天皇系図

古墳・天皇陵

古墳・天皇陵

恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)に葬られた。同陵は、大阪府藤井寺市国府一丁目にある国府市野山古墳(前方後円墳・全長228m)に比定されている。

天皇系図

 反正天皇5年(410年)1月、反正天皇が皇太子を定めずして崩御したため、群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊を天皇(大王)に推挙する。尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、允恭天皇元年(412年)12月、忍坂大中姫の強い要請を受け即位。
 3年(413年)8月、新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。
 4年(415年)9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。
 5年(416年)7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。
 7年(418年)12月、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。
 8年(419年)2月、衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。
 天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けたが、10年(421年)皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。
 24年(435年)6月、皇太子の木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚。軽大娘皇女を伊予に配流(→衣通姫伝説)。
 42年(453年)1月、崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする。

第19代天皇
在位 412年12月 - 453年1月14日
在位中の皇居 遠飛鳥宮
出生 376年?
死去 453年2月8日
陵墓 恵我長野北陵
先代 反正天皇
次代 安康天皇
皇后 忍坂大中姫
子女 木梨軽皇子
名形大娘皇女
境黒彦皇子
安康天皇
軽大娘皇女
八釣白彦皇子
雄略天皇
但馬橘大娘皇女
酒見皇女
父親 仁徳天皇
母親 磐之媛命

允恭天皇いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年(376年)? - 允恭天皇42年1月14日(453年2月8日))は、第19代の天皇(在位:允恭天皇元年(412年)12月 - 同42年(453年)1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

(いんぎょう)

大阪府藤井寺市国府

第19代 允恭天皇陵

2009年6月4日

★地図

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