11月3日

 10月29日に「The Long,the Short and the All」のリバイス原稿の前半3章分が届く。 リバイス担当者が違うようだ。 先に届いた後半3章分の担当者は、ごくわずかしか訂正箇所を直していなかったが、この担当者は非常に細かく赤字で指摘している。

 おそらく最初はこの担当者だけに任されていたのだが、(おそらく)彼女のチェック箇所が多くて時間がかかるので、後半の章を別の人(おそらく男性)に分担させたのだろう。出版社から、リバイスがなかなか進まないので、担当者を変えた、という連絡が以前にあったし・・・。

 最初、このチェックの多いリバイス原稿を見た時、正直うんざりしてしまったが、よく読んでみると、その訂正指摘は非常に的確である。
 後半のチェックの少ない章を見直す時、訂正箇所以外でも、自分で改めて直すところが多くなっていたので、逆にこの前半部分の章は見直すのが楽になっている。
 既に、この担当者が指摘しているので、ほとんどそれに従えばいいわけだから・・・。



 「アティーシャの知恵の書」の書評を久々にネットで探してみたら、例のBhaveshの「地球人スピリット・ジャーナル」の中に、気になるコメントがあった。
 
http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/the-book-of-wis.html

 特に下記の文を引用する・・・・


 ・・・「今は「アティーシャの知恵の書」をゆっくり読みなおしている。これにはそれなりにいろいろ訳がある。
 Osho本という奴は、「読書」には適していない。「存在の詩」以来、私はOsho本を最初から最後まで一気に通読したことは、たったの一度もない。必ず引っ掛かるのである。第一章、あるいは、最初の一頁、いやいや、最初の一行、時には、表紙をみただけで、「ストップ」してしまう。
 だから、手持ちでありながら読破していないOsho本は山とある。私はそれを積ん読本とは思わない。
Oshoの本は、読書ではなく、私にとっては瞑想だ。なにか、今日、瞑想するネタがそこにあれば、それはそれで、十分なのだ。」・・・


 ・・・・・独特の読書観と言っていいのかどうか・・・・?
読み進めることが途中で止まってしまうということ自体、この人に何か問題がある、ということだ。
 「瞑想するネタがそこにあれば・・・」、瞑想するネタ ???  意味がわからない。
瞑想するのなら、むしろ、そこで止まってしまう自分自身について瞑想するべきだろう。なぜ自分はそこに引っ掛かってしまうのか、ということについて・・・。

この人はかなり古いOshoの弟子だが、ようするに、Oshoの本をまともに読んだことはない、と自分で告白しているのである。

 それにまあ、Oshoの本が読書に適していないと言うのなら、一生懸命翻訳している者にとっては、その翻訳作業は無駄だと言うことになるのだろうか?
 一度も翻訳をしたことのない人だからこそ言える好き勝手な言葉だろう。

 以前、この人が「神智学大要」の書評の中で、この本をほとんどブラヴァッキーの「シークレット・ドクトリン」からの引用である、と評してしたのを読んで、私が、「それは間違いである。この『神智学大要』全5巻の中で、『シークレット・ドクトリン』からの引用は第1巻の一部に過ぎず、残りのほとんどは、リード・ビーターとアニー・ベサントの著書から引用である。」と指摘したら、
 この人は、「私はこの本をまともに読んだことがない。なぜならこのような神秘学の本を読むことで、刷り込まれるのを恐れているからだ。」と返答してきた。
 刷り込まれる・・・ようするに、そこに書かれてある知識を信じ込ませられる、ということを恐れているのだろう。
 それはその人の意志の問題であり、恐れているのなら、それはその人の弱さを現わしていることになるが・・・
 ようするにこの人は、まともに本を読まずに、その本を論評しているのだ。

 続けて・・・


 ・・・「サニヤスとはなにか、サニヤシンとはなにか、については他書に譲るが、いずれにせよ、この場においては、Oshoが言いだしたものであり、Osho独特のサニヤスがネオ・サニヤスと名づけられている。
 1979年当時のOshoネオ・サニヤスの意味しているところは、外見的には、Oshoにつけてもらった新しい名前を使い、身につける衣類はすべてオレンジ色にし、その上から常時、Oshoの写真のついた数珠を首にかける、というものだった。
 逆に考えると、今あらためて当時のサニヤスを考えるというアナクロ読書は、自分にとってはそれほど益のないことのように思い、Q&Aの部分を飛ばして、アティーシャの経文についての講話の部分だけ読んで行ったほうがいいのではないか、と思ったりする。そういう読み方も確かにあるに違いない。」・・・


 もう自分にはサニヤスのことはわかっている、とでも思い込んでいるようだが、そういう人にこそ、この本のQ&Aを読んでほしいのだが・・・。
 昔の古いサニヤシンほど、自分はOshoについて何でも知っていると思っているのかもしれないな。

 この後、なんだか難しい考察論調が続いていく・・・・、そして、


 ・・・「 オレンジ色の衣服も、Oshoの写真のついた数珠を身につけることも、システムとしてはすでに廃止された。明確な形で廃止されてからもすでに30年近く経過している。だから、35年前に行なわれたこの本の講話には、現在の読者にはふさわしくない表現が多くある。誤解が誤解を生みだす可能性はある。
 しかし、他書と併読しつつ、あるいは瞑想をしつつ、サニヤシンという意味を深く探っていくなら、Oshoが差し出したネオ・サニヤスという概念が、いかに革命的であるかが、次第に理解できるだろう。ここでいうところの革命は、ネグリ的センスでの革命ではない。Oshoが多く採用するのは、反逆、である。・・・・・・・・・・・・
 翻って、この「アティーシャの知恵の書」に戻る時、読者が他の誰であろうと、私が私のためにする読書であるとするならば、あらゆる修正を繰り返しながらも、そもそも持っている本質を突き止めてみれば、私はサニヤシンである、という更なる自覚を強烈に促してくる、パンチ力ある一冊である。
 まだ28日分ある講話のうちの7日分にさしかかったところだ。完読するのは、いつのことになるやら。そも、Oshoの本においては、実は、完読すること、それ自体に、本来の意味はない。私が、サニヤシンである、という自覚。そして、サニヤシンというのは、最後の無意識の象徴であった、という更なる自覚が起これば、その時点で読書の全てが成就するはずである。」・・・


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 とにかく、難しく考える人だ。
 というか、ただマインドの中でもっともらしく正当化しているだけに思えるが・・・・。

 まあ、どう読もうと、その人の勝手だが、この最後の文章から見えるのは、この人は自分の都合のいいようにOshoの本を扱い、解釈している、ということだ。 主点は、自分の都合、解釈である。

 私の解釈からみれば、この人は本当にOshoを理解しているのか?と訝ってしまう。最古参のサニヤシンでありながら・・・。
 これが、前の日記に書いた、Oshoの翻訳をすればするほど、Oshoと日本のサニヤシンの言動が真逆であったのを感じる・・・・、という印象に関連してくる。



 で、この日の夕方に、出版社からメールがあり、「The Long,the Short and the All」の内容がすごく深くて濃いことに驚いて、じっくり出版準備に取り掛かりたいというので、出版時期を年末から来年の3月に延ばす、と言ってきた。
 リバイスした人と、リバイス後の原稿を校正している人は別で、この校正担当者が私との翻訳の連絡係りでもあるのだが、ようするにこの人は、校正の段階で初めて翻訳文の内容を知ることになる。 だから当初この人は、そのページ数も知らず、ただ章の数が6つと少ないため、割と少ないページ数の本になるだろうと予想していたようだった。

 確かにこの本は、内容は非常に濃い。息を抜ける箇所はない。たぶん、Oshoの本の中では一番中身が濃いかもしれない。

 それはこの本の原書の序文にもこう書かれてある。

 「この本は秘訣の寄せ集め、ごたまぜだ。そこにはあなたのハートを奮起させる一文がある。そこにはあなたを刺激させる物語があり、あなたを鼓舞させる語りがあり、まさにあなた自身の変容を渇望することへとあなたを変える論文がある。
 この本にはすべてがある。それは穏やかな湖であり、それは轟く滝だ。それはナイチンゲールの歌であり、それはスズメバチの刺す針だ。それは陽光の中の庭であり、それは最も暗い夜のジャングルだ。
 それは長いもの、短いもの、そしてその全てだ。The Long,the Short and the All」

 Oshoの教えとは何か、それを知りたい人に対して、私は迷いなくこの本を勧める。



 
11月7日

 「The Long,the Short and the All」のリバイス原稿の見直し作業も最後の章に来たが、
 この本を読み直すだびに、世間でのOshoの批判が実に表面的で薄っぺらく、ただ批判する者のエゴを反映したものにすぎないことがわかる。

 Oshoの言っていることは、全くもってまともなことであるが、そのまともなことが素直に受け入れられない、ということは、いかにこの世間・社会が病んでいるかという証拠でもあるだろう。
 まず、Oshoに批判的な人はOshoの本を読まない。まともに読んでいないから批判できるのだが・・・。
 そして、古くからOshoを知っている人、Oshoの古い弟子もOshoの本を読まない。
 どちらにも共通しているのは、Oshoに対する先入観・固定観念を持っていることだ。
 その、自分の固定観念が一番大切であって、既に自分はOshoを知っている、今更Oshoの新しい本を読む必要はない、読まなくてもわかる、ということだろう。

 そういう人にこそ、この「The Long,the Short and the All」を読んで欲しいと思うが、
そのためには、そういう人たちが自分の固定観念を壊す勇気を持てるか、にかかっている。



 
11月9日

 上のBhaveshのコメントの中で、唯一同意できるものは〜〜
 「Oshoの本は、読書ではなく、私にとっては瞑想だ。・・・」。・・・ただ、瞑想のネタのための道具ではないが・・・。

 私にとっては、Oshoの翻訳は瞑想だ、となる。
 それは、Oshoを翻訳することは、Oshoと同調することであり、Oshoに明け渡すことであり、自分のエゴやマインドを捨てることだからだ。
 つまり、Oshoのメッセージを正確に伝えるための器、媒体になることだ。
 そのためには、自分を空っぽにしなければならない。中空の竹にしなければならない。
 これがOshoの言う瞑想だ。

 そしてそれは、自分の条件付け、闇との対峙であり、自分を深く掘り下げ続けることになる。
 Oshoの英語の言葉を、どう日本語に変えるか、そこに、自分の理解力が試される。
 普通の読書なら、解らない所は読み飛ばせば済む。翻訳はそういうわけにはいかない。全ての文章を理解していなければならない。少なくとも出版を前提に翻訳するのなら・・・。全ての翻訳文に責任がある。

 だからこれは、自分への挑戦でもある。だからこそ、私にとってOshoの翻訳は瞑想なのだ。

 少なくともこの5年間の翻訳を通して、初めてOshoを理解することができたし、これまで抱えていた誤解やわだかまりが解消されたことは多い。
 翻訳を通して、自分が少しずつ解放されているのが実感できる。


 もう一つ・・・
 「Oshoの言うサニヤスとは反逆である・・・」とBhaveshは言っている。
 確かにそうだが、この「反逆」という言葉の意味をどこまで理解しているのか・・・・・。
 Oshoが言う反逆とは、何かに反対すること、対抗することではない。決して社会革命を起こすことではない。
 それは、自分であること、自然な自分であること、あるがままの自分であること、だ。

 が、それは単純なようで難しい。なぜなら、何が本当の自分なのかがわからないからだ。
 そのためには、自分の中の不自然なもの、他人から押し付けられたもの、古くからの固定観念などを、一つ一つ検証して、落としていかなければならない。それがいかに偽物であるかを理解すれば、自動的に落ちる。
 つまり、反逆とは、自己発見の道でもある。それは疑いの道でもある。それは独りの道でもある。

 これは、日本人にとっては少々困難な道とも言える。なぜなら日本人はとかく他人に合わせて生きるように条件付けられているからだ。だから表面的には社会的調和が取れているのだが・・・。逆にストレスが溜まりやすい状況でもあり、だからイジメ、自殺、うつ病などが多くなる。

 自分らしく生きようとすると、他人と同調できなくなり、結果として独りになる。今の私の状況がそうである。
 これを日本の社会は「引きこもり」と言って非難する。他人と関わらないことを「逃げている」としか見ない。まったく表面的な批判だが、だから日本では反逆的な生き方は難しくなる。単純に、一人では生きられない人がそう言っているだけのことだが・・・。

 私も初めの頃は、他のサニヤシンたちに合わせて生きていた。それで自分を見失っていた。セラピストに振り回されていた。
 そんな自分を取り戻すことができたのは、まさにここ数年のこと、Oshoの翻訳作業を通して、だ。
 自分のユニークさ、独自性を受け入れること、それが一番大切であり、それは他人からとやかく言われる筋合いのものではない。



 
11月10日

 2014年4月7日の日記に書いた翻訳予定の本のリスト、
  「The Long and the Short and the All」
  「The Discipline of Transcendence 超越の訓練」3巻、4巻
  「Krishna : The Man and His Philosophy」
  「Beyond Psychology」
  「OSHO The Luminous Rebel: Life Story of a Maverick Mystic」ヴァサント・ジョシ著〜Oshoの伝記
 その後に、「Zen: The Path of Paradox」全3巻、「Yoga:The Alpha and The Omega」Vol.2〜10の予定。

 この内、「The Long and the Short and the All」「The Discipline of Transcendence 」3巻、4巻
 「OSHO The Luminous Rebel: Life Story of a Maverick Mystic」の4冊は既に完了している。
 現在は「Beyond Psychology」と、平行して「Yoga:The Alpha and The Omega」Vol.2 を翻訳中。
 1年半で、目標の半分は達成したことになる。


 秘教的知識に触れた講話を翻訳したい、というのが元々の動機で、その関係から見れば、自分が知る限り、
 神智学で扱っている人間の7つの身体に関する講話がある本は、「瞑想:祝祭の芸術」「秘教の心理学」「奇跡の探求 2巻」
 エソテリック・グループについては「未知への扉」
 死と死後の状態については、「死ぬこと 生きること」、まだ部分的な翻訳だが「クリシュナ」
 Oshoの前世については「神秘の次元」 Oshoの光明を得た様子については「The Discipline of Transcendence 」2巻
 アトランティスと、その知識を保存していたアレクサンドリア図書館については 「永久の哲学 1」「炎の伝承 2」翻訳中の「Beyond Psychology」などがある。

 Oshoは何度も、秘教的知識は成長の役には立たず、むしろ妨げになる、と言っているが、Osho自身はブラヴァッキーの「シークレット・ドクトリン」に触れて、これを秘教的デタラメ(ブルシット)でいっぱい・・と、そして、またたくさんの美しいダイヤモンドと蓮華もある・・と言っている。
 また、「エソテリシズムに関するかぎり、誰もブラヴァッキーを打ち負かすことはできないと思う・・・・ むろん私を除いてのことだが。私なら700冊でも書ける。」とも言っている。
 この700冊が気になる。どういう意味での数なのかはわからないが、少なくともOshoが全ての秘教的知識を持っていることはあり得る。
 それをOshoの講話の中で探したい、という願望はまだある。


 元々、精神世界、神秘学に関心を持つようになったのは、生の意味・生きる意味・死の意味を知りたいからで、そのため、自分としての出発点は論考〜哲学であって、信仰〜宗教ではなかった。
 そこでたどり着いたのは神智学、シュタイナー、スピリチュアリズムになり、その根本はインドの古代思想ヴェーダ〜特にウパニシャッド〜にある、ということだ。

 ただ、ここに辿り着くまで、他人から受けた助言・指導などは、全て役に立たなかった、むしろ邪魔になり、無駄に迷わせた、ということは確かだ。
 何も助けにならなかった。全てデタラメだった、ということ。
 つまり、誰も何もわかっていない、ということで、わかっていないくせに、わかったようなことを言っている、ということだ。
 知ったかぶりの人間が多すぎるのがこの世間というものだ。
 ただ、それがわかったこと、それら外部のものは何も信用できないということがわかっただけでも収穫だっだろう。       

 だからOshoが、信じてはいけない、疑いなさい、と言うのは、自分にとってはすごく身に染みて納得できる。
 信じることは尊いなどと、誰が言ったのだろう。       


 いくらOshoが秘教的知識は邪魔になると言っても、それでもOsho自身がそれについて語っているのなら、それに関する講話を優先的に翻訳していきたい。


 「Yoga:The Alpha and The Omega」は全10巻だが、1巻と2巻の講話日の間にほぼ1年ほどのブランクがある。
 つまり、1巻はこの全講話の導入部で、2巻から本格的にパタンジャリについて語られる、と思われる。
 この講話も秘教的なようで、最も興味のある章が8巻の1章「死とカルマの秘密」で、これは先に翻訳した。

 この本の1巻で、世俗的なものに絶望した所から、本当の内面の旅、探究の道が始まる、という意味のことを言っているが、
 この意味から見れば、世間的に人気のあるスビリチュアル系の本はほとんどが世俗的な欲望を満たすための方法論を語っているように見える。願いを叶えるとか、幸せを引き寄せるとか・・・。そうでないと売れないだろう。

 だからOshoは、やりたいことをやりなさい、強烈に、トータルにやりなさい、と言うのだ。
 それは、その行為を終わらすために、ということだ、それを落とすためには、それを完全に燃焼させなければならない。それをとことん経験しなければならない。だからOshoは抑圧に反対する。外的な執着が消えなければ、真に内的なものに向かうことはできない。
 ただ、大方のサニヤシンは、このOshoの言う「やりたいことをやりなさい」を、好き勝手に生きる、放蕩的に生きる、と勘違いしているように見える。
          
 世俗的な世界に絶望すること、それでも世間から逃れず、世間にいて世間に属さずの生き方をする、
 その意味から、カタ・ウパニシャッドを扱った講話「The Message beyond Words」が気になってくる。


 Bhaveshが自分のブログで、自分の前世がアトランティス時代、ムー時代、レムリア時代の3つの時代にあった、と言っているが、神秘学の立場から言えば、特に神智学、ブラヴァッキー、シュタイナー、アリス・ベイリーの本には、アトランティスについては多く語られているが、ムーについては一言も語られていない。
 そもそもムー大陸伝説は、チャーチワードがミクロネシアに点在する遺跡を調査した結果、特にイースター島などから導き出した仮説にすぎない。何の証拠もないのである。
 だから、巷のスピ系の本で、ムー大陸について扱ったものがあれば、その時点で私はその本を、その著者を信用しない。その本は読むに値しない、と判断する。まさにただの夢物語である。
 そしてレムリアについては、シュタイナーによれば、その時代の人間はまだクラゲのような軟体生物で、知性もなく、ただ浮遊して生きていたらしい。人間が肉体を持ち、知性を持ち始めたのはアトランティス時代に入ってからだ、と言われている。
 だから、ムー時代とレムリア時代に前世を持つということはありえない。
 これは単なるBhaveshの妄想だと言ってもしかたがない。
 神秘学を学ぶと、こういう矛盾点が解明できる。


 アトランティスに関しては、神秘学では多く語られているが、それだけに一般本では荒唐無稽に語られているものが多いが、そういうものには興味はない。私は基本的な本〜神智学、シュタイナー、ケイシー、Osho〜を重視する。
 微妙なところに、M.ドーリル、三浦関造が関わってくる。そこにはシャンバラが語られているからだ。 
 シャンバラについては何とも言えない。これは我々の常識をはるかに超えた世界だから〜〜。
 Oshoはシャンバラについて語っているのだろうか・・・?



 
11月11

 これまでの自分の日記を振り返ってみると、特にサニヤシンに対する私の見方から、さしずめ私はサニヤシンに反逆するサニヤシンということになるのだろう。 ただこれは全て私が自分で体験してきたことから感じたものだから、どうしようもない。

 特に古いサニヤシンの世代は、良くも悪くも、60年代安保闘争、全共闘運動の影響を受けてきた人たちで、どこか集団帰属意識が強いように見える。みんなで一緒に何かをしよう、というものだ。それと、非常に観念論的な考え方、イデオロギー的、〜主義的な考え方がまだこびりついているようにも見える。
 その点が、私の最も嫌いな点だ。私は集団行動が嫌いである。

 Oshoは、サニヤシンとの関係はあくまで個人的なものだ、と何度も言っているが、現実のサニヤシンの世界は、やはり集団的傾向が強い。
 まあ、サニヤシンなったからといって、それだけで日本人の古い条件付けから離れられるわけではないからな。その辺りに関して、無自覚な人は多いみたい。Oshoのサニヤシンになったからといって、外側の形を変えても、内面はそう簡単には変わらないのだから。やっていることは、他の新興宗教団体と何も変わらないようなものを、これまで多く見てきた。

 私は、サニヤシンになる前に、いろいろな宗教団体を見てきたから、その点がわかるのかもしれない。
 サニヤシンは違うだろう、と期待していたが、何も変わらなかった。

 ただ、私の性格には合わなかった、ということだ。



 
11月28日

 自分が翻訳しているOshoの本の選別は、まったく自分の好みによるもので、ある程度の全体的な内容を予測してから選んでいるが、その選択が、何か因縁めいたものに感じられることがよくある。

 例えば、Osho Timesのトピックスで、Oshoの秘教的な講話の流れを分析した記事があり、その中で、
 最も秘教的な初期の講話として「秘教の心理学」を上げ、その後の最も反-秘教的な講話として「アティーシャの知恵の書」を取り上げ、それから再び秘教的な講話に戻ったものの代表としてウルグアイでの講話シリーズを取り上げている。
 この「秘教の心理学」と「アティーシャの知恵の書」、そしてウルグアイでの講話シリーズでは「炎の伝承」は全て私が翻訳した。そして現在翻訳中の「ビヨンド・サイコロジー」もウルグアイでの講話だ。

 また、Oshoが学生の頃、木の上に座って瞑想している時に幽体離脱現象が起こったという話は、「死ぬこと 生きること」と「炎の伝承」、そして「The Long and the Short and the All」の中にだけ出てくる。この3冊も全て私が翻訳した。

 そして、この「ビヨンド・サイコロジー」の中で、またおもしろい話が出てきた。

 その34章の中でOshoはこう言っている・・・。


 「チベットでは光明を得た人々の身体が保存されている。樹木や岩石や大地ですらその偉大な体験の印象を留めるのだから、その人の身体や骨がその印象を留めないはずがない----、肉体はもっと近いのだから。
 たぶんそれを最初に理解したのはチベット人たちだった----、彼らは黄金に覆われた99人の偉大なマスターたちの身体を有している。それはチベットでは最も神聖な場所だった。それはちょうど・・・、写真を見たことがあればわかるだろうが、それはダライ・ラマの住むポタラ宮殿の真下にある。ポタラ宮殿は高い山にあるのだが、その山の下には多くの洞窟がある。そのうちの一つの洞窟がこの99人の身体のために捧げられている。

 なぜ彼らは99人で止めてしまったのだろう?奇妙な数字だ!100人の方がずっと適切に思われるのに。彼らがそこで停止せざるをえなかったのは、ダライ・ラマの法統がかつての高みから転落し、国が、その聖なる秘密の寺院の100番目の座を占めるにふさわしい人物を生み出すだけの力を失くしてしまったからだ。
 その寺院は年に一度だけ人々に公開され、ただその中を通り抜けるだけでも別世界を体験できたものだった。いまやそれは共産主義者たちに発見されないように、それは完全に封じ込められてしまった----、なぜなら、彼らはその身体には興味を持たずに、黄金に興味を抱くだろうからだ。彼らはそれらの身体を破壊して、黄金だけを持ち去るだろう----、そこには莫大な量の黄金がある。だから、ダライ・ラマは共産主義の侵入によってラサを去る前に、彼らがそれを発見できないように、あらゆる可能な方法でそれを封印した。彼らはいまだにそれを発見することができないでいる。」


 これを読んで思い出されるのが、「サイレント・エクスプロージョン」の11章:「チベット僧院への訪問」での、最も興味深い話だ。


 「和尚の一つ前の誕生は約700年前に起こったと言われています。聖師はそのもう一つ前の誕生について言及していました。彼は、和尚は二つ前の誕生でそれらの偉大な化身たちの一人であって、そのため彼の像が保存されている、と言いました。

 チベット人たちは占星術の科学を知っているので、多くの貴重な遺物や像を救い出すことができました。その結果として、彼らは未来を予知することができるので、何が起ころうとしているかを前もって知っています。そのため、彼らは中国共産主義者の侵略について、それが来るはるか以前に知っていて、あらゆるものを模造することができました。本物の黄金の像がチベットのどこかに隠されています。ある人々だけが、深い瞑想に入っている人々だけがそれについて知っています。
 和尚はそれについて知っています。深い瞑想に入っている人たちは、これらのものが保存されているところを知ることができます。偽物の模造品だけが、中国人たちが破壊できるただの見せものとして、目に見える場所に置かれていました。チベット人たちは彼らがあるものを破壊したがるのを知っていたからです。

 聖師によると、チベットにはこのような偉大な神性の化身たちの黄金の像が99体あります。それらのうちの一つが二生前の和尚の像です。中国人はそれを破壊していません。彼らにはできません。なぜならこれらの像はチベットの人里離れた場所に移され、密かに隠されているからです。本物の像が移されたのは、これらの像が強力で超自然的な物だからです。もし誰かがそれらにちょっと触れさえするなら、ある強力な霊的体験が彼に起こりかねません。だからそれらが保存されている部屋の中には、僧たちでさえ入ることは許されません。特別な人々しか許されません。なぜならこれらの像に触れるだけでも、人は強い反応を受けかねないからです。」


 これで、「サイレント・エクスプロージョン」では、Oshoの過去生の像を含む99体の黄金の像は、人里離れた場所に隠されてある、となっているが、「ビヨンド・サイコロジー」ではOsho自らその場所をポタラ宮殿の真下の洞窟と言っている。

 実は、シャンバラの入り口もポタラ宮殿の地下にある、と言われている。

 ともあれ、自分の翻訳するOshoの本が、それぞれに関連し合っているのが不思議だ。
 そしてなにより、翻訳を進めていくにつれて、それまで絡まっていた糸が少しずつ解けて行っているのが実感できる。



 
11月29日

 「The Long,the Short and the All」校正原稿 3章の見直し中・・・。
 考えたら、リバイスも校正も参考程度のものであり、最終的には自分が文章を完成させなければならない。
 最初は、ある程度の翻訳でもリバイス・校正の作業者が手直ししてくれるものと思っていたが、自分で見て、それも完全ではないことがわかった。結局は全て自分がしなければならない。

 いろいろあって今日まで生きてきて、やはり全体的には恵まれていて、運が良かったのだろう、と思える。
 54歳で退職、隠居生活の始まり、衣食住に不足なし。数々のローンもタイミングよく終了させる。
 人間関係のしがらみもなく、世俗的な欲望もなく、全くの自由な生活。
 贅沢を望まず、何も期待せず、自分を自分として受け容れることで、本当にやりたい事が出来るようになり、それだけをしている。
 少しずつ、ゆっくりだが、過去に受けた心の傷も癒え始めている。
 自分は、本当に独りでいることが一番大切であることが、ひしひしと実感できる。
 実際のところ、自分は幸せ者なのだろう。一人で生きていて、何も不自由を感じないのだから。
 確かに、後悔することは多い。それだけ失敗と恥の人生だったことだが、それだけ、もう何も期待しなくなった。

 共感する偉人として、やはり「伊能忠敬」がいる。ある意味、私の理想でもある。



    




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