピル、クスムなどを含む数十人の友人たちがそこに座っていた。私は「今日の講話中に起こったすべてのことについて、深い悲しみを感じています」と言った。

 これに対してOshoは次のように答えた。「あなたが今しなければならないことは、予定されているプログラムの2、3日前に数人の友人と私の講話の場所に到着し、そして毎朝、グループ全体がその場所を巡回し、早朝に道で祈りの歌を歌うことだ。これで、街の空気はある程度浄化されるし、2、3日後に私が話しに来ると、そのような抗議は無くなるだろうと思う。対抗してはいけない。」
 「この醜い事件の後、私たちが駅に到着した時、群集全体は黒い旗を手に待っていた。そして彼らはムルダバードの醜いスローガンを叫んでいた。愛する人たちでさえ好意的なスローガンを叫ぶことでこれに反論した。まさに同じ日に、Oshoはシュリ・ハリッシュ・チャンドラ(現在のスワミ・チャイタニア・バルティ)に、サフラン色の服を着てアジョル瞑想キャンプに来るように言った。このキャンプは2、3日後に始まる予定だった。これはシュリ・ハリッシュ・チャンドラ自身によって語られた。
 ハリッシュ・チャンドラは2枚のサフラン・クルタと2枚のルンギーを作り、これらを持っていった。私もデリーからアヘマダバード経由でアジョル・キャンプに参加した。しかし以前ルディアナでは彼の頭に浮かんだにもかかわらず、このアジョル・キャンプでOshoはサニヤスを与え始めなかった。このサニヤスを与えることは9月から10月にかけてマナリで始まった。」 (バルティ 2012年, p. 228)
 「この回想録は1970年8月のルディアナの訪問に言及している。それはキャンプではなかったが、Oshoは朝には屋外でダイナミック瞑想を行い、夕方には別のはるかに大きな屋外で講話を行っていた。」 (Bharti 2007, p. 188)。

       
     
13. First group of sannyasins at Manali Meditation Camp Sept. 1970                 14. Osho with Vivek


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 マテランのリーガルホテルは、1972年1月8日から1週間続く新しい瞑想キャンプの場所であり、そこでOshoはサルヴァサール・ウパニシャッドについて解説していた。これらの17の講話は後に英語で出版され、「アートマンはブラフマンであり、自己は万物と一体である」という意味のThat Art Thou (1987) に含まれている。That Art Thouには、1972年1月、3月、10月にアブ山の瞑想キャンプとマテランで、バグワン・シュリ・ラジニーシがサルヴァサール・ウパニシャッド、カイヴァリヤ・ウパニシャッド、アドヤートマ・ウパニシャッドについて行った51の講話が収められている。これらの講話はヒンディー語と英語であり、Osho が英語で話した最初の瞑想キャンプでのもので、本にはこれらのキャンプからの白黒の写真が数枚掲載されている。これらの初期の講話は、ここでヒンディー語から編集および翻訳され、序文で言及されている翻訳者のメモから、これらの講話の翻訳過程がかなり困難なものであったことがわかる。
 その概要は次の通りである。
-「手書き原稿と仮訳のカーボンの混合はこちら。
- 最初の数章の 2 つの異なる翻訳で。
- 残りの 1 つの翻訳 (組み合わせ可能)。
 アムリット・サダナは序文で、「この本に掲載されているサンスクリット語のテキストを手伝ってほしいと頼まれたとき、私は旅に誘われているとは思ってもいなかった」と書いている。おそらくそれは、(プーナの)老子の庭の静謐で得体の知れない雰囲気と、バグワンの存在感、堂々とした瞑想的な木々、歩道をよちよち歩く人懐こいアヒルたちが、時を超えたウパニシャッドの時を生き生きとしたものにしたのだろう。
 私がオーディオカセットを一つ一つ聴き始めた時、ウパニシャッドの時代を超越した唱歌を歌うマ・ヨーガ・タルの生の魅惑的な声が時間軸を逆転させ、バグワンがこれらの瞑想キャンプを実際に指揮した70年代初頭に再び私は連れて行かれた。
 これらのキャンプは恋愛関係だった!集まったすべての人々はバグワンの恋人で最愛の人であり、成長やスピリチュアリティをあまり気にしていなかった。60年代、バグワンはインド中を広範囲に旅し、彼を招待した人たちと常に一緒にいた。彼は彼らとおしゃべりをしたり、彼らの悩みに耳を傾けたり、愛を渇望している彼らの心に愛を降り注いだ。そのファミリーの誰もが、アルチャリャ-ジ(当時はこう呼ばれていた)は彼らの一人であり、彼らの非常に古いものであると感じただろう。だからキャンプに参加したすべての人にとって、それは彼らの最愛の人が神になったということになる!キャンプは非常に非公式で友好的な方法で行われた。
 バグワンは、古代インドの知恵の最も貴重な宝であるウパニシャッドを一つ選んで話すことを選択した。最初はヒンディー語で、後には瞑想キャンプに参加し始めたばかりの西洋人のために英語で話していた。   That Art Thou, p. 7

 このキャンプで、14 日の朝、Oshoの前でチンマヤから、オレンジや白の服を着る勇気のない友人たちは、自分の好きな服を着て、マラが見えるようにするだけでいいと発表された。これらの人々はサダクとサディカと呼ばれる。100人以上がOshoからサニヤスを受け取り、そこには現在はサダク・アナンド・サーガルという名前が付けられているラヘルが含まれている。
 人々をサニヤスにイニシエートするこの方法は1日だけであり、その翌日、Oshoはこれらのイニシエーションを止めた。 (Laheru 2012年, p. 79) 西洋人の数は今や十数人に達し、キャンプに参加したマ・プレム・ヴィーナからのこの引用に見られるように、バグワンはこのキャンプでヒンディー語で1時間、英語で45分話すことになっていた。


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 バグワンはキャンプ場までの10キロを移動するために起伏の多い荒れた道を車で走ってカルヤンのゲストハウスに泊まらなければならなかった。毎日4回往復すると40分かかった。
 彼は朝と夜の講話をヒンディー語と英語で話し、そこでの主題はブラヴァツキー夫人の著書「サマーディの7つの段階The Seven Steps of Samadhi」(The New Alchemy : To Turn You On - Sadhana Sutra)だった。そのキャンプでOshoはクリシュナのような「すべてを後に残して来なさい。延期してはいけない。時間を無駄にしてはいけない。」を繰り返して引き合いに出した。(バルティ 2007年、p. 236)
 約550人の瞑想者が雑誌YukrantとJyotishikhaのイベントに関する記事を読んで情報を得てアナンド・シーラのキャンプに参加した。参加者の中には、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど、いくつかの大陸を網羅する海外の国々から約80人の求職者が来ていた。バグワンの母親と父親もこのキャンプに参加していた。父はサドゥ・プレム・シンとマ・アムリット・サダナが演奏する祈りの歌に合わせて激しく踊ったと言われている。プーナのシュリ・プルショタム・グジュラティは瞑想者たちを喜ばせるためにヴィーナを最も魅惑的な方法で演奏していた。


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 そしてクリシュナ・プレムは次のように覚えている。「私は1973年のバレンタインデーにインドの荒地での瞑想キャンプで初めてOshoに会った。夜、私は彼が滞在していた部屋のすぐ外の地面で寝ていて、思い出すと、私と一緒にいた蚊は私の意識よりも大きかった。私はベトナム軍との5年間の戦いの後、インドに到着したばかりだった。朝、Oshoはシンプルな白いローブを着て、私のすぐ前の椅子に座っていた。私が最初に考えたのは、どうすれば人間はこれほどの強さと軽さを同時に持つことができるものだろう?ということだった。私は自分自身についてはあまり気分が良くなかったのに、すぐに彼と恋に落ちたことを覚えている。私の暗い面が、私の内なる秘密が私を殺していた。突然、Oshoは私を見て、「革命はあなた自身の中にある」と言った。 (クリシュナ 2011年, p. 119)
 アナンド・シーラのキャンプの後、スワミ・アナンド・マイトレーヤはさらに10人のサニヤシンを連れてアナンド・シーラに滞在したが、すぐにすべての建設作業が法的規制のために中断され、永続的なコミューンに適した場所の検索が別の場所で続けられなければならなかった。
 「Oshoがボンベイに住んでいた時、4つの実験的なコミューンがありながら、一方で何千人もの人々が瞑想して一緒に暮らすことができる物件を探し続けていた。海外では、いくつかの新しい瞑想センターが設置されており、そのうちのいくつかは居住型アシュラムだ・・・
 1971年10月、ヴィシュワニード・ネオ・サニヤス・コミューンがマ・アナンド・マドゥによってグジャラート州アジョルに設立された。21日間の沈黙と隔離の実験のための施設が提供されている・・・。
 1972年、ニューヨークのサマルパン・ラジニーシ・サダーナ・アシュラムは海外で最初の居住型アシュラムだ・・・。
 1972年に2つの農業コミューンが設立されまた。Oshoの前世の母親であるマ・アナンドマーイから寄贈されたチャンダの「カイラシュ」では30人の西洋サニヤシンのグループが6か月の居住型プログラムに参加していて、グジャラート州バローダの「サマルパン」は西洋とインドのサニヤシンのグループのためにスワミ・スワルパナンド(シーラの父親)によって寄贈された。グルディエフによって開発されたいくつかの実験が使われている。
 1972年、ボンベイ近くのアンバーナスにある島が寄贈され、「アナンダ・シーラ」として発足し、1973年2月に瞑想キャンプが開かれた。しかしこの土地は蚊がはびこり、水は塩分が多く、不向きであることがわかった。


 「アシュラムは東洋の概念であり、英語でそれを表現する言葉はない・・・。修道院は訓練学校だ。アシュラムは学校ではない。アシュラムは家族だ。そしてアシュラムは機関として存在するのではなく、機関として存在することはできない。アシュラムは光明を得た人の周りに存在する。それが基本的な必須だ。光明を得た人がそこにいなければアシュラムは消える。その人の周りにアシュラムは存在できる。光明を得た人が死ぬ時、アシュラムは消えなければならない。もしあなたがアシュラムを続けるなら、それは修道院になる」
                                 Vedanta: The 7 Steps to Samadhi #8



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 アブ山キャンプ

 インドのジャイナ教徒にとって古くて神聖な場所であるアブ山は、バグワンが瞑想キャンプを行うのに最も好んだ場所の 1 つになった。ボンベイの彼の住居から電車とバスで数時間の距離にある便利な場所にあり、アーメダバードやグジャラートの他の場所にいるバグワンの信奉者たちが簡単に到着できる場所にあった。1970年代当時、アブ山の行楽地は地上の楽園のように見え、美しいジャングルがあり、厚い霧の中に野生動物が生息していた。ビカネール・パレス・ホテルの支配人は、かつてホテルの玄関先で虎が撃たれたと語っている。
 ナッキ湖と町自体の周りには伝説的な奇岩がかつての時代にさかのぼっている。アブ山は聖なる経典で言及されており、シヴァがその場所で祈っていることを示しており、7 人の偉大な聖者(リシ)たちがここで長い間崇拝されてきて、そのすべてが聖なる山にアシュラムを建てている。町自体からわずか5キロ離れたディルワラに重要なジャイナ教寺院群があるその美しい景色と超自然的な力のために、そこはラジニーシによって選ばれた瞑想の場所になった。川がヒンドゥー教徒によって大切にされているのに対して、ジャイナ教徒の巡礼地の選択からもわかるように、山はジャイナ教徒にとって好まれる場所になっている。グジャタットの西にある彼らの聖なる山シャトルンジャヤ (勝利の場所)、マイソール近くのインドラギリの丘があるシュラヴァナベルゴラ、アジアで最も長い4つの川の源流であるヒマラヤのカイラス山は言うまでもなく、そこではジャイナ教の信者たちが他の信者と一緒に聖なる山の周りの53 kmの小道を歩くという宗教的な訓練を行っている。

 1.
 1971年4月のアブ山での最初の瞑想キャンプは、現在は別の場所に移転した元ゴルフコースであるスカウト・グラウンドで開催された。堅固な岩自体の上に隆起した高台とその青々として陰の多いマンゴーの木があり、それは非常に美しい理想的田園風景だった。この場所は当時のままの状態で非常によく保存されており、今でもボーイスカウトのキャンプに使用されており、その後、施設の改善のためにコンクリートでいくつかの建物が追加された。アブ山のスカウト場で瞑想キャンプは1971年の4月と9月、1972年の4月と10月、1973年の4月と7月と10月に開催された。最初のキャンプでは、彼はまだアチャリヤ・ラジニーシと呼ばれたと言われている。2番目のキャンプで彼は自分自身をラジャ・ラジニーシと名付け、1972年4月の3番目のキャンプから、最終的にバグワン・シュリ・ラジニーシになった。
 アブ山での最初の瞑想キャンプは1971年4月4日から10 日にかけて開催され、サフラン色と白い服を着た4、500人の参加者が踊り歌いながら町を通り抜け、地元住民はまったくの驚きをもって見守っていた。今後数年間、これらのお祝いを何度も目撃することになっていた。
 月明かりに照らされた夜、キャンプはバグワンによって始められ、翌朝、彼は
イシャワシャ(イーシャ)・ウパニッシャッドIshawashya Upanishedに関する13の話のシリーズ(Heartbeat of the Absolute)を始めた。次の夜、バグワンの講話の前に映画俳優のマン・モハン・クリシュナが感動的な祈りの歌を歌った。10人以上の外国人が参加し、ラジニーシの流麗なヒンディー語の話しぶりを吸収していた。特にキャンプでは新しいタイプのトラタック瞑想が導入された。この瞑想では、参加者は大きく開いた目を通してバグワンを吸い込む前に、すべての感情を外に投げ出すことで自分自身を空っぽにしていた。キャンプはナッキ湖でのボート遊びの夜を含んで1 週間続き、最終日には51人がサニヤスを受け取り、その日にイニシエーションを受けた総数は215人になった。1971年1月にイニシエーションを受けたアゲハ・バルティはこの最初のアブ山キャンプに参加し、次のように思い出している。
 「Oshoは私にとって深い神秘になった。彼の講話は私たちをますます深いところへ連れて行き、毎日新たな神秘を明らかにした。毎日、約10人から15人が彼の講話中にすすり泣きをしたが、4月8日の夜の話は最も素晴らしくて、ほとんどの人が感情のコントロールを失って大声で泣いた・・・
 それからある晩、「トラタック」瞑想中に、Oshoは立ち上がって私たちのエネルギーを瞑想に注ぎ込もうと手で身振りをした。その瞬間、Oshoは慈悲の海そのもののように思えた。私の心の奥底で、死にかけているように感じた。そのエクスタシーは耐え難いものだった。」(バルティ 2007年、p. 210)

  
 
15. Meditation session at the Bombay seashore along Marine Drive. Copyright: Graham Hal


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 アブ山での最初の瞑想キャンプが中止されたのは、参加者がダンス瞑想のために裸になるよう奨励されたキャンプ中の行き過ぎに対する世間の反応のためだと言われている。地方治安判事も参加しており、彼もその最初のキャンプで裸で踊っていた。アブ山の地元の人々は物質主義者でスピリチュアル的なものにはあまり関心がないことで知られており、ほんの数人の人が好奇心からキャンプ場に足を運ぶくらいだった。キャンプにいるほぼ全ての人々が外部から来ており、そのほとんどがボンベイとアーメダバードから来ていた。厳重な警備員が、参加者が敷地内に入るために必要な通行証をチェックする門にいた。ラジニーシが講話の後、車に向かって道を歩いていた時、人々は集まってラジニーシを取り囲み、彼の服は熱心な参加者によって剥ぎ取られ、彼の布の一部は後に彼の信奉者たちによって非常に大切に保存されたと言われている。

 2.
 1971年9月25日から始まる1週間の第2回目の瞑想キャンプの舞台として自然環境を維持しているアブ山が再び選ばれた。この時期は気候が涼しかったので、ほとんどの参加者は近くのホテルに滞在していたが、それでも何人かの冒険好きな瞑想者は野原に張られた自分のテントで寝ていた。このキャンプの間、165人がサニヤスを受け取り、その中には1人の警部と2人の裁判官が含まれ、そのうちの1人はジャイプールの判事であるシュリ・バンサリだった。また、後にプーナ2でOshoの秘書となるマ・ニーラムもこのキャンプでサニヤスを受けた。That Art Thou(1987年)に掲載された15の講話でニルヴァーナ・ウパニシャッドがこのキャンプの講話シリーズとして選ばれ、(訳注: ニルヴァーナ・ウパニシャッドについて語った15章の講話はThat Art Thou ではなくてBehind a Thousand Names )また、最初のアブ山のキャンプでプラブ・チキッサPrabhu Chikitsa(神の癒し)がスワミ・ヨギ・チンマヤとスワミ・クリシュナ・サラスワティに紹介されて実践されたのもここだった。Oshoはニルヴァーナ・ウパニシャッドについての解説を、私たちが以前に彼から聞いた言葉とまったく同じように自戒を込めて、賢者の言葉を聞くだけで動かなくなってはいけない、と締めくくっている。


 「私たちはウパニシャッドを再検討して、賢者が私たちと親密な関係にある人たち以外に彼の言葉を繰り返すべきではないと警告した特定の発言に注目した。言葉は誤解しない人にだけ伝えるべきだ。学ぶ準備ができていて自分独自の意味を追加しない人に伝えなさい。彼は言われたことだけを理解すべきだ。あなたの足元にひれ伏すことができる人、答えだけでなく行動から生まれる信念を求める人、スピリチュアルな知識の最高の段階に達したい人にこれらの言葉を伝えなさい。
 賢者はこの最後のアドバイスをする。それは、このウパニシャッドを繰り返す前に、まずその人に責任があることを確認しなさい、ということだ。
 そしてこれでニルヴァーナ・ウパニシャドは終わる。ウパニシャッドはここで終わるが、これを通してニルヴァーナに到達することはない。このウパニシャッドが終わるところから、ニルヴァーナへの旅が始まる。
 私は議論よりも瞑想に強い関心がある。これらの議論は単に知的な方法であなたを後押しし、あなたを満足させるためのもの、あなたのやっていることはすべて非常に知的で合理的だという感覚をあなたに与えるためのものにすぎない。あなたが何か他のものに説き伏せられえるように。その他の何かは合理的ではない。それは不合理だ・・・。私たちの瞑想は非合理的な存在への飛び込みだ。そして存在は不合理だ。それは神秘的で、謎だ。だから私があなたに言ったことに固執してはいけない。むしろ、何であれ私があなたを説き伏せたことにしがみつきなさい。そうすれば、いつかあなたは私の言ったことに意味があることに気づくだろう。しかし、あなたが私の言ったことに固執し続けるなら、それはあなたに知識を与え、あなたをより博識にさせるかもしれないが、あなたは知ることを達成しない。そして私の言うことは何でも邪魔になるかもしれない。」
                                         That Art Thou #17; (Urmila 2006, p. 160)

  (訳注:この引用元That Art Thou #17は間違い。正しくはBehind a Thousand Names #15 P361)



 第2キャンプの間、ラジニーシは再びアブ山のラジャスタン・サーキット・ハウスに滞在し、29日にクランティ、クスム、カピール、アゲハ・バルティと一緒に芝生に座っていた。Oshoはボンベイでの新しい場所で彼の健康が公害に苦められているかどうか、そして彼にプラブ・チキツァ (神の癒し) を試すことができるかどうかを尋ねられた。彼は自分の健康状態を注意深く観察していて、数か月後に様子を見ると答えたが、彼に起こっていることを、たとえ病気であっても受け入れるため、自分の状態を改善する手段としてのプラブ・チキツァを笑いながら除外した。それでも数年後にはプーナのより健康的な雰囲気に向けて出発する機が熟していることがわかった。


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 「ジョークは何年もの間、Oshoの講話の大きな部分を占めていたが、時が経つにつれてますます重要になってきた。これらは弟子たちが書いたもので、彼は講話の最後にそれらを読み上げた。 彼は通常、これらのジョークを無表情で伝えた。実際、彼のユーモアにもかかわらず、彼はめったに笑うことはなく、一般的に面白がって半分笑顔になり、明らかに弟子たちが笑うのを見ることにより喜びを感じていた。時が経つにつれて、ジョークはますます荒唐無稽なものになった。それらはある意味で教えの仕掛けだった。」(Mistelberger 2010, p. 182)
 「人々が異なる行動をとるのは異なって条件付けられているからだ。私は純粋にインドのジョークを探していたが、見つけることができなかった。すべてのジョークは輸入されている。輸入されたジョークに課税がないのは良いことだ。さもなければインドでジョークはまったくありえない。
 インド人は物事や神、究極のことについてあまりにも深刻だ。ゴータマ・ブッダが笑ったり、シャンカラチャリヤが笑ったり、マハーヴィーラが笑ったりすることなど想像もできない。それは不可能だ。私は常にそれについて疑問に思っていた・・・」  The Rebellious Spirit #10



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 バグワンは常にキャンプが満月の夜に終わるように計画していた。その最後の夜、私たちの何人かはタクシーに乗る代わりに、下にあるマウント・アブ駅まで山側(約12キロ)を歩くことにした。わずかな霧が月を霞ませ、私たちは水面下の山腹を浮かんでいるように感じた。足が地面に触れた記憶はない。」 (Veena 2012年, p. 26)
 バグワンはこのキャンプで、That Art Thou (1987)に載せられたアディヤートマ・ウパニシャッドに関する17の講話を話し、彼が伝えたい自身のメッセージに飛び込むための飛び板としてどんな経典でも使用する彼の微妙な方法を聴衆に明らかにした。彼は聴衆に次のように語った。
 「私はあなたと直接話すことができた。このウパニシャッドは手段にすぎない。その覆いの下で私が望むことを説明するのは何でも簡単だ。ウパニシャッドはウパニシャッド時代の環境を生み出すためだけに語られている。ウパニシャッドの言葉は花を讃える歌だが、それは花の感情ではない。ある人が試みるなら、彼は花の一瞥を得ることしかできない。その光景に立ち止まってはいけない。あなたは自分がバグワンになるまで旅を続けなければならない。」(Bhed 2006年, p. 349)
 サニヤスを受け取った215 人の瞑想者たちの中には、ガダルワラ・カカジ(シュリ・シカルチャンド)出身のOshoの最愛の叔父もいた。非常に感動的なイニシエーションで、Oshoの妹であるマ・ヨガ・バクティが最初にマスターに花飾りをつけ、マスター自身は後で叔父の足元に頭を下げた。そして再びマ・ヨガ・タルーは時代を超えた敬虔な唱歌を歌う彼女の魅惑的な声で聴く者たちを魅了し続けた。数年後、彼がワールド・ツアーに続いて1986 年にボンベイに戻った時、Oshoは再びウパニシャッドに関する一連の講話に着手し、これらの聖句を出発点として、彼がオレゴン滞在中に挑戦した既得権益と、その後のワールド・ツアーで彼が21カ国への入国を拒否された時について説明した。そのほとんどはすべて公式に貴重な言論の自由を高く評価していたイギリス(ヒースロー)やスウェーデン(アーランダ)の頑固な西側民主主義国が含まれている。(追記参照)


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 多くの政府関係者はキャンプ中に何が起こっているかを注意深く見守っており、彼らは今まで以前のキャンプで行われた瞑想中に裸になる習慣を禁止していた。


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 この問題をバグワンは彼の午後の講話でメイベル・コリンズ著のLight on the Path (Sadhana Sutra) を彼の話の出発点として取り上げることで解決させた。それはThe New Alchemy : To Turn You On. Talks on Mabel Collins’ Light on the Path (Samadhi Ke Sapt Dwar)として1978年に出版され、彼女の著書Light on the Path は Books I Have Loved (1985) に含まれている。The New Alchemyの第18章から第34章は1973年2月にボンベイ郊外の Anand Shila Meditation Camp で記録されたカタルシス瞑想法に関するものである。それらは、A Period of Silence. A History of the Anand Shila Meditation Camp in Bombay(1973 年 2 月)というタイトルの付録にある。キャンプの発足の序文で、Osho は次のように述べている。


 「私はあなたをここに呼び寄せて、あなたは私の呼びかけを聞き、そしてあなたは来た。だがこの来ることは、この外側での来ることは十分ではない。今、私は再びあなたを違う旅へ、内なる旅へと呼び寄せる。そしてあなたが協力するなら、内側に向かう準備ができていれば、それは助けになる。覚えておくべき最も重要なことは、内なる旅には深い勇気が必要だということだ。それは未知への冒険であり、海には地図がない。飛び込むには勇気が必要だ。
 この勇気とは何だろう?勇気とはあなたの過去を捨ててジャンプすることだ。勇気がなければあなたは自分の過去を継続し続ける。何度も何度も過去を繰り返す。あなたは輪の中を、円の中を動く。 あなたの生全体は単なる繰り返しになる。勇気とは、この悪循環から抜け出す勇気を、連続体を壊す勇気を、つまり過去と断絶し、新しくなり、生まれ変わる勇気を意味する。この瞑想キャンプは生まれ変わるための出来事になるだろう。」                    Light on the Path (1978)、p。 xii



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 6.
 1973年7月、アブ山での第6回瞑想キャンプには800人が参加したが、そのうちのほぼ半数が外国人だった。西洋のサニヤシンたちはこのアブ山のキャンプ中に多くのイニシエーションを受け、それはすべての瞑想キャンプの中で西洋人のイニシエーションの数が最大に達したキャンプだった。このキャンプでの17回の講話はすべてカトパニシャッドについて英語で行われ、死の秘密と肉体の死を超えた生を扱っており、The Supreme Doctrine (1977年)に掲載された。若いサニヤシンのスワミ・ダヤナンドが言語を知らずに英語だけでOshoを聞いている姿を目撃したことは、この著者がプーナ1でヒンディー語で話すバグワンを初めて聴いた朝と非常によく似ている。
    (訳注: The Supreme Doctrineの講話テーマはカトパニシャッドKathopanishadではなくケノパニシャッドKenopanishad)

 「キャンプでは、Oshoは英語で話した。私は英語がわからなかったが、彼の仕草、話し方、思いやりのある表情、彼の全身の表現、私が目にするすべてのものは、人生で忘れることができない。」 (Bharti 2007年, p. 255)
 Oshoがキャンプにもたらした5人編成のコンガ・ドラム・バンドはまったく新しい特徴を持っていて、それ以来、彼の音楽とダンスへの重点は急速に発展していった。Oshoは音楽の効果について次のように言っている。


 「あなたの心は混沌としている。その混沌は外に出して動きで表現しなければならない。混沌とした音楽は役に立つので、瞑想しながら混沌とした音楽を流すと、あなたの混沌を表出させるのに役立つ。あなたはその中に流れ込み、表現を恐れなくなる。そしてこの混沌とした音楽はあなたの内側の混沌的マインドを打ち、それを表に引き出す。それは助けになる。
 ロックやジャズ、またはある意味で混沌とした他の音楽も何かが出てくるのを助ける。そしてその何かは抑圧された性欲だ。私はあなたのすべての抑圧に関心がある。現代の音楽は抑圧されたセックスだけに関心があり、そこには類似性がある。しかし、私はあなたの抑圧されたセックスだけに関心があるわけではない。私は性的であれ非性的であれあなたのすべての抑圧に関心がある・・・・
 このマインドの状態は神経症だ。社会全体が病んでいる。だからこそ私は混沌とした瞑想を強く主張しているのだ。自分自身を解放して、社会があなたに強制したことや状況があなたに強制したことは何でも動きで表現しなさい。それらを動きで表現し、それらから自分自身を解放し、カタルシスを通過しなさい。音楽が役に立つ。」  The Book of Secrets #28



7.
 1973年10月5日から13日にかけてアブ山で開催された第7回キャンプのために、Oshoはボンベイからグジャラート・マイルでアメダバードに再び到着し、そこから車でマ・ヨガ・クランティらと共にアブ山に向かい、ビカネール・パレス・ホテルのいつもの部屋#2にチェックインした。1,000人以上がこのキャンプに参加し、そのうち約350人がサニヤスを受け、サニヤシンの総数は合計で8,000人になった。
 その中にはOshoの過去の母親であるマダン・クンワル・パリフがいて、彼女のイニシエーションでマ・アナンド・マイエーMa Anand Mayee という名前を授かった。マハラシュトラ州のチャンドラプール(以前のチャンダ)の居住者として、彼女はOshoから逸話付きの多数の手紙を受け取り、そのすべてが Kranti Beej (革命思想の種) に掲載され、彼女の夫はラジニーシに対して最も寛大で、1960年の時、Oshoのワークを容易にするために多くのプレゼントと筆記用具を贈った。
 バグワンの講話のテーマは前回のキャンプでのThe Supreme Doctrine (Kathopanishad)の話の続きであり、キャンプ中の講話は英語とヒンディー語の両方で行われた。
    (訳注: 筆者はThe Supreme Doctrine (Kathopanishad)と書いているが、The Supreme Doctrineの講話のテーマはKenopanishadであり、Kathopanishadをテーマにした講話はThe Message Beyond Wordsである。おそらく筆者はこの二つを混同していると思われる。この時期: 1973年10月5日からの講話はThe Message Beyond Words。The Supreme Doctrineの講話時期は同年の7月8日〜16日)


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 8.
 バグワンが直接行った最後の瞑想キャンプは1974年1月11日から1月19日までアブ山で開催された。9 日間の瞑想キャンプ中に行われた9つの講話はVedanta. Seven Steps to Samadhiとして出版された。アキシャ・ウパニシャッド(1976 年)に関する講話は後のいくつかの版に登場して、そのうちの1つ(2007 年)にはTalks on Indian Mysticismという新しいサブタイトルが付いている。












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