傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に葬られた。同陵は奈良県香芝市北今市にある前方後円墳に比定されている。
また、神戸市西区押部谷町木津には、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。最寄り駅は神戸電鉄粟生線木津駅。また、この神社の他に西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。
安康天皇3年(456年)父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年(481年)11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
同5年(484年)に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年(485年)正月、弘計が即位する。
罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
3年(487年)4月、崩御。『古事記』に38歳(ただし治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
顕宗天皇 | |
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第23代天皇 | |
在位 | 485年2月1日 - 487年6月2日 |
在位中の皇居 | 近飛鳥八釣宮 |
別名 | 弘計天皇 来目稚子 袁祁王 袁祁之石巣別命 袁奚天皇 |
出生 | 450年 |
死去 | 487年6月2日 |
陵墓 | 傍丘磐坏丘南陵 |
先代 | 清寧天皇 |
次代 | 仁賢天皇 |
皇后 | 難波小野王 |
父親 | 市辺押磐皇子 |
母親 | ハエ媛 |
(けんぞう)
奈良県香芝町
第23代 顕宗天皇陵