8月 3日

 Oshoのサニヤシンで、光明を得た人、つまり、もう生まれ変わることのない人は4人いる。
 その内の2人がOshoの両親。
 父はスワミ・デーヴァティルタ・バルティ。1908年3月21日生まれ。1975年10月19日テイク・サニヤス。1979年9月8日に死亡、その前に光明を得る。
 母はマ・アムリット・サラスワティ。     1913年11月23日生まれ。1971年初期にテイク・サニヤス。1997年5月17日、光明を得て死亡。

     

  



 そして、スワミ・アナンド・ヴィマールキルティ、ハノーヴァーの元王子で、1981年1月9日に光明を得て、翌日に亡くなっている。

  
     真ん中に座っている男が「ラジニーシ 堕ちた神」を書いたヒュー・ミルン


 そして、1972年6月にダージリンからシッキムの首都ガントクの近くにあるルムテクの僧院にラマ・カルマパを訪ねて、「The Silent Explosion」にチベット僧院への訪問を載せてOshoの霊的秘密を明らかにしたスワミ・ゴヴィンド・シッダールタ。1986年9月22日に光明を得る。



   気になるのが、最初のサニヤシンでありOshoの秘書でもあったマ・ヨーガ・ラクシュミ。

 「反逆の軌跡」には、ラクシュミがサニヤスを取った時の強烈で不思議なエピソードが書かれてある。彼女は今、何をしているのだろう?光明を得ていてもおかしくないと思うけれど・・・。




 
8月 4日

 一段落して、また「クリシュナ」の翻訳を始める。全22章で、今のところ3章だけ完了している。いずれまた、パタンジャリのヨーガの講話の翻訳を平行するかもしれないが、その辺りは気ままに気長に進めよう。ほぼ1年半越しの再開。




 
8月 6日

 改めて、すこしまとめよう・・・・。これまでも別の日記で小出しに書いたが〜〜、私は1995年から2011年までの16年間、Oshoに関することから離れていたので、その間の動向はまったく知らない。
 そのあたりの情報がOsho mixiから得られるのはありがたい。そのサイトがそれぞれの人のコメントを載せてみる。それを書いた人は直接には知らない。だいたい2004年頃の話だけれど・・・。



 ・・・・本・出版については〜〜
 私が翻訳のためにOshoの原書をpdf形式でDLしているOSHO WORLDは、アシュラムを追い出されたニーラムによって運営されていることがわかった。



 2004年08月06日 19:53
 「和尚の著作物の版権が(全部ではないらしい)いつの間にかOIFから、アメリカのどこだかの会社に譲渡されてしまっていて、もはや和尚の講話はアメリカのその会社のものになってしまったという話。さらにその会社はアメリカ政府のダミー会社で、今や和尚の講話は出版を止めてしまうことも、内容を改竄するのも、その会社なり、あるいはアメリカ政府なりの自由自在になってしまったとかいう話。
 これはネットで目にした噂なので、本当のところはどうなのかは知りません。情報の裏も取れていないので噂の域を出ないことです。リアルな実情はどうなんでしょう?気になるところです。 それとプーナでは和尚の本とか写真やビデオなんかの出版状況とかは、どんなふうなのですか?」


 2004年08月06日 20:09
 「あと僕の知っているのはoshoドメイン裁判。OSHO WORLDというインド人達がやってるホームページに対して、oshoという名前(ドメインネーム)を使うなと、OIF和尚インターナショナルファウンデーションが裁判を仕掛けて、2000年7月OIFが敗訴した。 」


 2004年08月06日 21:00
 「> 和尚の著作物の版権が(全部ではないらしい)いつの間にかOIFから、 アメリカのどこだかの会社に譲渡されてしまっていて、・・・・
 これとは別に最近数年間のうちに、オショウの言葉が削られて出版されているという話があります。これはいくつか指摘されている。 また、これは聞いた話ですが、osho.comのオンラインライブラリのオショウの言葉は、削られている部分があるという事です。OSHO WORLDのライブラリは編集前のものをベースに作ってあるはずです。
 どういう部分が削られているかというと、聞いた話では、オショウのやっている事が『カルト』だと思われる部分を削っているというふうに、聞いた事があります。
『弟子とマスター』という部分も消したいと思われているようで、オショウがサニヤスについて語った"Book of Wisdom"の数ページがなくなっていると聞きました。
 この辺の『カルトと思われたくない』というのは、大手出版者からの要請だと聞いた事があります。オショウの写真を使わなくなって来ているのも、その辺の事ですね。まあ、商売上の駆け引きですね。商売(ビジネス)として成功させたい人が今運営の中心にいるという事かと。
 また、何よりも、アシュラムを、リゾートに変えたがっていますね。ヨーロッパ人のハイソサエティの訪問者が気持良く過ごせるというのは、重要な基準になっていると思われます。 」


 2004年08月06日 21:19
 「確かに録音ものと活字は微妙に違いますね。 僕が遭遇したのでは"cave(ほら穴)"を"basement(地下室)"って書き換えてあった。あとは"that"を足したり引いたりして読みやすくしたり、文法の間違いを直したり。
 まあ、害のない範囲かなって思うけど、"Book of Wisdom"の方はひどいよね。質問者の名前は消されてるわ、改変し放題だわ、チャプター丸ごと消えてたりとか・・・。
 で、問題のその本はアメリカ版のようですが、これがまかり通ってるってことは何らかのライセンス供与を受けてるってことだと思われますよね。」


 2004年08月19日 23:40
 「オショーの"Book of Wisdom"という本のアメリカ版では、大幅な改変が行われています。 」


 2004年08月22日 16:48
 「OSHO WORLD は、削除に反対しているので、そこに置いてある図書館の本は削除前の文章だと思われます。」


 2004年08月23日 14:40
 「オショウの著作権やオショウの周辺の権利を扱っているのが: http://oshofriendsinternational.com/ だと思いますが、これは、OSHO WORLDの子供のサイトのようなものだ思って良いと思います。 どちらもキルティが中心付近にいると思います。
 キルティは、スワミ・アナンド・キルティという古いインド人サニヤシンで、ICではなかったですが、次のICのメンバーの候補くらいの場所にいた人です。元もと出版とかプレスの関係を仕事にしていた人で、オショウからオショウ・タイムスを始めるように言われて始めた人です。
 http://www.meditate-celebrate.com/ が、彼の個人を表に出したサイトです。

 2000年くらいだと思いますが、キルティはプーナのアシュラムを出てデリーに本拠を移しました。デリーはやはりアシュラムを出ていたニーラムの本拠でした。デリーにはアシュラム主催のオショウのブックフェスティバルをするために行ったのですが、そのまま『もう、アシュラムには戻らない』という連絡が来たのを知っています。一体デリーで誰と逢って何があったんだろうというのが疑問でした。 当時はアシュラムの『プレスオフィス』のコーディネータでアシュラムが外部への公式な見解を発表する表になっていました。アシュラムを突然出るまでは、彼が特にアシュラムに対して(IC:マネージメント)に対して批判的な態度でいるのを見た事はなかったです。 デリーに移った後、オショウワールドというオショウのショールームみたいなのをデリーの一等地のビルの中に始めたり、アシュラムのすることに対する批判を公的に行う中心的な立場にいます。」


 2004年09月06日 23:12
 「この件に関する和尚の見解だけど、 たとえば、「Light on the Path」の28章の4番目の質疑応答なんか、まるっきりこのことについて話していますよ。 ちょっと見てみてくださいな。」


 2004年09月07日 02:26
 「とりあえず、OSHO WORLD が、Osho International Foundation に、訴えられているって話は聞いた事がないんだよね。で、Osho World の講話公開と時期を同じくして、世界のあちこちでオショウの講話が一つまるごと載っていたりするのを見るようになった。
ひととき、Osho Foundation の関係がウェブを巡回して、削除するように連絡を入れている時期があったんだよね。そのときには、法律的に訴えますってメールが送られていたように思うんだけど。」


 ・・・・というコメントが載せられている。もう13年前の話だ。

 気になるところが、「オショーの"Book of Wisdom"という本のアメリカ版では、大幅な改変が行われています。 」
 アメリカ版がどれかは知らないが、私が知る「Book of Wisdom」は〜〜
       旧版〜                                 改訂版〜
      

 改訂版は所有していないので、これが改変されたものかどうかは知らない。「アティーシャの知恵の書」の翻訳は旧版を元にしたものだから、改変前のオリジナルである。なにはともあれ、邦訳で完全な形で残せたのはよかった。

 ・・・  「マスターと弟子」っていうのを抹消したがっている人達がいますからね。例の改変も、消されたのは「マスターと弟子」について話していた部分だって聞いてます。偽マスターが現れたり、オショウ2を名乗ってサニヤシンから弟子を集めるのを避けようとでもしたいんだと思いますが。・・・・

 だからダルシャン日誌は出版禁止になっている。
 13年前からOIFの謀略やアシュラムの変化にはみんな気づいていたわけだが、結局何もできなかったということだ。その中でOSHO WORLDやインドでの出版ワークがOIFに抵抗しているのは素晴らしい。少なくともそこではOSHOのオリジナリティが保たれている。
 それでもサニヤシン同士の対立というのは醜いな。




 
8月 7日

 ダルシャン日誌は本として出版されたもので、1975年12月から1981年3月まで47冊ある。ただし、46巻と47巻の間に1年7ヶ月のブランクがある。この理由は知らない。この中で邦訳されたものは9巻目の「ダンス・ユア・ウェイ・トゥ・ゴッド」だけ。この47冊の内、所有しているのは30冊。pdfファイルでは全て所有している。
 この47巻の中で、何人のサニヤシンがダルシャンを受けたのかわからないし、調べてみたい。個別指導なので、そこに独自の瞑想法も紹介されているだろう。それの一部はOshoTimesに載っていた。そこで自分に合った瞑想が見つかるかもしれない。そういう意味で、ダルシャン日誌は他の講話に比べて非常に実際的である。

 Oshoの講話は、ただ翻訳するだけでも膨大な量があるが、そこから様々なテーマに沿って分類することも興味深いし、それだけでもまた膨大なワークになる。例えば、Oshoが語った神秘家たちのリストとそのエピソードをまとめることなど・・・・。

 そのためにも、翻訳・編集・出版のワークに関わる人たちのネットワークが出来ればいいと思っているが、現状はなかなか難しいらしい。人材がいない。

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 このHPはもうほとんどOshoのページばかりが更新されているが、Osho専門のHPにするつもりはない。あくまで全体の中の一部としてOshoがある。特にどのページがメインでもない。それぞれが自分の一部を表している。

 このOshoのページについては、他のOshoのサイトのような情報発信とかOshoの紹介という性格はない。そうするつもりはまったくないし興味もない。
 単純に、資料室、記録、データ・ベースという意味合いのものであり、基本的に自分にとって必要な情報・資料を集めている。ただ、これだけの情報を扱っているOshoサイトは他にはない、という自負はある。特に講話のデータに関しては自分でも完璧だと思っている。
 放っておいたら失われ、忘れられつつある情報を記録して残したいという思いが強い。私個人の貴重な資料が親の無関心によって簡単に捨てられてきた過去の経験があるし、OIF自体がOsho自身の資料・データを軽視し、消そうとしているから、よけいに保存したいという気持ちは強い。
 そしてネットだから、利用したい人が自由に閲覧・利用できる。このサーバーがつぶれない限り私が死んだ後もこのHPは残ることになる。




 
8月10日

 Oshoの最後の講話は「禅宣言」だが、その次は「法華経」について話す予定だったらしい・・・、ということがこの「禅宣言」のあとがきに書かれてあるらしい。Oshoが肉体を離れた今となっては、このネタの真偽はわからないし、実際にOshoは法華経について語らなかったわけだから、ただサニヤシンの勝手な妄想が一人歩きしているような感じがする。
 私は「禅宣言」は持っていないし、読んだこともない。「法華経」については紀野一義による現代語訳を持っているが、膨大な量であり、内容も仏陀の存在や教えを称えたり賛美したりするようなもので、あまり読む気にもならず、なぜこれが仏典の中で最高のものと評価されているのかいまだにわからない。同様の質問がネット上にもあるが、それに対する答えも人それぞれで、まったく埒が明かない。まあ、それに答えている人は、だいたいが創価学会の会員らしいが・・・。

 いずれにせよ、晩年になってずっと禅について語り続けてきて、なぜここにきて「法華経」なのか?その脈絡がまったくわからない。私の勝手な邪推かもしれないが、日本人のサニヤシンで法華経信仰者がそのような噂を流したのだろうと思う。つまり、Oshoを通して、Oshoを利用して、あるものの価値を高めよう、という意図で、Oshoが語るのだから「法華経」はやはりすごい経典なのだ、というふうに。

 私の感じでは、禅と法華経は対極に位置しているように見える。
 禅は、最も宗教臭くない、いわゆる一般的な宗教という観点にはない。そこには信仰の対象もなく、救いや願いを求めたり功徳を得たりすることもない。ただひたすら実践の、現実的な道である。最も信仰的ではない。
 法華経は、最も信仰的な宗教の基になったもの、と言える。大衆救済を説く。だからありがたいのであり、だから最高の経典と言われるのかもしれない。

 そういうOshoとの関連付けには個人的にすごい拒否感というか嫌悪感を持つ。他にも翻訳者モンジュのTSUKUYOMIのようにOshoを日本の神話と関連付けているものもある。単純なマインド・トリップなのだけれど。そういうトリップはこれからもあちこちで発生していくのかもしれない。ようするに、それぞれの個人が自分の好き勝手にOshoを解釈し、利用していくのだろうな。理解するためには、自分の持っている古い既成の枠組みに当てはめなければならないから、それは当然のことなのかもしれないが・・・。Oshoがやっていたことは、その古い既成の枠組みを壊すことだったから、まさに正反対の現象が起きている。

 私自身には何の枠組みもない。だから何も頼れるものはなく、不安定に、頼りなく、失敗して生きてきた。物理的にも、精神的にも、帰る場所はなく、信じるものはない。故郷は消えた、生まれた場所は消えた、自分が作り上げた成果は捨てられた。
 ・・・・・・何もない。・・・・・・

 だから今は、何も当てにしていないし、何も期待していない。死ぬときは、ただ落ち着いて静かに死にたい。ただ、それだけ・・・。

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 7日の日記で、ダルシャン日誌の46巻と47巻の間に1年7ヶ月のブランクがある、と書いたが、その後の調べでこの間もダルシャンは行われていたことがわかった。ただしその期間のものは出版されていない。本にすると14冊分ある。これはOsho Books on CD-ROMに収められている。




 
8月11日

 Oshoの次の講話が「法華経」についてだ、と聞いて、2通りの反応する人がいるだろう。
 一つはそれに期待して喜ぶ人、それを楽しみにしている人・・・・
 もう一つはそれに対して違和感を持つ人、何か違うんじゃないか?と感じる人・・・・、私はこちらである。
 あるいは、何も反応せずにそれを受け入れる人もいるかもしれない。

 これはある意味、みんながどう反応するかを見るためにOshoが作った状況とも受け取れるが、それでもほとんどのサニヤシンは西洋人であるため、彼らが法華経についてどれだけ知っているのか疑問である。たぶん何も知らないだろうから反応のしようがないだろう。
 ということは、この件についていろいろな反応をするのは日本人だけだ、ということになる。つまり、日本人の問題だ。もっと言えば、日本人サニヤシンがでっちあげた話、とも受け取れる。西洋人にとって法華経なんてチンプンカンプンだろうし、私もそうである。禅については西洋に広まっているし、禅に関する洋書も多い。

 このような、サニヤシンがさまざまに反応する状況はOshoのワークの中で常に起こってきた。そのたびにOshoから去っていく人たちも多かった。
 例えば、Oshoが「私はあなたの友人だ。」と言うことで、それに喜ぶ人もいれば、それを受け容れられない人もいた。特に弟子として明け渡していた人はOshoを友人と見ることは考えられなかった。Oshoの世話をしていたヴィヴェークはそのことで混乱し、泣いたらしい。
 また、何人かの光明を得たサニヤシンのリストを発表したことで、それに対してサニヤシンたちは様々に反応した。これについて詳しくは2016年3月20日の日記に書いた。出典は「ビヨンド・サイコロジー」から。

 伊勢で起こったシャルノを中心とするマルチバーシティ企画についてもそうだろう。賛同するサニヤシンもいれば、拒否感や違和感を持ったサニヤシンもいただろう。
 自分のフィーリングは大切にしたい。たとえ全世界から反対されても自分のフィーリングに従うこと、それをOshoから教えられた。
 たとえ全てのサニヤシンから反対されても、私は自分のフィーリングに従いたいし、自分でOshoを感じたい。たとえ・・・、と書いたが、実際にそうされてきたから、それは経験済みである。他のサニヤシンのワークにはほとんど違和感を持っている。セラピーにはまったくの不信感がある。少なくとも私には合わず、役立たずだった。
 私にとって最も大きな、重要な体験はリバーシング・セツションでの霊的体験だったが、それをそのセラピストから簡単に否定された。だが、たとえ他人から否定されようと、それは私にとってはリアリティのあるものだった。
 だからようするに、自分のフィーリングに従うと、他人とは合わなくなる、ということだ。
 だから結果的に、独りになる。



 やっぱり気になるから書いておこう・・・

 とある人のブロクで、Oshoについてこういうコメントがある。2010年8月のものだが・・・
 「マイトレーヤになる、その前の「インドの九聖人」の講話はすごかった。読んだ中で、一番インパクトがあった。ああいう高密度な講話は、今はない。」

 Oshoがマイトレーヤになる、つまりゴータマ仏陀がOshoの肉体を乗り物として使う、という出来事が起こったのは1988年12月28日のことで、これについての詳細は1989年3月刊のOshoTimes 11号と、1994年1月刊の「ノー・マインド 永遠の花々」という邦訳本に載っているが、その前の「インドの九聖人」の講話というのがよくわからない。なぜならそれより前に行われた講話は全て禅に関するものばかりだから、「インドの九聖人」どころか、インドに関する話そのものが出てこない。
 この人の言う「その前・・・」がどれだけ前なのかわからないが、少なくともマイトレーヤになる前の4ヶ月は全て禅に関する講話で、その中で邦訳は「臨済録」と「空っぽの鏡・馬祖」だけ。

 仮にインドの九聖人が取り上げられたとして、それは誰なのか?
 私が思いつくOshoがこれまで取り上げたインドの聖人と言えば、仏陀、マハーヴィーラ、クリシュナ、ティロパ、パタンジャリ、クリシュナムルティ、アティーシャ、サラハ、カビール、ナナク、アシュタバクラ、シヴァ、ゴラク、ラーマクリシュナ、タゴール、シャンカラ、ミーラ、サハジョ、ボーディダルマ、メハー・ババなど・・・。これだけでも20人いる。

 少なくともOshoの「インドの九聖人」の講話は、私は知らない。というか、存在しない。



 今、"Book of Wisdom"という本のアメリカ版で、どの部分が改変または削除されたかを調べようとして、その部分を指摘している Osho Friends というサイトを開こうとしたら、「このサイトはコンピュータに損害を与える可能性があります」という警告が表示されて、開けなくなっていた。
 これもOIFの魔の手によるものか?OIFに批判的なサイトはこのように抹殺されていくのか・・・?
 この様子だと、私のOshoのサイトも危ないかもしれない。特にOshoの版権に関する問題を載せているし・・・。だから興味のある人は今のうちに、私のサイトが消される前に、必要な情報はコピーして保存しておいたほうがいいだろう。




 
8月12日

 5ちゃんねるでの「和尚ラジニーシ」
 ほとんどクズみたいなコメントばかりだから、まともに読む価値はまったくないけれど、所々誠実に答えている人もいたりして、とにかく何であれこれだけ多くのコメントを寄せて来るというのがおもしろい。2014年9月頃からのものだから、ちょうどOshoブームが盛り上がっていた頃だろう。
 どれだけ人が、無知と偏見から、どんな批判やでっち上げた話を作ることができるのか、それには感心する。その想像力の豊かさに・・・。

 前日の、「インドの九聖人」の講話の話は最初この5ちゃんねるから知ったもの。そしてそのところに私のこのサイトのアドレスが紹介されているのがおもしろい。結局、この人から問い合わせのメールは何も来なかったけれど。


 インドの九聖人にしろ、その数が20人であれ、アナンドが300人の神秘家のリストを作ることでも、それは人間の霊的成長の可能性を知り、それへの憧れを持つことに意義がある。
 Oshoを批判し、否定することは個人の勝手である。それはその人がそれ以上の霊的成長への道を閉ざした、ということだ。それはその人の選択であり、その人が好きにすればいいだけのことだ。


 霊的な憧れを持つこと・・・・・、Oshoはその一つの具現化であり、いま翻訳しているクリシュナの講話もその憧れを持つためのものと言える。




 
8月14日

 「坐禅和讃」という本は1977年12月の講話「This Very Body The Buddha」全10章から1章と6章だけを翻訳したもので、200ページにも満たない本だが、希少価値がついて、ヤフオクでも5000円くらいの値が付いている。
 翻訳者はラジャとヴィラーゴの2人で、特にヴィラーゴは他にもOshoの貴重な本を訳している。「瞑想・祝祭の芸術」、「ダイヤモンド・スートラ」、「マイトレーヤ」、「新人権宣言」、「反逆のスピリット」など・・・・
 このヴィラーゴが「瞑想社」の元社長であり、私の初期の翻訳「秘教の心理学」を他の人にやり直させた人で、後の噂では会社の金を着服して行方不明になったとか・・・・。今はどうしていることやら・・・。

 とにかく「坐禅和讃」は原書の5分の1しか訳出されていないことになり、なぜこんなことをしたのかわからないし、版権はめるくまーる社にあるだろうから、もう全章翻訳は叶わないだろう。
 1999年に出た「黄金の華の秘密」という本もスートラだけの編集本で、その省かれた質疑応答の章も含めた翻訳文をプラボーディが2011年にmixiのサイト上に公開しているが、これも全31章の中の24章までしか完成していない。改めて訳された質疑応答の章を読むと、とても深い内容で重要なテーマのものばかりだ。
 これも、なんとも中途半端でもったいないことである。




 
8月15日

 クリシュナの翻訳が一段落ついたので、次の翻訳を何にしようかと考えた。一段落と言っても、Krishna The Man and His Philosophy 全22章の内の第2章が終わっただけだが、このままクリシュナの翻訳を続けるか、パタンジャリの講話第5巻の翻訳に戻るか、はたまた、別の講話に移るか・・・・。
 そこで、ずっと気になっていた講話「The Osho Upanishad」の準備を始める。これは以前は「ラジニーシ・ウパニシャッド」と呼ばれていたもので、1986年8月の講話で、その後に続くミステリー・スクール講話シリーズの第一番目になる。これもそこそこ長い。まあ、クリシュナもパタンジャリも長い。クリシュナは、もし出版されるなら3冊くらいになるだろうし、パタンジャリは残り6冊分ある。
 正直、これらの翻訳の出版はあまり期待していない。内容がマニアックなので、出版してもあまり売れないだろう。売れやすいものは、やはり禅やタオ、あるいは山川氏が翻訳している編集本になるのだろう。

 私は私の趣向・好みで翻訳するものを選んでいる。別に周囲から期待や要望を受けてしているわけではないので、その点については気楽であり自由だ。自分が楽しめることが第一であり、今のOshoの読者はどんなOshoの講話を望んでいるのか、今の時代にはどんな講話が必要か、などという大それたことを考えると自分の道を見失ってしまうし、だいたいそんなことわからない。そもそもOshoってそんなに知られていないし・・・。
 出版社側も、あまりエソテリック〜秘教的〜なものは売れそうにないと見ているようで、だから「The Silent Explosion」も当分は出版される予定はない。だから、この「The Osho Upanishad」もけっこう秘教的だから、出版の望みは低いだろう。ただ、本当は、現在の状況を示唆するようなOshoのビジョンが語られているため、Oshoの講話の流れの中でも重要な位置にあるものみたいだが・・・・。

 ただ、あえて、一般的ではない、マニアックな講話を選んで翻訳することは小気味いいかも〜〜〜。別にわざとそうしようとしているのではなく、自分のフィーリングに従うならそうなってしまった、というだけのことだが。だから、禅やタオの講話を読みたい人は、その人が翻訳すればいい。
 まあそれでも、初期のヒンディー語の講話から英訳されたものに関心を持っている人がいるのも知っている。こちらが私の好みでもあるが、ただヒンディー語からの英訳には変な英語が多いので翻訳には苦労する。


 「The Osho Upanishad」の出版暦は〜
 最初は1986年に「The Rajneesh Upanishad」
 

 それから2001年に「The Osho Upanishad」、そして改訂版が2010年と、2012年に出ている。いずれも700ページ余りの大作。
               

 おもしろいのは、全章をいくつかに分けて別に8冊に分けて出版されていることだ。
 1 - 7章を A Song Without Words.として1991年、2001年に、    6 - 10章を The Birth of Being.として2001年に、
 8 - 13章を Inner Harmony.として1991年、2002年、2007年に、   14 - 19章を Secret of Disciplehood.として1991年に
 20 - 24章を Sing, Dance, Rejoice.として1991年、1998年に、    25 - 29章を Eternal Celebration.として1991年に
 35 - 39章を Here and Now.として1991年、2003年、2007年に、  40 - 44章を Towards the Unknown.として1991年、1993年、2001年に。


 興味深い章は35章で、ラマ・カルマパ僧との謁見記を記したスワミ・ゴヴィンド・シッダルタがラマ・カルマパに関連した質問をしていること。
 そして16章でOshoはこんな予言的なことを言っている。

 「私は普段は予言をしないが、これについて私は全く予言的だ。次の100年はますます不合理に、ますます神秘的であろうとしている。
 2番目の事、100年後、人々はなぜ私が誤解されたのかを完全に理解することができるだろう。なぜなら私は神秘的なものの、不合理なものの始まりだからだ。私は過去と連続していない。過去は私を理解できない。未来だけが理解するだろう。
 過去は私を非難できるだけだ。それは私を理解できない、それは私に答えられない、それは私と議論できない。それは私を非難できるだけだ。未来だけが・・・・人だけが神秘的なものを、無意味だがそれでも意義深いものをますます利用できるようになる時・・・。
 100年後に彼らは理解するだろう。なぜなら人が生の神秘的な面に気づくようになればなるほど、彼は政治的でなくなるからだ。彼はよりヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒ではなくなる。より少数派が狂信者になるという可能性がある。神秘的なものに調子を合わせる人は謙虚で、あらゆる人の独自性を愛し、世話をして受け入れる。彼はそれぞれの個人の自由に喜んでいる。なぜなら自由と共にのみこの人間性の庭は豊かな場所になるからだ。
 それぞれの個人は彼自身の歌を持つべきだ。
 だがまさに今、すべてを決めるのは群衆、群集だ。そして私を非難しているのはその群集だ。なぜなら私は個人の権利を主張しているからだ。
 そして私だけが個人の権利を主張している。」




 
8月16日

 「The Osho Upanishad」で一番興味深い第35章を訳し始めると、読み覚えのある質問から始まる。調べてみると今は絶版になっている「マイトレーヤ」の第1部の「弥勒降臨」の章だ。この章文はThe Osho Upanishadの第35章を訳していたことになる。
  この本の中では、最初に引用元の原書の名前を非常に小さく書き記していて、そこにThe Rajneesh Upanishadの文字も見えるが、何番目の章の翻訳かは記されていない。
 それでもこの本が出たのは1988年で、よくこの文章を膨大なOshoの洋書から探し出したなと思う。




 
8月17日

 ラマ・カルマパ僧との謁見記の中に気になる文がある。

 「インドを訪れるに際してのラマたちの主な目的は、自分たちの超自然科学を保存することでした。和尚も1969年に行ったカシミールでの講話でそれを確証したことがあります。ダライ・ラマが脱出したのはただ自分自身を救うためではなく、チベットの宗教、瞑想の秘法、超自然科学を救うためだったのです。ただその目的のために、彼はチベットからあらゆるものを携えてインドに来たのです。」

 1969年に行ったカシミールでの講話とは何かを調べたら、2つが見当たったが、
1つは「Mahavir Meri Drishti Mein」でマハーヴィーラについての講話だが、これはヒンディー語で語られていてまだ英訳されていない。
もう1つは「Early Talks」と呼ばれるもので、これは出版されていない。何がきっかけでこの講話ファイルを手に入れることができたのか忘れてしまったが、これは初期の講話やインタビューをまとめたもので、全部で11章ありながら、その中の4章分は記録がない。つまり、章として設けてもその部分は空白になっている。変な話だ。が、この中で1969年のカシミールでの講話は第2章と第7章に当たるが、ここでチベットの超自然科学を保存するという話は出てこない。
 ということは、この話が語られているのは、英訳されていない「Mahavir Meri Drishti Mein」ということになるだろう。というわけで、今の段階では、この話を知ることはできない。
 ちなみに、この「Early Talks」の第7章は、マハリシ・マヘッシ・ヨーギの信者たちとの議論で、この話は1991年のOshoTimes 27号から29号まで掲載されていた。

 この「Early Talks」の第1章も非常に興味深い。こちらを先に翻訳するかも・・・・




 
8月18日

 Oshoミュージックに自分が撮った写真を組み合わせてYouTubeにアップしたのはずいぶん前のこと。
 そのリストは〜

 Sambodhi Music No.1      Sambodhi Music No 2
 Just A Glimpse No.1      Just A Glimpse No.2      Just A Glimpse No.21
 The Awakening          Silence is the Answer

 Sambodhi Music No 2だけがなぜか削除されている。この曲はOshoの古いビデオでオープニングに使われていたから有名なので通報されたのだろう。
 このSambodhi Musicは非常に美しい音楽だが、今ではもう手に入れることはできないだろう。
 作曲はSw. チャイタニヤ・ハリ (デューター)。 全曲はこちらのサイトから聞ける。http://www.sannyas.wiki/index.php?title=Sambodhi_Music
 YouTubeでは削除されたが、ビデオのオープニングに使われていた曲はこのSambodhi MusicのPart 2の2:45から。

 Sambodhi Music No.1 の画像には奈良県の磐之媛命陵滝谷花菖蒲園で撮影した睡蓮を使っている。

 Just A Glimpse は初めて買ったOshoミュージックのカセットで思い出深い。
  作曲はSw. ゴヴィンダス.。 
                                 全曲はこちらのサイトから。
 
http://www.sannyas.wiki/index.php?title=Just_a_Glimpse
 Just A Glimpse No.1 の画像は奈良長谷寺の牡丹
 Just A Glimpse No.2 の画像は奈良・喜光寺の蓮
 Just A Glimpse No.21 の画像はプネーのアシュラムの庭。

 The Awakening は作曲者は不明でほとんどデータはない。画像は奈良・三室山の枯葉。
                   全曲はこちらのサイトから。
http://www.sannyas.wiki/index.php?title=The_Awakening

 Silence is the Answer作曲はSw. チャイタニヤ・ハリ (デューター)。画像は奈良・法隆寺の土壁前の紅葉。
                   全曲はこちらのサイトから。
http://www.sannyas.wiki/index.php?title=Silence_is_the_Answer

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 サニヤシンがOshoについて書いた本は、洋書ではけっこう多い。
 著者では、「反逆のブッダ」などOshoの伝記を書いたヴァサント・ジョシ、邦訳されたもので「和尚と過ごしたダイヤモンドの日々」のシュンヨ、「一万人のブッダたちへの百話」のジョティ、他にもアナンド、アムリット、マニーシャなどが書いている。もちろん忌まわしい「ラジニーシ・堕ちた神」のシヴァ(ヒュー・ミルン)もいる。

 では日本では?
 プラブッダが「地球感覚、」という本の中で少しOshoに触れている。パリトーショが1994年に「OSHO-21世紀への指導原理」という本を出している。
 個人的体験記としてはナルタンの「インナーラビリンス」。ただ、同じような個人的体験記としては、幸野谷昌人という人が「エクスタシーへの旅」という本を1983年に佐川出版から出している。この人のサニヤス名はSw.パンタ・サマグラだったと思う。この本も入手不可能だろう。
 ただ、この幸野谷昌人という人、もともとはライターで、この本を出すために佐川出版という会社を作ったらしい。
 http://ameblo.jp/mojikakima/entry-12027131328.html




 
8月19日

 とりあえずThe Osho Upanishadの第35章の質問 1 の翻訳が終わったので、このHPにアップした。もともと「マイトレーヤ」の第1部の「弥勒降臨」の章に掲載されていたものだが、全面的に翻訳し直した。
  ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ

 だがこれによると、Oshoがマイトレーヤになったのは1986年9月ということになる。
 「ノー・マインド 永遠の花々」では1988年12月になっている。
 ただ、違いは、「The Osho Upanishad」の1986年9月では、サニヤシンのシッダールタがそのビジョンを見ている。実際にはあと2人が同じビジョンを見ている。
 そして「ノー・マインド 永遠の花々」の1988年12月では、Osho自らがそう宣言している。

 この出来事は2度起こったのか・・・・? よくわからない。




 
8月20日

 Oshoの伝記「反逆の軌跡」の校正ファイルは、その後何も届いていなく、連絡もない。出版時期が見えない。
 出版が遅れているようなので、特に急いで1冊を翻訳することもないだろうと思い、Osho Upanishadの第35章の翻訳を切り上げて、自分の興味ある部分だけを翻訳していこうと考える。まさに気分しだいで・・・

 とりあえず、Oshoがチョギャム・トゥルンパについて語った講話がYoga- The Alpha and the Omega 第.5巻、第6章の質問13にある。トゥルンパは「タントラへの道」で知られているチベットの僧で、私もこの本にはすごく感銘を受けたが、ここでOshoは、トゥルンパはマスターではなく、単にチベット仏教の伝統の重荷を負っているだけだ、と切り捨てている。
 話の要点は、トゥルンパがひどく酒に酔っぱらうことで、それはマスターとしてどうなのか、という質問に答えたもので、確かに彼のプロフィールでも晩年はアル中に犯されていたということが書かれてあり、私自身もこの点についてはトゥルンパに失望していた。
 ここでOshoは、タントラの伝統には、酒をいくら飲んでも酔っぱらわない、どんな状況でも意識的でいる、という修行があった、と言っている。問題は、タントラ行者は酒を飲んでもいいことになっているが、その許可だけが伝わり、酔わないための修行は伝わっていないということらしい。この点から、タントラは非常に快楽的な、耽溺な宗派だ、という表面的な誤解が生まれたのだろう。

 ともかく、しばらくはこんな感じて気分的に知りたい部分をつまみ食い的に翻訳していこうか、と思っている。




 
8月21日

 トゥルンパの次は、シュタイナーについて語った講話を翻訳する。これもYoga- The Alpha and the Omegaの第10巻の6章にある。

 「Book of Wisdom」のアメリカ版で改変や削除が行われた箇所を示していたサイト、Osho Friends が開けないと前に書いたが、どうも探し方がまずかったようで、このサイトのトップから検索したら見つかった。 
     http://www.oshofriendsinternational.com/index.php?option=com_content&view=article&id=69&Itemid=153 

 このページで、赤字で書かれてある部分が削除された文章で、青字は書き加えられた文となる。改変された章は質疑応答の章になる。
 特にこの「Book of Wisdom」の改変が酷いということは、この本が特別な意味合いを持っていることになる。削除された文が特にOshoと弟子との関係を語った部分であるらしいから、この「Book of Wisdom」という講話は、弟子であることについて、サニヤシンであることについてOshoが最も濃密に語った講話ということになる。
 この講話を翻訳していた当時、私の心境はOshoやサニヤシンについてまだ懐疑的であり混乱していた時期だったが、この翻訳によってそれまで抱えていたサニヤシンに関するわだかまりがみごとに氷解していったのを思い出す。
 最初は、この講話の一部に気に入っていた章があり、それをきっかけに最初から翻訳してみようと思い立ったもので、当然翻訳するまでその内容はまったく知らなかった。
 そしてこの「Book of Wisdom」という講話が、「アティーシャの知恵の書」が、私がOshoを再認識、再評価し、Oshoの翻訳を続けていこうと思わせてくれた本であった。この本によって、それまで持っていた疑問は、その基本的な部分はほとんど解決したと言ってもいい。
 まったく不思議な縁であった。




 
8月22日

 この日記のページも月別にしてはそれぞれの分量が増えてきた。日別にしてもいいが、また最初から整理し直すのはめんどくさい。それでも、いつ、どんなことを書いたのか、自分でも探すのに苦労することがある。その日に思う好き勝手な事を書いているので、テーマ別に分類することは難しい。

 さて、このOsho Friendsというサイト、別のページではOshoの出版権についての問題提起もしているから、非常に重要なサイトである。
 その中で、上にも書いた「Book of Wisdom」のアメリカ版で改変や削除が行われた箇所を、第2章の中で見てみた。
 http://www.oshofriendsinternational.com/index.php?option=com_content&view=article&id=72&Itemid=158

 質問者の名前は全て赤字になっているから、これは削除されている。
 そして最も長く削除されている文が、「アティーシャの知恵の書」での下記の文になる。

 「つい先日、クリシュナ・プレムが私宛に書いた手紙の中で、数多くの過去生において彼はディヴィヤナンダ----彼が今愛している女性----と関係があったことを思い出したと言ってきている。過去生において彼(クリシュナ・プレム)は母親であり、ディヴィヤナンダは息子だった。そして彼はその生の中で母親としての義務を全く果たすことができなかった。だからそのため、彼は現在ディヴィヤナンダとの愛の中にある。「しかし今、借りは返されたように思えますが、ディヴィヤナンダはいろんなやり方で私を傷つけます。私は関係を終わらすべきでしょうか?」
 私は彼に伝言を送った。「ティアサのところへ行って話しなさい。」 彼はとても傷ついた。当然だ。彼はそれほど大それた事を話していたのだ。彼は私がこのように言うのを待ち続けているにちがいない。「クリシュナ・プレム、あなたは達成した。過去生を思い出すなんて、これはすごいことだ!これはあなたにとっての最初の悟りだ、クリシュナ・プレム。」と。心の底では彼はこれを待っていたにちがいない。
 私は彼に、自分の偉大な体験について語るよりはむしろティアサのところへ行って話してみなさい、と言った。これは彼を深く傷つけたにちがいない。なぜなら私は直接彼には答えず、彼をティアサのところへ行かせたからだ。ではこのティアサというのは一体何者だ? クリシュナ・プレムがティアサのところへ行かされるだと? クリシュナ・プレムはティアサと同じくらい高く到達している。ではなぜ? あるいは、たぶん彼はティアサよりももっと高いレベル、もっと神聖であるかもしれないのだ。ではなぜ? どうしてティアサのところへ?
 2日間彼は大変な絶望の中に生きた。そもそもそんな小さな事で。しかも彼はそれを見破ることができなかった。それを見破るために彼は48時間もかかったのだ。その後彼は理解した。「これはただ私のエゴにショックを与えているだけなのだ。」 そしてそれからすぐに、その理解で、全ての絶望は消え去った。その理解の中で、まさにその瞬間、全ての暗闇は去って行き、そして彼は輝き、幸せになり、再び彼の自然な姿に戻った。しかし彼はそれを見破るのに48時間もかかった。
 もうその必要はない。クリシュナ・プレム、あなたはティアサのところへ行く必要はない。今度は何か別の事を見つけよう!
 小さな、非常に小さな事は、小さいという単純な理由のために、見破ることはより難しい。大きな事は見ることができる。」

 ・・・・さて、何が問題なのだろう? 過去生について話していることか? それ以前に、Oshoがサニヤシンについて語っていることに問題があるのだろうか?
 要は、アメリカ版「Book of Wisdom」では、この部分が完全に消えているということだ。すごく神経質になっているように感じるが、そんなにデリケートな問題なのだろうか・・・。

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 好き勝手な思いを書けば、過去のサニヤシンでは、日本人は西洋人のようにならなければならない、という変な風潮を感じた。日本人であることがダメのような、問題があるような・・・、プネーのアシュラムやオレゴンのコミューンで出来るだけ多くの西洋人と接することが大事だ、とでも言わんばかりに・・・・、
 まるで西洋人的な日本人こそ優れた日本人サニヤシンであるかのように。だから英語の話せない日本人は批判されたり見下されたりするのだろう。

 そんな私は、ドイツ人と3年間の結婚生活をしたのだが、西洋人がいかにキリスト教に条件付けられているかがよくわかった。西洋人は、いくらサニヤシンぶっても、所詮、根っ子の部分はキリスト教徒なのだ、これは根深い事実である。




 
8月23日

 Osho Friendsで「Book of Wisdom」の削除部分を他にも少し見てみたら、章全体が赤字になっていた、つまり全部削除されていた章がいくつか見つかった。章全体が・・・・、完全な検閲だな。当然、OIFによるものだろう。アメリカ版だし・・・。だがそれを指摘し、暴露しているOsho Friendsは素晴らしい。
 日本のサニヤシンのサイトにも、こんなガッツのあるサイトがあってほしいけれど。

 「Early Talks」の第1章を翻訳する。1969年10月、カシミールでの講話。


 Oshoという名称は1989年5月から使われている。それまではバグワン・シュリ・ラジニーシと呼ばれ、それ以前はアチャリヤ・ラジニーシと呼ばれていた。アチャリヤとは教師という意味で、バグワンは祝福された者、神、という意味を持つ。アチャリヤからバグワンに名を変えたのは1971年5月で、実際にこの名前に変えたことで、それまで追従していた多くの人々がOshoから立ち去ったらしい。バグワン(神)という名前は受け入れられない、ということで・・・。

 このアチャリヤからバグワンに名を変えたのには意味と意図があり、アチャリヤ時代のOshoはインド各地を旅して、行き先々で出会う人たちはみんな初対面であり、だから毎回初歩的な段階から話さなければならなかった。それにOshoは次第にうんざりしていった。どこへ行っても一から、ABCから話さなければならない。
 それで次第にそんな旅を続けることを止めるようになり、ムンバイに落ち着きだしたのが1970年頃。そして知識を得ることを目的としていた人たちより、Oshoの存在とのコミュニケーションを求めている人たちを受け入れ始める。Oshoとのハートの繋がりを感じたい人と接するために・・・。
 だから、アチャリヤ - 教師 - からバグワンになった。この「バグワン」という名称もサニヤシンに選ばさせた。他には「パラマハンサ」とか「マハリシ」という名前も候補に上がっていたらしい。この詳しい話は私が翻訳した「The Discipline of Transcendence」第2巻の4章に出ている。

 ともあれ、1971年5月以前のOshoはアチャリヤであり、その頃の講話はアチャリヤ・ラジニーシの講話であった。だからその内容は基本的であり、かつ秘教的なのかもしれない。
 その時代の講話で邦訳されたものは「未知への扉」、「神秘の次元」、「グレート・チャレンジ」、「死ぬこと 生きること」、「瞑想-祝祭の芸術」、「秘教の心理学」、「奇跡の探求」、「真理の泉」などがある。この中では「真理の泉」が最も古い。




 
8月27日

 気まぐれに、知りたい部分だけを翻訳している。
 現在まで翻訳した箇所は・・・・・

 The Osho Upanishad 35章 ・ロード・マイトレーヤ
 Yoga: The Alpha and the Omega Vol. 5 6章 Q-13 ・チョギャム・トゥルンパ
 Yoga: The Alpha and the Omega Vol.10 6章 Q-1 ・ルドルフ・シュタイナー
 Early Talks 1章
 Krishna: The Man and His Philosophy 4章 ・クリシュナの誕生の記録
 The Osho Upanishad 41章 ・光明とは何か

 そして現在は〜
 Om Mani Padme Hum 1章 ・オーム・マニ・パドメ・フームというマントラ、チベットという国について。

 「反逆の軌跡」の進展もまったく見えてこない。当初は6月出版と言っていたのに、もうじき9月である。こんな出版の状況では、上のような翻訳のやり方は個人的にいい。100%自分のためだけに翻訳している。興味のあるところだけを翻訳しているのだから、1冊が完訳できるのは成り行き次第。
 この中で完訳に最も程遠い講話はやはりクリシュナだろうな。死ぬまでに完成すればいいだろう。

 個人的には、他の人が翻訳中のVedanta:Seven Steps to Samadhiと、The Message beyond Wordsが早く読みたい。

 Oshoの文献学的なワークをやっているな。それもいい。他にそれをしている人を知らないし、誰かがそれをしなければ、放っていては失われてしまうから。

 80年代に権力的だったサニヤシンたちは、今、何をしているのだろう?または放蕩的だったサニヤシンたちは・・・?




 
8月28日

 「エクスタシーへの旅」を書いた幸野谷昌人にしても、「インナーラビリンス」を書いたナルタンにしても、何の瞑想経験もなく知識もなく、なんとなくプネーのアシュラムに長期滞在していろいろな体験をしたというのは大きいだろうな。
 私にはそんな体験〜アシュラムの長期滞在〜はなく、サニヤシンから間接的にOshoを知らされただけ。サニヤスを取った1982年は、Oshoは既にインドを離れていた。その数年間、断片的にグループやらセッションを受けたくらいで、大した体験はしていない。
 ただ、それ以前から自己流ながら瞑想はしていたし、精神世界の本も読んでいた。また、いくつかの新興宗教団体も覗いていた。もちろんどれにも入信はしかなった。つまり、ある程度の知識はあった。
当時、影響を受けた本は「バガヴァッド・ギーター」、ラムダスの「ビー・ヒア・ナウ」、「チベットの死者の書」・・・
 だから、Oshoの何が特別で違うのか、が当初はよくわからなかった。一番わからなかったのが、Oshoの言う瞑想だった。

 瞑想とは何か? これはずっとわからないままだった。坐禅と同じなのか?違うのか? カタルシスに取りつかれていたサニヤシンもいた。その人にとって瞑想とはカタルシスを出すことだった。テクニックに、形にこだわっていた人もいた。
 Oshoが動的な瞑想テクニックを導入したのは、現代人は普通に静かに座ることができないから、というのが理由だ。それはわかる。
 では、私もそうなのか?
 ただ、当時の私は普通に静かに座ることはできた。だが、それを自己抑制していると見ることもできる。その辺がよくわからない。だが、静かに座ると、他人から批判された。静かに座ることは、生きていない、死んでいる、という観念を刷り込まれた。それは、他人の自分に対する意見との葛藤でもあった。
 本当のところがわからないから、たとえ静かに座っても、これはOshoが言う瞑想ではないのかもしれない、という不安はずっとつきまとっていて、そのままわからず、Oshoから離れた。

 今でも、瞑想はわからない。だから、自分が瞑想をしているのかどうか、自分は瞑想的なのかどうかわからない。ただ、もう年だから、エネルギーも落ち着いているし、動的な瞑想はできない。だから、今までよりも静かに座れる。

 「エクスタシーへの旅」を書いた幸野谷昌人と言う人はなかなか激しい攻撃的な人のようで、この本に書かれてある体験も破天荒なものが多い。だから読みものとしてはおもしろいだろうが、私的には共感できない。ただ、当時のサニヤシンは割とこのような攻撃的な人が多く、ナイーブな、繊細な人はサニヤシンの資格はないのか、というコンプレックスを当時から持っていた。それは今でもわからない。

 そんなサニヤシンに嫌悪感を持っていたということは前に書いたが、おもしろいのは、現在Oshoのワークを最も活発にしている二つのセンター、サクシンとOEJの代表者がどちらもそんな昔のサニヤシンとは合わないようなことを言っていることだ。


 結局、自分は自分であり、自分でしかない。攻撃的なサニヤシンがもてはやされようと、そのようにはなれなかった。
 それでもOshoは、受身でありなさい、受容的でありなさい、と言っているけれど? 自分自身を受け入れなさい、あるがままでいなさい、とも言っているけれど?


 今は一人で生きているので、自分自身を受け入れられる。他人の自分に対する評価は全てクソクラエと思っている。だいたい、今、そんなヤツは周りにいない。
 瞑想も、成長も気にしていない。何が成長かもわからない。他人と比較しても意味がない。Oshoも、比較するな、と言っている。

 ただ、今とここを、自然に、普通に生きるだけ。




 
8月29日

 Om Mani Padme Hum 1章の、とりあえずチベットとマントラについての翻訳を終える。

 今日は朝からYahooニュースで、北朝鮮がミサイルを発射し、それが北海道上空を飛んで太平洋に着弾したことを知り、それに関心を寄せてあまり翻訳の方は進まなかった。まあ、ミサイルの発射後、すぐに日本政府はその軌道を分析して、日本本土には落ちないことがわかったため迎撃しなかったらしい。
 こんな北朝鮮を全共闘世代は理想国家と見ていたのだからな・・・・・

 ともあれ、人間の内的探求に全てを捧げた唯一の国チベットが中国共産主義に破壊されているという講話は1987年のもので、この章はOsho Times 85号に1ページだけ掲載されていた。

 さて次は、Oshoの誕生の秘話が載っている From Misery to Enlightenment に移る。これは1985年のアメリカ・オレゴン、ラジニーシプーラムでの講話。
 Oshoの誕生の秘話とは、Oshoが生まれる前、Oshoの母が出産のために実家に帰ろうとする途中、川を渡らなければならないが、その時は増水で川が氾濫していて渡し舟の船頭が川を渡るのを拒んでいたところ、通りがかりの聖者が、Oshoの母親の胎内にいる子(Osho)は尊い魂の者であり、守られているため川を渡っても大丈夫だと助言し、無事に川を渡り切ったという話。これは14章にある。
 このエピソードは私が翻訳した講話の中にも出てきたのを覚えているが、どの講話だったかは忘れた。
 それにしても、こういうことが言える、それが見抜ける聖人がインドにいるということが、インドのスピリチュアリティの深さを感じさせる。

 その講話の中で、9章にOshoが誕生と死について語った講話があり、これも興味深いので次はこれを翻訳しようかと思う。




 
8月31日

 現在の翻訳状況を表にした。
数字は章ナンバー、太字は全章数、黒字は完了、青斜字は途中
KRISHNA: The Man and His Philosophy 1970年 - 22 / 1 2 4 6 15 16
Yoga: The Alpha and the Omega Vol.5 1975年 - 10 / 6 13
Yoga: The Alpha and the Omega Vol.8 1976年 - 10 / 1
Yoga: The Alpha and the Omega Vol.10 1976年 - 10 / 6
The Osho Upanishad 1986年 - 44 / 35 41
Early Talks 1969年 - 7 / 1
Om Mani Padme Hum 1987年 - 30 / 1
From Misery to Enlightenment 1985年 - 30 / 9 14

 たぶんこんな感じでこれからもしばらくはパラパラに進んでいくだろう。
 太字の数字は章の数で、例えば「クリシュナ」の講話は全部で22章あるが、各章のページ数が他の講話のものより長いので、実際は40章分くらいある。

 昨日まで翻訳していたFrom Misery to Enlightenment の9章で、過去生と誕生の関係、Oshoが誕生後の3日間、ミルクを飲まなかったこと、それがOshoの過去生で21日間の断食を完結できなかったこととの関係について語っている。これについては「神秘の次元」でも簡単に触れられているし、出版待ちの「反逆の軌跡」ではOshoの母親のコメントも交えて詳しく述べられている。






Osho日記 2017年 8月

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