マハムドラーの詩 

ティロパ  Tilopa 

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 彼はインドの至る所を旅し始め、そして、多くの導師から教えを受けた。
サリヤパ Saryapa からは、彼は内的な熱(カンダリ)について知った。 ナーガールジュナからは、彼は輝く明り(プラバスヴァーラ prabhasvara)そして、幻影的な体(マーヤ・デーハ)の教え(チャクラサンヴァラ Chakrasamvara)、Lagusamvara ラグサンバラ・タントラ、またはヘールカ・アビダルマ (Heruka Abhidharma)を受けた。 ラワパ Lawapa からは夢のヨーガを、スクハシッディ Sukhasiddhi からは、生、死、バルド(中有、生の状態、意識の転移の間、ポワ)の教えを、インドラブティ Indrabhuti から、彼は洞察(般若)について、そして、マタンギ Matangi から、死の復活を学んだ。 
瞑想の間、彼はブッダ・ヴァジュラダーラ Vajradhara のヴィジョンを受けた。そして伝説によれば、完全なマハムドラーがティロパに直接伝授された。伝授された後に、ティロパは放浪する存在として教え始めた。 彼は後継者としてナロパを指名した。

C.トゥルンパタントラへの道 第八章:開かれた道より

 ここでナロパと、彼の師である偉大なインドの聖者ティロパの話をしてみよう。ティロパはグルとして弟子のナロパと12年間をともに暮らした。その間二人はいま私が話していた師と弟子のようなことをしていたのだ。

 「もしどこかの台所からスープを一杯失敬してきたら、教えを授けてやろう、多分な」とティロパが言う。そこでナロパはどこかの家の台所に忍びこみ、料理人やその家の主人に見つかって袋叩きにされたあげく、それでもなんとか一杯のスープを持ち出すことに成功する。
 ナロパは血まみれになりながらも意気揚々と帰ってきて、ティロパにスープをさし出す。それを飲み終えたティロパは「もう一杯取ってきてくれ」と言う。そこでナロパはもう一度スープを取りに台所に戻り、今度は半死半生の状態で帰ってくる。

 ナロパがあえてこのようなことをするのも、ティロパから教えを受けたい一心からだ。
 しかし、ティロパはスープを飲み終えると、「いやありがとう。さてどこかへ出かけるとしよう」という調子なのだ。こんなことがたびたびくりかえされ、ナロパの忍耐はその頂点に達した。その瞬間を見逃すことなく、ティロパははいていたサンダルを脱ぐなり、それでナロパの横面をはりとばしたのだ。
 それがアビシェーカ (入門) だった。それは最高の、最も深遠な、最も偉大な---もっと多くの形容詞を使うこともできるアビシェーカだったのだ。大の男ナロパがサンダルでその横面をはりとばされた結果、突然彼には何もすることがなくなってしまったのだ。

C.トゥルンパ「仏教と瞑想」第三章:伝授より

 インドの偉大な師、ナロパの話をしよう。彼はナーランダ大学の大教授、マハ・パンディットで、仏教史のその時代における仏教界4大師のひとりであり、インドの大師と呼ばれていた。彼は聖なる仏典のすべてをそらんじ、哲学その他、あらゆる教理に精通していたが、自分自身に満足できなかった。それまでに学んだだけのことを教えてはいたが、自分が、真実の深淵を学んではいないことを知っていたからだ。

 ある日、彼が大学のバルコニーを歩いていると、正門のわきに乞食たちがたむろして話しているのが聞こえる。彼らはしきりと偉大なるヨーギ、ティロパのうわさをしている。ティロパの名前を聞いた時、なぜか、ナロパには、その人こそ自分が師と仰ぐ人になるであろうという確かな予感がし、ティロパを探しに行く決心をしたのだ。彼は乞食に食べ物を与え、ティロパの居場所を聞き出したのだが、結局12ヶ月という長きにわたって、ティロパを探さなければならなかった。こんどこそ師の居所をつきとめた、と思うたびに人々は彼に他の場所を指し示したからだ。

 ついに小さな漁村にたどりついた彼が、偉大なるヨーギ、ティロパの居所をたずねると、ひとりの漁師が、「偉大なるヨーギのことは聞いたこともないが、ティロパならあの川のほとりに住んでいるよ。あいつは怠け者で自分で魚をとろうともせずに、人が捨てた魚のハラワタや頭を食ってる始末だ。」と教えてくれた。
 ナロパは教えられた道を急いだ。しかし、そこで彼を待っていたのはひとりの乞食、いかにも柔和な顔付きはしているが、話すことすらできそうにない乞食だったのだ。それでもナロパはその乞食の足許にひれ伏して教えを乞うた。
 3日間、ティロパは一言もいわなかったが、ついに3日目の終わりに首をたてにふり、ナロパはついに師が自分を弟子として受け入れたのを知ったのだ。ティロパは「わしにしたがえ」といい、ナロパは以後、12年間にわたって彼にしたがい、その間に数知れぬ難行苦行をやりとげたのだ。

 ある時、ティロパは空腹を訴え、(ここで注意をうながしたいのは、これが伝授の一部であること、わかるだろうか? 彼は状況を創り出しているのだ) ナロパに食べ物を探してくるようにいいつけた。ナロパはもともとブラフマンの生まれで非常に洗練された人物なのだが、ティロパの弟子となった以上、どんなことでもしなければならない。
 そこで、村に行ってみると、村では結婚式か何か、盛大な宴会の最中だった。ナロパは托鉢をしようとしたが、その宴会の場では托鉢が禁止されていることがわかったので、仕方なく台所に忍び込み、スープをおわんに一杯盗んで大急ぎで逃げ帰ると、それを師に献じた。



 「わしに教えられるすべてのことは、お前に伝えた。今後、マハームドラーの教えをおさめようとするものはナロパから教えを受けよ。ナロパはわしに次ぐ第2の王者であると。その後はじめてティロパは教義の詳細をナロパに説明したのだ。

 さて、これは伝授の一例にすぎない。もちろん当時の人々は、今よりも忍耐強く、そのような長年月を修行に費やす余裕もあれば、心がまえもできていたものだ。ここで、問題は、ナロパが教えを受け取ったのは、師のサンダルで打たれたその瞬間だけではなく、そのプロセスは彼が師のもとで過ごした12年という年月にわたって絶え間なく進行していた、ということなのだ。その間に、ナロパが体験したあらゆる困難は、すべて、伝授の部分であり、状況を積み上げ、創り出す過程なのだ。

 ティロパ Tilopaプラークリット語;サンスクリット語TalikaまたはTilopada988〜1069は、インドのベンガル州チッタゴン Chativavo(Chittagong) あるいはジャゴラJagora生まれた彼はタントラ的療術師であり、大覚者だった。
、菩提光明達成するプロセス大いに速める精神霊的な実修の一式であるマハムドラー(大印)の技法を現したチベット語phyag rgya chen poチベット仏教のカーギュ派の系列人間の創設者考えられている。

 ティロパは、バラモンのカースト、王族に生まれたが、托鉢と巡礼として在るようにと彼に言ったダーキニ(活動性が実践者を奮起させる女性の覚者)からの命を受けて禁欲生活を送った。
 最初から彼女はティロパに、彼を育てたのは彼の本当の両親ではなくて、原初の知恵と普遍的な空虚であることを明らかにした。ダーキニの助言によって、ティロパは僧としての人生を少しずつ生き始めた。そして僧の誓いを立てて博識な学者になった。ダーキニのたびたびの訪れは、彼の精神的な道を導いて、光明を得る地点に近づけた。
ティロパはこの上なく満足そうだった。じじつ、彼がこんなにうれしそうな表情を顔に表わしたのは、ナロパが来て以来はじめてだったのだ。ナロパは「何とすぱらしいことだ。これではもう一走りしてスープのおかわりを盗んで来なければ・・・」と考えた。すると、すかさずティロパが「もう一杯くれ」と言った。ところが今回は、人々がナロパを捕まえ手足がへし折れるほどたたきのめして、半殺しにしてしまったのだ。ナロパは地面にぶったおれたまま、身動きもできなかった。
 数日たつと、そこへティロパがやって来て「一体どういうことじゃ。なぜ家に帰って来なかったのだ」と怒りをさえその面に表わしている。ナロパが息も耐え耐えに「師よ、私は死にかけているのです」と言うと、師は「起きろ!お前は死にかけてなんかいない。あと数年わしにしたがわねばならんのに!」と叫んだ。ナロパが立ち上がってみると、本当に大丈夫で、どこも悪いところなどなかったのだ。
また、ある時、ふたりはヒルがヌルヌルはびこっている掘り割りのところにやって来た。ティロパは、ここを渡りたいからお前橋になってくれ、とナロパに命じた。ナロパは水の中に横たわり、ティロパが彼の身体を橋にして掘り割りを渡り終えた時にはナロパは全身ヒルに吸いつかれ、またもやそこにたおれたまま、数日間もおいてきぼりにされたのだ。このようなことは数限りなく起こった。

 そしてついに12年目の最後の月になって、ある日、坐っていたティロパは、突然サンダルをぬいで手にすると、それでナロパの横面をいやというほどなぐった。まさにその瞬間、マハームドラーの教えはナロパの心中にひらめき、彼は悟りを得たのだ。そのあと、盛大な祝宴が開かれ、ティロパは言った。
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