死とは何か 



※心臓が止まると自分の肉体を離れ、死にかけている自分の姿や、周囲の人々を眺める。 死後しばらくの間は、肉体と霊魂にはまだ絆(魂の緒)が残っている。 
土葬の場合、肉体が完全に崩壊してしまうまで、この糸(魂の緒)は切れることがない。 その間、霊は肉体の置かれている墓から、離れたくても離れることができない。 これが「霊は墓にいるもの」と思うようになった一因。 
 四十九日という日数は、もともとは土葬された遺骸が骨になるまでの期間とされている。 
火葬では、肉体の分子は速やかに分散し、魂はより早く肉体から解放される。


   


 シルバー・バーチ

  肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。 霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。 実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。

  死ぬということは決して不幸でも災難でもありません。私から観れば、魂が肉体の牢獄から解放される祝福すべき出来事です。
  死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。 いわば第二の誕生です。 死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。

 死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。 本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷(ちまた)から平和な境涯へと移ることを意味います。

 あなた方は今そのままの状態で立派に霊的な存在です。 死んでから霊的になるのではありません。 違うのは、より霊的になるという程度の差であって、本質的に少しも変わりません。

 死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人間の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。 死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。 肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身になって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。

                                                     


    


 アラン・カーディック

  死後の魂の喜びや悲しみは、地上の時より千倍も鮮明である。 肉体から解き放たれると霊は感受性が鋭くなる。 

肉体がその感受性を殺しているのである。 
肉体から切り離されると、霊の視界からヴェールがなくなる。 霧が晴れた時のように、自分と幸福の間にはさまっている障害物が見える。 それ故、霊は一層自分の過失を十二分に理解できて、苦悩する。 

霊にはもはや錯覚はない、あるがままに物が見えるのである。 
肉体を脱した霊には、一目で自分の過去の生活が見えてくる。 
また、一方では自分の進むべき未来も予見できる。 従って、そこへ至るための欠けたものが理解できる。



                                               


 神智学
                                        

 死んだからといって何らかの変化がおこったためしはない。 
死とは、肉体がなくなった以外には、全く生前の彼に変わりはない。 彼はその知性、気質、美徳、悪徳などをそのまま持ち続ける。 死後の世界には思いもかけなかった全く新しい世界というものは決してなく、ある変わった状態の下に、現世すなわち物質界における生活の継続があるのみである。 そのために、肉体の死後アストラル界に初めて入っても、彼は自分が死んでいることをぜんぜん知らないことが多い。 自分がすべての物事を意識しているため死の自覚が得られにくい。
                                            
              神智学文献
      ----- 神智学大要 2 アストラル体 第13章 死後の生活・原則 P141 -----


 
アリス・A・ベイリー

死というものはない。あなた方が知っているように、それはより完全な生命への入口である。それは肉の乗り物による困難からの自由である。非常に恐れられているような引き裂かれる過程というものは、乱暴な突然の死の場合以外には、存在しない。
未発達な人々にとって死とは、眠りであり、忘却である。           
                       --- 第3巻 真理の実践 第3章 転生とカルマ 2 死 P138 ---

一般的な善良な市民にとって死とは、彼の意識内での生活過程の続きであり、生活での興味と傾向の繰り返しである。彼の意識と目覚めの感覚は同じであり、変わらない。彼は多くの違いを感じることはなく、また、しばしば、死という出来事を通ってきたということに気付かない。
邪悪なひどく利己的な人々、犯罪者、物質的な面のためにのみ生きてきた少数の人々の場合、"地縛"と呼んでいる状態が起こる。彼らが作り出した地上とのつながり、彼らのすべての欲求の持つ地の方への傾き、これらが彼らを地上と、そして地上での環境の最後の状況と密接に関係づけたままにする。彼らは死に物狂いで、可能なあらゆる方法をもって、再びそれと接触し、肉体にもどろうとする。

 大多数の人々の死に対する病的な態度と、健康な時に死について考えようとしない態度は、慎重に変えられなければならない。

                      --- 第3巻 真理の実践 第3章 転生とカルマ 3 死の芸術 P145 ---

 死の問題が、通常、恐れと病的状態を呼び起こし、人々が理解をもって死に直面したがらないのは、人々が、肉体の事実に強調を置き、自分自身を肉体と同一視しているためである。それはまた、孤独に対する生来の恐怖と親しんできたものの喪失とに基づいている。しかし、肉体を持たないことに気付く死後に起こる孤独は、誕生の時の孤独とは比べものにならない。・・・・・

 人間は、(死後) ベールの向こう側で、彼が知っている人々や、物質界での生活において関係していた人々を見い出す。それゆえに、人間が理解しているような意味で、孤独ではない。・・・・・もし、人々がもっと多くのことを知るならば、彼らが恐れるのは、死ではなく、誕生の経験となるであろう。なぜなら、誕生は魂を真の牢獄に入れることであり、死は解放への第一ステップでしかないからである。

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「トランスヒマラヤ密教入門」 ----



    


 エドガー・ケイシー

 ケイシーのリーディングによると、私たちが死ぬと、まずこの世と霊的世界の中間の世界のような所に向かうという。 人によってはそこでしばらく休息をし、この世の物質的な意識を霊的世界の意識に順応させる準備を行う。 この段階で、霊的世界に関する認識が希薄であった人や、霊を否定していた人は霊的意識への目覚めが遅いらしく、ある種の昏睡状態が続く。 
一方、生前から霊的世界に関する理解が深かった人達は、霊的意識への目覚めが速く、すみやかに次の段階へと進んでいくといわれている。

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 「眠れる預言者 エドガー・ケイシー」 ----

 
物質的体から解かれても、物質から解かれるわけではない。物質の形が変わるだけで、意識世界では、肉体にいるのと同じほど、否それ以上に鮮烈な感覚を持つ。死はない。物質界から霊界へ移るだけである。肉の誕生が新しい肉体生活を画すように、肉の死は新しい霊的生活の誕生を画す。  (136-33)

 無意識になった経過、意識がどの程度死を学んでいたかで、(肉体を感じる、死を自覚する)時間は違ってくる。死は神のもう一つのドアをくぐることに過ぎない。死にどれほどの時間を要するのか。多くの者が死んだことも知らずに死と呼ばれている状態に留まっている。それがいつまで続くかは個人によって異なる。  (1472-1)

                                           






 
バガヴァッド・ギータ (クリシュナ)

 個我は生じることも、死ぬこともない。また生じたあとで、存在しなくなることはない。不生・常住・永遠で太古から存在し、たとえ肉体が殺されても、彼は殺されない。
 生まれた者には死は必定であり、死者には生は必定であるから。それゆえに、避けられないものを、おまえは悲しむ必要はない。







 
Osho Krishna The Man and His Philosophy 15章

通常は人が死ぬ時、死ぬのはただ彼の肉体だけだ。彼と彼のマインドは身体と一緒には死なない。通常、死につつある人のマインドは彼とともに行く。そして死後の少しの間、彼は自分の前世の全ての記憶を保持する。

 無身体の魂は、その前世を、その友人たちや親族たちを、彼の死後少しの間覚えている。そしてこの記憶はどちらかといえば苦しいものだ。なぜなら彼はもはや彼らと関われないからだ。

 ヒンドゥー教徒たちは、彼らの死後すぐに、彼らが関わってきた死体を火葬にする。もしそれが回避されるならば、彼らは手間取らせないようにする。そしてそれは意義深い。火葬は彼らの身体の死への自己同化と愛着の全てを破壊する。なぜなら彼らは自分の死体という媒体を通して、自分の過去を覚えているからだ。死体は、解放された魂と彼の過去生の間の橋として貢献する。だから火葬は亡霊のためのものだ。

 突然、あるいは事故で誰かが死ぬ時、彼は自分が死んだことがわからない。しばらく彼は呆然と感じて、自分が自分の身体から離れているのを見て当惑する。たぶん、何かがどこか間違ってしまったのだ、と。それが起こるのは、身体の内側では、魂が身体から去ったこと以外は本当に何も死んでいないからだ。魂たちの少数ではなく大多数が、彼の死後まもなく全く混乱と混同を感じる。

 なぜ自分の家族みんなが涙を流して泣いているのか、なぜあたり一面にとても多くの悲嘆があるのか、誰も理解できない。なぜなら彼は、自分の身体が自分から少し離れていること以外は、以前と同じくらい活き活きと感じているからだ。それは彼に永続性の感覚を与える身体だ。なぜならそれは彼の過去の思い出の全ての媒体だからだ。ただ瞑想的な人々だけ、深い瞑想を体験した人々だけが引き寄せられ、そして当惑させられずにすませられる。なぜなら彼らは自分が自分の身体から離れているのを知っているからだ。

 火葬の、あるいは死体の埋葬の後まもなく、魂はその過去の記憶と思い出からしだいに自由になる。それはまるで私たちが自分の夢をしだいに忘れるようなものだ。それは、自分たちの死に対して異なった葬式を持っている、異なった種類の魂によって数えられる時間の計算に基づく。
 何人かの人々は、特に子供たちは、彼らの過去の思い出を忘れるのに、ただ3日だけかかる。他のほとんどの人々は13日かかる。だから東洋のある地域は13日も長く葬式を行う。そこには少数の魂が---非常に強力な記憶を持つ魂がいる。この目的のために1年間を要する魂が・・・。彼らが理由で、私たちの葬式のいくつかは、まる一年にわたる。3日間から13日間は一般的な規則だ。そして非常に少数の魂は、まる一年も身体なしで生き残る。彼らのほとんどは短期間の内に新しい身体に生まれ変わる。

 覚醒をもって死ぬ人、自分が死ぬ時に十分に意識したまま、そして気づいたままで死ぬ人は、本当は死なない。彼は自分が不死であるのを知る。彼は死にかけてはいない。彼は、まるで私たちが古い服を脱ぎ捨てるように、自分の古い身体をあとに残す。そしてそのような深い覚醒の状態に達する人は稀だ。彼は全ての愛着と心理的な思い出から自由だ。彼には友人も敵もいない。彼は全ての熱望と欲望から自由だ。彼はほかに類がない。覚醒して死ぬと、彼は覚醒して生まれる。彼の過去による負担がない。






      



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