天皇系図

古墳・天皇陵

父は仁賢天皇、母は雄略天皇の女・春日大娘皇女。
皇后:春日娘子(かすがのいらつめ、古事記に無し)
『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある。

延喜式では傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)に葬られたと記されている。

しかし、宮内庁が定めている、奈良県香芝市今泉にある現在の陵墓は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解を学会は発表している。そのため、陵墓の実在を疑う意見も見られる。また、蒲生君平は大和高田市にある築山古墳(陵墓参考地)を比定している。

仁賢天皇7年(494年)正月に立太子する。同11年(498年)仁賢天皇の崩御後、大臣の平群真鳥が国政を恣にして驕慢であった。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。

10歳の皇太子は、物部麁鹿火(あらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子・鮪(しび)と通じていた。
海柘榴市(つばいち、桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連(おおむらじ)とした。

武烈2年(500年)9月に11歳の天皇は、妊婦の腹を割いて胎児を見る。この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせたり、池の樋から人を流して矛で刺殺したり、人を木に登らせて射落したり、女を馬とつるませる(つまりは獣姦)など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
天下の飢えを忘れ、日夜問わず宮人と酒食に溺れた。『天書』『先代旧事本紀大成経』には、金村が天皇の暴虐を深く憂えて、これを諌めたとある。大悪天皇の記述は雄略天皇にも見られることから、武烈天皇は実在せず雄略の部分伝承との説もある。
次代の継体天皇以降は実在が確実視されていることから、実在が疑われる最新の天皇でもある。

武烈8年(506年)12月に後嗣なく崩御した。『扶桑略記』『水鏡』などには18歳で崩御とある。また『天書』に61歳とあるが、疑わしい。

武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年(489年) - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))は、第25代天皇(在位:仁賢天皇11年(498年)12月 - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))。実在した人物かどうかについては諸説ある。
別名として、小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざきのみこと)、小泊瀬稚鷦鷯皇(をはつせのわかさざきのすめらみこと)(日本書紀より)、小長谷若雀命(古事記より)。


古事記によると、長谷(はつせ)の列木(なみき)宮で10歳から8年間天下を治めたことになっている。太子(ひつぎのみこ)がなかったので、御子代(みこしろ)として、小長谷部(をはつせべ)を定めた。「天皇既に崩りまして、日続(ひつぎ)知らすべき王(みこ)無かりき。故、品太(ほむだ)天皇の五世の孫、袁本(おお)どの命を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき」(『古事記』)

(ぶれつ)

奈良県香芝市今泉

第25代 武烈天皇陵

2009年5月30日

★地図

十二柱神社
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