1831年 8月12日、ブラヴァツキー誕生(ロシア)。
1832年 オルコット誕生(アメリカ、ニュージャージ州オレンジ)。
1840年、A.P.シネット誕生。
1875年11月17日、神智学協会設立 --- ブラヴァツキー、オルコット、ジャッジ。
1877年、「ヴェールを脱いだイシス」ブラヴァツキー。
1878年、ブラヴァツキーとオルコット、インド・ムンバイに渡る。〜1882年。
ムンバイに神智学協会を置く。会員の大半はパールシー(ゾロアスター教徒)。
パールシーによる神聖数七に基づく体系化。
1879年、シネット、神智学協会に入会。
1880年、アリス・ベイリー誕生。
オルコット、スリランカに旅行し、スリランカ仏教の復興に専念する。
1882年、ブラヴァツキーとオルコット、インド・マドラス郊外のアディヤールに移動する。
1883年、「エソテリック・ブッディズム」A.P.シネット。
1884年、英国心霊研究協会によるブラヴァツキーの心霊現象への批判。
1885年、ブラヴァツキー、ヨーロッパに渡る。オルコットはインドに残る。
1887年、ブラヴァツキー、ロンドンに落ち着く。
1888年、「シークレット・ドクトリン (SD)」ブラヴァツキー。
ブラヴァツキー、ロンドンを中心にエソテリック・スクールを設立---ブラヴァツキー派。
ブラヴァツキー派---比較宗教学と古典研究、「普遍神智学」の構築。「シークレット・ドクトリンを読む」
ミード教授--古代宗教とグノーシスを専門分野とする宗教学者--SDの実質上の著者。
1889年、「神智学の鍵」ブラヴァツキー。
「沈黙の声」ブラヴァツキー。
アニー・ベサント、ブラヴァツキーに出会い、神智学運動に加わる。社会改革指向が強い。
1891年5月8日、ブラヴァツキー死去。自分の後継者にアニー・ベサントを指名する。
米国に残っていたジャッジは、これが不満で米国神智学協会を自分のものとし、自らがクート・フーミであると宣言する。
以後、インドのオルコット(神智学協会会長)と米国のジャッジ(神智学協会副会長)の間に激しい権力闘争が生じた。
1893年、アニー・ベサント、インド(アディヤール)に渡り、オルコットを支持。
1894年、リードビーター、アニー・ベサントと出会う。(ロンドン)
1895年、ジャッジ、アニー・ベサント(アディヤール派)と権力闘争を繰り返し、
最終的には1895年に米国神智学協会をアディヤール派から分離独立させる。
アリス・ベイリー、クートフーミ大師との最初の出会い。
1902年、シュタイナー、ドイツ神智学協会の指導的立場に立つ。
1907年、オルコット死去。アニー・ベサントが会長になる。
神智学協会の主導権はアニー・ベサントとリードビーターに移る。アディヤール派神智学。
アディヤール神智学の権力的・エリート的傾向に反発する脱会者出る。
〜ジャッジ、レーリヒ、アリス・ベイリー。
1909年、シュタイナー、ドイツ神智学協会から離脱。
1913年、シュタイナー派、人智学協会設立。
1915年、アリス・ベイリー、神智学協会と関わる。
1919年、アリス・ベイリー、ジュアル・クール大師との出会い。
1920年、アリス・ベイリー、異端者として協会から追放される。
1923年、アリス・ベイリー、Arcane Schoolを設立。以後、ジュアル・クール大師より啓示を受ける。
1925年、アニー・ベサントとリードビーターにより、クリシュナムルティをマイトレーヤ(弥勒)であると宣言し、
東方の星教団を発足させる。
1929年、クリシュナムルティは、自分はマイトレーヤではないと言って、東方の星教団を解散し、神智学協会と断絶する。
これにより神智学の組織はほとんどすべてが崩壊あるいは離反し、インドとスリランカだけが残った。
1933年、アニー・ベサント死去。
1934年、リードビーター死去。
アディヤール派はブラヴァツキーのSDをしりぞけて、アニー・ベサントとリードビーターの著作を基礎にして、
独自の神智学を再構築した。---ネオ神智学、またはアディヤール神智学---パウエルの『神智学大要』。
ネオ神智学(アディヤール神智学)は、ブラヴァツキーともアリス・ベイリーとも異なる体系。
アディヤール派---E・E・ウッド、A・E・パウエル、A・E・ノーマン・ピアースン。
1949年、アリス・ベイリー死去。