シヴクマール・シャルマ

シヴクマール・シャルマとのインタビュー
             
in Rajneesh Times Vo.6 1988年7月1日 

 サントゥールは、何世紀にもわたって発展してきた、インドの古い民族楽器です。パンディット・シヴクマール・シャルマの努力によって、サントゥールは、インド古典音楽の、複雑で微妙な陰影を表現できる古典楽器として受け容れられるに至っています。彼はかつて、サントゥールの弦を百本に増やしたことによって、音楽学者の非難を浴びました。しかし、敢然としてその批判に対抗したことにより、彼とその音楽は、いちはやく世の注目を浴びることとなりました。
 パンディットは、国際的にその名を広く知られた音楽家であり、またパドマ・シュリ賞の受賞者でもありますが、自分の音楽について、「それは外的なものというより内的なものだ。」と語ります。
 1988年6月に、彼はラジニーシダム ( 現-和尚コミューン ) で、タブラ奏者のウスタッド・ザキール・フセインと共演しました。以下はそのときのインタヴューです。


RTI: サントゥールの歴史について・・・

シャルマ: もともとはスーフィーの楽器です。ヴェーダよりも古いものです。同種の楽器は世界各地に見られますが、たいへんユニークな楽器です。なかでも百弦のものは、カシミールにしかありません。山々の空気を吸いながら、何世紀もの間伝えられてきた楽器です。その地方のスーフィーによって奏でられると、その音色がヒマラヤの峰や河や谷間に響き渡ります。

RTI: 民俗楽器を古典音楽に用いるアイディアは?

シャルマ: それはまったく、父、パンディット・ウマダット・シャルマのおかげです。彼はバラナシ音楽学校出身の声楽家ですが、いつもサントゥールの魅力と可能性について話してくれました。
「インド古典音楽の領域は空のように広い。にもかかわらず、サントゥールは、三つか四つの単純素朴な民俗音楽に使われているのみだ。スーフィーの持つ神秘的な体質を壊さないようにして、なんとかサントゥールをインド音楽に生かすことはできないものか・・・」と。
そして、この楽器のささやくような効果が、それを可能としました。そしてその効果を生み出したのが、二本の胡桃のスティックです。

RTI: そしてそれを認知させるのが大変だった?

シャルマ: その通りです。音楽についてあまり知識のない人びとは、この楽器のことをたいへんすばらしいと言ってくれました。しかし古典音楽の伝統を守ろうとする人たちからは、ひどく反対されました。私が初のコンサートを開いたのは1955年でしたが、サントゥールが正しく評価され、受け容れられたのは、70年代に入ってからです。


RTI: その間、あなたを支えたのはなんですか?

シャルマ: 私たちの音楽は瞑想です。それはマインドを中心に据えるための方法、外側ではなく内側を見る方法です。私は内的な平安のために演奏します。そして私の持つただひとつの基準は、「はたして自分は至福に満ちているだろうか」ということです。

RTI: 和尚の瞑想をなにか実行したことがありますか。


シャルマ: 音楽が私の瞑想です。だから私は、演奏しているとき、あたかも誰か他人が演奏しているかのように自分の音楽を聴こう、と努めています。「ラジニーシ・ディヤン・ヨギ」を読むまでは、それが「観照」と呼ばれる瞑想だとは知りませんでした。読んでいてそれに出会ったとき、私は小踊りして喜びました。それ以来ずっと、私はそれに取り憑かれています。私は絶え間なく、自分の呼吸と思考とを観照しています。

RTI: 和尚について何かひとことお願いします。

シャルマ: 和尚についてなにか言うということ、それは私たちを超えています。私たちがなにを言ったところで、それは充分ではありません。彼のなかで私がもっともすごいと感じるのは、たとえば、自分には理解できないことがらがありますね----読んでいても、さっぱり意味がわからぬまま一生が過ぎてしまう、というものが----そんなとき和尚の分析を読むと、その意味がたちまちのうちに、水晶のごとく明晰になる。パタンジャリであろうとミーラであろうと、彼は人間のもっとも深い微妙な感覚に対する、驚くべき洞察を示します。彼に並ぶ人間はいないと思います。
 迷信のなかに生きる人は、和尚のことばをこころよく思わないかも知れません。でも、私がいつも感じていながら表現できなかったことを、和尚は語ってくれます。和尚には、世界全体の考え方を変えてしまうほどの力強さがあります。たぶんもうすでに変えていることでしょうが・・・・。彼には新しい世界を創造するだけの力があります。


     

拍手について
 西洋ではインド古典音楽がますますポピュラーなものとなっています。そして次第に、聴衆も音楽家も、拍手の量が演奏の出来ばえを図る目安である、という錯覚を抱くようになっています。
 なぜ人々は拍手をするのでしょう。いままでそれについて考えたことがありますか? ひとつには、それは儀礼的なものです。「演奏家は、はるばる自分のところまでやって来た、だからその労をねぎらってやらなければならない。」そこで群集心理が働いて、あなたは拍手を始める。
 第二に、それは興奮によるものです。音楽家が次第にビートを高めていく、するとあなたの手足は自然に動き始め、それがついには拍手になる。しかし音楽にはふたつの要素があります----メロディーとリズム(ビート)です。音楽家がさまざまな旋律によって、ゆったりとしたメロディーの海を創り出しているとき、あなたは拍手しようとは、思わないはずです。メロディーは人を静かに穏やかにさせ、ビートは人を興奮させます。
 私が大きな幸せを感じるのは、私の創り上げた音楽によって、聴衆が拍手を忘れるようなとき・・・聴衆が時間の感覚をなくし、また自分たちがどこに座っているか忘れるようなとき・・・・聴衆がコンサートの開始も終了も忘れ、席を立って去って行くことを忘れるようなときです。拍手は、音楽家たちの間に微妙な競争意識を引き起こします---- 「誰が最大の喝采を受けるか?」。するとそこに、聴衆から拍手を引き出そうとする傾向が生まれます。しかしそのような傾向は、インド音楽をその本質から引き離し、その中心を見失わせることとなります。
 つまりこういうことです----和尚に耳を傾けているとき、あなたは拍手をしようと思いますか。彼の臨在のもとでは私たちは自分の手足を動かすことすらはばかられます----ホール全体の沈黙を乱したくないからです。音楽についてもまた、そうあって欲しい----それが私の願いです。


聴衆の参加について

 私の音楽を聴こうとする人は、娯楽を求めるべきではありません。演奏するとき、私の心の状態はたいへん安らかです。私の<存在>から、至福の泉があふれ出ます。そして私はその至福を聴衆と分かち合いたいと願います----しかしそのためには、聴衆の方からの歩み寄りが必要です。聴衆はある一定の水準までやって来なければなりません。だからといって、それは音楽理論を学ばねばならない、ということではありません。必要なのは、心をリラックスさせ、音楽のメロディーを感じ、いまこの場に居るように努める、ということです。そうすれば音楽の技術的な部分は消え失せ、そこに純粋な感覚が残ります。そのような状態のなかで、音楽家と聴衆の間のコミュニケーションが可能となります。
 インド音楽は、西洋音楽とはまったくちがっています。それはあらかじめ準備されたものではありません。前もって引かれたアウトラインはありません。演奏家はただステージに上り、そして、なんであれ自分の上に降りて来るもの、それが音楽として創造されます。だからたとえば、私に同じものをもう一度演奏しろと言われても、私にはそれは無理だということです。それがインド音楽の創造性、あるいは即興性と言えましょう。というのも、インド音楽は瞑想から生まれて来たものだからです。だから、前もって作曲された楽譜があって、それを読み、舞台の上で演奏する、というものではありません。それは瞬間瞬間に創造されるものです。
 というわけで、聴衆に負うところが大きいということです。聴衆は音楽の創造にあずかっています。実際のところ、ステージで創造される音楽は、演奏家と聴衆との間の対話です。だから、聴衆がドラム奏者とメロディー楽器奏者との間の技比べを期待するとしたら、それはインド古典音楽の精神そのものを破壊することになります。



        
 

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