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  Oshoのウパニシャッド講話

アディヤートマ・ウパニシャッド  Adhyatma Upanishad 
       OSHO講話 - Finger Pointing to the Moon   
                      翻訳 - 2020年11月14日

祈り
オウム、太陽神が私たちに祝福を与えますように。
水の神ヴァルナが私たちに祝福を与えますように。
アルヤーマ、インドラ、ブラハスパティ、ヴィシュヌが私たちに祝福を与えますように。
絶対的真理であるブラフマーへ敬意を表します。
おお空気の神であるヴァーユよ、特にあなたに敬意を表します。なぜならあなたはブラフマーが明らかになったものであるがゆえに。
私はあなただけを明示されたブラフマーと呼びます。
私はあなたを真理と呼び、あなたをリット、法とも呼びます。
願わくば彼らが私を守りますように。彼らが語る者を守りますように。
私を守りたまえ。語る者を守りたまえ。
オウム、平和であれ、平和であれ、平和であれ。

祈り
身体の内側に位置している心の空洞内に、生まれていない永遠の生がある。
地球はそれの身体であり、それは地球の中に住んでいるが、地球はそれを知らない。
水はそれの身体であり、それは水の中に住んでいるが、水はそれを知らない。
光はそれの身体であり、それは光の中に住んでいるが、光はそれを知らない。
空気はそれの身体であり、それは空気の中に住んでいるが、空気はそれを知らない。
空はそれの身体であり、それは空の中に住んでいるが、空はそれを知らない。
精神(マインド)はそれの身体であり、それは精神(マインド)の中に住んでいるが、精神(マインド)はそれを知らない。
知性はそれの身体であり、それは知性の中に住んでいるが、知性はそれを知らない。
自我(エゴ)はそれの身体であり、それは自我(エゴ)の中に住んでいるが、自我(エゴ)はそれを知らない。
理性的マインドはそれの身体であり、それは理性的マインドの中に住んでいるが、理性的マインドはそれを知らない。

明らかにされてないものはそれの身体であり、それは明らかにされてないものの中に住んでいるが、
明らかにされてないものはそれを知らない。
不滅のものはそれの身体であり、それは不滅のものの中に住んでいるが、不滅のものはそれを知らない。
死はそれの身体であり、それは死の中に住んでいるが、死はそれを知らない。
それはこれらすべての要素の最も内側の自己であり、その罪はすべて破壊される。
そしてそれは一人の神性なる神ナラヤナ---すべての人間を支える者---だ。
身体、感覚、その他のものは非魂的な物質であり、それらへの「私の」という感覚はアディヤス、幻想だ。
従って、知的な人は絶対的現実(リアリティ)であるブラフマーへの忠誠を通してこの幻想を落とすべきだ。

自分の知性とそのすべての性質を観照する内側の魂---サクシ・プラティヤガートマ---として自分自身を知ることで、
そして「それは私だ。」という性質を獲得することで、すべてのものに対する「私のもの」という主張を放棄する。
ロク--社会--に従うことを放棄することで、彼は身体に従うことも放棄する。
聖典に従うことを放棄することで、彼は魂という幻想も放棄する。
自身の魂に根付くことで、そしてテクニックを通して、聞くことを通して、自己体験を通して、
ヨーギは自身をすべての魂として知るようになり、彼のマインドは破壊される。
睡眠に、社会の話題に、響き、感触、形、味、匂いという感覚の対象に、そして魂の忘れっぽさに機会を与えずに、あなたの内側の魂を熟考しなさい。

この身体はあなたの母と父の排出物から作られていて、排出物と肉でいっぱいだ。
従って、身分の卑しい不可触民であるチャンダルから立ち去るように、それから立ち去り、絶対的現実であるブラフマーになって満たされなさい。
おお真理の探究者よ!ちょうどガータカシュ---鍋の中の空---とマハーカシュ---鍋の外の空---が一つであるように、
魂と至高の魂は一つだと知ることによって、常に平和でありなさい。
照らされた自己、創造された自己、すべての支持者、そして永遠の魂ブラフマーに、絶対的現実になることで、
あなたの身体の感覚を、また宇宙的な身体についても、まるでこれらが排出物の容器であるかのように落としなさい。
身体を支配してきた自我(エゴ)の感覚を常に至福でいる意識的な自己に授けることで、粗野な身体を手放してあなたの不滅の孤独な魂でありなさい。
おお無垢なる者よ!ちょうど街が鏡に映されて見られるように、私はこの世界の反映が見られるそのブラフマー、絶対的現実だ。
これを知ることで、おお罪なき者よ、満たされなさい。

自我(エゴ)にしがみつかない人だけが自己の本性に達する。
従って、満月のように染み一つなくきれいになることで、人は常に至福と輝く自己になる。
行為の感覚の停止によって、すべての不安は止む。不安の停止によって、すべての欲望は止む。欲望の停止は解放だ。
そしてこれはジーヴァナムクティ、生きている間の解放、と呼ばれる。
至るところに、あらゆる方面にあるすべてをブラフマーとして、絶対的現実として見ることで、そのような善意の感覚を成熟させることで、欲望は止む。
絶対的現実であるブラフマーに対するあなたの忠誠を決して怠ってはいけない、
なぜならそれは死でしかないからだ、とブラフマーの中によく根差している人たちは言う。
傍らに移しても、藻は再び水を覆い隠すための時間を失わない。
同様に、賢人でさえわずかな間であってもブラフマーへの自分の忠誠から逸れるなら、幻想は彼を覆い隠す。

生きている間に絶対的現実であるブラフマーと一つになることを達成した人は、身体から離れた後でさえそのようなままでいるだろう。
従って、おお無垢なる者よ!目覚めることによって二元性のすべての選択を取り消しなさい。
人がニルヴィカルパ・サマーディ---無選択の目覚め---を通して非二元的な魂を見る時、それは心の中の無知の結び目が完全に解消する瞬間だ。
自己というものを統合して、私というもの等を落として、それらに無関心で存在しなさい。鍋や服等に対してそうするように。
すべての称号は---創造神ブラフマーから石まで---偽りだ。従って、魂だけに根付いて、あらゆるところにあなた自身の魂を見よ。
私自身がブラフマー、創造神だ。私自身がヴィシュヌ、維持する神だ。私自身がシヴァ、破壊の神だ。
私自身がインドラ、すべての神々の主だ。
私自身がこの宇宙であり、そして私自身はすべてだ。私自身以外に何もない。

人の魂の中にあるものについての虚妄は押し付けられた現象だ。
それを落とすことで、人はそれ自身が完全で、非二元的で無活動のブラフマー---絶対的現実(リアリティ)---になる。
魂とは異なるものとして現れる世界はほとんど真実ではない。
純粋で、無形で、無器官な実体のどこに分割があるだろう?
意識的な魂は、見る者、見ること、そして見られること等の観念から自由でいる。それは免除されていて、大洪水の時の海のように完全に満ちている。
まさに暗闇が光で解消するように、幻想の原因は器官がない比類なき絶対的現実(リアリティ)の中に解消する。
ではその中のどこに分割があるだろう?
至高の現実は単一だ。どうしたら分割がその中でありえるだろう?
スシュプティの状態---夢のない深い睡眠---は至福に満ちている。
誰がその中に分割を見るだろう?

この分割の根となるのはマインドだ。マインドがないなら、分割はない。
従って、あなたのマインドをあなたの内面性である普遍的な意識に集中させなさい。
あなたは永久に至福に満ちた魂であることを知って、まさしくあなたの魂の内外にあるこの至福で常に喜びなさい。
離脱の果実は知識であり、知識の果実はくつろぎであり、自己の至福を体験することから降りる平和はまさにくつろぎの果実だ。
前述のそれぞれが連続して起こらないなら、その前のものが無駄になったことを知りなさい。
感覚的対象を慎むことがそれ自体で至高の満足と比類なき至福になる。
この分割の根となるのはマインドだ。マインドがないなら、分割はない。
従って、マインドを普遍的な意識に集中させなさい。

幻想であるマーヤが具現化した存在の属性を持つ人、宇宙の源である人、全知の特性等を持つ人、間接性、多様性、
真実等を体現した人はタット-「それ」-という言葉で知られる。
言葉だけでなく体験として「私」を支持しているように見える人や、道徳観念から離れたような体験を持つ人は、トゥヴァム-「汝」-という言葉で呼ばれる。
二つの属性がある。普遍的な魂にとって、マーヤ、幻想があり、そして具現化した魂にとって、アヴィディヤ、無知がある。
二つを放棄すると、見られるものは永遠に真実で、意識的で、喜びに満ちたパラム・ブラフマ---究極の至高の現実(リアリティ)---になる。

従って、タットヴァマシ、それは汝なり(梵我一如)、のような声明を通して、具現化した魂であるジヴァの、
そして絶対的現実であるブラフマーのような単一性の意味を追求することはシュラヴァナ、傾聴だ。
そして何であれ傾聴したものの意味を理性的に追求することはマナン、静観だ。
この傾聴と静観を通して達成された疑う余地のない意味の中にあなたのマインドを確立して、それと同調することはニディディヤサン、同化だ。
瞑想者と瞑想をそれぞれ落とすことで、瞑想されたもの、ゴールが唯一の客体として残り、
マインドが無風の場所でのランプの炎のように静かになる時、これはサマーディ、光明と呼ばれる。

サマーディの間はずっと、体験の対象は魂から分離していない。それゆえそれらは体験されない。
しかしサマーディから出て来た探求者のこれらの輝かしい体験はマインドの追憶を通して推測される。
この始まりのない世界で、何百万ものカルマ、行動の影響は蓄積される。
それはこのサマーディと純粋なダルマによってすべて破滅され、自己の本性は成長する。
ヨーガについて知る人はそれをダルマメーガ---ダルマの雨雲---サマーディと呼ぶ。
なぜならそれは自己の本性であるダルマの無数の甘露の流れを雨雲のように降り注ぐからだ。
このサマーディにおいて、欲望のネットワークは完全に解消し、美徳と罪と呼ばれる蓄積したカルマの茂みはまさにそれらの根源ですべて根絶される。
最初は、この無限の声明---タットヴァマシ、それは汝なり---真実であること、はただ間接的にしか悟られない。
その時、直接的な知識が、自分の手の平にミロバランの果実を保つように、生まれる。

楽しむことに値する対象への欲望が生じない時、これを非執着の限界として知りなさい。
私というものが生じない時、これを知ることの限界として知りなさい。
解消した欲望が再び生じない時、これはくつろぎの限界であり、そのようなスシトゥプラーギャ--探究者--は、知恵で安定し、常に至福に留まる。
究極の現実であるブラフマーだけに没頭している彼は無欲で不動のままでいる。
ブラフマーと一つであることによって浄化されて、この唯一無二の歓喜に耽る時、マインドの活動性は無選択になり、意識としてのみ残る。
その時それはプラーギャ、知恵と呼ばれる。
常にそのようなプラーギャを持つ彼は、ジーヴァナムクタ、生きている間に解放された人と呼ばれる。
自分の身体と感覚に対して「私」というものがなく、他の物事に対して「私の」というものがない人は、ジーヴァナムクタ、生きている間に解放された人だ。
楽しむことに値する対象への欲望が生じない時、これを非執着の限界として知りなさい。
私というものが生じない時、これを知ることの限界として知りなさい。

具現化した魂であるジーヴァとブラフマーの間に、またはブラフマーと自然や創造物との間に知性を通して
どんな違いも決して知らない人はジーヴァナムクタ、生きている間に解放された人、と呼ばれる。
善人に尊敬されるか邪悪な者から侮辱された場合、常に冷静なままでいる人はジーヴァナムクタと呼ばれる。
ブラフマーの本質を知った人にとって、この世界はもはや以前と同じままではない。
それがそうでないなら、彼は存在のブラフマーの状態を知っておらず、まだ外向的な人だ。
幸福等が体験される限り、果実が生じるのは過去の行動からなので、それは蓄積された過去の行動印象であるプララブダーと呼ばれる。
行動なしでは果実はどこにもない。
ちょうど目覚めるとすぐに夢の活動が止まるように、人が「私はブラフマーだ」と知るとすぐに、
何十億年にもわたって蓄積された過去の行動は直ちに解消する。

空と同じくらい執着せず無関心に自分自身を知ることで、ヨーギはその後のどんな未来の行動にも全く執着しない。
ちょうど酒でいっぱいの容器の中に存在する空が酒の香りに影響されないように、
魂はそれらのすべての間に存在しているにもかかわらず、すべての出来事に触れられないままでいる。
ちょうど放たれた矢が狙った物体に突き刺さる前に止らないように、
光明の出来事の前に為された行動は、光明が起こった後に果実を実らせることを止めないだろう。
虎を獲るために動物がいるところへ放たれた矢は、その動物が虎ではなく牛だったと後になってわかっても、中間で止まることはできない。
矢はその充分な強さをもって標的に当たる。同様に、光明が起こった後でさえ既に為された行動は実を結ぶようになる。
それを理解する人、彼は不死であり、常に若く、魂と一つのままでいて、彼の過去の行動の果実と何の関係も持たない。

過去の行動であるカルマは私たちが自分の身体に「私の」という感覚を持つ時にだけ果実を実らす。
身体に対して「私自身の」という感覚を持つことは決して望ましくない。
従って、身体に対して「私の」という感覚を手放すことによって、人は過去の行動の果実を手放す。
身体は私自身であるというこの誤った考えが過去の行動という考えを想像で作り出す原因になる。
しかし誤った考えが押し付けられたり想像されたものがどうしたら真実でありえるだろう?
そもそもどこから現実でないものが生れることができるだろう?生まれなかったものは、どうしたらそれを破壊することができるだろう?
どうしたら想像上のものが過去の行動を持つことができるだろう?
身体に対する「私の」は私たちの無知の結果であり、それは光明によって完全に破壊される。その時身体はどのように残るだろう?
聖典が身体の継続性を外見的に過去の行動に帰因させたのは、この無知な疑問を満足させるためだ。

聖典が「身体等は本物だ」と、そして蓄積されたカルマが、過去の行動があると言うのは、知っている人に説明するためではなく無知な人を満足させるためだ。
実際に、一つで非二元的なブラフマーを除いては他に何も存在していない。
それは完全で、始まりもなく終わりもなく、果てしなく、変わらず、真実の住む所、意識の住む所、至福の住む所で、永遠で、不滅で、遍在し、一定不変で、
全体で、無限で、すべての方向に頭があり、失われたり見つけられる可能性はなく、支えはなく、独立していて、すべての属性を欠いていて、
不動で、精妙で、無選択で、汚れてなく、定義できず、マインドと話すことを超えていて、
本当に豊富で、自明で、純粋で、意識的で、私たちが知っているものとは異なる。
従って、魂は不可分であることをあなた自身の体験を通して知ることで、不変の魂に満たされてそこで至福に過ごしなさい。
聖典が「身体等は本物だ」と、そして蓄積されたカルマが、過去の行動があると言うのは、知っている人に説明するためではなく無知な人を満足させるためだ。

マスターからこれらの教えを聴いて、弟子は光明を得て、言い始めた。私はたった今世界を見た。それはどこに行ったのだ?
誰がそれを取り除いたのだ?それは何の中に解消したのだ?それは大きな驚きだ!それは存在しないのか?
無限の至福の甘露でいっぱいの、この偉大なブラフマーの海で、今私は何を放棄しなければならず、何を受け取らなければならないのだろう?
今、何が他のものであり、何が並み外れているのだろう?
ここで私は何も見ず、何も聞かず、何も知らない。なぜなら私は常に私の至福の魂の中にいて、私が私自身の本質だからだ。

私は何にも属さず、無身体で、無性別だ。私は神自身だ。私は絶対的な沈黙だ。私は無限だ。私は全体であり最も古い。
私は行為者ではない。私は受難者ではない。私は不変で無尽蔵だ。私は純粋な知識の住む所であり、私は一人で、私は永遠の神々しさだ。
この知識はマスターによってアパンタラムに与えられて、アパンタラムはそれをブラフマーに与えて、
ブラフマーはそれをゴーランギラスに与えて、ゴーランギラスはそれをライクヴァに与えて、ライクヴァはそれをラーマに与えて、
ラーマはそれをすべての生きている存在たちに与えた。
これがニルヴァーナのメッセージであり、これがヴェーダの教えと修練だ。
このようにこのウパニシャッドは終わる。







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