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チョギャム・トゥルンパ 

The Meditation 1977年 秋季号
    翻訳: 設水 研

 2011年2月11日-筆写 (文体修正)

 仏教と瞑想    Meditation in Action

 よく晴れた暑い夏の日、いちめんに生え茂った沙羅双樹の枝には、花が輝くように咲き乱れ、たわわな果実で重くなっている。そこは、いちばん近い街から160キロ以上も離れており、まわりには、多くの洞窟がある岩だらけの荒れ地が広がっている。いくつかの洞窟の中には、わずかに白い木綿の薄い衣を身にまとった、ざんばら髪のヨーガ行者たちがいる。鹿皮の上にすわって瞑想する者、よく知られている、たき火の中央に腰をおろす苦行型の瞑想など、さまざまなヨーガ的な修行をおこなっている。さらに、真言(マントラ)や信仰の歌を唱えている者もいる。

 あたりには、心地よい寂寥と静けさが荘厳ともいえるふんいきで満ちあふれている。まるで天地の始まりのころから、何の変化もうけていないかのような、不動と静寂の世界だ。大きな河のそばなのに、釣り人も姿をみせず、鳥の鳴き声すら聞こえない。
 河幅は非常に広く、10キロ以上もありそうだ。堤のうえでは、修行者たちが聖なる儀式と斎戒に没頭している。瞑想や沐浴をしている苦行者たちを見ると、ちょうど2500年前、インドのビハール州のナイランジャナーと呼ばれる場所でおこなわれた光景を見ているような気にさせられる。
 
 その昔、シッタルダと呼ばれる王子がここにやってきた。高貴な風貌のその男は、いましがた王冠も耳飾りも、そして装飾品いっさいを脱ぎ捨てたばかりで、まるで裸にでもなってしまったかのように感じていた。馬を手ばなし、最後まで従ってきた下臣も捨ててしまった。もう彼は、真白い木綿の衣を身につけているだけだった。
 彼は、あたりを見まわして、他の修行者たちのまねごとをしてみようとした。彼らに見習おうと、そのうちのひとりに近づき、瞑想法について、教授を求めた。
 彼は最初に、自分は王子であり、宮殿での生活が無意味なことに気づいたいきさつを説明した。宮殿では、たんに生誕と死と病いと老醜があるばかりだった。また、その地で、彼は道すがら賢人に出会い、天啓に打たれた。自らの求めていた生活を、彼は、その賢人のうちにみてとったのであった。それは彼のうかがい知れぬ世界であり、最初のうちは、とても自分自身に起こりつつある変化を信じられぬ思いであった。だか、宮殿の中でのぜいたく三昧や官能の愉悦を、心の底から完全に捨てきることはできなかったのだ。

 この王子シッタルダこそ、のちの仏陀となるべき人物であった。しまいには、彼は、おそらく強くためらいを残しながらも、導師から教えをうけることになった。聖仙(リシ)の苦行法、胡坐の組み方、ヨーガの7つの体位、そして呼吸法など、最初のうちは、まるで目先の変わった遊びでもしているように、すべてが目新しかった。それに、この新しい生き方を志すために、自分は、ついに世俗的な地位を捨てきったのだという成就感から喜んでもいた。

 だが、その彼も、妻子や両親の思い出は、いまだに心にあふれ、ときにはヨーガの行をさまたげることもあったに違いない。しかし、精神を導くに足る方途は、これ以外に、ありそうもないのだ。
 しかも、他のヨーガ行者たちは何も語らず、黙々と苦行をつづけるばかりだった。

 これは、ざっと2500年ほど前に、仏陀が体験したことであるが、これに似たような情景は、現在でも目にすることができる。
 もし、あなたが家を離れ、入浴やシャワーを捨て去り、家庭料理とか車を乗りまわすというぜいたく (そういう意味では、バスや電車を利用することも、大変なぜいたくといえる) を忘れようと決心したならば、これに似たようなことを体験するはめになるのだ。
 その気になれば、飛行機を使って、それこそ、自分がどこを飛んでいるかも知らずに、2、3時間のうちにインド中部のその場所に着いてしまう。まち、もっと波乱にとんだのを好む向きは、ヒッチハイクを選ぶかもしれない。それが、たとえ非現実的に思われたとしても、旅そのものはきっと刺激的であろうし、退屈もしないのだろう。けっきょく私たちはインドに着くのだが、たぶん、いくつかの点で、それは期待はずれだろう。

 そこには、不均衡な近代化と、相も変わらず英国支配の猿まねをしている、教育ていどの高い上流階級の俗物根性が待っている。最初は少しイライラさせられた人も、どうにかそれと折り合いをつけるようになると、できるかぎり急いで街を離れ、森林地帯へと向かう (たぶん、チベットの僧院か、ヒッピー部落をめざす)。私たちも、そうすることはできる。それは、ちょうどシッタルダと同じような体験をすることになるだろう。
 そうした体験の中で、まず私たちの心を圧倒するのは、その禁欲的な面 (というか、正しくいえば、ぜいたくをいわなくなること) だろう。

 さて、このような生活を続けていて、最初の何日か、あるいは数ヶ月の間で、あなたは何かを習い覚えることができるものだろうか? たぶん私たちは生活様式について、何かを修得したような気分になることだろう。ところがそれは、私たちが、このような土地を見たことがなかったため、より刺激を受けやすくなっていたからなのだ。
 人は、ふつうすべてのものごとを自分の願望で勝手に解釈しようとする。そして、伝達手段とか言語の障壁を乗り越えようと奮闘しながらも、一方では心の中で、いまなお会話をつづけているものだ。つまり、いつまでも自分自身の世界に、どっぷりと身をひたしているのだ。ちょうど、あの仏陀がそうであったように、私たちの場合も、異国の見知らぬ事物が与えてくれる興奮と、ものめずらしさは、2、3ヶ月ぐらいでは、尽きはしないだろう。

 ある人は、まるでその土地に取り憑かれたように、見るものすべてからうける目新しさに夢中となった手紙を、家に書き送るだろう。そして、もしわずか数日ないし数週間いるだけで、そこから帰国してしまうなら、彼は多くを学ぶことが難しいだろう。それは、たんに異国で風変わりな生活様式を見たというにすぎない。
 もし仏陀が、ナイランジャナーの森林地帯を離れたあと、ラジギールの彼の王国に戻ってしまったならば、彼にしても同じことであったに違いない。
 仏陀の場合、ヒンドゥーの師のもとで、瞑想の訓練を積み、禁欲主義や、宗教的儀式へのたんなる順応が、かくべつの助けにはならないことを発見していた。当時、彼はまだ、ほんとうの悟りを開いてはいなかった。といっても、まったく五里霧中の状態であったわけではない。ある意味では、彼の心の中で多くの疑問に対する答が、すでに出ていたのだ。
 しかし、彼は、ものごとのあるがままを見るよりは、むしろ多少とも、自分の見たいように見ていたのだ。
 
 このように、悟りへの道を歩むためには、まずはじめに、当初の興奮状態を乗り越えなければならない。それが、第一の要諦のひとつなのだ。もし人がその興奮状態を克服することができなかったとすれば、学ぶことはできないだろう。つまり、どんなたぐいの感情的な興奮にも、目かくしの効果があるからなのだ。
人が人生をあるがままに見るのに失敗するのは、往々にして自分自身の願望を勝手につけ加えてしまうからだ。したがって、探し求めてきた本質をまず見抜くことなしに、宗教的な、あるいは政治的な組織にかかわりあったり、従ったりすることは、あまりかんばしいことではない。自分を分類したり、禁欲生活をしたり、衣服を変えたりすることは、どれも、真の目覚めを生じさせはしないのだ。
 
 数年後、仏陀は、この場所を去る決意をした。ある意味では、彼は多くのことを学んだともいえる。教師である聖仙(リシ)たちに別れを告げ、たったひとりで立ち去った。彼は、そこからかなり離れた場所 (やはりナイランジャナー河の土手の上だったが) に行き、そこにある菩提樹の下にすわった。大きな石を下に敷き、断食をしながら、何年もの間、彼はそこにとどまった。
 これは彼が、以前のように厳格な苦行の課業を積むことが必要だと感じたためでなく、孤独のままに自分自身を理解するのが、他のだれかのやり方をまねるよりも必要だと感じたからだ。
彼は他の方法を通じたとしても、同じ結論に到達しただろう。しかし、それはさして重要なことではない。重要な点は、何を学ぼうとするときでも、たとえば本や教師にたよったり、あるいはすでに確立されている方式に、ただ従ったりするよりは、直接の体験の方が、より肝要だということだ。

 それが、彼の見い出したものであり、その意味では、仏陀は自分の従来の考え方に大革命を成しとげたわけである。彼はまた、梵天や神や天地創造者の存在をも否定した。そして、自ら発見しなかったものは、何ものをも受け入れまいと心に誓った。しかし、これは、彼がインドの古く偉大な伝統を無視したという意味ではない。彼はそれを大変重んじていた。

 その姿勢は、いくつかの拒否的な感情からなるアナーキズムとも、共産主義者たちの革命の方法とも違っていた。それは、現実的で建設的な革命だった。彼は他者に助けを求めようとするのではなく、自分自身で探り出すという、革命の創造的な面を開発した。仏教は、神のお告げにも、何か神秘的な存在に対する信仰や献身にもとづかない、おそらく唯一の宗教である。もちろん、仏陀が無神論者だとか、異端者であるとかいうつもりはない。彼は神学者的な、あるいは哲学的な教理を決して論じなかった。
問題の中心部、つまり、いかにして <真理> を見いだすか、というところにまっすぐに入っていった。むだな思索によって、時間を浪費することはしなかった。
 そのような革命的な態度の開発によって、多くのことが学べるようになる。たとえば、ある日、昼食を取りそこなったとする。朝、たくさん食べたので、おなかはすいていない。しかし、昼食を食べそこなったという考えが、その人に影響を及ぼす。
 
 ある形式が、社会の枠組みの中に形づけられると、疑うこともななく、人はそれらを受け入れてしまいがちである。私たちは、ほんとうに飢えているのだろうか? あるいは、ただ正午という特定の時間におなかをいっぱいにしたかっただけなのだろうか? これは、非常に単純でまともな例だ。

 私たちが自我(エゴ)の問題にだとりついた時には、ほとんどこれと同じようなことがいえる。
 仏陀は <私>(自我) というようなものは、存在しないことを見い出した。たぶん <私が> の <が> もないのだろう。彼は理想、希望、恐怖、情動、断定など、それらもろもろの概念が、推測的な思考や、両親からの心理学的な遺伝とか、しつけなどによって創り出されてきたことを見い出した。
 私たちが、それらを自我の属性と思うのは、ひとつには教育方式が不備であるためだ。私たちは、自分たちの内部を実際に探求することよりも、むしろ何を考えるかについて語っている。そして、その意味では、肉体的な苦痛の体験としての苦行は、決して仏教の精髄をなすものではない。重要なのは、私たちが形づくってきた精神的な概念のパターンを超えることなのだ。

 だからといって、これは新しい思考パターンを創り上げるとか、著しく慣習から外れたり、いつも昼食をぬいてしまうとかということではない。自分の行動様式だとか、人づきあいのやり方だとかをすべてにわたって、ひっくり返す必要はないのだ。それでは、問題の解決にはならない。
 問題を解決するたったひとつの方法は、徹底的に自分を検討してみることしかない。その観点からみると、私たちは、ある欲求 (欲求といえるほどでないにしても何かに順応したいという感情) を持っていることがわかる。しかも人は、それについて考えることもせず、ただ、それに導かれているにすぎない。
ところが順応を欲する感情は、精神の緊張ということを導くために、不可欠なものなのである。それゆえに、私たちは、そのたびごとに自らを検討することができ、たんなる意見だとか、常識的な判断とかを乗り越えることができるのだ。

 人が熟練した科学者となり、何も先入観を持たないようになるには、学ばなければならない。すべての事物を自分の顕微鏡を通じて見なければならず、自分自身のやり方で、自分自身の判断に達しなければならない。そうなるまでは、救世主も、導師も、祝福も、助けになりうる導きは何もないのだ。
 もちろん、つぎのようなジレンマは、いつもつきまとうだろう。
 もし救いがなければ、それなら私たちは、何なのだろう? 私たちは何でもないのか? 何か高次の存在をめざすものではないのだろうか? 高次の存在とは何なのだろう? たとえば仏陀のような存在か? 啓発とは何か? そういうものは何ものでもないのか。それとも何かなのか?

 さて、残念ながら、実際のところ、私はそれに答えられるほどの大家ではない。他の人と同じ一介の旅人にすぎないのだ。ただ、私自身の体験からいうと (聖典にもあるように「ガンジスの一粒の砂のごとし」なのですが)、私たちが"高次の存在"という場合、自分の独特の視点から、自分自身の拡大解釈として考えがちだ。
たとえば、神のことをいう場合、自分の独特のイメージ、ただ大きく、巨大な、自分自身を拡大したようなもの、と考えがちである。それでは、まるで自分自身を拡大鏡に映したようなものだ。

 私たちは、やはり類推的な考え方をしてしまう。私はここにあり、神はそこに存在する。そして、交感の手段は、神に救いを求めることしかない。何回かは接触を知覚するかもしれないが、どういうものか、このやり方では、ほんとうの交感は決してできないのだ。私たちは、決して神との結合を成しとげることはできない。なぜなら、そこには、私たちがすでに信じ込んでいる固定観念、つまり前もって出されてしまっている結論があるからだ。巨大な存在を小さな箱の中に押しこめようとしているだけなのだ。針の穴のラクダを通すことはできない。
 
 そこで、私たちは何か他の方法を見つけなければならなくなる。そして、それを見いだすたったひとつの方法は、自らをかえりみるという、まったく単純なところまで戻ることなのだ。これは、信心深くあろうとするとか、隣人に親切かどうか確かめるとか、できるかぎりたくさんのお金を慈善のために寄附するとかいうことではない。もっとも、それらもまた、すばらしいことには違いないが、重要な点は、すべてのものごとを盲目的にうけいれて、うのみにしないで、私たち自身の体験から直接に理解しようということなのだ。
 
 このことは、私たちを瞑想の実行へといざなう。それが大変重要な点である。ここで問題なのは、本とか、教育とか、講義とか、そういったものが、どうやってそれが成されたかという本質的な事がらを明らかにするよりも、きまって自説の正当性を証明することに重点が置かれることにある。
 私たちは <教え> を広めることに、とくに興味を持っているのではなく、それらを活用したり、成果を生むことに関心があるのだ。世界はめまぐるしく動いており、証明などに費やしている時間はない。だから私たちは、学んだことは何でも、持ってきて、料理して、すぐに食べてしまわなくてはならないのだ。

 したがって、すべての点において、私たちは自分自身の目で確かめ、まるで魔術的な力でも持っているかのような予断に満ちた伝統を、受け入れないようにしなければならない。そんな風に私たちを変化させる魔力などはないのだ。
 私たちは、ボタンを押すだけで機能するやり方を、いつでも探してしまう。近道は大変魅力的だ。もし何か早道ができて十分な方法があれば、骨の折れる旅や、困難な課業を始める人はいない。
 だからこそ、私たちは苦行の真の重要さを知るのだ。自分自身を痛めつけること自体は、どこにも導きはしないものの、体を使った作業や肉体的な努力が必要だと感じるわけである。自分の体で確かめながら、知るということは重要だ。

 もし私たちが歩いてどこかに行くとすると、その道を完全に覚えてしまうだろう。だが、自動車や飛行機を使ったりすると、夢のようで、ほとんど覚えていないことが多い。同じように、進歩の道すじを連続的な型で知ろうと思ったら、体を使わなくてはだめだ。それが最も大切なことだ。
 
 そして、ここではじめて戒律が必要になってくる。私たちは、自分自身に戒律を課さねばならない。それは、瞑想法の修行においても、日常の生活でも同じだが、私たちは、なるべく忍耐をさけたがる性向がある。何かを始めるとき、人はそれを味見して、すぐやめてしまいがちだ。それでは、それを食べたり、消化したり、あとの効果を確かめたりすることなど決してできない。もちろん、それがほんものか、役に立つのかどうかを探り出すために必要な、自分自身のための味みではある。

 でも、そこでとどまらずに、少なくとも予備段階における直接の経験を得るためにも、もう少し先まで試みるべきだ。これは絶対に必要なことである。

 仏陀も最初、同じ考えをもった。しかし、彼が数年間、ナイランジャナーの土手の上で、ほとんど動かずにすわり、瞑想にふけっていたなかから出てきた結論は、苦行そのものではなかった。彼は、自分のやり方で瞑想するなかから、俗世に帰ることが、ただひとつの答だと思った。彼は、苦行生活を送ったり、自分自身を痛めつけたりするところにもはや救いはないことを知った。

 そこで立ち上がると、食物を求めて出かけた。ブッダガヤの近くで、彼が最初に出会ったのは、たくさんの牛を持つ裕福な女性だった。彼女は蜂蜜入りの濃縮された牛乳をあたためて仏陀に渡した。彼はそれを飲んで、おいしいと思った。それだけでなく、彼はその牛乳が、自分のエネルギーと健康を強大にし、その結果、瞑想の課業に大きな進歩をまねくことを知ったのだった。同じことは、チベットの偉大なヨーギ行者ミラレパにも起こった。彼が初めて外界に出て、ちゃんと料理してある食事をうけとった時、それが自分に新しい力を与え、正しい瞑想を可能にしたことを知った。

 それから仏陀は、あたりを見まわし、快適にすわれる場所をさがした。石床の上にすわるのはつらく、苦痛に満ちすぎていると判断したのだ。ある農夫がくれた草の束を、ブッダガヤに生えている木の下に広げると、彼は、そこにすわった。彼は、何かを成しとげようとする場合、強制によっては、その答が得られないことを見い出した。事実、初めて、彼は成しとげることなどないことを認めていたのだ。彼は、すべての志を完全に捨てた。そして、飲むものも敷くものも持ち、できるかぎり居心地よくなるように計った。
 
 まさにその夜、彼は三菩提の域に、すなわち充分な悟りに達したのだ。しかしそれでも、完璧ではなかった。彼はすべてのことを、ほんとうには克服していなかった。すべての隠された恐怖、誘惑、そして欲望が、自我の最後のひと打ちが、邪悪なるマーラの姿をとって、彼のところにやってきた。最初のマーラは、美しい彼の娘たちを送って誘惑したが、成功しなかった。そのうち、マーラの獰猛な軍団がやってきた。これが自我の最後の闘いだった。
 
 しかし、仏陀はすでにマイトリー、つまり仁徳の境地に入っていた。彼はマーラを馬鹿にして見下すといった意味で哀れんでいたのではなかった。なぜなら、マーラこそ彼自身の投影だった。彼は無抵抗の域に、つまり彼自身をマーラと同一視して、非暴力の域に達していたということなのだ。
 聖典によると、マーラの射かけた矢の一本一本は、花の雨と化して、彼にふりそそいだという。こうして、最後には、自我は屈服し、仏陀は最終的な悟りを開いた。
 
 私たち自身にも、そんな体験は可能だ。清浄と平和の短い、かすかな光の中に身を置くこと(これが心の開かれた状態だ)はできる。でも、これも真に充分ではない。私たちは、どうやってそれをなすかを学ばねばならない。発展し永続的な核心として、なされなければならない。そのように自分のまわりの状況を創り出さなければならない。
 だから「私は悟りを開いた」などといってはならない。もし人がそんなことをいい、触れまわらずにいられなかったら、その人は悟ることはできないだろう。

 仏陀は、それから7週間、歩きまわった。ある意味では、彼はまさに孤独だった。たったひとりで理解し、何かをなしとげた大変孤独な人物といえるだろう。生命について論じ、真の認識を、本質を、輪廻の世界を知るためにいくつかの解答を、彼は知っていた。
 しかし、それがいかにして存在するかを確信するにはいたらず、ほとんど語らないことに決めていた。経典のひとつの中で、ガーサー (ゾロアスター教の賛歌のひとつ) に、短詩の型をとって、彼はいっている。

  "限りなく深い平安を
   私は <教え> の中に見た
   だれにも訳(わか)らない そのために
   私は静かに 森に残った"

 しかし、それから深い哀れみの心がめばえ、真空にして最後の確立がおこなわれ、彼は正しい状況を創り出す自分の能力を知った。この時点にいたるまで、彼はまだ教えたいという欲望を持っていた (こんな表現を使ってもよいとしたら、何かをなしとげた彼は、世界を救うべきだと考えていた)。
しかし彼は、心あるもののすべてを救うという、この考えを捨てざるを得なかった。そして彼が俗世を離れ、森林地帯に帰ろうと決めたちょうどその時、心からの無我の哀れみの心が、彼の内部に現われてきた。彼はもはや、教師として自分自身を意識したり、人々を救わねばという考えを持たなかった。ただ、いつでも、その局面に応じて、自然に対応していくだけだった。

 仏陀は、ほぼ40年間、説きかつ教え、生涯をインドの端から端へと歩くことに費した。象や馬や馬車にも乗らず、ただ裸足のままで、インド全域を歩いたのだ。
 もし私たちのだれかが、彼を見たり、その話を聞いたとしても、それは、私たちの知っている講義のたぐいとは、まったく違ったものに感じられただろう。それは、ひどくかんたんな会話にすぎなかったのだ。主要なのは話されることではなく、彼の創りあげた状況全体なのだ。それは、彼が精神的な力を克ちとり、それによって、その場全体を支配していたからではなく (ちょうど私たちにも可能であるように)、彼がただ真実の存在であったために、そうなりえたのだった。
だから、<教え> は彼が口を開く前に伝わっていった。それが経典にみられる神々と、阿修羅たち、それにインドのさまざまな地方のあらゆる階層の人々が彼の言葉に耳を傾け、目で見、会いに来て、すべての者が彼を理解できたという記述の理由なのだ。
 
 彼らは仏陀に向かう必要はなかった。解答は、自動的にうけとれていたのだ。これは、コミュニケーションのすばらしい一例である。仏陀は、神の、またはいかなる神的存在の具現であるとも主張しなかった。彼は、あることを体験し、悟りを開いたただ一個の人間にすぎなかったのだ。このような体験を得ることは、少なくとも部分的には、私たちのだれにも可能なのだ。
 
 このように、私たちは話すだけが伝達の方法ではないことを知った。何かをしゃべる前に、ただ「やあ」とか「どうだい?」といっただけでも、すでにコミュニケーションはある。また、話し終ったあとでも、それはなんとなく続いている。ものごと全体は、真実で自己中心的でない存在の熟練した手で誘導されなければならない。
その時、二元論的な観念でなくなり、コミュニケーションの正しい方式が確立するのだ。これは、自分自身の探求の体験によってのみ、なしえることなのだ。他のだれかの例をまねるだけではできない。また、禁欲主義によっても、既存の方式によっても、答は与えられないだろう。

 私たちは、他の人々やすばらしい世界からやってくるものを期待するよりも、むしろ自身が、まず行動しなければならない。もし私たちが家で瞑想していて、たまたま住んでいるのが表通りのど真中だったとする。平和と静けさが欲しいだけでは、交通は止められない。でも私たちは、自分自身を止め、騒音を受け入れることはできる。
騒音は、静寂もまた含んでいるのだ。私たちは自分自身をその中に入りこませて、外からのことを何も考えないようにしなければならない。ちょうど、仏陀がそうしたように。
そして、どんな状況をも受け入れなければならないのだ。私たちがその局面から退却しないかぎり、それはいつもそれじたい、たとえば車として存在していて、私たちの役に立つことだろう。

 聖典にいわく 
  "達磨は初期によく
   達磨は中期によく
   そして達磨は最後によかった"

 他の言い方をすれば、達磨大師は、時代に取り残されなかったわけだ。以来、基本的に、状況は同じなのだ。


                

            






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