10月 1日

 Amazonに注文していた「Gita Darshan」1、2の2冊が届いたが、そのページ差、ボリューム差に驚いた。
  
 右のオレンジ色が1巻で598ページ、左が2巻で352ページ。 ほぼ2倍の差がある。
 1巻がヒンドゥー語原書の1巻の1章と2章の英訳で、2巻が同書1巻の3章になる。ヒンドゥー語原書は全8巻18章で、これはその中の3章分だから、全体の6分の1になる。
 このOshoのバガヴァッド・ギーターについての講話は、ひとつのシリーズとしてはOshoの全講話の中でも特に長く、1970年から1974年にかけて行われている。

 それでも・・・、このページ数の少ない2巻の方が1巻よりも値段が高かったのだが、どういうわけだろう?


 前回の日記で、Osho自身がラマ・カルマパについて〜Oshoの2生前の前世の黄金の像がチベットの洞窟に保存されている99体の中の1体であるという話について語った講話がどれなのかわからないという件で、
 手元にあるOshoの講話のpdfファイルを全て、カルマパ Karmapaという語句で検索してみたところ・・・、

 ただ1冊だけがヒットした、が・・・、それはOshoが語っているのではなく、質問者がカルマパの名を取り上げているものだ。
 そしてこの質問者は他でもないこのラマ・カルマパに会ったスワミ・ゴヴィンド・シッダールタである。その講話は「The Osho Upanishad」の35章で、カルマパの言葉が出てくるのはシッダールタの質問の中だけだ。

 ということは、
  「何日か前にラマ・カルマパは私についてあることを言った・・・。カルマパはある過去に誕生した私の1つの身体がチベットの洞窟に保存されていると言った。99体の身体がそこに保存されて、その中の1つの身体は私のものであり、それがカルマパによって言われた。・・・・」
 とOsho自身が語っている講話は、依然として不明のままだ。

 ひとつの可能性としては、まだ英訳されていないヒンディー語の講話の中にあるのかもしれない。あるとすればマハーヴィーラについて語った「Mahavir Vani」が有力だが、それでもsamadhの関連性はない・・・。

 ちなみに・・・
 このThe Osho Upanishadという講話は1986年、Oshoがワールド・ツアーからムンバイに戻ってきて始められた最初の講話であり、ミステリー・スクール講話シリーズの第一回目でもある。
 つまり、ひとつの大きな転換期に当たる講話と言える。その意味では非常に重要な内容を含んでいると思われる。

 それと、
 このスワミ・ゴヴィンド・シッダールタは後に光明を得るが、それを境にOshoとの関わりを絶つようになる。
 いったん光明を得たのなら、それはOshoと同等ということであり、Oshoはもう必要ない、ということなのだろう・・・

 このあたりの情況も、その後の講話の中でOshoは言っていたと記憶しているが、他にもあの「ラジニーシ: 堕ちた神」を書いたヒュー・ミルン(シバ)やシーラなど、いろいろなサニヤシンの反乱について語っているのが、オレゴン時代からミステリー・スクールにかけての講話の中に多いようだ。
 この辺は内輪の者にとっては非常に興味深い内容だろう。



 10月 3日

 翻訳はThe Eternal Questに移っている。Yoga:The Alpha and The Omega Vol.3 と同時進行で翻訳していたもので、全15章中6章は終わっている。
 1967年頃の講話で、これまで翻訳した中では最も古い時期に当たる。1967年となると当時のOshoは36歳になる。
当然、原語はヒンドゥー語で、それからの英訳だから、案の定、文法的に不可解な分も多く、単語の綴り間違いも相変わらず見られる。 

 例えば・・・ thing 〜物〜が thin 〜薄い〜になっていたり・・・。

 これは原書を持っていないので正誤の確かめようがないが、前回のThe Long, the Short and the Allの翻訳でだいぶ慣れたので、前後の文脈から正しい言葉を探り取る方法を取っている。


 市民出版社の出版予定は、The Long, the Short and the All 「真理の扉」が12月上旬。あと2ヶ月後。その後、来年の春にOshoの伝記 「OSHO: The Luminous Rebel」が出る予定だが、この本は現在価格交渉の段階でまた長く返事待ちの状態らしい。版権取得作業も一度では済まない様子だ。
 たぶんこの後に、The Discipline of Transcendence Vol.1〜仏陀の42章の経文からの講話〜が出るだろう。これはリバイスは終わっている。

 一応、翻訳した順番に出版するという形を取っている。OSHO: The Luminous RebelはThe Discipline of Transcendence Vol.1よりも後に翻訳したものだが、内容を見てその出版順を変えることもある。

 この様子だと、「The Silent Explosion」はまだだいぶ先になるだろう。版権もまだ取れていないみたいだし・・・。

 これまで翻訳したものや、これから翻訳予定のものには、市民出版社が既に翻訳を始めていながら、中途で終わっているものや、なかなか進展しなくて、代わりに行ったものが多く含まれている。「アティーシャの知恵の書」、「死ぬこと 生きること」、「ビヨンド・サイコロジー」、「The Discipline of Transcendence Vol.1」など・・・。これから予定している「Nowhere to Go but In」もそれに当たる。
 市民出版社が、10年前や20年前から翻訳を依頼したり翻訳を始めたりしながら、完成しなかった本はけっこう多いみたいだ。
 中途で終わったその翻訳者は、その作業が採用されなくて残念な思いを持っているかもしれない。まあ、本人がそれを成し遂げなかったのが一番の問題なのだが・・・。

 その意味でも、
 現在、他の翻訳者によって進められている「Vedanta:Seven Steps to Samadhi」と「The Message beyond Words 」はぜひ完成してほしい。



 
10月 5日

 Osho自身がラマ・カルマパについて語ったコメントの引用講話を探すために、その文の冒頭の部分 「Some days ago Lama Karmapa had said something about me」で検索してみたところ
 
Osho narrates his Past Lives というサイトがヒットしたが、ここでもその引用講話は紹介されていない。

 それでも、この文章は存在するのだから、どこから引用されたのかということは気になる・・・。

 そして確かに言えることは、カルマパの次の言葉だろう・・・。
 「和尚が何者であるかをはっきり理解するのは、ほんの少数の人々だけだ。

 そして私はOshoの講話の翻訳を通して、Oshoとは何者であるかをわずかながらかじり知っていく、ということをしている。
 それは同時に、自分自身を知るための手立てを発見していくことにもなる。



 
10月20日

 戯れに、「ラジニーシ: 堕ちた神」の本について何か書かれたコメントがあるのかとネットを検索してみたら、3つくらい見つかったが、どれも取り上げるほどもなく反論する気にもなれないほど表面的で薄っぺらい内容のものばかりだった。無理もないだろうけれど・・・。
そもそもこういう人たちは真実が何なのか、本当に起こっていた事は何だったのかをまったく理解できていないのだからな。
 Oshoに対する批判の主な材料となるのが、アメリカでのコミューン建設とその崩壊に関するものだろう。
 それが理由でサニヤシンを止めた人も多いのじゃないかと思う。

 よく、オウム真理教がOshoのカルト性を指摘するために引き合いに出されることが多いが、それも当然だろう。なぜならオウム真理教は完全にOshoのやり方をパクっているし、その弟子の大方は元々サニヤシンだった者たちが多いらしいし、ようするにOshoをそういう目でしか見れなかった者たちが、Oshoから離れて、自分たちの理解できる範囲で、自分たちの勝手な解釈で、また同じカルト的なゲームをしているわけだから。
 それは、彼らがその程度にしか理解できない、ということの十分な証拠でもある。

 カルトや組織は、どんな宗教でも弟子たちが、いや信奉者たちが作るものだ。これをOshoはずいぶん前から指摘し、注意しているのに、バカな弟子はそうしてしまう。

 Oshoはカルト化や組織化に絶対的に反対してきたのに、そのOshoがカルトの教祖にでっち上げられている。
 それの象徴がこの「ラジニーシ: 堕ちた神」という本だ。この本を書いたヒュー・ミルンと、その内容を支持する読者たち・・・、
どちらもただ無知と無理解から来る誤解と偏見に満ちている。

 ヒュー・ミルンをOshoの高弟と書いている人もいる。笑ってしまうな・・・。ただOshoのそばに長くいただけで高弟と決め付けるのだから・・・。

 この程度のレベルなんだな・・・・



 
10月22日

 上のようなことを考えると、やはり「The Last Testament」の翻訳は必要なのかな、と思ったりもする。
 The Last Testamentは、1985年7月から8月にかけて報道機関からの質問にOshoが答えたもので、pdfファイルで全6巻になる。一般記者からの質問だから、その内容は普通身近に感じるようなものばかりだと想像される。
 断片的には、Osho Timesにも少し掲載されている。

 日本語字幕の付いた映像はこちら〜、 精神世界の鉄人!あらゆる宗教と戦った覚者

 別にOshoを擁護するつもりもなく、弁護するつもりもないし、私自身もまだOshoについては知らないことが多いから、そんなことは不可能だが、翻訳を続けていくにつれて、かなりこれまで抱いていた疑問や誤解は解けていったように思える。

 要は、何も知らないのに知ったかぶりしてわかったようなことを言われるのが気に入らないだけの話。
確かに、自分の無知を認めるというのは難しいことだけれど・・・。
ソクラテスが賢者だと言われたのも、「私は自分が何も知らないということを知っている。」と言ったからだ。いわゆる「無知の知」というもの。

 Oshoの翻訳も、いろんな角度からのものを取り上げていきたいが、基本的には自分が楽しめるもの、興味を持てるもの、自分に関わりの深いものしかやりたくはない。 そうでないものは、他の人が翻訳すればいい。

 Oshoが語っているのは宗教の原点であり、本質であり、だからそれは太古からのものでありながら永遠のものでもある。だからあらゆる宗教を取り上げることができるし、あらゆる宗教の矛盾を指摘することもできる。その点が、翻訳をしていてワクワクさせられるところでもある。

 だから、Oshoを批判する人というのは、その人固有のこだわり、先入観、条件付け、教え込まれてきたものに基づいている。なぜなら、批判するためには一定の価値基準が必要だからだ。でなければ、何を基準にして批判できるのだろう?

 日本人特有の条件付け・・・、と言っても、それは古くから続いてきたものではなく、けっこう明治時代や昭和の軍国主義時代に植え込まれた、比較的新しいものが多い。江戸時代の日本人は、もっとおおらかに、個性的に、合理的に生きていたらしい。それが明治維新を起こす力にもなっている。
 つまり、現代の画一化された閉塞的な日本は、明治以降に西洋化されていく中で植えつけられていった価値観から生じた結末であるかもしれない。

 そういった無意識に深く入ってしまっている条件付けを一つ一つ暴いていくのがOshoのワークの一つでもあるわけで、それを翻訳しながら感じていく上で、個人的にどうしようもない悔しさに襲われることもしばしばある。それは、自分が何も知らなかったため、無条件にそのような価値観を信じ込まされてきたことに対する悔しさだ。それは当然他のサニヤシンたちから受けたものも含まれる。



 10月23日

 今、特に注目している好きな音楽が、前にも書いたBABYMETALと和楽器バンド。 この2つのグループに共通しているのが異質なものの融合にある。 BABYMETALはJ-POPとメタル・ロックを融合させ、和楽器バンドは日本の伝統楽器と西洋の楽器を融合させ、どちらも見事に調和させて新しい音楽を創造している。
 この融合させる能力は日本人特有のものかもしれない。古くは神道と仏教を融合させて神仏習合という現象を起こしているし、明治時代の西洋文化の取り入れもこの融合精神が作用したものだろう。

 日本人は東洋的か西洋的か、という難しいことを以前に書いたが、結局、この融合という見地から見れば、それはどちらでもあり、どちらでもない、ということになると思う。ある意味、日本は日本であり、日本でしかなく、独特な位置にあるのだろう。

 そういう意味で、Oshoがよく東洋と西洋を対比させる時、日本はどちらの部類に入るのか?というのが、そもそも日本は東洋か西洋かという疑問の発端であったのだが、今思うに、日本はOshoが言うところの東洋でも西洋でもない、と捉えた方がいいと感じている。
 Oshoがそのように二分化する時、東洋はおおむねインドを指し、その特徴としてスピリチュアルな探求の歴史は深くて長いが物質的には貧しい。つまり精神的すぎる、というもの。反対に西洋は物質的すぎる、ということになる。
 少なくとも、日本は東洋では最も物質的に進んだ豊かな国だ。しかも、伝統的な精神文化も受け継がれている。

 文脈においては、東洋・西洋を地理的なものではなく、個々の人間の資質の面で分けることもある。例えば、現代のインド人はまったくインド人的ではなく、西洋から精神的な探求にやって来た人の方がインド人的だ、というように・・・。

 いずれにせよ、Oshopが東洋という言葉を使う時、常にある種の違和感というか、日本はそれに含まれていないのでは?という猜疑心が働く。確かに日本については、禅や他の伝統芸能、武芸などをOshoが取り上げることもあるが、それらは一般的な日本人にとってはあまり身近に感じられないものが多い。
 日本が東洋と西洋を融合させているのは確かだが、悪く言えば節操がないとも言える。
 よく取り上げられるのが宗教の多様性・・・・。正月は神道の神社へ初詣、雛祭りや端午の節句は陰陽道に基づいた暦、夏のお盆やお彼岸は仏教、クリスマスはキリスト教、という風に。日本には宗教があってないようなもの、と昔からよく言われる。

 そういう意味では、宗教に対する条件付け・洗脳というものは、他の国に比べて弱いのではないかと思える。
 そういう意味では、本質的な宗教を説くOshoの話は日本人が一番こだわりなく受け入れられるのではないかと思う。特にこれからの若い日本人にとっては・・・。老害大国になりつつある日本を見て、私は今の若者に大いに期待している。彼らはすごく柔軟性を持っている。それぞれの分野での才能はますます成長しているように見える。
 そういう彼ら若者がOshoに興味を持ったらどうなるのか、という期待感はある。いまだにオウム真理教やそれに関連した団体に参入する人も多い、ということは、やはり精神的な部分での空虚感は感じているのだろう。


 日本人は西洋的になった、と決め付けて、西洋式のセラピーを押し付けられた私個人の過去の体験は今でもクソクラエ!と思っている。
 日本人に西洋式セラピーは合わない、と後になって言われても遅いし、また、そういっているのも西洋人だし、そもそもセラピーそのものを信用できなくなった。あれはただ金の無駄使いだ。

 昔は、Oshoは日本人のことをよく知らないのではないか、日本人のための教えはないのではないか、と失望したりもしたが、今はどうでもいい。日本人のためのグループなどもあったらしいが、参加するのは嫌だった。私自身が日本人に違和感を持っているのだから、子供の頃からどこに行ってもよそ者だったし、家族の中でも周りと溶け合わなかったし・・・。表面的に周りに合わせていたので、周囲の人はそういう風には感じなかっただろう。
自分は何的なのかさっぱりわからない。アイデンティティがない。帰属できるものがない。それが長い間の悩みでもあり、負い目でもあったが、今はどうでもよくなっている。
 基盤がないのなら、ないのだ。それは事実なのだ。自分がこれまでがんばって作ってきたもの、作品、それらはほとんど失った。親に捨てられた。自分で捨てた。特に、30歳以前にやってきたものは・・・。

 逆に、過去のしがらみがない分、軽くなり、自由でいる。他人との関係もなく、自由でいる。それはありがたいと思う。
 今の自分を支えているもの、それはOshoだけ・・・・



 10月24日

 宗教に対する条件付け・洗脳というものは、他の国に比べて弱いのではないかと思える・・・・むしろ、宗教に対する誤解、拒否反応は強いように見える。それも当然だろう。なにしろデタラメの宗教団体ばかりが世間を跋扈しているのだから・・・。

 一般の人は、何が本物で何が偽者か判断できない。だからそれなら全て拒否したほうが安全だ。

 Oshoの言葉・本は、「網漁」のようなもの。
広く網を掛けておいて、それにひっかかった魚を引き上げる。大方は取るに足らない魚ばかりだろうが、その中に一匹でも光る魚が、真の探求者がいれば、それは網を掛けた価値がある。
 Oshoが本当に関わって働きかけているのは、その光る魚〜真の探求者だけであって、他の取るに足らない魚たちはむしろ去ってもらったほうが邪魔にならなくていい。そういう魚たちはOshoをカルト教祖やセックス・グルとして批判し、自らOshoから離れるだろう。その方が好都合でもある。
 彼らはOshoの講話よりも「ラジニーシ: 堕ちた神」を唯一の経典にするだろう。

 真の探求者の素質がある人が、取るに足らない魚たちの言動に惑わされて自分の道を失う危険は大いにある。それが私自身が体験したことだ。だが、それもその人の成長のために必要な学びである。
 別に急ぐ必要はない。それぞれの人にそれぞれの時機というものがある。他人と比べるのが一番よくない。Oshoとの関係は、あくまで個人であることを常に覚えておくことだ。


 ・・・何も知らないのに知ったかぶりしてわかったようなことを言われるのが気に入らないだけの話・・・と書いたが、
 それに関連する文をスピリチュアル雑記の2016年 8月の8月20日の日記に載せた。同じ事を感じている人は少なからずいるということだな・・・。
とにかく、そんな知ったかぶりと議論することは、まったく時間とエネルギーの無駄であることが自分の体験からもわかったが、Oshoは実はサニヤス・イニシエーションを始める前のインド各地での遊行期に、いろいろな伝統宗教関係者や学者たちと議論し、彼らを全て論破してきている。

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最近の年寄りは物騒になったな・・・。近頃の年寄りはまったく、という感じだ。
 宇都宮での72歳の元自衛官の自爆死。自殺の直接の理由ではないが、2ヶ月24万円の年金では暮らせない、とか言っていたらしいが、同様な事件〜年金が少ないということで、新幹線での焼身自殺も記憶に新しい。これも老人だ。共通しているのは他人を巻き添えにしていること。自殺するなら一人で静かにやってほしい。
 自殺そのものが負のカルマであり、さらに加えて他人にも害を及ぼしているのだから、そのカルマはさらに大きい。生まれ変わってそのカルマを償わなければならないだろうから、来世は大変な生になるだろう。

 でも、2ヶ月24万円の年金ってごく普通の額じゃないの?私が65歳以降に貰える予定の年金もほぼ同じ金額だ。私にとっては十分すぎる金額だけれど。今、月5万円以下で暮らしているから、月12万円も貰えるなら十分ゆとりある生活ができる。まあ、住宅ローンが完済しているので楽なのだけれど。賃貸住宅で家賃を払いながらでは厳しいかもしれない。

 年金だけど、私が年金をもらえるということを市民出版社のスタッフは知って驚いていた。それを聞いて私も逆に驚いたが、なんでも、サクシン(市民出版社の母体)のスタッフは誰も年金保険料を払っていないらしい。まあ、あそこは「ナタラジ」というインド料理店が経済的に支えているらしいが、老後は大丈夫なのだろうか? あまり考えていない様子だ。



 
10月25日

 The Eternal Questの翻訳も残り2章。現在は第14章の「宗教の錬金術」を訳している。この中でOshoは仏陀の説いた苦〜ドゥッカについて語っている。・・・つまり、存在の無意味さを感じることの苦しみ・・・全てがいずれは死んでしまうのなら、生きることに何の意味があるのか、ということだ。
 世間的な仏教解説では、仏教の説く苦しみをここまで深くは捉えていないだろう。ごく表面的な、日常生活で生じる苦しみについてのものが多いように見える。もちろんそれについても仏教は語っているだろうが、そもそも仏陀がシッダールタ王子の頃、王族の地位を捨てて出家した理由はこのドゥッカ〜根本的な苦を感じたからだ。

 私自身が中学生の頃に感じた人生に対する空虚感も、このドゥッカだったのだろうか?
 人間はいずれ死んで全ては失われるのに、なぜ生きなければならないのか? 全ては無駄ではないのか?と感じて自殺したくなったことがある。
 その感覚は、自分の深いところでは当時と同じままで、何も解決していない。意味を見出していない。
 シルバー・バーチやシュタイナー、神智学、江原啓之など、いろいろなスピリチュアルの本を読んだが、どれほどそれに感銘してもその知識は所詮借り物である。自分が体験で体得したものではない。ただ、参考になっている程度。参考にできる知識も知らなかった頃よりかはずいぶん助かっているのは事実だが。

 いずれにせよ、私の精神世界の旅は、その中学の頃に感じた深い空虚感から出発している。
 当然、誰も理解してくれた人はいなかった。サニヤシンたちも、私が感じているその空虚感を、ただ暗いとか重たいとかいってバカにするだけだった。特にセラピストがそうしたのだから・・・・・・・
精神世界の話が通じるだろうと期待していたサニヤシンには本当に失望した。私は彼らから見たら深刻なサニヤシンなのだろう。

 だから、一人でいる。どうしようもない。話の通じない人間と一緒にいる意味はない。時間の無駄である。
そして、話の通じる人間はいない。いろんな人とつきあってきたが、誰もいないことがよくわかった。この半生の経験でわかった。もう無用な試みをする気もないし、期待もない。
 だから、一人でいる。



 
10月27日

 空虚感・・・とつながってくるけれど、結局のところ人間は何をやっているのだろう?という思いがずっとあった。こんなことやって何になるんだろう? 自分がこの生でやるべきことは何だろう?という疑問を抱えながら生きてきた。ようするに「自分探し」というものだ。

 世界の各分野で活躍している著名人たちは、例外なくそうすることができた環境の中で育ってきている。環境がその人の生き方を決定付ける。幼児期から青春期までの体験がその人の人生観を決める。それは一つの条件付けにもなる。

 私の場合、最初からいろんな場所に転々と移り住み、いろんな人の価値観にとまどい、いろんなものに興味を惹かれて、悪く見れば自己を確立するのが遅れたが、ようするに何も確かなものが感じられなかったので確かなものを求める気持ちが強くなっていったのだろう。
 その結果が、今の生き方になっている。その結果、Oshoにたどり着いた。その結果、確かなものは何もない、全ては流転する、ということに・・・。

 全ては流転する。それは人間関係も同じ。出会いは別れの始まり。いろんな人たちと出会ってきたが、みんないなくなった。そして今は一人。

 結局、生きるって何だろう?ようするに、いろんな体験をして自分を豊かにすること、それがスピリチュアルやOshoから学んだことだ。Oshoはよく、マルチ的な人間になりなさい、と言う。一つのことに縛られず、いろんな世界を見ることができる人間になること。
 そういう意味では、私自身はいろんな体験をしてきたな・・・、という感慨がある。


 前に、インドの聖人たちの系列を物語風にまとめたいという密かな願望がある、と書いたが、どうも無理な感じがしてきた。なぜならそもそもそのための資料が乏しいからだ。ようするに、インドは歴史を残さなかった。代わりに神話を残してきた。だから時系列でまとめることは不可能だ。そのあたりのことをOshoは現在翻訳中のThe Eternal Questの第6章: 宗教経典-歴史か?神話か?で語っている。
 そして、その典拠にするつもりだったOshoの講話でも、そもそもOshoは、自分は歴史に興味がない、と言っているので、Oshoの取り上げている歴史的人物のエピソードも史実かどうかはまったく確証がない。その点についてはプラブッダも「存在の詩」の後書きで述べている。

 歴史は、そもそも権力者が自分たちにとって都合のいいものを残した、その資料を基に作られたもので、いわば勝者の立場から見た世界だ。敗者の歴史は消されている。つまり、歴史は一面的で偏った見方に則っている。
 だが大方の人たちは、そんな歴史を基準にして、歴史的に見て相容れないもの、考えられないものは全て否定し、嘲笑する。古代文明に対する態度がそうであり、宗教に対する姿勢もそうだ。
 だが、本当の歴史は一般に知られている歴史だけではない。それはただ表面的なものにずきない、ということを教えているのがOshoであり、神智学であり、数々のスピリチュアルの本なのだ。それが真理の探究でもある。

 教科書だけの歴史を信じ込んでいる人たちとは話にならない。逆に、何でも宇宙人やらプレアデスやらアセンションとやらに結び付けて考える人たちとも話しにならない。両極端である。
 だから、話の通じない人間と一緒にいる意味はない。時間の無駄である。

 そのへんの探求を真摯にやっている人を、私は身近には知らない。もしいたら、その人と情報を交換したりできるとありがたいのだけれど・・・。


 だいたい、みんなも空虚感を感じながら、それを感じないように、隠すために生きているのではないかと思う。よく、仕事一途に生きるのが偉いという価値観を持つ人がいたが、そういう人ほど、リストラで会社を辞めたり、定年で退職した後、どう生きていったらいいかわからずに空虚感に襲われるもの。それはただ高度成長期にだけ通用した価値観だ。会社・組織に依存しなければ生きられない生き方だ。組織から離れれば、誰でもないただの人になる。その人には何の価値も有用性もない。生きている意味はない。
 それをみんなうすうすは感じている。根本的に空虚感を・・・。だから酒を飲み、享楽やセックスに溺れ、ギャンブルに嵌り、最悪はドラッグ・麻薬に堕ちていく。新興宗教に参加する。SNSで他人を批判してストレスを発散させる。

 それは現代だけの現象ではない。何千年にも渡って人間は同じことを繰り返してきた。2500年前の仏教が現代に通じるのもそのためだ。それを理解するためにも本当の歴史を知ることは重要になる。ただ、権力者同士の勝った負けたの歴史を知っても何の役にも立たない。だが学校ではそんな歴史しか教えない。そんな表面的な知識だけを最も多く学んだ者たちが東大や京大に行って、いずれは日本の中枢となっていく。
 人間は、物質的には進歩したが、意識的には何も進化していない。むしろ、霊的な世界が否定され、理解されない現代は最悪の時代でもある。

 ようするに、そんな物質的な、表面的な歴史・知識だけを知り、それで何でもわかったつもりになって、知ったかぶっている人間が一番めんどくさい。



 10月28日

 私自身はいろんな体験をしてきたな・・・、という感慨がある。---と、自分では思っても、他人はそれを中途半端としか見ない。実際にそう言われて批判されてきた。まあその頃は、終身雇用が当たり前で、一つの会社に長く勤めることが美徳のように思われ、転職することは人間としてダメなように見られていた。価値観も時代によって変わる。流転する。実にくだらない・・・。
 幅広い分野で生きることは、多様な経験をすることは日本では中途半端としか見られないのか。一つのものに打ち込むのが美徳なのだろう。これも何だか政治的に作られた条件付け、価値観のような気がするが・・・。

 空虚感を感じていたことを、アイコの個人セッションで告白したら、やりたいことをやることは厳しいものだ、やりたいことをやらないのは逃げている、とわけのわからないことを言って罵倒した。まったく私の言いたいことを理解していなかった。
 当時は、私がこれまでやっていたことに行き詰まりを感じ、無意味さを感じ、楽しめなくなっていた、過度期のような時期だったのだが、アイコはそんな私の状態をまったく理解せず、まったく受け入れず、ただ表面的に批判して個人セッションは終わった。後に残ったのは傷つけられたハートだけだった。その傷はその後20年も引きずることになる・・・。

 これが当時の日本のサニヤシンたちに最も支持されていたセラピストだ。

 セラピーは、結局はセラピストの価値観を押し付けられるものだ。それも高い金を払って・・・。まったくバカげている。セラピーが傷を作り、問題を作ったのだから、まさに本末転倒である。


 最も多く学んだ者たちが東大や京大に行って、いずれは日本の中枢となっていく・・・、と書いたが、今知ったYahooのコラムで、大学院を出て博士号を取得しても就職できない人が多いらしい。ようするに、大学の数は増えたが就職口の数は変わらない、ということらしい。それと、東大に入れるかどうかは既に小中学校の時点で決まるらしい。つまり本人の学力以前に、それを支える親の経済力が大きい、と。

 つまり、環境である。環境がその人の才能・能力を伸ばす大きな要因になっている。

 格差はますます広がっているような気がするな・・・。



 
10月29日

 〜それは現代だけの現象ではない。何千年にも渡って人間は同じことを繰り返してきた。〜と書いたが、これを伝えているのがモーゼスの「霊訓」という本。モーゼス、といっても旧約聖書のモーゼではない。1883年に出された霊界通信の本で、この中でインペレーターと名乗る高級霊が自動書記を通してモーゼスとキリスト教について議論しているが、そこで当時のローマ帝国の生活の様子が語られている。
 つまり、モーゼスは現代ほど堕落した時代はないと言うが、インペレーターは、そんなものローマ帝国時代の民衆の堕落ぶりに比べたらものの数ではない、と言う。彼によれば、当時のローマ帝国はただ肉欲、色欲に耽っていただけだった、と言う。

 一般のローマ帝国に関する歴史書がどの程度のことを伝えているのか知らないが、普通はカエサルやネロがどんな政治をしてどんな戦いをしたか、という権力者の世界を中心に伝えているのではないかと思う。確かに教科書で、ローマ帝国の人々は毎日セックスだけに明け暮れていた、とは書けないだろう。

 教科書は、それを作る人の世界観、思想、固定観念が反映されたものだから、ある意味我々は子供の頃から教科書を通してそのような固定観念を植え付けられている。つまり、「洗脳」だ。

 その裏に隠された真実を暴き出しているのがスピリチュアル系の本なのだが、世間はそれらをデタラメの新興宗教に関連付けて否定する。それは世間がその程度の理解しかできないことを示している。

 人は、意識の面では、霊的には何も進化していない。むしろ、多くのブッダたち、覚者たちとの接触が失われているため、ある意味退化しているとも言える。
 そういう警告をしているのもOshoだ。









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Osho日記 2016年10月
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