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Osho  Osho書籍リスト  秘教的講話
秘教グループ - 雑誌「ムー」1983年7〜10月号

 Osho  「未知への扉」より

 秘教グループは、急造できない。覚者(ブッダ)は突然誕生する。しかしそのグループは急造され得ない。覚者(ブッダ)が誕生する---それは突然の出来事だ。だから数千年に渡って精神的であり続けてきた国々には、継承としての、伝統としての秘教グループが存在する。そしてこの種の出来事があるたびに、そのグループが仕事を開始する。

 アショカ-(※(BC272〜232)インドの大部分を統一した最初の王。初めジャイナ教の信者で後に仏教に帰依。遠くギリシアにまで布教をし、第3回仏典結集を行う。)-は、今もなお存在しているグループを創りだした---9人のグループだ。1人が死ぬと、そのつど別の者が彼にとって代わる。だから、そのクループは依然継続している。1人が死ぬたびに、残された8人の者たちが彼に代わる1人を選ぶ。彼は残りの8人によって訓練され、こうして9人のグループは存続していく。人は変化するがグループはもとのままだ。

 このグループは今もなお存在している。なぜなら仏陀の再誕が待ち望まれているからだ。彼はいつでも来ることができる。仏陀がそこにいても、あなたがたは急にグループを創るわけにはゆかない。なぜなら、この秘教の奥義体得者たちのグループは、長い調練や鍛練を通して細造されるものだからだ。この訓練は偶発ではない。このグループは、十全に訓練されたグループだ。だれもが調練を受ける。これは突発的な出来事ではない。ゆえにこの9人のアショカ・グループは依然つづいている。

 グループは、いく度となく始められた。時としてそれらは存続し、やがて袞退していく。時としてそれらは存続し、やがて消減する。それというのも、きわめて多くの困難があるからだ。多大な国難がある! だが、このアショ力の秘教グループは今もなお存続している。

 それが存続しているのは、その存続を助けるいくつもの条件がそなわっているからだ。ひとつには、それが決して大衆自体に直接接触しないことがあげられる。それは、両者の間にまた別のグループを持っている。それは、常に知られることなく隠れている。あなたがたがそれについて知ることも、それがどこにあるかを知ることも決してない。このグループにイニシェート(入会)される者はみな---イニシェートされるその瞬間あなたがたの世界から完全に消える。そうなると、あなたがたは、彼について何も知ることはできない。そうなれば、グループはだれにも知られずに存続することができる。

 このグループは、たくさんの鍵やたくさんの手法を持っている。こうした鍵や手法を通して、それはさまざまな仕方で働き続けている。これはメンバーが肉体の中にあるグループだ。彼らはわれわれと同じように生きている。

 だが、一度だれかがそのグループのメンバーになってしまったら、別の生で、再び彼がその9人の1人に選ばれることはありえない。彼は次の生では、グループと大衆の間の環(リンク)として働くようになる。これが、9人のまわりにもうひとつ別のサークルを、より大きなサークルを形成する。なぜなら非常に多くの人々が、そのメンバーであったわけだから。彼らは、仏陀を直接知っている。彼らは、秘教の奥義体得者たちを直接知っている。彼らはたくさんの経験を積んでいるので、大衆の中にとどまりながら、グループの仕事を継続することができる。しかし、彼らはメンバーにはならない。

 グループのだれかが地上に生まないとき、つまり、彼が肉体をともなわずに存在するとき---彼が非肉体的存在状態にとどまる場合にも---彼らは、依然仕事を継続していく。肉体の中にいない超人たちは大勢いる。彼らはワークを続けている。神智学者たちは彼らを〈大師たち〉と呼んでいる---クート・フミ大師のように。-(白色同砲団と呼ばれ、太古から、預言者や真理を告げる者たちを訓練し、世に出してきたグループがある。クート・フミ大師は、この代表的存在である。なお、彼らは、カルマを克服し、もはや、肉体を持っことはない、といわれている。)- これらは架空の名前だが、彼らは、特定の人格や個性、今なお働き続けている肉体を持たない魂について言っているのだ。

 クート・フミ大師(9人のアショカ・サークル最古の奥義体得者のひとり)が、神智学運動の全体を創りだした。彼らは、来たるべき仏陀の再誕が可能となるような状況を創りだそうと試みていた。仏陀は、2500年後、再び生まれ、その名は〈マイトレーヤ〉となるだろう、と語っていた。ゴータマ仏陀のような覚醒した人物は、2500年後、だれが覚醒するかを知ることができるのだ。だから仏陀は予言した。そしてこの出来のために、9人のアショカ・サークルは何紀にも渡って働きかけてきた。

 今や時は近づいた。神智学運動はその出来事のための準備にすぎなかった。しかし、それはつまずいた、その実験は失敗した。彼らはマイトレーヤが降臨する〈乗り物〉を創るため、3、4人の人々を美験した。だが、その実験は失敗だった。何かが欠けていた。

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この運動全体は、アショ力の9人の奥義体得者たちによって創始された。彼らは、なおも働きかけている。実のところ、われわれが知っている歴史の背後には、われわれがうかがい知ることさえできないような歴史が存在しているのだ。歴史にはもっと深遠な部分がある。われわれが歴史として知る周辺部は、真実ではない。われわれの歴史の背後には、もっと別の歴史が続いている。われわれがそれについて何ひとつ知ることのない、より深い歴史があるのだ。

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 いつであれ仏陀のような師が誕生するときには、彼の謀体となって助けることが、グループの第一の仕事になる。これら秘教グループのもつひとつの仕事は、ひとたび得られた知識を保存することだ。たとえ仏陀が、何か究極的なものを成就したとしても、だれがそれを保存するだろう。何かを書物の中にするのは、保存ではない。なぜなら、知識は非常に生き生きとしたものだが、書物はまったく死んでいるからだ。
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 徴妙な知識、根源的な知識、究極の知識は、いつ得られようとしても決して書物のなかに保存することはできない。誤解のしようもない普通の知識、ごく普通の学校で学べるような知識なら、書物に保存できる。言語さえ知っていたら、あなたはそれを知ることができる。
 だが、究極的な知識は、こうしたやり方では保存できない。それは、ただ生きた人間を通してのみ保存され得るものだ。だからこそ秘教グループが必要なのだ。グループでは、知識はひとりの生きた人間から、もうひとりへと直接伝達される。それは、ただの機械的な伝達ではなく、ひとつの技だ。

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 究極の知を伝達したり保存したりすることは可能だ。事実、こうした秘教グループは、知識を伝達するべき特別な人をじっと待つ間、何世紀にもわたって知識を保存してきている。
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 師がそこにいないときには、こうした秘教グループが知識を保存する。保存がなされれば、この知識が師として機能し始める。だが、知識は生きた人間によってのみ保存可能なものだ。アショカ・サークルの9人は、それぞれが特殊な鍵を携えた奥義体得者だ。各人がおのおの全部の鍵をもっているのではなく、ひとりひとりが別別の鍵のスペシャリストとなる。

 グループが9人で構成されているのは、仏陀が9つの扉、9つの鍵、9種の知識について語ったからだ。各人は、それぞれただひとつの鍵に関してだけアデブトだ。
 彼はひとつの扉にだけ通じている。その扉から入りたい者は、彼の助けが受けられる。仏陀は9つの扉に通じることができたが、これら9人は9つの扉に通じることはできない。だが、ひとつの扉だけで十分といえよう。必要なのは、ひとつの扉のひとつの鍵だけ。何も9つの扉全部から入る必要はない。ひとつの扉で間に合う---。それであなたは、なかに入れるだろう。
 だから、これら9人のアデブトはそれぞれひとつの鍵をもっている。めいめいがひとつの扉、ひとつの瞑想の道に精通している。必要があるたびに、9人のなかから適任者が手を貸すことになる。
 いつであれ、新しい覚者(ブッダ)、新しい光明を得た人がやってくるときには、そのグループが下地を準備する。彼らは、人々が彼に耳を傾け、彼を理解するよう準備する。もし、こうした下地が用意されなければ、あらゆる覚者が十字架にかけられてしまう。彼は磔にあってしまう。なぜなら、民衆が覚者(ブッダ)を誤解し、拒絶するからだ。

 別の方法で働きかけている秘教グループもある。ときとして人類は、かつて知っていたことを忘れてしまうことがある。「死者の書」(エジプトの書物)には、こう記されている。
 「無知とは忘却にすぎない」
 かつて知られていたことが、忘れ去られてしまう。ある意味では、この世の知識に新しいものは何もないともいえる。何かが忘れられたままになっているだけだ。だから、あなたが再びそれを知っても、まるでそれが新しい発見であるかのように思える。

 いくたびも、多くの鍵が失われた。なぜなら、それを保存する秘教グループが存在しなかったからだ。しかし、グループは存在しても、知識の伝授を受け得る人が、ひとりもいないこともある。そうなると、秘教グループは、保存する以外になす術がない。だが、それすら不可能になるときもあるのだ。
 保存は容易なことではない。9人のグループのひとりが死んで脱けた場合、彼の代りを見つけるのは、常に大変なことだ。交代が、選挙のような形で行われるわけではないからだ。それは民主的ではない。知識の伝授は、民主主義には頼れない。できるのは無知だけだ。
 知識の世界は常に専制的だ。あなたは、選挙によってどんな人間でも委員会の長に決めることができる、と考えるだろうか。もし、あなたがそれを決定するとしたら、それは自殺行為だ。知識は常に専制的なものだ。それは絶対、下からは来ない。いつも上から来る。
 この違いをはっきり見てみるがいい。下からやってくるものは何であれ無知からやってこざるを得ない。たとえば、政治は無知の最たるものだ。それは下からやってくる。最低の者が最高の者を選ぶ。
 ではこの場合、最高の者とは何を意味しているのだろう? 最低の者が最高の者を選ぶ、それでは、最高の者は必ず最低の者よりなお低い者になるはずだ。民主主義では、指導者というのは追従者の追従者に他ならない。知識は、こんなものには頼れない。知識はいつも上から投けられる。それゆえ、秘教グループは専制的なのだ。

 秘教グループは鍵を保持している。知識を保持している。だれかが特定の知識のシステム、特定の奥義を受け取る能力をもつやいなや、その鍵は引き渡される。だれかの準備が整うまで、グループは待つ。だから、何世紀にもわたって待たねばならないこともあるのだ。

 グループのひとりが死んだ場合、補充は非常にむずかしい。補充は選択して決められるものではない。グループの残った8人のメンバーは、能力のある人物を見つけ出さなければならない。しかし、能力のある人物ですら、グループに参入する前に訓練を受けなければならない。ときには、グループはひとりの人物に何生にもわたって動きかける、そうしてはじめて、その人はメンバーに取って代わることができるようになる。
 だが、もしだれも見つからなかったら、鍵は失われ、この秘教グループ自身の力では二度と見つけられなくなる。それは、仏陀のような人が誕生するときにしか再発見はされ得ない。秘教グループはただ保存し、伝達することができるだけだ。それは発見することはできない。発見は彼らの能力の外にある。ゆえに、多くの鍵が失われていく。
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 たくさんのグループがある。しかしメンバーのだれかが死に、彼に代われる者がひとりもいないときには、いつも事態はむずかしくなる。そうなると、失われた環が生じてしまうからだ。
 教えを伝えようとするたびに、失われた環は大きくなる。だから、失われた環が生じてしまったグループからは、生きた教えを得ることができなくなる。
 なぜなら、そのギャップは埋めることができないからだ。今や、キリスト教にはギャップがある。それも無数にある。教えを授けようとするたびにギャップが生じる。一部が失われると、イエスのような人が生まれるまで、知識を補充することはできない。だが、その出現は予測不可能だ。前もって手はずを整えておくことはできない。それは計画されうるものではない。準備ができるのは、イニシェートされた探求者たちによるグループだけだ。それだけが、計画され、創造されうる。そして、グループが創造されていれは、彼らを使いこなせる覚者がいつ出現しても、彼にそのグループを使う便宜が与えられることになるのだ。

 これら秘教グループは、この地球だけに関わっているのではない。今では、科学者たちさえ、地球外の少なくとも5万の惑星に生命が存在するはずだという考えに同意している。それ以上は考えられるが、それ以下はありえない。ふつうの確率法則にてらしてみても、広大な宇宙には、少なくとも5万の感星に生命が存在することは疑いようがない。

 だから秘教グループはもうひとつ別の仕事を担っている。それはある惑星の知識を別の惑星の知識と結びつけることだ。その仕事は少々むずかしい。というのも、われわれはすべて熟知しているわけではないからだ。われわれは、かつて知っていたものを見失っているかもしれない。あるいは、部分的にしか知らないのかもしれない。だが、別の惑星には、われわれが持っている知識よりもはるかに深遠な知識が今も存在している可能性がある。とすればそこには、今別のブッダがいるかもしれない。

 秘教グループは、字宙のどこかに存在する異なる知識のシステムの、内なるリンクとしても働いている。だから、失われた環は別の惑星からも補給できる。そして実際、そういうことはいつも行われている。何かが失われ、その秘密をあかす人物の降臨を呼び起こすことができない場合には、いつでもその知識を別の惑星から補給することができる。それは常にどこか別の場所にある。

 秘教グループは、全宇宙に存在するあらゆるものと交信できる。この仕事は、ある者が大学から未開の集落を訪れることと変わらぬ価値を持っている。未開集落の者たちは何も知らない大学の人間は知っている。だから、この人は未開人を訓練して知識を授けることができる。彼は、大学という知識の源泉との接融を失わずに未開人に知識を伝えられるわけだ。

 これはたとえ話にすぎない。しかしこの惑星は、他の惑星の生命体の訪問を何回となく受けてきている。彼らはたくさんのしるしを残している。彼らは、この惑星上でとあるグループのもとに多くの知識の鍵を残していった。その後も、こうしたグループは仕事を続けている。ゆえに、秘教グループは惑星相互間のものだ。

 それぞれの時代に応じた独自の手法がされなければならない。古い手法で真に役立つものは何にもない。あなた方は変化してしまった。あなた方の精神構造は変化してしまった。鍵は昔と少しも変わらないが、錠は変わってしまった。秘教グループは鍵の保管者であって、錠の保管者ではない。というのも、錠はあなた方の内部にあるからだ。わかるだろうか?

 錠はあなたのもとにある---。仏陀のもとでも、イエスのもとでもない。グループは、たくさんの錠を開ける鍵を考案する。そして被らは、こうしてできた鍵を保存する。しかし、その間に錠は変化してしまう。あなたの錠は仏陀が開けた同じ錠ではない。だから以前とまったく変わらぬ鍵では、あなたの役には立たない。もし、同じ鍵がそのまま使えるのであれば、どんなに無知な者でもそれを利用できるだろう。

 そうなったら智恵はいらない。だれにでもそれは利用できる。私があなたに鍵を授け、あなたが錠を開けにいってもいい。あなたに智恵はいらない。それでことは足りる。これが鍵で、あれが錠だ。だが錠はどんどん変化していくのだから、いつも鍵を錠に合わせておくためには、古い鍵から新しい鍵できる賢明なグループに、鍵を手渡す必要がある。

 錠は変化し続ける。錠は決して不変ではない。だから、生命を失った鍵を保管するだけではだめなのだ。錠に少しでも変化が見えたなら、いつでも靆を変えるだけの科学を知らなければならない。そのため、知識は秘教グループの手で保管される。書物のなかには、知識を保存することはできない。なぜなら、書物には錠の変化などわからないからだ。
 錠は変化する、どんどん変化していく。それなのに、こうした錠の可能性のすべて、錠の組合せすべてについて書き記せるような書物はない。錠はどんどん変化する。環境は変わるし、教育も変わるし、文化も変わる。あらゆるものが変化する。だから錠はちがう姿をとっていく。そうなれは、どう保管してみても、鍵は、常にある意味で不全なものになる。それは錠に合わなくなってしまう。だから、鍵はそれを変える力を持った賢者グループに、手渡す必要がある。
 秘教的知識と顕教的伝統のちがいはそれだ。顕教的伝統は、いつも錠に注意を払うことす、鍵を持ち歩いている。彼らは、古い鍵について語り続けても、錠が開かないことには決して気づかない。しかし、伝統とは几庸な者たちから成るものだ---。すなわち、キリスト教会のメンバーたちのように。
 確かに教会も鍵を伝えている。彼らは、この鍵がイエスの時代にたくさんの扉を開けたことを知っている。その知識は正しいし、情報も間違ってはいない。事実、この鍵はたくさんの扉を開けた!
 だからこそ、彼らはその鍵を伝えているのだ。彼らはその鍵を崇拝している。だが、今やその鍵ではどんな錠も開かない。そして、彼らには、別の鍵を考案することはできない。暇がないのだ。彼ら鍵をひとつしか持っていない。そこで、彼らはその鍵だけを信拳し続ける。もしそれで錠が開かなかったら、責任は錠の側にあると考える。それは、きっと錠のほうが不完全であるからだ。そうなると、どこかおかしいのは錠であり、鍵ではないことになる。

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 あなたは、私がどこかの秘教グループと関わっているかどうかを尋ねている。もし秘教グループのひとつとコンタクトできるなら、すべてとコンタクトできる。あなたはただ波長を合わせるだけでいい。

 ・・・
 私が語っていることがらは、どれも多くの意味で秘教的だ。そのために、私は何度もあなたがたを非常に困惑させることになる。・・・
 だが秘密のものは、理解するのがむずかしい。なぜなら、完全に新しい知識を吸収しなければならない場合には、人々の理解能力はかき乱されてしまうからだ。基本原理を知っている知識であれば、あなたは楽に吸収できる。それはあなたの一部になるだろう。

 だが、今の場合あなたにとって全面的に新しいものが、そっくり消化されなければならないのだ。数学用語によって伝えられるような秘教の知識は存在しない。本当の知識は、神秘的な方法で伝達されなければならない。詩的な方法で伝達されなければならない。そこには、同時にたくさんの含みがあるのだ。それでこそ、知識は生きたものになる。

 私は、たくさんの秘教グループに接触してきた。私は、どこかの秘教グループに属している生きた人物も大勢知っている。私は、真正の師によって伝えられた数多くの鍵を知っている。だが、古い伝統からきた鍵は、どれも不十分だ。だから、私は、新しい鍵を編み出している。だからといって私は、どの秘教グループとも直接はコンタクトしていない。それぞれの秘教グループが特殊な鍵の保存に関心を持ら、その鍵をあずかっている。だが、私はそういった特殊な鍵には興味がない。私の関心は、覚醒のための新しい手法や新しいテクニック、すなわち新しい鍵を考案することにあるのだ。なぜなら古くからある鍵は、すべていろいろな意味で的をはずれたものになっているからだ。

 理解しなければならないことがひとつある。それは、これらの鍵は、すべていつも限られた地域で発展したものであるということだ。史上初めて、われわれは、地域的な限界のまったくない普退的な世界のなかに暮らしている。われわれは、今初めて世界のなかにいる。かつて、われわれは、常に世界の特定の地方に閉じ込められていた。つまり、以前の鍵は、特定の地域の条作や文化に合わせて発展したものなのだ。
 今こそ、世界は、ある意味で初めて混沌のなかにある。特定の文化もなければ、特定の条件付けもない。あらゆるものが混ざり合っている。そして、今後状況はますますそのようになっていくことだろう。間もなく、地域的な生い立ちには意味がない。

 ・・・・・・

 私は、非常にたくさんの秘教グループを知っている。今生でも、前生でも、私は数多くの秘教グループに接触してきている。だが、彼らがどこにいるかを知らせることはできない。彼らの名前を語ることもできない。なぜなら、それは許されてはいないからだ。それに、話してみたところで、実際、意味がない。しかし、彼らは今もなお存在しているということはできる。彼らは、今も下を貸そうとしている。

 いくつかの秘教グループは、今も実に活発に働いている。たとえばアショカ・グループ。アショカが世界のどこの皇帝よりも意味のあることを成し遂げたとするなら、それは、この9人の秘教グループを創設したことだ。アクバル帝は、さまざまな面で、アショカをまねようとした。彼もまた9人のグループを創りだしたが、それは意味のないものだった。彼らは、ただの側近にすぎなかったから---。"Nava Ratha"アクパルの9つの宝石---しかし、彼らはたんなる人造宝石(顕教)だ。ひとりは詩人だった。もうひとりは戦士だった。それは何の意味もない。アクパルは、アショ力が9人のグループ(9人の賢者)を擁していたことをどこかから聞き知っていた。ゆえに、彼は、9つの宝石のグループを創った。ところが彼は、アショカ・グループの真相については何も知らなかったのだ。だから、彼が為したことは無意味だ。

 アショカ・グループは、2000年間続いてきた。それは、今なお活発に働いている。鍵を携え、依然、仕事を続けている。神智学連動の全体は、このグループによって創りだされた。神智学で、仏陀が最も意義をもつ人物になっているのはそのためだ。神智学の全員が、ある意味で仏教徒やヒンドゥー教徒だったので、西洋諸国では、それをたんなる西洋を改宗させようとする東洋の努力---、新しい衣をまとって活動する、ヒンドゥー教だと見なしていた。確かに、それが東洋のものであるというのは真実だ。なせなら、創始者のグループが仏教徒のグループだったからだ。

 あなたも秘教グループとコンタクトすることができる。コンタクトするためのテクニックや手法がある。だが「あなたは、その前にまず自分自身に大いに働きかけなければならない。あるがままのあなたでは、決してコンタクトはできない。仮に秘教グルプのそばを通り過ぎたとしても、正体を見破ることすらできないだろう。あなたは、自分自身を変容させ、新しい次元に向かって自身を調整しなければならない。新しい波動を感じることができるように、もっと感受性豊かにならねばならない。

 そうなったら「あなたは私がどこかの秘教グループと接触しているかどうかなどと尋ねたりすまい。私のそばにすわるだけで、あなたは知るようになるだろう私の眼をのぞき込むだけで、あなたは知る。あなたはそれを感じ取る。私の言葉を聴くだけで、あるいは私の沈黙を聴くだけでも、あなたは理解する。

 だが、その理解が訪れるのは、あなたが自分自身を変容させ、新しい現実に自己を同調させ、新しい次元にまで自己を開いたときだけだ。秘教グループは存在している。それは、いつもそこにある。あなたが閉じているだけだ。あなたは常に思考のなかや思索のなかに、自分自身のなかに閉じ込もり、人口も、窓も、扉もない。空はそこにある。ちょっと窓を開けてごらん、空や星々があるのに気づくだろう。

 たとえそれがどれほどはるか遠くにあろうとも、すぐそばにある窓を開けるだけで、遠くの星との交信が始まる。ある意味で、それは非論理的だ。こんなに近くの窓を開けるだけで、どうしてあんなに遠くの早々と交信できよう?
 もし私があなたに、「うしろの窓を開けてごらん、そうすれば宇宙全体とのコンタクトが始まるよ」と言ったなら、「馬鹿馬鹿しいや、こんなに近くの窓を間けるだけで、遠くにあるものとコンタクトなんかできるものか!」とあなたは言うだろう。
 だが、その通りなのだ。心の窓を開け、瞑想の空を創ってごらん。あなたは、たくさんの彼方の光や、いつもあなたのまわりで起こっている無数の現象とコンタクトできるだろう。ちょっと角を曲がれば、すぐそばで、あらゆることが起きている。ところが、あなたは眼が見えない、それとも眠りこけているか、もしくはまるで自覚がない。
 私はここにいる。しかし、ここで何が起こっているかを、あなたは想像することすらできない。あなたは、それすらもできないのだ。

 私が大学生だったころ、仏陀の誕生日に副総長が講演をした。私は当時、大学の1年だった。副総長は、こう語った。
「ゴータマ仏陀が生きた時代に生まれたかった。私は依陀に帰依しただろう」
 そこで私は横やりを入れた。「考え直してください。もう一度考えてみてから話してください。本当に、仏陀に帰依したと思いますか? 今生で、どこかの物乞いに帰依したことがありますか? 仏陀は物乙いだったのですよ。物乞いの姿をした師に、物乞いの姿をした目に見えない世界の師に帰依したことがありますか? 私の知るかぎり、あなたはだれのもとにも行ったことがありません。ですから、考え直してみてください。仏陀の時代に生まれていたなら、仏陀に帰依したと思いますか? 彼を仏陀と認めたでしようか?あなたは、今生でだれかを認めたことがありますか?」
 彼はあっけにとられ、不意を打たれて、押し黙った。やがて彼はこう言った。
 「私は前言を取り消す。確かにこれまで一度もじっくり考えたことがなかった。だれのもとにもおもむいたことがないというのは本当だ。だから、私が仏陀のもとには行かなかっただろうという君の指摘には筋が通っている。仏陀のそばを通り過ぎても、私は彼を見なかっただろう。彼に気づかなかっただろう」
 仏陀に触れた人々すべてが彼に気づいたわけではない。いいや!仏陀が村を通り過ぎているのに、だれひとり彼に気づかなかったこともある。仏陀の父も気づかなかった。仏陀の妻さえ気づかなかったくらいだ。

 私はここにいる。だが、あなたには、私の内側に何があるかはわからない。わかるのは外側のものだけだ。あなたが親しくなるのは外側だけだ。だが、それはしかたのないことだ。あなたは、自己の内性にも触れていないのだから。だとしたら、どうして私の内性に触れ得よう?それは不可能だ。

 だが、あなたが自分自身の内性に触れたなら、あらゆる内性を感じることは簡単だ。そうなったら、あなたは秋の内性---あるいは内性そのものとコンタクトできる。そうならない限り、あなたは私に質問を続け、私は答え続けることになるだろう。それでは何もかもが要点を取りが逃がすだけだ。

 私は、あなたに答えているが、それは、あなたが私の答えからあなたの答えを見つけることを望んでいるからではない。いいや私は、不可能なことは望まない。それに、私の答えがそのままあなたの答えになることなど望んではいないのだ。私の答えが、あなたの役には立たないことを、私はよく知っている。

 それでも、私が質問に答え続けているのは、もし、あなたが沈黙して私の話の全体を把握できるならば、その沈黙に聴き入ることで、あなたが自己の内性へと真っ直ぐに向かうことができるからだ。答えは、突如としてあなたの内部で炸烈するだろう。突然、あなたはこれまで経験してきたどの世界とも質を異にした別世界の中に存在している自分を発見する。
 そして、そうなったときこそ、あなたは新しい世界の一員となる。その姿こそ、本来のあなただ。それが、また秘教の内なる奥義でもある。その内なる存在こそ、あなたの疑間に答えるすべてのものを備えたものなのだ。










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