「そこに道はなく、行くべきところはどこにもなく、助言者も、教師も、マスターもいない。それは厳しいように見え、荒々しいように見えるが、私がそれをしているのはあなたを愛するからだ。そしてそれをしてこなかった人々はあなたを全く愛していなかった。彼らは自分自身を愛していて、自分たちの周りに大きな群集を持つことを愛していた。群集が大きければ大きいほど、彼らは自分のエゴに栄養を与えていると感じる。
だから私は光明を得ることさえ最後のゲームと呼んだのだ。あなたがそれを落すのが早ければ早いほど、それは良い。なぜただ在るだけではいけないのだ?なぜあちらこちらへ不必要に急ぐのだ?あなたとは存在があなたにそうあるように望んだものだ。ただくつろぎなさい。」
--- Om Mani Padme Hum
私はどんな運動の一部でもない。
私がしていることは永遠の何かだ。
それは最初の人間が地上に現れてから続いてきて、それは最後の人間まで続くだろう。それは運動ではない。それはまさに進化の核心だ・・・
私は人間の永遠の進化の一部だ。
真理の探究は新しくも古くもない。あなた自身の存在の探求は時間とは何の関係もない。それは非時間的だ。
私はいなくなるかもしれないが、私がしていることは継続する。他の誰かがそれをするだろう。私がここにいなかったら他の誰かがそれをしていた。そこでは誰も開祖ではないし、そこでは誰も指導者ではない。それは多くの光明を得た人々が現れ、助け、そして消えていったほどの巨大な現象だ。
しかし彼らの助けは人類にいくらかの高みをもたらし、人類を少しは良く、いくらかより人間的にさせてきた。彼らは世界を、彼らがそれを見つけた時よりもう少し美しく残してきた。
世界をより良いものに残すことは大きな満足になる。更にそれ以上のものがとても多く求められている。世界はあまりにも大きく、たった一人の個としての人間はとても小さい。もし彼が、何百万年もの間進化によって作られてきた絵画に、ほんの少しの一筆でも残せるなら、それで十分だ。ほんの少しの一筆で・・・もう少し完成し、もう少し明瞭になる。
私はどんな流行の一部でもなく、どんな運動の一部でもない。私は永遠に属している。そして私はあなたも、一時的な段階にではなく永遠に属してもらいたい、と思っている。
--- Socrates Poisoned Again After 25 Centuries
私の言葉は燃えているだけではない。私は火薬をあちこちに置いてもいる。それは何世紀もの間爆発し続けるだろう。
From
Personality To Individuality
私の考えから何らかの教義を作ることは不可能だが、それらを通してあなたは自分を変えることができる。
Tao:
The Golden Gate
だからサニヤシンにとって最も重大なワークはメッセージを純粋に保つこと、あなたによってまたは他の人たちによって汚染されないままに保つこと、そして待つことだ。未来はより受容的になり、より歓迎するにちがいない。私たちはここにいないかもしれないが、私たちは来るべき世紀のためになんとか意識を変えることができる。そして私の関心はこの人類だけではない。私の関心は人類それ自体にある。
メッセージを純粋に、24カラットの黄金のままに保ちなさい。
そしてたとえあなたが寺院を建てている時に誰も来なくて、それが悲しくても、すぐにあなたがそのために寺院を建てたそれらの人々は来るだろう。そして人々が来始める時、あなたはここにいないだろう。だが人は一つのことを理解しなければならない。私たちは意識という流れる川の一部であることを。
Sermons
In Stones
4月16日
所有しているOshoの洋書の写真〜〜
所有しているOshoのアーカイヴ・ビデオ
4月18日
1日中座りっぱなしの生活だから、最近は腰痛に悩まされている。
「Rinzai: The Master Of The Irrational 」という講話でOshoは、秘書のアナンドが300人の神秘家の本を編集している、という話をしている。こういう話は興味深い。この原書の邦訳は「臨済録」というタイトルで1991年に出ているが、既に絶版で、ヤフオクでたまに出品されているのを見かけるが、けっこう高値がついているし、ページ数から見たら編集本だろう。私は所有していないので、この部分が邦訳本に出ているかは知らない。
前から気になっていた事で、ある情報でOshoの最初の英語での講話は「My Way
: The Way of White Clouds」だと言われていたが、これは1974年の講話であり、邦訳はナルタンの訳で1980年に「マイ・ウェイ」として出ている。私の最も好きな本だが、これも現在は絶版になっていて手に入れることはできない。
ただそうなると、これ以前の講話は全てヒンディー語なのか?ということになるが、「Yoga:The
Alpha and The Omega」の講話はその1年前に始まっているが、これは英語の講話と記されている。
そもそも、Oshoが英語で話すのは西洋人に対してであり、同じインド人に対してならヒンディー語で十分である。
西洋人がOshoのところに集まり始めたのは1970年代初期のOshoがムンバイに住んでいた頃といわれている。
「My Way : The Way of White Clouds」はOshoがムンバイからプネーに移った後に行われた最初の講話である。
それ以前のムンバイでは、あのヴィギャン・バイラヴ・タントラ・シリーズの講話も行われている。パルバが12年かけて翻訳したものである。これがヒンディー語からの英訳という情報は知らない。
結局のところ、よくわからない。
ちなみに、ヒンディー語からの英訳で邦訳された本は、私が調べた限りでは、
「瞑想・祝祭の芸術」、「セックスから超意識へ」、「死・終わりなき生」、「未知の扉」、「神秘の次元」、「秘教の心理学」、「グレート・チャレンジ」、「奇跡の探求」、「イーシャ・ウパニシャッド」、「知恵の種子」、「隠された神秘」、「シャワリング・ウィズアウト・クラウズ」、「インナー・ジャーニー」、「探求の詩」、「エンライトメント」、「死ぬこと生きること」、「真理の泉」がある。
そして翻訳が済んで、まだ出版されていないものに「The Eternal Quest」。
現在翻訳中のものとして、「Nowhere to Go but In」、「Krishna: The Man
and His Philosophy」がある。
日本の仏教がインド本来の仏教とはまったく違うことは仏教研究家にとっては常識だが、仏教学者の権威であるこの中村
元氏もそれを指摘している。
そこで、サンスクリット語やパーリ語の仏典から直接現代語訳をする試みがなされるわけだが、その翻訳に当たってどのような日本語を使うかはまさに翻訳者の理解に任せられる。そこで、学者のする翻訳に一つの限界を見ることができる。
そこが、Oshoが仏陀について語ったこの「超越の道 The Discipline of Transcendence」の価値が、学者による仏典の翻訳・解釈の違いが出てくると思える。