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スピリチュアル雑記

            2016年 8月 

 8月2日

インドの底知れないスピリチュアルな系譜・歴史

全てのスピリチュアル・宗教・神秘学の道はインドに通じると思っている。
西洋の賢人たち?ピタゴラスやキリスト、哲学のショーペンハウエル、近代神秘学のブラヴァッキーなどはみんなインドから知識を得ている。

インドで最も有名な聖者といえば、もちろん釈迦?仏陀だが、彼は別に突然現れたわけではない。
彼のような人物が現れるための下地、基盤がインドにあった。釈迦自身、修行中に他の多くの聖者たちを訪ねている。

釈迦と同時代の人にマハーヴィーラがいる。ジャイナ教の開祖として知られているが、彼はジャイナ教を体系付けただけ。
マハーヴィーラは24番目のティルタンカーラで、ティルタンカーラとはブッダ「悟った人」と同じ意味。
つまり、ジャイナ教には、マハーヴィーラより前に、23人の悟った聖人たちがいる。
24人が同時期にいたのではなく、1人ひとりが順番にジャイナ教の教えを伝達していった。現在のチベットのダライ・ラマのように。

その最初のティルタンカーラはリシャバという。リシャバがいつの時代の人かはわからない。

釈迦より2500年前には、バガヴァッド・ギーターのクリシュナやパタンジャリがいる。パタンジャリはヨガの開祖のように思われているが、彼はヨガを体系付けただけ。
ヨガはそれ以前からあり、ウパニシャッドに書かれている。ウパニシャッドにも、多くの聖者たちが書かれている。

クリシュナより前には、シバがいる。シバは112の瞑想法を作り、ヴィギャン・バイラブ・タントラとして残している。
不二一元論を説いたシャンカラチャリヤ。
他に名前だけでも、ゴラク、アシュタバクラなどがいる。

釈迦より後では、ナーガルジュナが禅の原型を作り、そこからボーディダルマが出てくる。
ヒンドゥー教タントラの祖としてサラハがいる。その脈絡からティロパが生まれ、チベット・タントラに伝承されていく。

14世紀頃には、アティーシャがチベットに仏教を伝える。
近代では、ラーマクリシュナや弟子のヴィヴェカーナンダ、オーロビンド、ラマナ・マハリシ、クリシュナムルティ、OSHO(ラジニーシ)などがいる。

これらは名前が一般的に知られているほんの一部の人たちだ。

他に、カビール、ナナク(シーク教)、女性の聖者でミーラ、サハジョなどもいる。
インドの聖者たちの系譜は底知れない・・・・





 8月4日

「念」について

「念」という言葉は、今の心と書く。
念の付く言葉〜思念、想念、怨念、残念、念力、雑念、信念、情念、念願、記念、念には念を入れて
念が残ると「残念」・・・

念とは、心の動きが表れたもの。

念は、目に見えないから、科学では証明できない。
でも・・・
その科学を作ったのも念だ。
外側の世界を知りたい、という思い、念が、科学を発達させた。

人間を、内側の世界を知りたいという念が、心理学を作り、それが宗教の原点になっている。

ユングなどの現代心理学が説いていることを、既に仏陀は2500年前に言っていた。いや、それよりも深く・・・

念が世界を作ってきた。

神秘学では、念は生きている、と説く。
人は死んでも、その人の念は生き残る。
それが、輪廻転生の、生まれ変わりの原因、種になる。

念はカルマでもある。

ある意味、霊魂は念である。
この世に執着を持った念は幽霊になる。

念は伝染する。

今、世界は憎しみ、破壊的、虚無的な念が強まっている。
その念に囚われた人は犯罪を犯す。

仏教は、その念に囚われないことを教えたのだと思う。
念が苦しみを生み、カルマを作り、輪廻に縛られる。
それから解放されることが、本来の仏教の教えだ。

色即是空の「色」とは、結局は念が作った世界のこと。
念が「色」という世界を作ったのなら、その前の世界は「空」になる。
「空」は念によって「色」になる。
つまり、空即是色。

世界?色?は、その人の念・思いが投影され、映されたもの。
だから世界は、それぞれの人によって違って見える。


念は、意識、自我意識、エゴ、欲望でもある。

仏陀の教えの基本は「無我」、それは「無念」でもある。

ただ、無念は、今では違うイメージになっている。
どちらかというと、「残念」に近いイメージがある。




 8月20日


「なぜ人は生まれ、そして死ぬのか」という本のAmazonレビューが素晴らしい!

「興味深い話が満載でした。ですが、私が、とりわけ共感を覚えた箇所は、この本の後半、特に、第六章と第七章でした。

筆者の大門氏は、魂の有無や輪廻転生の有無に関して、日本の科学者が「霊的」なものをハナから否定したり忌避する態度に、
疑問を抱いている外国人の科学者が結構おられるということを指摘してありました。
例えば、否定的な見解を持とうとも、アメリカなどでは、研究者がちゃんとした医学雑誌などで論じてあると同時に、各種学会でも、何十年も前より、シンポジウムが執り行われています。
そこに見られるのは、純然たる科学的精神に他ならないのだと。

かくいう大門氏も、かつては、魂や霊といったものを「非科学的なもの」として切り捨てるバリバリの唯物論者だったそうです。
実のところ、こうした科学的精神に則った考察や実験の積み重ねこそが、「決まりきったもの」をそうでないものへと変えてきたと同時に、科学を常に発展させてきた、と言えるのではないでしょうか。

比べて、日本では、科学の「成果」にのみ重点を置く傾向があり、懐疑主義者を名乗りつつも、テーマとして、真剣に取り上げること、徹底的に確かめることなどを避け続けてきたのではないか、と大門氏は問い掛けてあります。

ろくに知らないのに、“知っている”積もりになって、感情的と思えるくらいに全否定したり、考えることすら怠るということは、一切の進歩があり得ないということであり、また、そうした人々は、「科学教」の熱烈な信奉者に等しい、彼はそう言い切ってありましたが、私も同感です。」






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