第10代 崇神天皇
開化天皇10年(紀元前148年)に産まれ、28年(紀元前130年)に立太子、60年(紀元前98年)の開化天皇崩御に伴い翌年即位。
崇神天皇3年(紀元前95年)9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年(紀元前92年)、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
崇神天皇7年(紀元前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。
崇神天皇10年(紀元前88年)9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
崇神天皇11年(紀元前87年)4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。
崇神天皇12年(紀元前86年)9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。
崇神天皇48年(紀元前50年)1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
崇神天皇60年(紀元前38年)7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
崇神天皇65年(紀元前33年)7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
崇神天皇68年(紀元前30年)12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。
『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。
山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。
現在、同陵は奈良県天理市柳本町の柳本行燈山古墳(前方後円墳・全長242m)に比定される。
しかしながら、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳・全長220m)を、その真陵とする考え方もある。
行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) -
崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) -
同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。
和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。
現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める初めての天皇である。
2009年2月28日
崇神天皇、ミマキイリヒコイニエノミコト(御真木入日子印恵命)
第10代天皇。 在位期間 : 紀元前97年2月17日 -
紀元前29年1月9日
実在したと見られる倭王朝の最初の王といわれている。
2007年9月16日