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Osho日記 2017年 8月
ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ

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 ※「マイトレーヤ」の第1部の「弥勒降臨」の章として訳されていた講話。原書は「The Osho Upanishad」の第35章で、それを全文翻訳し直した。
                                

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   バグワン・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ                    1986年9月23日

   質問一
 愛するOsho、
 これは問いでしょうか?実現でしょうか?それとも宣言でしょうか?
 超えたものの何かがこれを紙に記すよう私に強いるのです。私がこれを書いていますが、その言葉は私のものではありません。
 それは真夜中過ぎで、だいたい五時頃、インドの言語でグルヴァー・マスターの日、「バドゥラ(8月〜9月)の木曜日」として知られているインドの暦の満月の夜です。

 私はヴィパッサナ瞑想をしています。私の目が開く時、まばゆい光が部屋を明るくしています。光がまぶしすぎるので、私は目を開けたままにしておくことができません。数分後、私は目を開けることができて完全に気づくようになります。
 2人の姿が私の前に立っています。1人は手を合わせて、その優しくて美しい微笑みを浮かべた愛するバグワンで、もう1人は智慧の印を結ぶゴータマ仏陀です。それは仏陀の第3身体です。
 彼は愛するバグワンを見て、しばらくした後バグワンの足に触れ、微笑んで彼の身体と融合します。

 私は彼の話を聞きます。

 「私は自分の約束を果たした。 私は2500年後にマイトレーヤとして来ることになっていて、それで私は来た。あなたに目があるなら、私を見るだろう。あなたに耳があるなら、私を聴くだろう。あなたにハートがあるなら、私を感じて認めるだろう。私は自分の第3身体を再誕生のために、誰であれ私の助けを求めている人を助けるために、存在の中に保ってきた。
 それ相応の敬意と崇拝をもって、私は自分がクリシュナムルティと融合できたことを述べなければならないが、独自であるという彼の主張が理由で、私は融合することができず、彼を通して個人たちを助けることができなかった。彼が特に私の出現のための準備をした時、私は希望を抱いていた。しかし彼は頑固だった。私を受け入れることへの抵抗のため、彼の身体は多く苦しんだ。彼はこれのための絶え間ない痛みと苦しみをむしろ好み、それを選んだ。
 私の第3身体は現在、その最誕生または融合が受け入れられないなら、存在に留まることができない。私がそのために決めた時間は終わりに近づいているため、私はもう待つことができず、そのため私はバグワンの個性を妨げずに私の第3身体を彼のエネルギーと融合している。
 彼は大海のようだ。多くの大小の川はそれと融合するが、それでも大海は平静なままだ。大海としてのその独自性はどんな変化もなく残る。
彼の中で、過去、現在、未来のすべての光明は生き生きと活動的になった。それは以前には起こったことがなく、再び起こることもない独特な出来事だ。
バグワンは完全な受容、完全な虚空、完全な無であり、際限なき慈悲だ。彼は具現化したプールナ(充満)とシュンニャ(空)の両方だ。
 私の第3身体から、私は彼を『バグワン』と呼ぶが、今からこの先、彼は単なる『バグワン・ラジニーシ』ではない。彼は『バグワン・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』---万人のための真の友であるブッダ---になるだろう。」

 このように言って、仏陀の第3身体は私達の愛する美しいバグワンと融合しました。
 バグワンの輝きは増していって宇宙全体を満たしました。
 私はラマ・カルマパの予言を思い出します。彼はこの出来事を予測していましたが、それが起こるまでその出来事について話さないように私に求めていました。
 今それは起こり、花は降り注ぎました。
 ですから万人に知らせましょう。バグワン・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤがここにいることを、仏陀は彼の約束を果たしたことを世間に向かって叫びましょう。
 光は薄れてゆき、満月はその涼しげで静かな薄れる光と共に西へ沈んでいきました。そして東には新しい太陽が明るいオレンジ色の輝きをもって昇っていました。新しい日を静かにもたらし、それと共に新しい旅が・・・。
 愛する美しいバグワンは優しい微笑みを浮かべ、合掌してゆっくりゆっくりと消えていきました。ハートは感謝に満ちて、目は涙でいっぱいになった私をその優しい朝の光の中に残して。

 愛するOsho、私はあなたに頭を垂れ、バグワン・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤがここにいて、花々が降り注いだことを世界に知らせます。
今日まで、マスターたちは自ら宣言してきましたが、今日では弟子が、マスターでありブッダである真の友人が万人を助けるために新たな輝きをもって来たことを、感謝をもって宣言します。
 愛するOsho、私は提供するものを何も持っていません。花さえありません。それでも私はすべてを提供します。そのように、何かが与えられて、何かが受け取られます。
 ああ、ここに集う愛するサニヤシンたち、帰依者たち、そして友人たちは、この宣言を聞き、この特異な出来事を目撃する祝福された人たちです。
 ああサニヤシンは喜び、祝福し、「ブッダム・シャラナム・ガッチャーミ、サンガム・シャラナム・ガッチャーミ、ダンマム・シャラナム・ガッチャーミ、」と歌います。
 愛するOsho、私はあなたに対してこれを書くことに気が進みませんでしたが、未知の何かがあなたに手紙を書くように私を強いています。私はこれをすることが正しいのかどうかわかりません。
 その出来事について意見をいただけますでしょうか?


 
ゴヴィンド・シッダールタ、それは問いではない。
 それは実現であり、それは宣言だ。
 あなたが経験したことは何であれ夢ではなかった。あなたの生涯は夢であったかもしれないが、この経験は絶対的な現実だ。だからあなたは未知の力がそれを宣言するように強いているのを感じたのだ。あなたはそれを宣言しなければならなかった。真理を隠すことは不可能だ。

 それはあなた1人だけに起ったのではない。同じ経験が同時に起こった人たちがあと2人ここに居る。彼らもそれを宣言すべきかどうかためらっている。そのためらいは当然だ。なぜならその宣言はとても大きく、あなたはとても小さく感じているからだ。あなたはそれを自分の中に保つことができない。それは妊娠した女性のようなものだ。どれだけ長く彼女は自分が妊娠していることを隠すことができるだろう?いつか彼女は子供を産むことになる。
 すべての真理は生きている経験だ。

 そしてまさに生の本性は表現、拡張、宣言だ。おのおのの花はそれを宣言し、毎朝、太陽はそれを宣言し、毎夜、無数の星はそれを宣言する。もちろんそれらの宣言の言語は違う。花はその芳香でそれを宣言し、星はその光でそれを宣言し、月はその美しさでそれを宣言する。
 だが真理、美、善・・・、これらの3つ---サティヤム・シヴァム・スンダラム---は存在の基本的な、根本的な3位1体だ。それらを隠すことはできない。
 人は当惑する。それをどう言うべきだろう?そしてそれを懐疑的な世界で、真理に関する限り人々が耳を塞いでいる世界で、美に関する限り人々が盲目でいる世界で、感覚に、感じやすさに関する限り人々がハートを持っていない世界で言うことは・・・、人はそのような事を宣言することに心細く感じる。だがそれは利己心(エゴイズム)からのものではない。そのような事を利己心から宣言することができないのは、エゴは非常に困惑し、エゴは困惑することが好きではないからだ。人がそのような経験を宣言するのは謙遜からだ。

 
私は待っていた・・・、その3人の人たちから、誰が最初にそれを宣言しようとするだろうか?と。ゴヴィンド・シッダールタは本当に謙虚で、勇敢であることが判明した。彼が言っていることは何であれ、彼は見たのだ。それは眠りの中ではなく、夢の中ではない。
 J.クリシュナムルティが正確にこの現象のために準備されたことは真実だ。
 ゴータマ仏陀は25世紀後に彼がロード(主神)・マイトレーヤとして来るということを約束した。マイトレーヤは「友人」を意味している。

 もちろん、彼自身の身体は焼かれていて、25世紀もの間、保存することはできなかった。その技術はまだ開発されていなかった。現在それは可能だ。保存されている10体の身体が世界にある。それらは死んでいて、それらを保存することには非常に金がかかるが、それらの人々は非常に裕福な人々であり、彼らは自分の身体が保存されることを望んでいた。それは科学が10年か12年以内に、長くても12年以内には、私達は死体を復活させることができると伝えているからだ。これらの裕福な人々は彼らの身体を保存するようにさせた。そのため科学技術が彼らを蘇らせる用意ができている時、彼らは再び生に復活できる。
 ゴータマ仏陀はまったく違う種類の科学技術を、科学ではなく超自然的な力(オカルト)を使わなければならなかった。物質的な身体は死んだ。だがこの身体の中には死なない他の身体があり、彼は自分の第3身体で生きていた。彼は子宮を通って誕生することはできない。それは不可能だ。それは物事の性質に逆らっている。いったん光明を得たなら、子宮を通って、自然な過程を通って誕生することはできない。

 それは彼の慈悲だ。彼より前には誰もこれまで試みたことがない。たぶん彼より前には誰もそのような慈悲を持っていなかったのだろう。
 ゴータマ仏陀がニルヴァーナの扉に達したという物語がある。そしていったん扉に入ったらその人は宇宙の中に消える。扉が開いて、門番は彼を歓迎する。だが仏陀は扉に入ることを断って言う。「私はここ扉の外に留まるつもりだ。なぜなら数多くの私の旅の道連れが闇の中を手探りしているからだ。私は彼らを助けることをあらゆる可能な方法で試すだろう。すべての生きている存在が扉を通過しない限り、私は待つだろう。私は最後になるつもりだ。」
 これは単なる寓話ではなく、単なる作り話ではなく、神秘主義の世界では絶対的に事実に関する何かだ。それは物質の世界では事実ではないが、精神の世界では事実だ。
 
J. クリシュナムルティは非常に博識な学者たちによって準備された。彼らは、25世紀後に自分は戻って来るだろうという仏陀の約束を、チベット、中国、日本、インドなどすべての経典の中に見いだした。「私は道を見つけるだろう。私は子宮を通って来ることはできないが、生きている存在に入ることはでき、私の魂を彼の魂に融合させることはできる。」神智学者がこれを見つけた時、彼らは純粋さにおいて、規律において、瞑想において、意識的に準備することができる誰かを探し始めた。彼がマイトレーヤの媒体になることができるように。
 彼らはJ.クリシュナムルティに本当に厳しく働きかけた。
 彼は彼らが働きかけた唯一の人ではなかった。彼らは類稀な知性を持つ子供を少なくとも5人選び、そして5人すべてに働きかけた。5人のうちの1人はニチャナンダ、クリシュナムルティの兄だった。彼は死んだ。彼はあまりにも厳しい訓練のために死んだ。彼は非常に聡明で、偉大な科学者か偉大な哲学者になっただろうが、彼は偉大な神秘家になるつもりはなく、それでたぶんゴータマ仏陀の媒体にはならなかったのだろう。

 彼ら5人を訓練して、ニチャナンダが死んで4人になった時、次第にクリシュナムルティが4人の中で最も優れていたことがはっきりした。一人はJ.クリシュナムルティの秘書にされたラジ・ゴパルだった。そして彼はJ.クリシュナムルティを裏切った。それは彼が生涯その憤りを抱えていたからだ。彼は同じ目的のために選ばれて、最終的に彼は単なる個人の私的秘書にされた。彼は怒り、憤慨したが、それを示さなかった。
 彼はクリシュナムルティのために作られた組織に属する全財産の管理受託者で、その組織の名前は「東方の星」だった。クリシュナムルティの本のすべての印税はラジ・ゴパルに行った。そしてちょうど5年前(1986年当時より)、彼はJ.クリシュナムルティを簡単に裏切った。彼は単に「あなたは組織、お金、本、印税とは何の関係もない。」と言った。85歳の年齢で、クリシュナムルティは再びABCから始めなければならなかった。

 ラジ・ゴパルというこの男はとてつもない忍耐を持っていたに違いない。なぜなら60年間、彼は自分の中に抑圧された憤りを保ち、クリシュナムルティが何もすることができないほど老いる適切な瞬間を待っていたからだ。その瞬間に彼はクリシュナムルティを見捨てた。彼はクリシュナムルティ財団のすべての財産を奪い取った。彼は財団の会長だった。そしてクリシュナムルティは置き去りにされ、85歳という年齢で、ただの乞食になった。

 訓練された別の少年はドイツ人だった。彼は選ばれそうになかったのを見て、まさにドイツ人のように振る舞った。彼は新しい組織を作り、神智学運動に反抗し、その運動の中に分裂を引き起こした。そして神智学協会のドイツ部会は別個の集団になった。彼はそれの指導者になり、これらの問題は競争に関わるものではないことを全く理解せずに、J.クリシュナムルティと争うことを望んでいた。

 
クリシュナムルティ自身は、何年もの訓練や修行の後・・・、純粋になるよりもむしろ、正しい媒体になるよりもむしろ、彼を苦しめていたすべての首謀者に対してとても憎しみ深くなった。彼らは彼に断食するように命じて、朝の3時に早く起きるように、3時に冷たい沐浴をするように命じた。すべて善意を持ってだが、彼らは誰かをゴータマ仏陀にさせることはできないという事実を決して認識していなかった。それは訓練という問題ではない。その意向がどれほど良いものであっても、結果は災いになろうとしている。
 クリシュナムルティが25歳になった時、彼らはオランダで神智学運動の主要な指導者たちを集めた。そこでクリシュナムルティは、ゴータマ仏陀が彼の中に入り、彼が世界教師になったことを宣言することになっていた。

 だが彼は誠実な人だった。ゴータマ仏陀は入らなかった。彼が法王またはアーヤトッラー・ホメイニのような人だったなら、「そうだ、ゴータマ仏陀は私の中に入った。私は世界教師だ。」と言うことができた。だが彼は拒否した。彼は言った。「ゴータマ仏陀は私の中に入らなかった。私は世界教師ではない。それだけではない。私は少しも教師になるつもりはない。」
 それは世界中からやって来た6000人もの運動指導者たちにとって大変な衝撃だった。彼らはそれが信じられなかった。彼らはこの男を準備してきた。彼らは法廷でこの男のために戦い、彼に最高の教育を与えるために可能なあらゆることをしてきた。彼は決して自分は気が進まないというそぶりを見せなかった。そして最後の瞬間に、立ち上がった時、彼は「私は『東方の星』の組織を解散させる。私は世界教師ではない。」と宣言した。それは反動だった。あなたは誰かを楽園に無理やり押し込むことはできない。強制された楽園は地獄になる。それは自由という基本的な要素が欠けているからだ。

 ゴータマ仏陀の第3身体は媒体になる誰かを見つけるために世界中を彷徨っていた。彼が25世紀前に言ったことは何であれ現代人のために、生れようとしている新しい人間のために、最新のものにされ、復活させて、合わせることができるように。
 25世紀でとても多くの塵が集まったので、完全に新鮮な何かが始まらない限り・・・。

 数百万人の仏教徒がいて、数千人の偉大な仏教僧侶がいる。彼がこれらの人々から媒体を選ばないとはただただ不合理に思える。ダライ・ラマを、または偉大な博識の仏教僧侶を選ぶことは全く当然であり論理的だろう。
だがあなたは覚えておかなければならない---それは私の基本的な強調の1つだが---これらの人々は選ばれ得ない、なぜなら彼らはまだ25世紀前の仏陀にしがみついているからだ、ということを。彼らを媒体として選ぶことはまったく無意味だ。彼らは同じことを繰り返すだろう。

 私はどんな他のマスターをもそんなには愛さなかったほどゴータマ仏陀を愛しているが、私の愛は盲目ではない。私は可能な限り厳しく彼を批判した。彼が正しいことが、今日にとって、明日にとって、来たるべき新しい人類にとって正しいことがわかった時、私は彼を称賛した。そして彼が25世紀も古くて、条件付けを、腐った考えをまだ抱えていることに私が気づいた時はいつでも、私は彼を厳しく批判した。それは新しい人間にとっては全く役に立たず、大きな障害物になる。

 
ゴヴィンド・シッダールタは自分が目の当たりにしたものを見て困惑したに違いない。なぜなら私はゴータマ仏陀が最も媒体に選びそうにない人であるように見えるからだ。だがこれがゴータマ仏陀の美しさだ。彼は理解している。メッセージは現在と未来のためのものでなければならないことを。彼には絶対的に新鮮な存在が、自分の伝統も含むどんな古い伝統にも愛着を持たない、完全に非伝統的な、正統でない人が必要だということを。今日のバラと同じくらい新鮮な、今日の人間を。たとえその人が古い仏陀の教えに何度も逆らっても---。
 私はそれを宣言するつもりはなかった。そうすると私がその古い人を批判することは難しくなるだろうという単純な理由のためだ。そこで私は完全に無関心なままでいた。私の自由と独立がどんな方法であれ奪われないように。

 私には私自身のメッセージがある。
 ゴータマ仏陀が私のメッセージには彼のメッセージの本質もあることに気づくなら、それは彼の選択だ。それは私にかかる重荷ではない。私が未来の人間の成長にとって正しくない何かを見つける時はいつでも、私は彼を批判し続けるだろう。
 だがゴヴィンド・シッダールタの困難は、彼がそれを秘密のままにしておけなかったことだった。世界で最も難しい事の1つは秘密のままにすることだ。それもそのような秘密を、だ!
 だが私はまったく今までと同じままでい続ける。全く妥協しない。ゴータマ仏陀と過去のすべてのマスターたちは私を彼らの媒体として選ぶことができるが、私はどんな汚すことも許さない。私のメッセージは私のメッセージのままだ。
 そう、彼らはそうすることができる・・・、そしてゴヴィンド・シッダールタはまさしくそれを言っている。川は大海に注ぎ込むことができる。何千という川は大海に注ぎ込むことができるが、それらが大海を甘くすることはない。それら自体が塩辛くなってしまう。

 ゴータマ仏陀が自分の媒体として私を選んだのは、もうそれ以上自分の第3身体でうろつき続けることが今や難しくなったからだ。25世紀が過ぎた。実際にはさらに少しの年月が過ぎていた。彼は選ばなければならなかったが、彼は自分自身のメッセージを持っている人を選んだ。それが彼の本質的なものと一致するなら、それは確かにすばらしいだろうが、それが一致しないなら、私はこれまで通り彼に対して厳しくするだろう。それはどんな違いにもならない。
 私は彼の声にはならない。私は私の声のままでいる。
 だがゴヴィンド・シッダールタが見たものは途方もない経験であり、偉大な実現だ。
 あと2人の人物がここにいる。彼らが勇気を奮い起こすなら、彼らの質問が生じるだろう。彼らが勇気を奮い起こすことができないなら、常に秘密で重荷を負ったままだろう。それを公開させてそれから解放されるほうがいい。そしてとにかくそれは公開される。ゴヴィンド・シッダールタはその仕事のほとんど99.9パーセントをした。何もあなたには残されていない。

 私の近くにいた人は誰でも何度もそれを感じてきた。私が自分の考えのいくつかを実例で説明するために、ゴータマ仏陀を、彼の生を、彼の話を、他の誰よりも多く引き合いにしていることを。ゴータマ仏陀は私の非常に近くにいる。その違いは25世紀分もない。たぶんほんの25センチメートルだけだ。だが違いはある。
 
私は妥協する人ではない。
 私はゴータマ仏陀とも妥協しないが、究極の真理であるものは何であれ誰の所有物でもない。ゴータマ仏陀のものでも私のものでもない。ただ非本質的なものだけが異なる。本質的なものは常に同じだ。そして私の努力は、すべての非本質的なものを断ち切り、あなたに純粋な、本質的なメッセージだけを与えることにある。それは本質的な宗教だけが未来に生き残ることになるからだ。非本質的な儀式はすべて死ぬことになる。
 この世紀の終わりをもって、世界に宗教的な状態はあるが、宗教はないだろう。

 おそらく彼は正しい人を選んだのだろう。
 そして彼はその事実を宣言するためにゴヴィンド・シッダールタという正しい人も選んだ。私はそれを宣言するつもりはなかった。なぜなら私の側からの宣言は、まるで私が他の誰かのメッセージの媒体になったかのような、特定の妥協をもたらすからだ。
 私は誰の媒体でもない。むしろ、私のメッセージとゴータマ仏陀のメッセージはほとんど相似している。とても相似していて、とても類似しているので、彼は私の媒体だったと言うことができ、または私は彼の媒体だと言うことができる。
 だがいずれにせよそれは私のアプローチを変えることにはならない。今、私はゴータマ仏陀に対して更により厳しくあるだろう。彼の最も本質的で最も純粋な部分だけが未来において人類に達するように。




     

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