6月 1日
OIFから、ようやく代理店との契約が完了したというメールが届いたらしいが、そんなことに半年以上もかかっていたのか???
版権を申請するには代理店を通さなければならないらしいが、以前も代理店が変わったことで、版権の連絡が滞っていた時期があった。
なぜ代理店がコロコロ変わらなければならないのか? まったくわからない。 このシステム自体もよくわからない。 以前は代理店が変わったこと自体、市民出版社に知らされていなかったという。
それでも、とりあえずは出版に向けて前進した、ということか・・・?
ただ今度はこの代理店との連絡がいつ取れるかということが未定だが。
だいたい出版不況の現状で、こんなややこしいことをやっていて何になるのだのう?
Vedanta ; Seven Steps to Samadhi は、3月の話では、サクシンの元スタッフが昨年訳し終わったということだったが、現在もリバイスは終わっていないらしい。 普通でもリバイスは3ヶ月くらいかかっているらしい。 そんなものなのだろうな・・・。
Krishna: The Man and His Philosophy の翻訳を進めていたが、かなり現代のインド特有の問題を扱っている部分が多い。 この辺りどうなんだろうな・・・。 まだ第1章を見ただけだが・・・、15章と16章では、かなり秘教的な話が展開されているし、まだ全体としてのイメージがつかめていない。
気分転換として、Yoga:The Alpha and The Omega Vol.3 の翻訳に取りかかる。
他に、Nowhere to Go but In や The Eternal Quest にも興味がある。 The
Perfect Way も市民出版社側で翻訳を進めているものだが、依頼中ということで、どこまで進行しているのかはわからない。これも興味深い講話だ。
とりあえずは、Yoga:The Alpha and The Omega に集中していった方がいいだろう。
6月 5日
Yoga:The Alpha and The Omega Vol.3 の第1章を訳し終えて、その後のつなぎに、Krishna:
The Man and His Philosophy の翻訳途中である第1章を訳する。この講話、なかなかの曲者だな・・・・。おそらく、出版されてもそれほど一般的な支持は得られないかもしれない。かなりのインド・マニア的な内容だ。ぼちぼちと進めていくか・・・。
それよりかは、The Eternal Quest が気になり出している。
インド思想の古典的経典である、ヴェーダ、ウパニシャッドは、多くの神秘学で取り上げられている基本図書と言えるが、未だに日本では完全な訳がなされていない。 岩波文庫の「リグ・ヴェーダ賛歌」辻
直次郎訳も要約である。
ただ、このような古典は、仏典も含めて、歴史的価値はあっても、その内容は現代世界にはそのまま伝わらない、難解なものが多く、そこで多くの解釈が生まれてくる。その解釈も、特に学者のものになると、あまりにも表面的すぎるものが多い。解釈する人にその体験がないから、頭の中だけで想像しているものが見られる。
その意味では、Oshoの講話は別格である。
光明を得たOsho自身の体験から語っているので、その内容は深遠であり、また、全ての霊的な道に精通しているので、その視野は幅広い。
そして、その語り口調が絶妙におもしろい。 だから今日までOshoの翻訳を続けてこられたのだろう。 Oshoの翻訳は楽しい。 夢中になれる。
ただ、そのOshoの講話の全てを把握している人が、少なくとも日本にはどれだけいるのだろう?
実際のところ、邦訳されているOshoの本が、原書のまま訳出されたのか編集されたものなのか、その違いがわかる人がどれだけいるのだろう?
市民出版社でさえ、「黄金の華の秘密」がQ&A抜きの翻訳であること、ウルグアイでの講話3部作の講話された順番、ダルシャン日誌の全リスト、「魂のヨーガ」が編集本でないこと、・・・などをそれぞれ知らなかったという。
そもそもOshoは自分の講話が編集されるのを禁じていたのに、OIFからは次々と編集本が出されている。先に出た山川夫妻訳の「喜び」や「勇気」はその代表だ。 編集本は講話の流れが途切れていて、その味が失われている。
このままでは、Oshoの講話の正確なデータが失われてしまう危険性がある。
OIFは、講話日を掲載しないことを指示しているので、あえてそのデータを消す方向に進めている。
Oshoの講話は現代の仏典である。
少なくとも現在、そのOshoの全講話リストを把握している私としては、それを後世に伝えていかなければならない使命感を感じる。
そうしなければ、これからの世代の人は、Oshoの全講話を知る手立てがなくなってしまう。
貴重な人類の遺産が失われてしまう。
わずかであれ、少数であれ、真摯な探究者がOshoに関心を持ってくれるのであれば、そういう人たちの力になれるよう、1冊でも多くの翻訳をしていきたいと思う。
そういう人がいることを信じて・・・。
そのためにも、できるだけ長く生きて、長くOshoの翻訳を続けていきたい。
6月 7日
The Eternal Quest の翻訳も始める。これで三つ巴の翻訳になる。
外側の世界に対する関心はますます薄れている。 ただただ、くだらない。 全てがデタラメに見える。 偽りだらけ・・・
スピリチュアルの世界も、アセンション・フィーバーから3年余りが過ぎて、お花畑的妄想も静まってきたのだろうか・・・
スピリチュアル的にいくら美しいことを語っても、現実の世界には何の光明も見出せない。
せいぜい、音楽の世界で、BABYMETALと和楽器バンドが強烈な魅力を放っているくらい・・・。
最近は、毎日、和楽器バンドの「戦 ikusa」という曲で一日が始まる、という感じ〜〜
ようするに、精神を高揚させてくれるものがあまり見当たらない、ということだ。
逆に言えば、それだけOshoの翻訳に没頭できる。外側からの誘惑がなくなり、もうこれしかない、という感じだから・・・
それ以上に、人生にとって重要なもの、やりがいのあるものがない、ということ。
それ〜Oshoの翻訳〜に出会い、それに没頭できる環境にいる、ということは、ある意味、幸せなことなのかもしれない。
あと、言えることは、Oshoの版権が無効となる20数年後が待ち遠しい、ということ。
20年あれば、60冊くらいは翻訳できるか・・・・?
6月25日
東京都知事の失態、北朝鮮のミサイル挑発、IS支配下の国々の地獄、難民問題に苦慮するヨーロッパ諸国と、それが引き金になってEUから離脱したイギリス・・・、世界情勢はますます危機的な状況に進んでいる。
これがアセンションで次元上昇した結果なのか・・・・。
危機的状況はスピリチュアルな覚醒のチャンスでもある、とOshoは言うが、この状況をどう生かすべきなのかわからない。
とりあえず、今日本に生きていて、平和と生活の安定が得られていることはありがたい。 日本は、政治的には腐っていても、全体的には恵まれた国である。 こんなときには、自分が日本人であることに、日本に生まれたことに感謝してしまう。
それだけでなく、Oshoを知ることができたことにも大きな感謝を感じる。
とはいえ、出版代理店から出版の目途が立ったという連絡はまだない。
現在の翻訳状況は、The Eternal Quest が3章まで終わり、クリシュナの1章もようやく終え、またパタンジャリ・ヨーガ3巻の3章に取り掛かる。 同じ「章」といっても、本によってその分量、ページ数は全然違うけれど。
Oshoの翻訳をすればするほど、過去のサニヤシンたちの知ったかぶりがよく見えてくる。 瞑想もろくに知らないヤツから瞑想を教えられていたのだから、今から思えば情けないし悔しい。 当時の自分が何も知らなかったために・・・。
逆に見れば、今はそういうミーハー的な連中と関わらずに済むことがありがたい。 かつて、プラブッダが彼らのことを「ラジニーシ・ファンクラブのようだ」と言っていたのを思い出す。言い得て妙だ。
振り返れば、高い授業料だったかもしれないが、そのお陰で、いろいろなスピリチュアル的こだわりや誘惑、しがらみや固定観念、思い込みや誤解、総じて洗脳から自由になれたことはありがたいことだ。
その経験があればこそ、達観し、いい意味で期待もなく絶望し、今1人で生きていくことができるのだから。
俯瞰すれば、自分の人生は、何かに導かれているようにも見える。 これも手相にある神秘十字線の現れか・・・?
過去の全ては、ただカルマの解消のために必要なことだったのだろう・・・。
6月26日
昔よく、Oshoの本はどれも一緒、という言葉を聞いたことがあるし、バヴェッシュも、Oshoの本は読書に向かない、と言っているのも、それまでのOshoの翻訳がある傾向に〜特に禅に〜偏っていたことの証明になるかもしれない。
スピリチュアルな、霊的な、神智学的な話の通じるサニヤシンが、いったいどれだけいるのだろう・・・・。
私の知る限り、誰もいない。
西洋式セラピーかぶれが多いような・・・、
本は出しにくくなっていても、セラピーは自由にやれている・・・・、不思議な状況だ・・・。
昭和20年代生まれのサニヤシンは、完全に私の偏見だが、社会革命、新たなコミューン作り、の一つの過程としてOshoを見ているような気がする。
彼らの原点が60年代安保闘争、学生運動、マルクス共産主義にあるのだから仕方がないのだろう。 結局、いまでもそこから抜け出ていないように見える。 まだその幻影にとりつかれているような・・・。
それが私には、非常にうっとうしい。
自己の内面の探究、という姿勢がほとんど見られない。ただただ、他人の粗探しをして批判するばかり・・・・。
この世代の人は、他人の批判をするのが好きなようで、また、得意でもあるようだ。
つまり、自分を見ないで、他人ばかり見ている、ということ〜
他人の気持ちを考えず、自分の言いたいこと・感情を他人にぶつける人ほど自由で瞑想的だ、と思わせるような風潮が、当時のサニヤシンの世界にあった。
集団意識は怖いし、危険だ。
できれば、関わりにならない方がいい。 他人が何と批判しようと、無視すればいい。
内気で繊細な人は、彼らの言葉の暴力で潰されていく。
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かなり偏見に満ちたことを書いたようだが、まあ正直な気持ちであることは間違いない。ここは私個人の憂さ晴らしの場といってもいい。
だから好き勝手なことを書いている。
前にも書いたような内容でもあるが、これも私のシツコイ性格のせいだろう。 そのシツコサが、地道に翻訳を続けていっているのかもしれない。
フツーは、せいぜい4、5冊翻訳したところで止めるものだろう・・・。 歴代のOshoの翻訳者もそういう人が多いし、多くても7、8冊くらいだ。
私は今のところ、合計で15冊を完訳している。翻訳の質はともかく、数では一番多い。
基本的に続けられるのは、Oshoの翻訳がおもしろいから。
だから、翻訳が難しいと思ったことは何度もあるが、止めたいと思ったことは一度もない。 完全に好きだからやっている。
ただ、翻訳は完全に受身であり、しかもOshoの言葉に刺激されてマインドが騒ぎ立てる、過去の経験・記憶が思い起こされる・・・・。
それを発散させるために、この日記を利用している。 自分の精神バランスを保つために・・・。
そういえば、
ネットで、数年前に、長野あたりでOshoの博物館らしきものを作るという企画が始まった、というのを知ったが、その後どうなったのだろう?
主に、Oshoの出版物を展示するというものらしいが、来訪者はサニヤシン限定だとも言っているし、そんなことでやっていけるのか、という疑問はあるが、当人が好きでやるのだからその人の自由だろうが、さて、どれほどコレクションは集まったのだろう?
そもそも、ただOshoの本の展示物を見るために、わざわざそこまで行くものか?
この企画者が私の持っているOshoの本の蔵書を見たら驚くだろうな〜〜
また、
出版に関して、市民出版社からのOshoの本の出版の数は、1年で多いものでは、1999年に6冊出している。1998年でも5冊だ。その前後でも年に3冊は出ている。
だが2000年代後半からは、年に1冊か2冊くらいしか出ていない。 寂しくなったものだ・・・。
6月28日
Yoga:The Alpha and The Omega Vol.3 の第3章の翻訳にかかっているが、この英語原文もけっこう綴り間違いがある。
原書を持っていないので、正誤を確かめようがないが、単純に翻訳不可能な文章に出くわす。
この講話の音声ファイル、つまりOshoの肉声と照らし合わせて、ようやくその意味がつかめる。
しかし全文を音声ファイルでチェックするのは大変な作業になる。
そのため多少の誤訳は生じるかもしれないが、前後の文脈からその意味がつかめれば、それは誤訳にはならないはずだ。
本来、翻訳とはそういうことだろう。
問題は、話の内容がスピリチュアルな事だから、一般的な常識から外れることが多々ある。
自分にその体験がないから、英文の原文がOshoの言ったことを正確に伝えているのかどうかは何とも言えない。
だから、できれば本当は全ての原文をOshoの肉声と照らし合さなければならないのだろうが・・・。
Oshoの本は全てOshoの講話を録音したテープから文字に起こしたもので、人間の作業だから当然聞き間違いや書き写し間違いは生じる。分量も膨大だから、全てが完璧に処理されるわけではない。
また、特にこの講話でのOshoの肉声は発音が聞き取りにくい。 もともと、インド人の英語の発音自体がくせのあるものだが、それ以前に、この頃の音声収録技術の問題のような気もする。
こういう問題は、Oshoの初期の講話に関わるときには、よく起こる事かもしれない。
あと、
翻訳で原文をどんな日本語に訳するかで、全体的な内容の印象が変わるだろう。
いわゆる、初期のOshoの翻訳本は、割と軽いノリで読みやすいように訳されていたように感じる。それで、あまり深い意味は読み取れなかったし、だから軽薄なサニヤシンが生まれて来たのかもしれない。
だから、私の翻訳は宗教的で重くて暗いと言われるのかもしれない。
私は、そういう風にしか訳せない。
それが気に入らない人は、その人が翻訳すればいいことだ。
その人が、自らお手本を示すべきだろう。 そうすれば私もそこから何かを学ぶことができるかもしれない。
6月29日
思い出すのは・・・
1981年、私が最初にOshoのグループを熊本で受けた時、Mという青年も一緒に受けていて、たまたま私と組んでセッションをしたためか、ずいぶん私を好んでいた。
見るからに気が弱く、内向的で、今で言われるAC〜アダルト・チルドレン的な要素を持ち合わせていた。 それは当時の私自身も同質のものを持っていたので、なぜか引き寄せられたのだろう。私は少々もてあましていたが・・・。
そんな彼と数年後に福岡のセンターで再会し、その後、私はセンターを出たが、残ったスタッフから聞いた話では、そのMくんは東京のセンターにサニヤスを受けたいと申請したが、瞑想が足りないという理由で拒否された。 断られたことに悔しくなり、Mくんは窓ガラスを素手で割り、そのため血だらけになって病院に運ばれたという。
それ以前にも彼は両親によって無理やり精神病院に入院させられていたらしいが、ある意味、かわいそうな人ではある。
ただ、前に起こった東京・秋葉原の通り魔殺人事件のニュースを知った時、私はその犯人の心情をなんとなく感じることができた。
それは長年の鬱積した怒り、捨て場のないストレス、自分を認めて欲しい、受け入れて欲しい、愛して欲しい、という満たされない欲求だ〜
それをMくんにも感じた。そして当然、私もそれを持っていた・・・。
そういう、弱い人間を受け入れるだけの許容力が、当時のサニヤシンたちにはなかった、ということ。
そういう彼らは、どこに救いを求めればいいのか?ということだ。 少なくともMくんはそれをOshoの世界に求めたが、サニヤシンから拒絶された。
拒絶どころか、見下したり、バカにしたりする者もいた。
内気で繊細な人は、彼らの言葉の暴力で潰されていく〜と書いたのは、そういう意味を込めて、だった。
現在、自閉症だとか、ウツ病だとか、○○症だとか、いろいろな病名を付けて、なんとなく理解を示しているように見えるが、ただレッテルを貼っているだけにしか見えない。 それを解決する方法は何も見えない。
6月30日
Oshoの言葉より〜〜
「私はどんな宗教も作っていない。・・・・あなたはそれから信条を作ることはできない。あなたはそれから教会を作ることはできない。不可能だ!私はたった一冊の聖書もコーランもギーターも残していないので、あなたはそれから教会を作ることができない。私が世界から去る時、私は少なくとも1000冊の本を残すだろう。そして互いにとても矛盾しているので、それらから何らかの教義を作り出そうとする人は誰でも気が狂うだろう。
私の考えから何らかの教義を作ることは不可能だが、それらを通してあなたは自分を変えることができる。」
引用:
Tao: The Golden Gate
そう、だから2016年1月の日記に書いた、キヨタカ〜フーマンが言うような、Oshoの教えを統合することなど不可能なのだ。
そう言えるということは、つまりOshoの教えを全く理解していない証拠である。
「だからサニヤシンにとって最も重大なワークはメッセージを純粋に保つこと、あなたによって、または他の人たちによって汚染されないままに保つこと、そして待つことだ。未来はより受容的になり、より歓迎するにちがいない。私たちはここにいないかもしれないが、私たちは来るべき世紀のためになんとか意識を変えることができる。そして私の関心はこの人類だけではない。私の関心は人類それ自体にある。
メッセージを純粋に、24カラットの黄金のままに保ちなさい。
そしてたとえあなたが寺院を建てている時に誰も来なくて、それが悲しくても、すぐにあなたがそのために寺院を建てたそれらの人々は来るだろう。そして人々が来始める時、あなたはここにいないだろう。だが人は一つのことを理解しなければならない。私たちは意識という流れる川の一部であることを。
あなたはこの姿でここにはいないかもしれない、あなたは別の姿でここにいるかもしれない。だが私はより受け入れられるべきだ、より尊敬されるべきだ、一般大衆とより一致するべきだというような質問を決してしないということを心に留めておきなさい。私はそうあることができない。そしてそれは私の側の頑固さではない。それは単に真実は妥協できないということだ。それは決して妥協しなかった。それは最大の罪だろう。」
引用:
Serons In Stones
もう、この言葉に尽きるだろう。Oshoの言葉を純粋に保つこと〜〜。だから、編集本はあってはならないのだ。
そして〜〜
「私の関心はこの人類だけではない。私の関心は人類それ自体にある。」
そう、後世のためにOshoの言葉を純粋に残すことは、我々の急務であり、使命でもある。
そして、この Serons In Stones という講話はミステリー・スクール時代の一つであり、だから・・・
「私の深い望みのひとつは・・・私たちのミステリー・スクールが機能している時、ゆっくりゆっくりと、私たちが世界中から偉大な神秘的な経典をもたらすことだ。それらが誰に属するかというどんな考慮もなしに。そして最新の解説でそれらを発表することだ。そうすれば神秘主義はただの言葉に留まらず膨大な文献になる。そして誰でも神秘家たちが世界に与えてきたものを理解するためにその生涯を捧げることができる。」
引用:
炎の伝承 2 25章 The Transmission Of The Lamp
・・・・となると、ミステリー・スクールの講話の翻訳も大いに興味深くなる。これらは全部で17冊あるが、まだ1冊も翻訳されていない。
過去に「反逆のスピリット」という編集本が出ただけだ。
とりあえず、その中から「The New Dawn」と、マントラ・シリーズの5冊は翻訳予定に入れているが、いずれは全部翻訳してみたい。