天皇系図

古墳・天皇陵

奈良

古墳・天皇陵

天皇系図

奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)である。山陵。円丘。元明天皇は養老5年12月7日、崩御した。これにさきだって詔して「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」。
すなわち13日、喪儀を用いず椎山陵に葬った。陵号は「続日本紀」奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。
中世、山陵の所在を逸し、「前王廟陵記」は那富士墓の位置を擬し、「大和志」は大奈辺古墳を擬し、幕末の修陵の際に現陵に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを明和年間、藤井貞幹が見て「東大寺要録」を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。

 675年に十市皇女と共に伊勢神宮に参拝、679年頃に甥である草壁皇子と結婚、草壁皇子は即位する事無く早世し、姉で義母でもある持統天皇の即位を経て、息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位した。
 707年4月には夫、草壁皇子の命日(旧暦4月13日)が国忌に入ったが、直後息子天皇が病に倒れ、譲位を固辞していた所崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。
 708年に武蔵国秩父(黒谷)より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、その為実務に長けていた藤原不比等を重用した。
 710年、藤原京より平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。 712年正月には諸国の国司に荷役につく民を気遣う旨の詔をだしたが、同年にはまた古事記が献上され、713年には風土記が編纂された。
 715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いと首皇子がまだ若いと言う理由で娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に譲位した。721年5月に発病し、婿である長屋王と藤原房前に後事を託し、遺詔として葬送の簡素化を命じた後、12月7日に崩御した。

元明天皇
第43代天皇
在位 707年8月18日 - 715年10月3日
在位中の時代 奈良時代
在位中の年号 慶雲
和銅
在位中の皇居 藤原京・平城京
別名 日本根子天津御代豊國成姫天皇
出生 661年
死去 721年12月29日
先代 文武天皇
次代 元正天皇
子女 元正天皇
文武天皇
吉備内親王
父親 天智天皇
母親 蘇我姪娘
注釈 女帝

元明天皇(げんめいてんのう、斉明天皇7年(661年) - 養老5年12月7日(721年12月29日))は、奈良時代初代天皇で第43代の天皇で女帝(在位:慶雲4年7月17日(707年8月18日) - 和銅8年9月2日(715年10月3日))。名は阿陪皇女(あへのひめみこ)。阿閇皇女とも。
天智天皇の第四皇女で持統天皇は父方の異母姉妹、母方の従姉妹で、夫の母であるため姑にもあたる。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、姪娘(めいのいらつめ)。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である。
和風諡号は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」(やまとねこあまつみよ(みしろ)とよくになりひめのすめらみこと)である。

奈良県奈良市奈良阪町

第43代 元明天皇陵

2009年5月31日

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