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六師外道
宗教歴史年表

 「六師外道」(ろくしげどう)とは、ゴータマ・シッダッタとおよそ同時代のマガダ地方あたりで活躍した6人の思想家たちを、仏教の側から見て異端だと見なし、まとめて指すための呼称。
  古代インドには様々な思想家、諸教派が存在したが、その中でも有数の教派を、仏教側から見て、まとめて指すための呼称、総称である。 仏教の視点であるので、仏教以外の宗派の教説を異端だと見なし「外道」と呼んでおり、仏教を「内道」と呼んでいる。釈迦と同時代のインドには、バラモン教ヴェーダ学派を否定する自由な思想家が多数輩出し、ヴェーダの権威を否定する諸学説を提唱して盛んに議論していた。
 原始仏典ではその諸学説を六十二見にまとめ、その中で主要なものを「六師外道」と総称した。プラセーナジット王は、彼ら六師を年長者と呼び、対して釈迦を年少者と呼んだ。後に、各六師にそれぞれ16人の弟子がいるとし、これらを総称して「九十六種外道」とも言うようになった。
 
                

  六師一覧

 〇アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅) - 順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。
       唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。
 アジタ・ケーサカンバリンは世界を地、水、火、風の4要素の離合集散によって説明する四元素還元説を唱えた。
 これは、霊魂の存在を完全に否定するものであり、ヴェーダに示される正統バラモン教におけるアートマン(?tman、我、真我)をも否定するもので、当時、汎インド的に最も重要視された業(karma、カルマ)の報いについても、霊魂の行くべき道を示した業のはたらきや善悪の行為の報いを完全に否定した。また、輪廻の思想を否定し、死後の生まれ変わりも来世も認めず、人は死ねば4要素に帰って消滅するとし、道徳も宗教も不必要なものであるとして、無神論の立場に立った。布施に功徳があるという考えもまた愚者のものだとみなしている。
 無神論に立つアジタ・ケーサカンバリンは、人生には目的が備わっているという従来の思考や人間には生得的に守らなくてはならない規範があるとする伝統的な共同体倫理を否定した。そして、従来のバラモン的な宗教行為は無意味であり、現世における生を最大限に利用して、それを楽しみ、幸福をそこから得るべきだとした。ただし、楽しみには悲しみがつきものであり、それはある程度覚悟しなければならないとし、悲しみを恐れて喜びから退いてはならず、たまに訪れる悲しみもまた、現世での幸福のためには喜んで受け入れることも必要だと説いている。


 〇パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延) - 七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。
ローカーヤタ Lokayata(順世派)[2]の祖となった自由思想家アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin、阿耆多翅舎欽婆羅)は唯物論者として知られ、万物は地・水・火・風の4元素から成るとする四元素還元説を唱えたが、パクダ・カッチャーヤナはこれら物質的元素に苦・楽・命を加えた七要素説を唱えた。
 「苦」と「楽」は感覚、「命」は生命のはたらきであり、7つの要素それぞれは互いに他に対して何の影響もあたえず、また受けないのであり、その点で絶対的で永続的なものであると説いた。カッチャーヤナによれば、7つの要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、また、何かを作るものでもない。また、不変不動で、直立しており、動揺することなく、他を害することもなく、互いの苦楽のためにもならない。そこには、殺す者も殺される者もなく、学ぶ者も教える者もいない。たとえ、鋭利な剣によって頭を断ち切ったとしても、誰かが誰かの命を奪うということにはならない。それは単に、7要素の間隙、諸要素間の裂け目に剣先が落ちるにすぎない。
 カッチャーヤナはこのように述べて絶対的な実体論を主張し、これを敷衍して、ひとつの行為に善悪の区別はないという見解を示した。これはまた、人間には何の力もなく、精進による解脱を望んでも無駄だという認識を含んでいる。


 〇プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)) - 道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。
 迦葉(カッサパ)姓は古代インドのバラモンの姓名で、また母方の姓名で、飲光(おんこう、いんこう)と訳す。不蘭(プーラナ)は彼の実名で、満(まん)と訳す。奴隷の子として生まれたが、のちに逃亡して裸の行者になったともいう。南伝Dhammapada Atthakatha (アッタカター)V.p.208には、釈迦が舎衛城で神変力を示して、外道をことごとく打ち破ったが、プーラナ・カッサパはその外護者の与えた壷(kuta)と綱(yottam)を取って川に身を投じて自殺したと伝えている。また『有部破僧事』10には、シャーリプトラとモッガラーナ(目連)が地獄に彼を訪ねたとある。
 霊魂の不生不滅を説いて、人間はどんな行為をしても善にも悪にならないとして、因縁や業を否定し無道徳を説いた。自ら行為をなし、他をして行為をなさしめ、手足を切断し、また切断せしめ、罰し罰せしめ、苦しめ苦しましめ、戦慄させ戦慄せしめ、殺し盗み、追剥をなしても悪をおこなったことにはならず、祭祀や慈善を行っても善をなしたことにはならない。また善悪の行為の報いもないという見解(空見、くうけん)を持っていた。仏教ではこれは「邪見」とみなした。その哲学上の立場をアキリヤヴァーダ akiriyavada (非業論)と称する。
 人には永遠の魂があり、たとえ人が死んでも魂がなくなることはない、したがって、行為自体は魂に影響を与えず、どのような行為をとってしまってとしても魂は永久に存在し続けることを、道徳無用論のかたちで主張した。


 〇マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利) - 裸形托鉢教団アージーヴィカ教(邪命外道)の祖。決定論者。釈迦の活躍した時代に仏教・ジャイナ教と並んで有力だった裸形托鉢教団アージーヴィカを主導した自由思想家。厳格な決定論を説き、釈迦は彼を最も危険で下等な教えであると断じた。
 マッカリ・ゴーサーラは、巡礼者であった両親が牛舎のなかで雨季を過ごしていたときに生まれたといわれている。成長したゴーサーラは、ジャイナ教をはじめたヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)の弟子として彼のもとで数年間修行し、苦行にいそしんで、呪力を身につけ、それによってアージーヴィカ教の指導者になったといわれる。仏典やジャイナ教典によれば、ゴーサーラは強力な呪術師であった。「呪術の火」によって弟子を失ってしまったことがあったが、この弟子はマハーヴィーラとのあいだの呪術試合ののちに死んでおり、これはマハーヴィーラの呪力に敗れたことを意味している。ミルチア・エリアーデは、これを紀元前485年から紀元前484年に起こった出来事だと推定している。
 また、ジャイナ教の伝説によれば、ゴーサーラはマハーヴィーラと激しい論戦の結果、没したとされる。これは、十六大国のうちで最も強力だったマガダ国の王アジャータシャトル(阿闍世王)がヴァッジ国に対し戦争を起こした同年にあたり、この戦争は、ブッダの最期を告げる『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』(涅槃経)に準備段階として登場することから、ゴーサーラの没年はブッダ入滅の数年後と考えられる。
 仏典の1つである『義足経上異学角飛経』上では、彼は他の五人の外道と共に語らい、舎衛城で釈迦と神通を競ったが敗れたとある。
 マッカリ・ゴーサーラとその教団アージーヴィカは、仏教徒やジャイナ教徒からの攻撃を受け、その教典も現存していないことから、教義や実践について再構成するのは、仏典やジャイナ教典に引用された断片によらざるをえず、至難の業である。しかし、その宗教活動はかなり古い運動とかかわりを有しており、仏教やジャイナ教の成立と比較しても、幾世代にもさかのぼりうるものである。


 〇サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子) - 懐疑論者
 霊魂の存在・来世の存在・善悪の行為の報いの存在など形而上学的な重要問題に対して曖昧な回答をし、判断を中止する態度をとったといわれる。
 たとえば、「来世があるのか」という問いに対し、「あるとは考えない、来世があるとも、それとは異なるとも、そうではないとも、また、そうではないのではないとも考えない」と、とらえがたい議論をしたという。このような論法を「うなぎ論法」ということがある。ジャイナ教においては、このような論は確定的な知識を与えないという点で、不可知論と称する。
 また仏典によると、彼はマガダ国の王舎城(ラージャガハ)に住んでおり、名声がかなり高く多くの弟子を擁していたが、その高弟のサーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(目連)とが、250人の弟子全てとともに釈迦に帰依し去っていった。2人は彼に釈迦の弟子になることを勧めたが、「我、今師匠として弟子を率いており、また弟子となることは瓶が瓶にして同時に釣瓶(つるべ)となるようなものだから難しい」とこれをしりぞけた。しかし2人が弟子衆を引き連れて仏に帰依するのを見て憤激のあまり血を吐いたと言われる。


 〇マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) - ジャイナ教の開祖。相対論者。
 マハーヴィーラ(サンスクリット語:Mah?v?ra、「偉大な勇者」、漢訳仏典では「大雄(大勇)」)は、ジャイナ教の開祖である。出家以前の名はヴァルダマーナ(サンスクリット語:Vardham?na、原義は「栄える者」)であった。クシャトリヤ出身。仏教を開いたガウタマ・シッダールタと同時代の人であり、生存年代には異説も多いが、一説によれば紀元前549年生まれ、紀元前477年死没とされている。

 


                     

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