3月 4日
Nowhere to Go but Inの翻訳は第5章の終わりまできたが、個人的に好きな内容だ。ヒンディー語からの英訳で、文法的に変な文章もままあるが、全体としてはそれほど難しい翻訳ではない。ここ1週間ほど翻訳のペースを少し速めている。これで全体の3分の1まで終わっているから、早ければ5月中に完了するかもしれない。
同時進行として、An Anthology of Osho's Life From His Own Books の翻訳も進めてみたくなってきた。これは本にはなっていないと思う。
OSHO Worldのサイトにあるもので、Oshoの講話から抜粋してOshoの生涯をまとめたもの。これは逆に、どの講話にどんな内容のことが語られているかを知るためのいい手がかりにもなっている。ただ・・・出版することはかなり難しいかも・・・
私の瞑想暦は〜〜
サニヤシンになる前から、座禅のような瞑想は数年間してきた。超越瞑想のイニシエーションも受けたが、これはあまり長続きしなかった。
静かに座ることはもともと好きだった。
サニヤシンになってからは、やはりクンダリーニ、ナダブラーマが一番好きだった。後はナタラジやワーリングなどもいい。
マンダラ瞑想は、初めてやった時に第3ステージで目を回転させる時、その時いた瞑想指導者〜サニヤシンが、私の目を回転させる速さが遅すぎるといって修正を求めてきた。初めてだったので一応その指導に従ったが、心のそこでは「こいつ、瞑想のことをわかっていない」と思った。
瞑想は内面の作業なのに、なぜ形にこだわるのか?ということだ。目を回転させる速さが瞑想とどんな関係があるのだ?
それ以来私は、サニヤシンは瞑想を知らない、という思いを持ち始めた。瞑想を知らないやつが、おそらく知りたての知識をもって他人に瞑想を教えていた。クループ・セラピーなども、まったく素人の練習台にされているような気分だった。
他の瞑想では、デヴァヴァニやグリシャンカールは数回ほどしかやったことがない。鏡の凝視〜トラタック〜は3週間続けた。これは強烈な体験だった。
ダイナミック瞑想は、本格的にやりだしたのはそれから数年後、ドイツ人と結婚してからで、約3年間ほとんど休みなしで続けた。
カタルシスで、体臭が異様に変化したのが印象的だった。
瞑想的なエクスタシーは、サニヤシンになる前に、油絵を描いていた頃、その製作中に何度も経験している。絵を描くことは私にとって知らずに瞑想になっていた。
瞑想は形ではない。それはマインドが止まった状態であり、自我が消えた状態、空の状態のことだ。呼吸やカタルシスや目の回転は全てその状態を起こすための準備である。その瞑想状態が起こるのであれば、そのための方法は何でもいい。自分に合った方法をすればいいだけだ。自分が楽に楽しめる方法、それが自分に合っている証拠だ。
瞑想はこつである、とOshoは言っている。数十分静かに座ることが瞑想ではない。それは外側の形にすぎない。
絵を描くことは瞑想になる。走ることは瞑想になる。それは自分で体験して知っている。
今は、翻訳が瞑想になっている。
3月10日
Nowhere to Go but Inの翻訳を続けていって、改めてこれまで自分に教えられてきたことのデタラメさを感じている。もちろんサニヤシンから受けたものも含まれる。
共感する相手がいないことの孤独、だがその自由であることの方が大きい。心は揺れ動く。古いパターンが騒ぎ出す。しかし、過去に得た経験から、誰に会っても、どこに行っても、何も期待できず、何も得られないことがわかっている。外側でのトリップは終わっている。
だから翻訳に没頭できる。今が人生で一番おもしろく充実している。
3月19日
自分がやっていることは編集、整理、リスト作り等・・・、
これは私の自然な衝動のようだな。昔から音楽でも誰かのベスト曲を編集してカセットテープにまとめることを好きでやっていた。
Oshoについても、その様々なリストを作ってこのHPにアップしている。作った自分にとってそのリストは非常に役に立っている。
英語書籍・講話リスト 年代順講話 & ワーク ヒンディー語からの英訳書 和訳本リスト
Osho洋書出版年代別一覧 ダルシャン・ダイアリー
ラジニーシ・ニューズレター
Oshoが取り上げたテーマ別、人物別のリストもぼちぼち作っているが、これは講話の内容を知るためのものなので、あまりとことんまでやる意味は感じられない。
とりあえず、シュタイナーに関する講話は4冊あり、特に Yoga: The Alpha and
the Omega Vol.10 の第6章で詳しく語っている。となるとこのパタンジャリ・ヨーガについての講話の翻訳はますます興味深くなってくる。
ブラヴァッキーについては20冊ほどある。
ミステリー・スクール・シリーズの講話の内容もだいたいわかってきた。今のところわかった限りで、このシリーズ最初の講話
The Osho Upanishad が最も興味深い。後は Sermons In Stones、The New Dawn、そしてマントラ・シリーズの5冊。
The Osho Upanishad ..................... #01:Osho 彼がいないことを惜しむサニヤシンに助言する
#16:1990年以降、Oshoは自らの身体から離れる時について語る
#20:アトランティスとレムリア #35:マイトレーヤ、ラマ・カルマパ
#41:光明の説明
Beyond Enlightenment .......................... #30:デルフィ
Sermons In Stones .................................. #1,#9:アトランティス #12:Osho
自らのビジョンと本について語る
The Rebellious Spirit ................... #29:デルフィ
The Razor's Edge ............................ #06:ヒュー・ミルン「ラジニーシ:堕ちた神」
The New Dawn .................................. #16:ヴィパッサナ #25:ブラヴァッキー #26:禅 #32:日本
The Invitation ...................................... #11:デルフィ
Satyam-Shivam-Sundram ................... #27:ヒュー・ミルン #29:セラピーから催眠へ
Sat-Chit-Anand ................................ #14:ブラヴァッキー
Om-Mani-Padme-Hum ................ #1:チベット #3:デルフィ #21,#25:アトランティス
Hari-Om-Tat-Sat ............................. #10:デルフィ #14:アトランティス
Om Shanti Shanti Shanti ............. #6:ブラヴァッキー #13,#18:デルフィ
これらも当然翻訳したいリストに入ることになる。
3月ももう半分が過ぎたが、出版社から次の翻訳の出版が出そうな気配はまだない。
今年は5冊くらい出したいと言っていたが、また版権申請でとまどっているのだろうか・・・?
出版のメドも立たないまま、ひたすら翻訳ファイルを送り付けることになるか・・・
私の翻訳の趣向はあくまでエソテリズム〜秘教科学、Oshoの説く神秘主義、太古のヒンドゥー聖者・思想の取り上げにある。
だから、タオとか禅に関する講話はあまり翻訳する気はない。もう既に十分あるだろうし・・・
The New Dawn という講話の中でOshoは、英語をまったく理解していない日本人女性のサニヤシンについて、彼女は最も私を理解している、と言っている。つまり、言葉に捕らわれずにハートで交流できる人がOshoに最も近い、ということだ。
そうするなら、初めてのプネー訪問で私が英語を話せないことをチクチク批判して説教した日本人サニヤシンや、それを嘲笑した西洋人サニヤシンなどはまったくデタラメでわかっていないということになる。
サニヤシンといっても、だいたいは自分勝手な解釈でわかったつもりになっている知ったかぶりや、非常に俗っぽい者が多い。関わってもめんどくさいだけだ。
3月20日
Nowhere to Go but Inの第8章の文から〜
数多くの苦しみがあるかもしれないが、希望はそれらをすべてまとめたものより更に大きい。生は幸福の継続ではない。幸福はほとんど全く存在しない。そしてもしそこに苦しみしかなかったなら、その時も生は崩れ落ちてあなたは自殺しただろう。
このためすべての思索人は、彼の生のどこかの時点で自殺しようと思うのだ。彼はこの生の章を閉じようと考える。
「毎日ただ朝起きて夜ベッドに行くことに何の意味があるのだ?同じ食事、同じ衣服、同じ決まりきった仕事!同じ車輪の上を絶え間なく回ることには何の目的もないように思える。
そして人がとにかく最後には死ぬことになるのなら、たった今死ぬことの何がそんなに悪いのだ?同じ車輪の上を回る三十年後か四十年後に人は死ななければならない。
そしてとにかく死の深淵が私を飲み込もうとしているなら、まさにこの日に私自身を明け渡すことがなぜいけないのだ?なぜその間にそんなに多くの心配、苦悶、騒動を通り抜けるのだ?」
だからいずれ、すべての感じやすい人は自殺について考えるのだ。ただ愚かな人だけがこの生は終わるに値するとは決して考えない。だが思索する人や感じやすい人は自殺を考える時点に何度も到着する。
これこそ私が中学生の頃、13歳頃に感じたことだ。
人生の全てが無意味に思えた。どうせ死んで、全てなくなるのなら、生きることに何の意味があるのだろう?
私のスピリチュアルな探求の出発点はここにある。それと同じ思いの言葉には、本当にOshoの講話の中でしか出会えない。
巷の人気のあるスピリチュアル系の本や教えは、所詮、希望や慰め、インスタントな解決法を教えているだけに見える。だから人気があるのだろうけれど。
3月23日
市民出版社から、今年は5冊くらい出版したい、と言っていたが、その1冊目の連絡はまだない。
他のサイトでもOshoの新刊に関する情報はなく、そもそもOshoの基本的な情報があまりに貧しく乏しい。
自分のHPのOshoのページが最も充実しているし、自分が作ったものしか頼りにできない。
つまり、自分しか頼れるものがないということに、時たま心細さを感じる。
一人だけで進んでいることは、その道の頼りなさ、不確かとの葛藤になる。だが他人は信用できなくなっている。
Oshoに関わる事に揺らぎはない。
ただ、一冊ずつ翻訳を地道に続けるか、編集・抜粋的にまとめて翻訳するか、に常に迷う。
一冊を翻訳することは、自分にとって関心の薄い内容にもエネルギーを注がなければならない。
それよりかは、自分の関心があるテーマだけに関わった方がいいのか・・・・、というところにある。
おそらく迷いながら、実際にやってみて、その感覚から自分の道を探っていくしかない。
とにかく、誰にも邪魔されずにやっていける環境にあることは恵まれているのだろう。
・・・そして誰もいなくなった。何かの小説の一説だろうか・・・
今はまさにそんな心境。これまで自分を罵倒したり嘲笑したりしてきた人たちは、今はいない。
ただ、その記憶・波動・影響だけはまだ微かに残っている。 これに乱されないようになること・・・・、これを消すこと・・・・
3月25日
山川紘矢訳のOshoの本4冊目が「Creativity 創造性」として発売される。これに関するAmazonの紹介データは画像もあり、発売日も正確だが、私の翻訳した「真理の泉」はいまだに画像もなく発売日も間違ったままになっている。何度も訂正の通知をしているが改められていない。
Nowhere to Go but Inの翻訳は、やはりヒンディー語からの英訳なのか、訳しにくいところが多く、時間がかかっている。
出版されれば、たぶん600ページくらいになるだろう。
電話は長らく不通にしている。外部との接触をできるだけ絶っている。関わるのは私にとってはストレスの元だし、とにかく今の自分の仕事に集中したい。他から邪魔されたくない。
Oshoの情報に関するサイトは自分のHPしか頼りにならない。
3月29日
改めてここ数年のOshoの翻訳本の出版を見てみると、ほとんど山川紘矢か私が翻訳したものしか出ていない。
変なもので、サニヤシンでは自分以外誰もやっていないという状況になっている。
もともと、角川書店からの山川訳の本は5冊出す予定だったらしいから、残りあと1冊ということになる。阿部敏郎のいまここ塾からはもう出ないだろうし、行く末はしょぼくなるだろう・・・
最近、Oshoの講話とは、それ自体が一つの寓話であるように思えてきた。インドの古い経典がそうであるように。
翻訳を続けていって、そう感じるようになってきた。
まあ、出版状況がこんな状態なら、ますます自分の好きなようにやればいいだろう。
もともとは自分のために始めたことだし、皮肉にも、サニヤシンから受けた傷がOshoの翻訳を通して癒されているのだから。
Osho日記 2017年 3月