1月12日
やたらアセンションという言葉を聞く。詳しいことは知らないが、どうも人間の意識レベルが高い次元へシフトチェンジするというもので、それが2012年あたりに地球規模で起こるというような、まあ、抽象的すぎてよくわからない。
ただ、言えることは、霊的に見てそのような急激な進化というのはありえない。
成長、進化というのはゆっくり進むものである。仮に、急激な進化がありえたとすると、同じく急激に退化する可能性もある。
なぜなら進化のための蓄積がないからである。
それはいわば上っ面の、表面的な変化にすぎない。そんな簡単な話ではないのである。簡単に変わるということは、簡単に元に戻ることにもなる。
このたぐいの話は昔からよくある。
1970年代のターニング・ポイント、ニューサイエンスの台頭なども似たものといえる。
この時代は精神世界の動きが盛んで、やたらインドのグル(導師・聖者)たちが注目を集め始めた。
もともとはヒッピーたちのドラッグ幻覚体験から発していたのだが・・・
そしてあのノストラダムスの1999年終末説。で、次は2012年ですか、という感じ・・・・
よく懲りないものだと感心する。
終末論に救世主待望説、今はそれが宇宙人になっているそうな・・・宇宙人を神様だと信じている人もいるが・・・
選民意識のエゴが見える。自分は救われるのだ、という変な自信・・・
そもそも 救われる、ってどういうことだ?
現代のような複雑な世界では、単にひとりの救世主が現われたからといって良くなるような単純な世界ではもうない。
時代が違うのだ。
しかし、このアセンションという発想は、結局ヨハネ黙示録にあるような最後の審判のような、キリスト教的発想からきているように見える。
私にとってはまったく現実味の感じられない、空論に思える。信じている人は好きにしてもらってけっこうだが・・・
「悔い改めよ、裁きの日は近い」この悪しきキリスト教の教義と何ら変わりがない。この地球が破滅するということはありえない。
これはシルバー・バーチもはっきり言っている。なぜなら地球は霊的な意味でも必要な星だからだ。
たとえレベルは低くても、修行の場として必要な星なのだ。
そして霊的進化はあくまで個人の努力によるもので、しかもそれはゆっくり進む。植物が地面に根を張るように、しっかりとした土台を築いて成長していくものだ。そうでなければその成長には強さがない。
だから、何らかの外的作用によって一足飛びに次の段階へ成長するということはありえない。
もしあったとしたら、その成長は非常に弱く脆いものであり、なによりその外的作用に依存していることになる。
でも、それを信じている人たちは、2012年のカウントダウンが近づいてきたら何をするというのだろう?
実際、何が起こるのか、見ものではあるが・・・
1月14日
死とは、単に霊が肉体から離れるだけのこと。
それは霊にとっては肉体からの解放だから、死は不幸ではない。死体処理は、霊の肉体への執着を早く断ち切るためにも火葬がベストと言える。
土葬はあまりよくない。ということはミイラ化することは霊にとってはあまりよくないことと言える。
四十九日とは、死体が土に変えるまでの期間だとも言われる。死者の霊はその間自分の死体の変化を見る。
葬式にはたいてい死者の霊も出席している。死者の霊に自分が死んだということを確認させるためにも葬式は必要だそうだ。
心霊知識伝達の先駆者でもある丹波哲郎の葬式でも、美輪明宏が霊視で丹波哲郎の霊が自分の棺おけに腰掛けて自分の葬式を眺めているのが見えたそうだ。
供養の形式にこだわるのは意味がない。国や宗教によって死者への扱いかたは様々だ。日本内でも宗派によって儀式はいろいろだが、それはただ地上的な問題だ。
死者へのお供えも、例えばお茶やご飯などは、死んで間もない霊には、まだ物質へのこだわりが残っているのでかまわないが、霊は早く物質への執着を断ち切って霊界へ進まなければならないので、いつまでも食物を供えることは霊にとってはよくない。逆に物質界に引き止めてしまうことになる。
死者を悲しむことも、ほどほどにして、遺族が悲しみすぎると、その念が死者の霊を地上界に足止めにしてしまう。
死者の霊が無事に霊界で過ごせるように祈ることが一番の供養となる。死者のために心霊知識の本を読み聞かせることは霊にとってとてもいいらしい。
チベットの死者の書などはそのための本なのだが、あれはチベット人のためのものであって、日本人には適用しにくい。
孤独で死んだ人の方が、この世に対するしがらみが少ない分、霊界での進行は早いらしい。
死刑は霊にとっては最悪。霊界にとっても、世間に対して怨みを持ったまま無理やり生命を断ち切られた霊がやってくるのはこまった問題だそうだ。
幼くして死んだ霊は、霊界の保育所のような施設で保護・教育される。母性愛に富んだ霊たちが面倒を見てくれる。
医学の進歩による延命処置、植物人間、これらは霊にとっては、死ぬこともできず、生きることもできない、宙ぶらりんの痛ましい状態とも言える。
霊や死後の世界を否定していた人は、死んでからも自分が死んだことを受け入れられなかったり、心霊の知識がないために、霊界での浄化が遅れてしまう。それよりも特定の宗教の教義を頑固に信じ込んでいる人はもっとやっかいになる。無知よりも誤解のほうが問題が大きい。
供養を怠ったために先祖の霊が災いを起こすということは、正直、その先祖霊はあまりに程度の低い霊と言うことがいえる。
それだけまだ地上界に未練が残っている証拠だ。先祖霊の子孫への災いの結果として精神異常という症状が出る場合がある。
これについては萩原玄明の本に詳しく書かれている。
死は全ての人に起こる。死は100%起こる。死は、当たり前の出来事であり、確実であり、絶対である。
死について考えることは、生からの逃避ではない。死に顔から、その人の生き様が見えてくる。
2011年 1月