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My スピリチュアル遍歴 

もともとは、神なんて信じない子だった。
自然界には、何か見えない存在が隠れているのかも・・・という、漠然とした思いはあったけれど、宗教の説く神というものには、最初からどうも胡散臭いものを感じていた。

私の最初のスピリチュアルな出会いは、中学の校長が、自費出版で、子供用にプラトン対話編を翻訳していて、それの挿絵を頼まれたことがきっかけ。
当時は、学校内でも絵がうまいということで評判だったらしく、それで私に指名が来たのだというが、渡されたものが、手書きの原稿用紙。
字も汚く、翻訳文も良くなく、正直、非常に読みづらく、あまりプラトンには興味は持てなかった。
プラトン対話編とは、そもそもプラトンの師であるソクラテスの教え、対話をまとめたもの。
三段論法とか、産婆術とかいって、対話を通じて、相手から結論を導き出す議論の方法。
後に、このソクラテスも霊能者であったことがわかるが・・・

当時の私には、意味はさっぱり理解できず、ただの屁理屈の集まりくらいにしか思えなかったが、それに影響されてか、私自身も、その頃はかなり理屈っぽくなっていたらしい。




プラトンを知ってから、ギリシャに興味を持ってくる。ギリシャは哲学者の溜まり場か? 
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、タレス、ヘラクレイトス、ピタゴラス、ディオゲネス・・・
万物の本源は何か?なんてことばかり考えている連中で、ま、物理学の元とも言えるかも・・・ こいつら、よっぽどヒマだったのだろうとも思えるが、
一番響いた言葉は、デルフォイの神託にある 「汝自身を知れ」 
自分を知ること、自分とは何か・・・ ・・・さっぱりわからない・・・

それでも これが西洋哲学の基になったらしく、それから、デカルト、カント、ショーペンハウエル、サルトルなど・・・ みんな難しいことを考えている。
そんな世界をお邪魔するようになって、哲学を極めれば、人生の意味がわかるのかも・・・ という思い込みを持ち始めていた。 高校生の頃・・・
ただ、ニーチェはなんとなく好きになれなかった。 「神は死んだ」という宣言。 変な、傲慢さを感じた・・・

ショーペンハウエルが一番好きだった。 「表象と意志の世界」 この世は、自分が描いたとおりの世界である、という。 幸福も不幸も自分次第である、という、ちょっと他の哲学とは違うモノを感じて、やはり、この人、インド思想、バラモン経典、ウパニシャッドから影響を受けている。
ショーペンハウエルから、西洋にインド思想が広まったらしいが、当時の高校の授業、倫理社会で、こんな哲学の講義を期待していたが、まったく低俗な話ばかりで、不満がつのって、一度答案用紙の裏側に、授業への不満を書きなぐったら、担任の先生から注意を受けて、曰く「カントの純粋理性批判でも読めばいいだろう。」なんて知ったかぶりをぬかす。

・・・もう読んだよ!

当の倫理の先生は、どうもそれなりに悩んだらしく、3学期に入って、ようやくギリシャ哲学史なるものを講義し始めたが、まったくその内容も幼稚で陳腐なものだった。それに・・・そんなこと全部もう知っているから・・・
そんな高校の頃だった。




だんだん哲学の世界も疎ましくなってくる。 それぞれの哲学者たちが違うことを言っているからだ。 彼らは、人と違う事を言う事が重要らしい。 いかに自分は深く考えているか、いかに自分の見方は斬新か、いかに自分の観点は、真実をとらえているか、
それの競い合いに見えてくる。

つまり、自分は、特別な人間であることを主張する、そのために、新しい理論を作り出す。 ただ、エゴを満たすため・・・
・・・そんな世界には、つきあっていられない・・・
新し屋、という人種がいる。 新しいものはなんでもいい、というもの、新しさが、唯一の価値である、と見る人。 彼らは、常に、新しいものを探している。 古いものは、古いというだけで、否定し、バカにする。 実に表面的な、上っ面の見方なのだが、

もうひとつ、難解屋、という人種もいる。それが難しければ難しいほど優れている、というもの、簡単に理解されるものは見下される。わかりやすいものは、バカにされる。できるだけ難しく論じること、それが重要らしい。
哲学は、この新し屋と、難解屋の集まりに見えてきた。 それで、哲学から離れた・・・




横尾忠則。この男が私を瞑想とインドに迷わせた張本人だ。1977年頃、雑誌「GORO」に座禅体験記を連載していた。同時に、雑誌「ザ・メディテーション」が発刊される。なんか・・瞑想ブームの頃だった。
スピリチュアルの情報が、どっと押し寄せてきた。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(当初はラジネーシと言っていた。後の和尚)、クリシュナムルティ、マハリシ・マヘッシ・ヨーギ(TM)、ラーマクリシュナ、サイ・ババ、・・・インドの導師のオンパレード。
そしてニューエイジの指導者たち、F・カプラ、ババ・ラム・ダス、カルロス・カスタネダ、・・・
日本では、おおえ まさのりの訳で「チベットの死者の書」「ミラレパ」・・・
もう、ごった煮状態で、どれから手をつけていいやらわからず、とりあえず、それぞれをつまみ食いしていた。



当時、影響を受けた本は・・・
 「存在の詩」和尚(ラジニーシ)
 「ビー・ヒア・ナウ」ババ・ラム・ダス
 「タオ自然学」F・カプラ
 「チベットの死者の書」おおえ まさのり訳
 「ミラレパ」
 「バガヴァッド・ギータ」
 「わら一本の革命」福岡正信
 「聖老人」山尾三省
 「知覚の扉・天国と地獄」O・ハックスレー




瞑想に興味を持ち始めてから、何か、「悟る」ことが人生の目標みたいに思い込み始めた。
でも、悟り、ってなんじゃらほい? なんとなく、悩み、苦しみが無くなって、永遠の喜び、至福の境地のように想像・・・妄想していた。

そこで、当時は東京に住んでいたので、青山にあった、桐山靖雄の「ニホン・メディテーション・センター」に通う。でもここは、ただ瞑想ルームで静かに座るだけ。部屋の中には、ヒーリング・ミュージックが流れていて、それなりにくつろげたけれど、何の指導も無し。
週に2日くらいのペースで通っていたけれど、半年位で止めた。入会当初は、心理テストをやって個人指導をする、なんておいしいことを言っていたが、半年間、まったくそういうことは行われなかった。

その次は山手国弘。この人は原気呼吸法という技法を使った、脱カルマ瞑想法を指導していたが、一度だけ行って止めた。
実際、よくわからない瞑想法だった。

そして、超越瞑想(TM)、マハリシ・マヘッシ・ヨーギ。このインド導師は、ビートルズに瞑想を指導したことで有名だが、空中浮遊でも話題となっていた。
超越瞑想を深めると、身体が宙に浮いたり、身体の一部を消したりできるという。
興味本位で入門?すると、特別なマントラが与えられた。ようするにマントラ瞑想だ。同じ言葉を繰り返すことで、一種の催眠状態に自分をもっていく、ひとつのリラックス方法・・・
不眠症にはいいかも・・・ でも、これも続かなかった。 なんか・・・自分の中で・・・ピンとこなかった。



思うところあって東京から長崎平戸に移り住む。26歳の時。
そこへ昔の友人が訪ねてくるが、いつのまにか彼女は和尚の弟子になっていた。彼女の誘いで、熊本で和尚のグループ瞑想があるので一緒に行こうということになった。

私はその頃は和尚については本で読んだくらいの知識で、その瞑想についてはまったく知らなかった。
熊本空港から少し離れた郊外に瞑想センターがあった。コミューンのような、弟子たちが共同生活をしていた。
雰囲気としては、とてもオープンで、なごやかだったが、私としてはただ見学のつもりで来ていたのだが、そのグループ瞑想に参加させられるはめになった。

グループは3日間で、セラピストの下でいろんなセッションをする。ほとんどエゴや本音をさらけ出すような状態となり、いろんな面でショックを受ける。
私を連れてきた友人は、途中で逃げ出すしまつ。そもそも、勧めた本人が途中で逃げるのだから、あきれてしまう。

私は、その不思議な魅力に取り付かれたのか、一ヵ月後にまた、その熊本のセンターで別のグループ瞑想を受ける。
グループ開始日の数日前にセンターに来たら、別のセラピストによる前世を見るセッションがちょうど終わっていた時だった。
私は、このセッションを受ければよかったと後悔したが、そのセラピスト(霊能者)を初めて見たとき、すごい懐かしさを感じ、直感的に自分の前世の母親に見えた。
彼女との出会いは、この時は一日だけで、約1年半後に再会する。

この時受けたグループは外人のセラピストで、同じく自分の全てをさらけ出すようなことが起こるが、それでも自分にとっては非常にいいものだった。
このグループ瞑想をきっかけに、和尚の弟子になることを決める。
思えば、あの日、友人が訪ねてこなかったら、私は和尚の弟子なんかにはならなかっただろうし、今みたいにスピリチュアルな世界にのめり込んではいなかったかもしれない。



1982年 
和尚の弟子になることを決めて、福岡のセンターで申し込む。自分の顔写真を貼って・・・ なんだか履歴書作成のような、入学願書のような手続き・・・ 
2週間後に返信が届く。弟子になると新しい名前がもらえるので、どんな名前が来るのか楽しみだったが、
いただいた名前は、 Sw. Bodhi Devayana スワミ・ボディ・デバヤナ
これはサンスクリット語 - 古代のインド語 スワミは男につけられる名称で、女はマとなる。
ボディは「覚醒」という意味。漢文の音写で菩提。デバヤナは「神々の道」という意味。  覚醒と神々の道・・・
ずいぶん大それた名前をいただいてしまったが、別のところで和尚は、名前なんて牛のクソだ、と言い捨てている。ひとつの遊びとしてとらえよ、ということだろう。

その後、四国の瞑想キャンプでリバーシング・セッションの強烈な体験をする。ここまでの流れは、わずか3ヶ月に起こったことで、まだまだ何もわからない状態だった。
実際、グループ瞑想というと、自分に正直であることがポイントだから、最初のうちはすごく恐怖心が出てしまう。他人に対して開くこと、自分の醜い面、見られたくない面を曝け出すことは、すごく勇気がいる。どうしても、他人によく見られたい、他人の期待に応えたい、いい子ちゃんでいたい、というエゴが働く。
それはそれで、そのエゴを見ること。

だから、すごく厳しい面があるが、グループであることから、他の人も同じであること、みんな似たようなことで苦しんでいる、ということがわかってくる。
そのへんの洞察が深められることには、とても役に立っている。




1983年
めでたく(?)弟子になり、最初のインド旅行からも無事帰ってこれて・・・・・・本当に、帰ってこれたのは奇跡なんだけれど・・・
夢と希望(笑)を持って、和尚のセンター・ワークに参加しようと、福岡のセンターに入居し始めたのだが、当時、和尚はインドからアメリカに移っており、和尚のセンターはアメリカを中心に組織立てられていた。
その日本の窓口は当然、東京のセンターであり、早い話、東京のセンターが各地方のセンターを管理・取り仕切っていたのだった。
ようするに、中央集権的な組織が出来でいた。

私の最も嫌うものだ! ただ、それに気づくまでには時間がかかった。東京からの威圧的な要求・・・
何か違う・・・こんなはずではない・・・と、感じながらも、まだ、たった3ヶ月の弟子体験で、何もわからず、混乱、違和感を感じながらも、流れに流されていった。和尚は、絶対的な自由、自分への信頼を説いている。

しかし、ここで起こっていることは、明らかに東京の弟子たちの権力志向だ。
ちまたの新興宗教で起こっていることが、ここでも起こっている。同じ過ちが、ここでも起こっていた。組織化することによる権力機構が作られていた。
地方のセンターは東京のセンターの出先機関に過ぎなかった。

その葛藤に、自分は正直になれなかった。全体がひとつの方向に動いている時に、その方向は違う、と言う自信と勇気、確信が持てなかった。
ただ混乱と、納得できない気持ちを抱えたまま、センター・ワークは進んでいった。




そんな感じで一年が過ぎ、突然あの、熊本で出会った霊能者がセンターに入居することになった。 彼女の名は、マ・プレム・アニマ。私が以前に超越瞑想でもらったマントラがアイマ。 アニマとアイマ・・・なんだろう・・・? とにかく、このアニマのパワーに押されて、センターは彼女の霊能センターと化してゆく。

何人かの仲間は彼女に反発して去ってゆく。私はとにかく、このセンター以外に行くところがなく、このまま彼女についてゆくしかなかった。
そして、中央集権的なセンター運営に反対し、センターは東京中心から独立宣言する。和尚にこだわらない瞑想センターにする。当然、東京からはバッシングが来る。彼らは、和尚にこだわるのだ。和尚を偶像崇拝し、信仰の対象としている。馬鹿げたことが起こっていた。宗教団体で起こっていることが、ここでも起こっていた。
とにかく、それからいろんな霊的なセッションがセンターで始まった。そこで、霊的な基礎知識を得るためとして、神智学を学ぶことが言われた。神智学大要の本(全5巻)がバイブルのようになった。

その後、アニマは鹿児島・開聞に移った。私たちは開聞での瞑想に参加するために何度か福岡と鹿児島を往復したが、その交通手段はヒッチハイクと決められていた。私の友人は、アニマと接することで、自らも霊能力に目覚めていったが、私にはそういう兆候はまったくなかった。

ただ、ある時期に、私の中にアダムスキーの緑の玉が入ったのをアニマが霊視したというが・・・ アダムスキーは、最初に宇宙人に接したことで有名な人だが、精神的啓蒙書も残している。 その緑の玉は、智恵の玉らしいが、私自身はまったく実感がない。
初めて彼女を見たときに、自分の母親のように感じたが、それを知らずとも、彼女も私を自分の子供だと見ていた。
ただ、正直私は彼女を恐れていた。それほど強く、激しい女だった。

鹿児島・開聞の瞑想生活は約4ヶ月ほど続いた。彼女の話によれば、その間、いろんな日本の神様と遭遇したらしい。
その年の暮れ、私は単独で屋久島へ行き、縄文杉に会い、そしてその瞑想センターを離れたが、後になって、アニマと彼女にずっと付き添っていた私の友人が、山で刺し違えて死んだ、ということを聞いた。
霊的に高まったため、もう肉体は必要ない、というわけらしいが、それで自殺という死に方か・・・ 私にはどうもわからない。
彼女の娘も霊能者で、その霊視によると、別に霊界で迷っている様子でもなく元気でいるとのこと・・・ よくわからないが・・・ とにかく強烈な一年間であったことは間違いない。






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