神社

奈良

乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられる。
乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている。
春日大社との関係が深く、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌を献上していた。
春日大社からは、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に下賜して使用させる伝統があり、応永13年(1406年)には春日大社の第四殿を下賜されている(春日大社文書)。
また、寛正2年(1461年)4月6日には大乗院の尋尊が参詣に訪れている(大乗院寺社雑事記)。
西には、神宮寺である十来子(じゅうらいし:十羅刹)堂があったが、現在は乙木集落中の薬師堂に移されている。
拝殿は、この地方では珍しい萱葺である。

夜都岐神社(やつぎじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。旧社格は村社。夜都伎神社とも書かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。

乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。式内小社「大和国山辺郡 夜都伎神社」の論社である(他の論社は同市竹之内町の十二神社と田井庄町の八剣神社)。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。全国にある八剣神社との関係の可能性も考えられる。

祭神は、武甕槌命・姫大神・経津主命・天児屋根命。

神社

古事記 中巻
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が夢にあらわれて言った。 
「これは私の意思によるものである。 意富多多泥古(おおたたねこ)に、私を祭らせれば、神の崇りも起こらず、国は安らかになるだろう」 
そこで、駅使(はゆまづかい:早馬使い)を四方に分けて、意富多多泥古という人を捜し求めたところ、河内の美努村(みののむら)で見つけた。
天皇が「お前は誰の子か」と尋ねると、「私は大物主大神が、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶って生んだ子の、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いいかたすみみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子で、私は意富多多泥古です」と言った。 
すると天皇は、とても喜んで「天下は安らかになり、人民は栄えるだろう」とおっしゃって、すぐに意富多多泥古命を神主として、御諸山(みもろやま=三輪山)で意富美和大神(おおみわのおおかみ)を拝み祭った。

御祭神 - 建甕槌神 (たけみかづちのみこと)
       経津主神 (ふつぬしのかみ)
       姫大神 (ひめのおおかみ)
       天兒屋根命 (あめのこやねのみこと)

2000年10月8日

1998年3月15日

2008年11月30日

2005年11月26日

奈良県天理市乙木町765

夜都伎神社

山の辺の道
inserted by FC2 system