天皇系図

古墳・天皇陵

古墳・天皇陵

天皇系図

越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬られたとされ、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)が皇極・斉明天皇陵に指定されている。
但し、研究者の間では明日香村の岩屋山古墳、同村の牽牛子塚古墳、橿原市の小谷古墳も陵墓の候補としてあげられている。

敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んだ。
舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。在位4年目(645年)に中大兄皇子が蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼす(乙巳の変・大化の改新)と、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った(史上初の譲位)。孝徳天皇により、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を奉られた。
孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた(史上初の重祚)。 政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。
対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。
在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。遠征の軍が発する前に亡くなった。

皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日))。重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。
推古天皇から一代おいて即位した女帝である。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

第35代 皇極天皇陵

奈良県高取町車木

第37代 斉明天皇陵

2009年6月2日

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